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ファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団を聴く(12/4) [演奏会いろいろ]

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2022年12月4日(日)
NHKホール 14:00開演 

曲目:
ワーグナー/ウェーゼンドンクの5つの詩
(メゾ・ソプラノ:藤村実穂子)
ブルックナー/交響曲 第2番 ハ短調(初稿/1872年)


地味だけど噛めば噛むほど味の出るようなプロ。

まず前半は藤村さんのワーグナー。

藤村さんは以前、川瀬賢太郎さん指揮する神奈川フィルとのマーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌曲」を聴いて以来。

あの時も素晴らしかったけど、今回のワーグナーもまた良かった。その深く説得力のある声は相変わらずだけど、静かに歌っていてもあの巨大なNHKホールの隅々まで無理なく届き響くその声に驚嘆してしまった。

これが世界レベルの歌なのかとあらためて納得させられたものでした。

またこのバックを受け持つルイージ指揮N響の細やかな表情と陰影に満ちたその響きが絶妙で、特に第三曲「温室で」の「トリスタン」の響きにおける、ステンドグラスに陽光が当たる事で微妙にその色合いが変化していくかのようなそれはまさに絶品で。N響がここまでの演奏ができるようになったのかと、ちょっと嬉しくなってしまうほどでした。

このあたりはルイージの卓越した指揮によるところが大だと思いますが、歌と言い指揮といい申し分ない演奏でした。

演奏は弦12型。


このあと休憩が20分。そして後半。


じつはブルックナーの2番を実運で聴くのは今回が初めて。

音盤としては1975年秋のジュリーニ指揮ウィーン響の来日記念盤として発売されたものを聴き始めて以来というからけっこう長い。

ただこの曲は当時「若書き」の曲としてあまり評価されず、日本初演もその前年のブルックナー生誕150年時に、ペーター・シュヴァルツ指揮札幌交響楽団によってようやく行われたくらい。
(N響はこの二年後にサヴァリッシュの指揮で演奏を行った)

音盤もこの当時、ジュリーニとシュタイン指揮WPO、ハイティンク指揮ACO、ヨッフム指揮バイエルン放送があったくらい。

その後は音盤も演奏会でのそれも増えたけど何故かなかなか自分は聴くことがかなわなかったので、ようやくという感じだった。

ただ今回演奏されたのはよく聴かれる1877年稿ではなく初稿ともいえる1872年稿で、第二楽章と第三楽章の演奏順が入れ替わっているのをはじめかなり1877年稿とは様相が異なっている。

特に1877年稿がかなりの素材を「作曲家」ブルックナーによって見通しとまとまりを良好にするため切り捨てられることになってしまったのに対し、この日演奏された1872年稿は切り捨てられる前に即興演奏の大家であった「演奏家」ブルックナーの閃きによって生まれた多くの素材が、バランスやみてくれそっちのけで盛り込まれている。

なので指揮者にとってこの1872年稿は魅力的な素材が目の前に多く展開されてはいるものの、手際を間違えるとかなり冗漫になりかねない曲であるだけに指揮者のそれがかなり問われるものとなっているはずなのですが、この日のルイージにはそんなことを微塵も感じさせず、じつに素晴らしい演奏を展開していました。

この日のルイージの演奏はとにかく丁寧(弱音の表情などかなり細かい)。そしてじつによく歌う。

このためこの曲がかつて言われたような若書き的弱さも感じなければ、バランスや見通しの悪さ、それに冗漫な趣も感じさせない。むしろこれで決定稿でもいいのではないかと思わせるほどの充実感がそこにはあった。

またこの演奏会では弦を中心とした濁りの無い晴朗感がじつに心地よく、特に第二楽章のトリオや第三楽章ではそれが強く感じられたが、ルイージと同じイタリアのジュリーニとこのあたりどことなく似ているような感じを受けた。ただ使っている稿が違うせいかジュリーニ程の流麗感はこの日のルイージには感じられなかった。

このような感じで第三楽章までは本当に曲への印象の再考を迫るような感じだったが、終楽章はさすがにそうはいかないくらい生煮えのような(それこそブルックナーの第九の未完の終楽章のような)部分があり、このあたりは無理せず巧みに捌いていったように感じられた。

最後、じつはちょっと注目していたコーダの弦の低音のみが第一主題を演奏するところ。

かつてアイヒホルンがこれに否定的なそれを表していたが、思ったよりはっきり聴こえたものの、やはり埋没観は否めなかった。それともブルックナーはあえてその埋没観を何某かの理由で狙っていたのだろうか。ただこの日の演奏は埋没観こそあれ、それを補って余りある高揚感が見事で、そのため物足りないという感じはありませんでした。

と、いろいろ考えさせられたものの、終わってみればじつに充実感のある中身の濃い演奏で、この稿を使ってここまでできる指揮者はそんなにいないのでは?というくらいのものでした。

ルイージとN響の今後にさらに期待を持ちたいです。それにしても本当にN響はヤルヴィ以降大進化しました。驚きです。

尚、ブルックナーの演奏時間は楽章間のインターバルを含め約70分。因みにジュリーニの77年稿ノヴァーク版による演奏は58分です。

以上で〆


といいたいところですが、一部の拍手が早いという不満も多少あったものの、それ以上に「だらしない事演奏中にするなよ」と言いたくなるような人がいて愕然。あれ。後ろに人がいたら喧嘩になっていたかも。

NHKホールの人たちは近いうちにそこそこな騒動が起きる事を覚悟しなければいけないのかも。

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トマーシュ・ネトピル指揮読売日本交響楽団を聴く(11/20) [演奏会いろいろ]

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東京芸術劇場マエストロシリーズ
2022年11月20日(日)
東京芸術劇場 14:00開演 

マーラー:歌曲集『さすらう若人の歌』
マーラー:交響曲第1番 ニ長調「巨人

バリトン=ヴィタリ・ユシュマノフ
指揮=トマーシュ・ネトピル


何度も聴こう聴こうと思いながらなかなか聴けなかったネトピルをようやく聴くことができた。

指揮者としては2007以来来日を重ねているので、もう日本ではお馴染みかもしれない。年齢は今年(2022)47歳というから、ハーディングやネゼ=セガンと同い年ということで、同世代にKペトレンコ、ソヒエフ、ネルソンスがいるのでまさにこれからという指揮者。

以前聴いた「わが祖国」のCDでは、かなり明快かつストレートで、熱量をかなり持ち合わせた指揮者というイメージがあったけど、この日のマーラーはまさにそのイメージ通りだった。

最初の「若人の歌」。

今夏東響で聴いたポベルカを思わせるような、これまたクリアで明快、そして見通しのよい作りだけど、それ以上らに弦や木管の瑞々しい響きと、森を思わせる美しい詩情感がなんとも心地よい。

それでいて陰影もしっかりとられていて、決して濃淡の無い表情の浅い演奏になってないことにも感心。

ただちょっと残念だったのは自分のいた座席の関係か、独唱者の声があまり届いてこなかったこと。また音程がときおり不安定になる時があり、体調が優れなかったのだろうかとちょっと心配してしまう時もあった。

最近は気温の差が激しいのでなかなかこのあたりたいへんなのかも。


この後15分の休憩の後、後半の「巨人」。

こちらも前半でもみられた特長がさらに強く押し出されていたけど、より活力と推進力が増した演奏になっており、ちょっとワルターとNYPOの古い録音を思い出させるようなところすらあった。

また弦の表情や謡いまわし、さらには弦の刻み方にちょっとボヘミア的な感触が感じられる部分があり、「チェコ出身の指揮者にとってマーラーは自分の国の音楽という自負がある」という事を以前教えてもらったそれを思い出す演奏でもありました。

特に第二楽章ではそれが強く感じられました。

味わい深い第三楽章も秀逸でしたが、圧巻だったのは第四楽章。

第一楽章からなかなかいい響きだった金管がこの楽章でさらに打楽器とともに大健闘。最後本当に見事な頂点を築き上げていきました。
(因みに金管は一部増量しており、最後第四楽章でホルンが立って演奏した時、すぐ傍でホルンの補強の為に増量されたトランペットとトロンボーン各一名ずつも立って演奏)

とにかくこの最後の部分でも良くあらわれていましたが、ネトピルのマーラーはここという時の音の盛り上げや輝かしさと熱量、そして集中力と解放感の両立も素晴らしく、決して情念の濃さや煽情的な激情性を感じさせるものではありませんでしたが、健康的かつ爽やかな青春の息吹と向こう見ずなエネルギーの解放を感じさせる、全編聴き応え満点のものとなりました。

この後のネトピルの公演も期待大です。自分は行けませんが。

というわけでとても大満足な演奏会でしたが、最後にちょっと。


じつは自分の席に近い所で、演奏中やたら身体を動かし手で小さくない動きでリズムをとる年配の方がいたけど、近くの人は迷惑ではなかったのだろうかと、かなり心配になってしまった。

そのすぐ傍には小さな女の子を連れた親子連れがいたけど、こちらは終始静かで、「巨人」終了後、女の子が驚くほど熱い拍手を送っててビックリした程。

最近の年配は本当に演奏会でちと情けなくなってしまうような人が目についてしまい、ちょっとわきまえてほしいと思ったと同時に、小さい女の子だからといって、「マーラーなんか連れてきて大丈夫?」と決めつけていた自分もちと反省。

終焉後にもいろいろ考えさせられた公演でした。




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井上道義指揮NHK交響楽団を聴く。(11/13) [演奏会いろいろ]

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2022年11月13日(日)
NHKホール 14:00開演 

伊福部 昭:シンフォニア・タプカーラ
ショスタコーヴィチ:交響曲 第10番 ホ短調 作品93


1954年とその前年に作曲された、日本と旧ソ連の二つの交響曲。

ともにどちらの国にとっても大きな出来事であったが、そんな時代の断面を切り取ったようなプログラム。


まず前半の伊福部さん。

井上さんらしい共感性と熱量の高い演奏で、しかも最後にオケも指揮者もカッコいいホーズをつけたノリノリの演奏ではあったのですが、どこか格調の高さも強く押し出されたようなこの日の演奏。そのせいか何故か途中からモーツァルトの38番「プラハ」が妙にこの曲に被って感じられてしまいました。

正直何の関連性もなく、共通点といえば母国で作曲したものの初演は異国の地だったという部分くらいかも。

とにかくそんな印象を受けた演奏でした。

あとこの曲ですが、1956年に初演された後、少なくともプロオケの定期ではその後一度も演奏されず、1980年の改訂稿が新響によって初演された後、7月にようやく新星日響により演奏されたという事を思うと、1950年から60年代の日本の楽壇はひじょうに無理に背伸びをしなければやっていけない、もっとハッキリいってしまうと料簡が狭いというか、ええかっこしをしたいがために一種の「日本の国民楽派」的なものを軽蔑もしくは排撃する貧しい考え方がその根底にあったのではないかとふと思ってしまった。

もっとも伊福部さんの作品はそういう狭い器量の大きく外側に逸脱した規格外の化け物みたいな曲だったので、もしそういう流れがなかったとしても手に余る代物だったかもしれません。

それにしてもあの大きなNHKホールの三階後方まで余裕で響いてくるその音楽。

もうこれだけでも当時の日本のオケやホールの常識から考えると、異常すぎるくらい異常な曲という事をあらためて痛感させられてしまいました。

本当に凄い作曲家による凄い曲です。


このあと後半のショスタコーヴィチ。

第一楽章冒頭の弦の響きの集中力が凄まじく、まるで弦楽五重奏がそのまま拡大したかのような結晶化したような響きに驚く。

そしてその音はちょっと表現はおかしいけど「透明感の高いどす黒さ」のようなものがあり、何かとんでもないものがはじまったという感じが最初から強く感じられた。これは2007年の日比谷での井上さん指揮のサンクト響の時にはあまり感じられなかったものでした。

自分はかつて井上さんのマーラーを「作曲者の頭の中を覗き込んで、そこからすべての情報を引き出そうとしているかのような演奏」という感想をもったことがある。ただ「それをマーラーはあまりその行為を嬉しく思わなかったかも」とも同時に感じたのですが、今回のショスタコーヴィチの場合、井上さんはマーラーと同じコンセプトで臨んだものの、ショスタコーヴィチの場合マーラーと違い「とことん自分の中からすべてを拾い出してみてくれ」と言わんばかりのつくりのせいか、今回は寸止め抜きでショスタコーヴィチの心象風景が膨大な情報量とともに開帳されたかのような趣の演奏になったように感じられた。

そんな感じではじまったこの日の演奏は、前半二つの楽章はスターリン時代のそれを思わせるような荒れた音楽が主に表出されていたが、第一楽章はむしろ正反対ともいえる随所に聴かれた虚無的ともいえる弱音の方が印象に残る。

そして後半の二つの楽章。ここではN響の木管の筆舌に尽くしがたいシンプルな表情が随所にあらわれ、第三楽章など木管主体のディベルティメントにすら聴こえたほど。だがそういうシンプかつある意味静寂と透明感を全面に出しながらも、その背後にはこれからやはり同様な時代が続くのではないかという作曲者の不安のようなものが隠されているようで、ショスタコーヴィチの底の部分の本音を時としてみせないようにするそれが、極めて強く感じられる演奏だった。

そして第四楽章は今までの三つの楽章が混然一体となり、これまでも地獄だがこれからも地獄、どこにも救いも無く逃げ場の無い状況に追い詰められ、行く先のない絶望の叫びをあげながら最後の狂騒に向かっていくようなその演奏は、すでにショスタコーヴィチには13番の交響曲を書いた時と同じ情景がすでに広がっていたのではないかと思われる程、とにかく救いの無い叫びの音楽に聴こえてきてしまった。

このため音楽が終わった後「これは辛い」と正直感じ、声も拍手もほとんど出せなくなってしまった。


オケは充分すぎるくらい素晴らしく鳴っており、昭和の頃の「顔の無い」状況とは別物になった今のN響の、その表情と方向性のしっかりしたそれはまさに喝采ものだったけど、以上の事からとても喝采を送る気になれなかった。

もちろんこれらは自分の勝手な思い込みとイメージの産物なので、これが正解といった代物ではない。

ただ何か今迄この曲から感じられなかったショスタコーヴィチの救われない精神状態と、彼を取り囲んでいた過酷な状況や苛烈な仕打ちが、この演奏を通してより強く感じられたことは物凄く考えさせられ、そして今のロシアのそれもどこか重なるようにも感じられてしまった。

そしてこのような演奏をやってしまった井上さんの恐ろしい力量にはもはや言葉かがありません。

もしショスタコーヴィチが今日のこの演奏を聴いたらどう思ったことでしょう。

最後に。

指揮者の井上さんは2024年に引退をされるとのことだけど、翌年2025年のショスタコーヴィチの没後50年という年にその指揮が聴けないのは何とも残念。せめてあと一年延ばす事はできないものだろうか。






本当はこの後、新海監督の新作を映画館に観に行く予定でしたが、以上の理由からとてもそんな気持ちになれないのでパス。これも本当に予想外の展開でした。

なので終演後の井上さんらしい舞台上でのそれもなんか呆然と眺めていました。

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アンドリス・ネルソンス指揮ボストン交響楽団を聴く。(11/9) [演奏会いろいろ]

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2022年11月9日(水)
みなとみらいホール 19:00開演 

マーラー:交響曲第6番

指揮:アンドリス・ネルソンス


来日前に黒帯修得など話題にも事欠かないネルソンスだが、今回の日本公演最終日の三日後に44歳の誕生日を迎えるという。

そんな彼だけに意気揚々としてこの日を迎えたと思われるが、さすがにこの人の入りには少し驚いたかも。

おそらく6~7割くらいの入りに自分はみえたけど、この組み合わせこの曲目、しかもネルソンスはこの曲をまだ公式録音していなという未知数の魅力ということを考えても。主催者側の座席の割り振りの大失敗は明白だろう。

せめてDはともかくC席をもっと拡大しておけば、ここまで見てくれの悪い入りにはならなかったと思う。

サントリーホールと曲目がバッティングした場合、WPOやBPOのように天井知らずの人気オケならともかく、そうでない場合はやはりもう少し考えなければいけないと思う。自分は神奈川地区で何度かこういう状況を目にしているので、このあたりに対して主催者があまりにも無頓着すぎるのではあるまいかと首をかしげてしまう。

もう少し演奏する側の気持ちにもなってほしいし、そうしないと利益も結果的に芳しくないものになってしまうと思うのですが。


という状況の中で行われたこの公演。ただおかげで満員御礼では感じられない音の豊かさが若干感じられたり、視覚的に自分のいた席から気持ちいいくらい舞台上の隅々も指揮者を含めよく見えたのはありがたかった。なにしろ前一列すっぽり空いてましたので。

第一楽章冒頭。

弦の音を聴いた瞬間。

「ああ、これはニューヨークでもシカゴでもない、ボストンのマーラーだ」

とすぐに感じられた。

じつは自分はボストン響を実演で聴くのはこれが初めて。

なので、当然のこの感想は録音レベルにおける印象からくるものなのだけど、あまりにも自分の想像していた音とほとんど同じだったことで、こういう感想がすぐに出てきてしまった。

ボストンはその響きが、常に内側にエネルギーが放射され、そのことで蓄積された濃密な響きが音楽を構築していくといった趣を持つオケという印象があるけど、この日のマーラーはまさにそのもの。

そのせいか強烈な陰影、感情の振幅、対局から対局への鮮烈な跳躍、情念の奔流といった、直撃的かつ劇的なそれとは距離を置いた、音そのものをじっくり固めたような野太く直球勝負のような愚直ともいえるような響きに彩られたマーラーがここでは展開されていった。

このため第一楽章はネルソンスがいろいろと細かい表情づけをしてはいるものの、ボストンはそれをしっかりと描きながらも、以上で踏まえた特性に則った音楽を愚直なまでに提示してくるためじつに明快というか健康的、しかも悠揚とした音楽感をネルソンスが大事にしていることもあり、田園的とも楽天的ともえるような趣で第一楽章がのびやかかつ手堅く演奏されていった。

この音楽に深刻なドラマやストーリー、さらに情念の噴出や思いの丈を求める人には甚だ好き嫌いが出るつくりになったように感じられたけど、自分には最初に述べたように「ああ、これはニューヨークでもシカゴでもない、ボストンのマーラーだ」というそれが強く、ひじょうに興味深く感じられた。

続く第二楽章は、曲想もあってかネルソンスもかなり攻めの音楽を仕掛け、かつ緩急強弱をすこぶる大きくつけた、ひじょうに表情と対比の大きな音楽を展開していった。

これなど下手すると散漫なとっちらかった演奏にオケによってはなりかねないけど、ボストンはそういう音楽もまた自分たちの特性の中に昇華し、シンプルかつしっかりと演奏しきっていた。これはティンパニを中心とした打楽器群がかなり強力だったことも大きかった。

第三楽章もこれもまたシンプルで、ちょっと映画音楽のようにさえ聴こえるほど、音楽が節度を持ちながらもしっかりと明確に音楽を歌わせていたのが印象的。特に弱音の神経の行き届いた響きが魅力的だった。

ここまででだいたい楽章間の休憩込で一時間。

そして第四楽章。

先行した三つの楽章より複雑で情報量の多いこの楽章。

ボストンは最初の音からいきなり今迄とは違う、というより今まで開けてない引き出しを開けたかのように、ひとつ踏み込みんだかのような、より意志の強い響きを出してきた。

その後音楽は次第に今まで以上に熱を帯び始め、特に二度目のハンマー以降、まるでリヒャルト・シュトラウスの大規模管弦楽のような凄い程の音響の大波のようなものが押し寄せてくるようで、それはちょっと表現のしようがないほど圧巻。
(考えてみればシュトラウスの「アルプス交響曲」との関連性をいろいろと言われている曲なので、このあたりも意識しての演奏だったのかも)

ネルソンスがアクセルを床が抜けるほど踏み込んでるにもかかわらず、ボストン響の前述した特性は微塵も崩れず、それでいてシカゴあたりの目もくらむような絢爛豪華とは違う壮麗かつ圧倒的なそれなのだから、これにはさすがにオケのそれに舌を巻くしかなかった。
(またそれも計算に入れてのネルソンスの指揮も見事)

このあたりはTP、TB、TUBAを横一列に並べ、さらにその一段前にホルンを横一列に並べていたプラスセクションの壮観な響きに負うところも大きかった。

それにしてもこの日のボストンのブラスは、いくら抑制をかけながらも途方もない大音量を出しているのだからとんでもない。これは実際にちょっと聴いてみないと感覚的に分からないかも。

と、とにかく最初は抑制のきいた、そして最後は大音響というマーラーでしたが、総合的にいうと深刻さのない健康的なマーラーであり、明日に向かって元気が出そうな、それこそかつて聴いたティルソン=トーマスのブルックナーとちょっと似たものを感じさせられたものでした。

おそらくこの日のマーラーはかなり好き嫌いが分かれる、もしくはもっと抉ってほしいという意見が出てきそうな感じがしましたが、自分はこういうマーラーも有りという気がしました。

第四楽章最後の音が消えた後、指揮者が棒を完全に下すまで拍手が出なかったのが当たり前とはいえやはり嬉しい。

この時自分の時計をみたら午後八時半をまわっていた。なんと演奏時間が90分近くかかっていました。

そんなにかかっていたのかとちょっとビックリ。

確かにかなり緩急を取っていた部分もあったし、早めの演奏ではないと感じてはいたもののそこまでかかったという感覚は自分にはありませんでしたが、他の方はどう感じられたのでしょう。

その後オケのメンバーがほとんど退場してもスタンディングオベーションが続き、指揮者が舞台に再度登場しお開きとなりましたが、じつは開演前、ブロックごとの規制退場が行われるような事が放送されていたものの、指揮者がオケの奏者を労ったりスタンディングオベーションがけっこう長かったこともあって、その間にかなりの人が五月雨式に退場したり終演後のサイン会に並びにいったりと、ただでさえ満員には程遠い入りの中で自然発生的規制退場が起きたような形になったため、結果正式な規制退場は行われませんでした。

これはこれでありがたかったです。

しかしあれだけの大曲を終演後、少なからぬファンの人たちのためにサイン会を開くネルソンス。

余計なお世話かもしれないけど、そろそろ正直無理せず痩せるように心がけてほしいものです。

バーミンガム時代のアルバムの表紙になっていた頃の彼はいったいどこに…。


以上で〆。



しかし今になって、なんか6番というより5番や7番を聴いたような気持ちになっているのがなんか不思議。


そういえば今年はボストン響初来日時(1960)にもコンマスをつとめていた歴史的大コンマス、リチャード・バージン(1892~1981)の生誕130年に当たりますが、彼はマーラーの普及に努力し、みずからボストンの指揮台で彼の交響曲を指揮していました。

ボストンというとミュンシュ以前はマーラーとあまり縁が無いように思われるかもしれませんが、バージンなどにより意外と早い時期からマーラーに取り組んできたオケでもあり、ラインスドルフ以降さらにマーラー演奏でも知られるようになっていきます。

ネルソンスもその流れを引き継いだかのように積極的にマーラーを演奏していますが、この6番は2015年に9回、そして今年10月末に7年ぶりに3回指揮した後、今回の来日公演に臨んでいます。

なので今回のそれは両者ともにお互いの手の内を知り尽くし充分手慣れた状況で演奏したといことになります。

そういう意味で、ネルソンスとボストン響の余所行きではない、あるがままの今の姿に近い公演を今回聴けたのかもしれません。


三回目のハンマーの時、物凄く嬉しそうな仕草をした方を前方でみかけた。
滅多にない事なので余程嬉しかったのだろうか。
なんかこちらもみてて嬉しくなってしまった。


今回ネルソンスとボストンがマーラーで使用したハンマー。

あの箱、おそらく舞台と密着させ、舞台全体を反響させホールに響かせることを目的にしたような作りにみえたけど、もしそうだとすると、ホールによってそれがあまり機能しない事もあったかも。

横浜は自分のいた所はちょうどいい感じだったけど、それを思うと場所によってはホールとの相性で凶と出たところも。


そういえば今回、「悲劇的」というタイトルが使われていなかった。
演奏会から一週間以上経って今頃気がつきました。
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クラウス・マケラ指揮パリ管弦楽団を聴く。(10/15) [演奏会いろいろ]

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2022年10月15日(土)
東京芸術劇場 16:00開演 

ドビュッシー:交響詩《海》
ラヴェル:ボレロ
ストラヴィンスキー:春の祭典

指揮:クラウス・マケラ


ある意味、今世界で最も注目されている指揮者かもしれないマケラが、初めて自らのオケとともに来日公演を行ったその初日に行ってきました。因みにテレビ等の収録があったようにみえた。

この日は開演前にプレトークが若い人向きにおこなれたりしていた。若い層の開拓という意味ではとてもいいことだと思う。自分の若いときにこういうのが無かったのが本当に残念。

しかし海外から16型のオケが来日するなんて本当に昨年までは夢のような話。このままコロナが終息に向かってほしいと願わずにはいられなかった。ホールはすでに飲食が解禁されていたのが嬉しかった。

会場は満員とまではいかなかったがかなりの盛況。ただマケラをもってしても満員にならないというのはいったいどうしたことか。彼のここ数年の状況をみると、ちとこれは信じ難いものがあった。こちらが想像する以上に日本での知名度が低いのだろうか。

前半最初は「海」。

これはなかなかの問題作だった。

冒頭から弦管ともにとんでもなくクリアで、しかも弦がやや乾き気味に響いていたせいか(ホールのせいかもしれないけど)、イメージとしてあるドビュッシーの「しっとり感」がまるでなく、とにかく音そのものがクリアに響いて来るといった感じになっていた。

このため聴きようによって音のみで勝負したような、それこそハイドン風ドビュッシー、もしくは新古典派ドビュッシーとすら形容したくなるようなものだった。

だが表情付けがその割に細かく、ちょっと後期ロマン派を引きずったかのような趣もときおり感じられるなんとも独得な演奏だった。

オケの方もこのひじょうに独特な要素をもったためなのか、頭では分かっていてもひじょうに慎重にならざるを得ない部分があったように見受けられ、推進力ある部分でもどこか慎重な足運びを音楽に感じた。

そのせいかどこか聴いていて弱音の美しさや強音の豊かさの素晴らしさはあったものの、どこかオケがいまいち音楽に踏み込んでいないような手探り感があった。ただこれはおそらく回を重ねるごとに解消するようにも感じられた。

この時、ひょっとして日本での全公演で「海」をやるのは、マケラがパリ管に自分の音楽の昇華能力を見定めるために企てたためなのかもと、ちょっと深読みしたくなってしまったほどでした。

岡山や大阪公演あたりまでにこの「海」がどう煮込まれていくのかちょっと楽しみなのですが、自分はそれを聴くことができないのがなんとも残念。


続いての「ボレロ」。

こちらは逆にオケにとって会心の演奏。というかここまでオケ自らが本領を発揮したパリ管の演奏というのを自分はあまり聴いたことがない。

かつてのプレートルとの同曲のそれはオケの魅力を「引きずり出された」的な演奏だったのですが、この日はマケラによって「引き出された」的な演奏で、オケ全体も靡くような動きがはっきりとみてれ、パリ管が本気でのっているという感が強かった。

特に、初めて管弦がいったいとなってテーマを演奏した瞬間、鳥肌が立つくらいの筆舌に尽くしがたいほどの絶妙な響きが醸し出され、思わずこの曲で涙腺が緩みそうになったほどでした。

オケも最後途方もなく強大な響きを築き上げ、これはこの日の白眉というくらい盛大な拍手を受けていました。

久しぶりに聴いた「聴かずに死ねるか」級の演奏でした。

しかし二十代半ばパリ管からここまでその音楽を引き出すだけでもとんでもない指揮者です。


この後休憩。

ホールの係りの人が「会話をお控えください」というボードをもって歩いていたが、みなマスクしていてもそれをやるということは、それってこのホールの換気の悪さを証明してることなのでは? と意地悪く思ったりしたものでした。

そして後半。

この「春の祭典」もまた前半の「海」と似たような感じの演奏となっていた。

ただ「海」よりもオケがもっとマケラの音楽をしっかり掌握していたせいか、あれよりはかなり音楽が前向きに進んでいた。ただこちらも回数を重ねればさらに聴き応えのある演奏になるだろうなという印象は「海」と同じで、大阪公演あたりではそれはそれはより素晴らしいものになっているのではと予想。
(もっとも器用なインサイドワークを身に着けてる人は、「回数を重ねれば」みたいな事はあまり感じさせないケースがあることを思うと、マケらそういうことに無関心な指揮者なのかもしれないし、価値をあまり見出していないのかも)

演奏全体としてはかつてのバレンボイムの猪突猛進でも、ビシュコフの重戦車系とも違う、音の輪郭が視覚的にみえてきそうなくらい、クリアで音の動きが細部まで聴きとれるような、この曲に施したストラヴィンスキーの仕掛けをひとつひとつ開帳していくかのような、ちょっと新鮮な演奏でしたし、彼独特の解釈が随所に見受けられたなかなか個性的ともいえる部分が感じられた演奏でした。

あとこの曲で特に痛感したのはマケラのとても冷静というか「さめた」音楽への対峙の仕方。

ただ冷静といっても他所事他人事のようなものではなく、熱狂や興奮もすべて冷静にコントロールされた中で行われているような、そういう頭のキレというか幅の広さと深さを凄く感じさせられた。

それはかつてのLAPO時代のメータとも相通じるものがあるけど、メータがどちらかというとブレンド感に拘ったのに対し。マケラはクリアさ見通しの良さに拘った感があった。
(このあたりは今夏に聴いたポベルカ、さらにバッディストーニとも相通じるものがある。ひょっとしてこの世代はそういう傾向の人が多くいる世代なのだろうか)

そんなこの「春の祭典」も終わってみればこれまた観客からの盛大な拍手を呼び起こした。


最後に雑感。

一部の古い音楽ファンは未だ「バリ管の全盛期はミュンシュ時代」と言ってはばからない人がいるようだけど、自分は近いうちにこれ等の人達も「今が全盛期」と思うようになるのではないかと、この日のマケラを聴いていて強く感じられた。特に「ボレロ」などは二十代半ばの指揮者かパリ管相手にやってしまったことがすでに仰天物で、いったい今後このコンビ、そしてマケラはどこまで成長し進化していくのだろうかと思ってしまったほどでした。

できればマケラの半世紀後を聴いてみたいがさすがに自分にそれはできない。

若い人たちはムラヴィンスキーやチェリビダッケの実演を聴けたから羨ましいと年長者に羨望の念を感じるかもしれないが、自分にしてみればマケラやポベルカ、それにフルシャやバッティストーニと同じ時代を歩んで生ける今の若い人達の方に強い羨望の念を感じてしまうものがあります。

というわけで〆。

因みにアンコールはパリ管で聴くのは初めての名曲、ムソルグスキーの「モスクワ河の夜明け」でした。これもまた新鮮な演奏。ただしその選曲はかなり意味深。
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ワクチン四度目をうつ (ファイザー・オミクロンBA.1対応) [いろいろ]

ファイザー、ファイザー、モデルナ、そして今回は再びファイザーに戻る。ただしオミクロンBA.1対応。

以下はその時の様子。

今回集団接種ではなく、ふつうの開業医さんに横浜市のサイトを通して予約。

集団接種のような物々しさは薄く、
毎年恒例のインフルエンザのそれに似た雰囲気。

流れはほぼ以前と同じ。

問診の先生もけっこう丁寧にみてくれた。

そして接種。

注射そのものは以前のファイザーとほぼ同じ感覚。

医院で15分様子見。

これといった変化はなくそのまま帰宅。


その後四時間後、注射を打った腕に前回同様少しずつ動かすと痛みがでるようになる。

そして夕方にはかなり痛みが出るが薬を飲む程ではなし。
ただ凄く眠たくなってきたのでこの日はいつもより早く就寝。


二日目。

腕の痛みは相変わらずだけど昼過ぎから状況が変わる。

ワクチン接種からほぼ24時間経過したころから、食欲不振、倦怠感、悪寒、発熱感が一気に出てきた。

これは今までにないケース。

確かにどれも軽度だけど、さすがに四つまとまってくると些かしんどい。
そしてこの日もまた睡魔が襲う。

昨日よりさらに早めに就寝。因みに昨日今日と入浴はしっかりする。


三日目。

起きると食欲不振、倦怠感、悪寒、発熱感のすべてが完全解消。
腕の痛みもかなり軽くそのまま夕方には消え、この日睡魔も襲ってこなかった。


というわけでその後四日目以降は恙なくいつもどおりとなっています。

二日目が今回は山だったようですが、やはりオミクロン対応分に自分の身体はそこそこ副反応を起こしたようです。


というわけですが、じつは自分はもうコロナは終わったという感覚なので、本来は受けないつもりだったのですが、これからいろいろとあったり、また風邪をひきやすい季節になるということで、風邪ひいてる時にコロナで重症化したらたまらないし、医療関係者の方々にも「四回目受けなくて感染?」と嫌な思いをさせそうなので、今回受けた次第。


尚、個人的に五回目はひょっとしたら受けるかもしれませんが、六回目以降は余程の事が無い限りパスする予定です。

もうそろそろコロナワクチンは卒業したいです。

以上で〆

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ペトル・ポペルカ指揮東京交響楽団を聴く(8/20) [演奏会いろいろ]

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2022年8月20日(土)
サントリーホール 18:00開演 

東京交響楽団第702回 定期演奏会

ウェーベルン:大管弦楽のための牧歌《夏風の中で》
ベルク:歌劇「ヴォツェック」から3つの断章*
ラフマニノフ:交響的舞曲 op.45

ソプラノ:森谷真理
指揮:ペトル・ポペルカ

当初予定されていたマティアス・ピンチャーが二か月前に来日不可となり、急遽指揮者交代、さらに当初のピンチャーの「牧歌~オーケストラのための」をベルクに変更し、森谷さんをゲストとして迎えるというプロに変更になったが、森谷さんのベルクというのも凄いけど、代わりに来た指揮者が来月からヴァーレクやレナールトが首席にいたことでお馴染みのプラハ放送響の首席指揮者兼音楽監督に就任する、今年36歳のポベルカというのには驚いた。

指揮者としては2015年にアマチュアオケに客演したことがあるらしく、その後もコントラバス奏者としても何度か来日していたとのこと。彼は24歳の頃から10年程SKDでコントラバス奏者として活躍し、副首席まで勤めていたということなのでSKDに詳しい人にもお馴染みの方だと思う。

さて三年ぶりに来たサントリーホールはコロナ以前とかなり様相が変わっていた。

何というか暗いという以前に比べどこか寂しい感じを受けた。

ただ二年前の次々と公演が中止になり、311以上の危機的状況だった当時の事を考えると、よくぞここまで立ち直ったというべきなのかもしれない。舞台上のオケのメンバーも演奏中マスクをしている人はあまりみかけなかった事を思うと、来年の今頃にはさらにかつての日常に近づけることだろう。

ただしマスクによって寝息があまり聞こえずに済むという長所もあるので、眠たい人はこれからも積極的にマスクをしてくれると助かります。もっともそれでもやはり聞こえてくる大寝息もありますが。

さて前半。

最初のウェーベルン。まず弦の豊かな表情と弱音の神経の細かさ、そして木管の表情付けの上手さが印象に残る。また音楽の起伏は豊かなものの、あまり芳醇さや濃厚さに傾かなかったせいかどこか爽やかで詩的な印象が弦中心に感じられ。ウェーベルンというよりヤナーチェクを聴いているような感さえしたけど、これはこれでとてもいい感じ。

その後オケの強奏になるとポイントは抑えているものの、音楽の流れとオケの勢いに任せた感のある演奏になったが、このあたりはオケのウォーミングアップもかねてのものなのかも。

最後またまた前半の印象が戻ってきたけど、このときはどちらかというと、いろいろ仕掛けは施しているものの音楽にすべてを語らせるという、ちょっと「待ち」のスタイルのように感じられた。ただこれはこの曲のみ。

次のベルクは、先ほどまでの特長がさらに前面に出たような演奏で、指揮者もかなり熱気を前に押し出す傾向が強まって来た。ただこの指揮者、かなり音楽への見通しがいいのか、不純物を取り除き音楽に鮮度を与えるような趣が強く感じられ、決してその熱気が空回りすることがない。そのためベルクのもつ音楽の魅力がかなりストレートに伝わるものになっていた。

そういう意味ではラザレフにちょっと近いものも感じられるけど、あそこまで音楽をその動態視力の良さで精査していくというのではなく、設計の確かさと頭の切り替えの早さでそれを可能にしているという気がした。

そのため森谷さんの歌も素晴らしくオケの中から見事に立ち上がって来るのを感じる事ができた。それにしても森谷さんの歌が凄かった。

その一種冷めたような、それでいて突き放したものでは無い情念の噴出のようなものが凄まじく、正直聴いていて圧倒させられた。

正直いうと自分のいた場所は歌を聴くにはダメダメな場所だったけど、森谷さんの声がその背中からも驚くほど強靭に響いてきて、途中からダメダメな場所で聴いているという実感がわかないくらいのものがありました。

突然降ってわいたようなこの日のこの曲ですが、やる人がやればどんな状況でも素晴らしいものになるという証なのでしょう。


ここで休憩20分。


そして後半のラフマニノフ。

ここまでほぼ20年おきに作曲された曲が並んでいるように配置されているのですが、にもかかわらず最後は時代が昔に戻ったような作品になるというのも面白い。
(偶然かもしれないけど、この日の一曲目とこの曲はともにユージン・オーマンディが初演した曲)

最後のラフマニノフは編成も大きな打楽器群や一部楽器の追加を除けば、ブルックナーの5番あたりの二管編成とほぼ同じということで、それほどの超大編成というものでもないし、むしろ編成たけならベルクの方が大きいかもしれない。
(因みにこの日は対抗配置の16型)

だがこの日のラフマニノフは物凄い程にオケが鳴り捲った。

それにはここで指揮のポペルカが一曲目と違い徹頭徹尾「攻め」の姿勢に転じたことも大きかったと思う。

抉るところは徹底的に抉り、鳴らす所は容赦なく鳴らし、見栄をきるところは思いっきり見栄を切り、歌う所はとことん歌い上げるということを、今まで聴かせてきた特長をすべて活かしながらの上で音楽をどんどん進めていった。というかとにかく「攻め」ていたという感じがする演奏だった。

しかもそれらを頭の切り替えがとにかく早いのか、瞬時にして違和感なく次々とハッキリこちらに提示してくるので、聴いているこちらも一瞬も気が抜けないくらいの気持ちにさせられてしまった。

第二楽章と第三楽章を続けて演奏したことも、こちらの気持ちを切らさないという意味ではとても効果的だったと思う。

またオケそのものもラフマニノフになり一段と音が充実したものになり、特にこの曲での打楽器群の踏ん張りはかなりのものがありました。

とにかく最後の大音響に至るまで、鮮やかで爽やかで、そして熱いラフマニノフでした。

演奏後の聴衆やオケの反応も良く、正直この日一日というのがもったいなく感じられる演奏でした。
(天候のせいもあり、人の入りは大入り満員とまではいかなかったことも残念)

実際二日続きだったらオケもさらに指揮者の音楽に踏み込み練れた音楽を奏でていたような気がします。もっとも初顔合わせということを思うと、この日のそれもかなりのレベルの演奏ではありましたが。

最期スタンディングオベーションを贈られたポペルカ。

次はいつの来日になるのか。東響への再登場かそれともプラハ放送響との来日公演か。

バッティストーニあたりとほぼ同年齢(同郷フルシャより五つ年下)なのでこれからの活躍、そして今から次の来日がとても楽しみです。


しかし誰かが言ってたけど、弦楽器出身のチェコの指揮者は本当にいい人が多いなあ。

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ワクチン三度目をうつ (モデルナ) [いろいろ]

ファイザー、ファイザーときて、三度目がモデルナというよくあるパターン。

以下はその時の様子。

今回は以前行ったところと違い、保土ヶ谷の集団接種会場に行く。

横浜市が「余裕がある」と言ってたけど、全日空きがあり、しかもどの時間帯も空きが潤沢にあるというもの。

なので都合が急についた日の二時間前に予約を入れる。
平日午前からの最後の時間帯。

会場に行くと中はけっこう大きく清潔で明るい。

室内も密感覚皆無なくらいスペースがある。

そして何よりも驚いたのはガラガラということ。

もちろん人っ子一人いないといことではないけど、
前回会場前に待機列があり、
時間指定なのに会場に入ってからうつまで多少待ったのに、
今回はまったくといっていいほどそれがない。

実際、待合席はガラーンとしていた。


その後の流れはほぼ二回目と同じ。

問診の先生もあまり混んでないせいかけっこう丁寧にみてくれた。


そしていよいよ初の「モデルナ」

ファイザーよりかなり強くキツイという噂があったので正直身構えた。

だが注射そのものはファイザーとほぼ同じ感覚。
気持ちこちらの方が染みた感じがしたけど気のせいかも。

会場で15分様子見。

前回。ちょっと頭が短い時間だけど、ぼーっとした気がしたけど今回それは無し。

その後何事も起きず帰宅。

因みに横浜市が接種後、数日以内に現れる可能性がある症状としてあげたのが、
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https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kenko-iryo/yobosesshu/vaccine/vaccine-portal/side_effects.html

四時間後、注射を打った腕に前回同様少しずつ動かすと痛みがでるようになる。

ただあの時あった、耳にトンネルに入った時のような気圧の変化で起きる感覚や、胃に違和感を感じたりすることも無し。

問診時に、注射後10~12時間後に発熱する人が多いと言われたけど、
それから12時間経つも熱も倦怠感も無し。

この日はそのままで終了。


二日目。

腕の痛みは相変わらずだけど少し強くなった気がする。このあたりはファイザーと違う。食欲はいつも通り、倦怠感、頭痛等ここまでなし。

前日はあまり激しい運動はしないようにといわれ自重したけど、
この日いろいろとやる事が立て込んだのでかなり動く。

そのせいか夜、急に熱っぽくなる。

体温は37℃。

ただ自分は平熱が低めなので、そうじゃない人は37.5℃を超えたかも。

もっともそれによるキツイ感じはまったくなく、頭痛、倦怠感は無し。


三日目

熱は結局昨夜すぐ下がり37.5℃までいかず、今日は平熱。

腕の痛みは午前中あいかわすだったけど、夕方以降次第に回復し違和感程度にまでおさまる。

ファイザーの二度目に出た下腹部の違和感が今回もまた出たけど大事に至らず快方へ。

疲労、頭痛、倦怠感は無し。


四日目

朝起きると肩の違和感はかなり良くなり、夕方にはなくなる。
胃の状態も朝から問題なし。発熱、疲労、頭痛すべて無し。


五日目

朝からまったく違和感なし。


という感じでした。注射を打ってから100時間程で症状はなくなったようです。

ファイザーよりやや長引いたものの、予想したような副反応もなかったです。

もっとも今回のモデルナは今までの半分の量だったというので、
もし今まで通りだったらそこそこキツかったかもしれません。


今後また秋くらいに四回目があるとのことですが、
そろそろ解放してほしいけどこれはもう無理なのかも。

せめて今開発されているという、インフルエンザ+コロナ用混合ワクチンがそれまでに実用化されることを期待します。

以上で〆。

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膀胱鏡検査をした [いろいろ]

昨年の事だけどエコー検査で膀胱に怪しい影が出たので、急遽膀胱鏡検査をした。

膀胱鏡検査。

噂には聞いていたが、異口同音にとにかく「痛い!」というのが一致した意見だった。

それはそうだろう。出す事が目的の尿道に、無理矢理異物をねじ込んで前立腺より深い膀胱まで入れるのだから、痛い痛くないなど聞く方が野暮というもの。

特に昔は金属製のペンのような硬性鏡とよばれるものしかなかったようで、それはもうとんでもない痛みを伴ったようですが、今は軟性鏡とよばれる柔らかくより細いものが使用されているようです。

また今はゼリー状の麻酔を最初に入れるためかつてよりは痛くないということだった。

ただその「かつて」が規格外に痛いレベルなど、それと比較されてもあまり気休めにはならなかった。

で、この軟性鏡。よくみたらかつて鼻の奥の検査時に使用された軟性内視鏡とよく似ていることに気づいた。

鼻の検査時も確かスプレー式の麻酔のあとそれを鼻の中に入れていたので、それでようやく凡その感覚がつかめた気がした。ただしあれもそこそこ痛かったので少し滅入ってしまった。なにせ場所が場所ですから。

で、当日、すべて膀胱の中のものをトイレで空にしたあといよいよ検査。

別室で下着を脱ぎ、手術着に着替えて手術室に入いり椅子型の手術台に座る。白内障のそれと同じようなものといったところか。

そしてよく話に聞く女性がお産の時の分娩台に乗ったような姿、それこそ「これが無条件降伏」といいたいような格好になる。

その後カーテンで仕切られ上半身だけカーテンの中、あとは先生や看護師さんのいる外に出ているといった感じ。

そして「はじめます」といっていよいよはじまる。

最初にゼリー状の麻酔薬を入れる。

ここで今更気づいたけど、このゼリー状の麻酔薬を入れるときにはまだ何も麻酔とか効いてないということ。

しかもゼリー状というからとろみのある感覚なのかと思ったら、けっこうな圧を感じる勢いで注がれたので、これがけっこうこたえた。ただ刺激痛というより鈍痛に近いもので、飛び上がるような痛さではなかった。

ただけっこう苦しい感覚があり、じっさい内視鏡よりこっちの方が痛いという人も少なからずいるとのことだった。

で、それを尿道内にしばらく注いだ後内視鏡が入って来た。

正直麻酔が効いているのは分かったけどやはり無痛というわけにはいかない。

ただ鋭角的な痛みというより、無理矢理中に異物を押し込まれているという感じで、正直やや苦しいという感覚の方があった。むしろ鋭角的な痛みという意味では鼻の中への軟性内視鏡の方が個人的にはあったような気がする。

あと呼吸を整えリラックスすると尿道の緊張感が解け痛みが少なくなるらしく、けっこうこのことを事前に言われ、それを実践したことも痛みが予想より小さかった要因かもしれない。

その後、膀胱内に水を入れたりカメラの角度を変えたりといろいろやっていたけど、とにかく息が上がる。また痛みとも不快感ともつかない独特な感覚が次第に増してちょっとキツイかなあという気がしてきた頃に「まもなく終わります」という声が聞こえ、それでもうひと我慢、そして終了となった。

時間として十分前後だったと思う。ただ三十分にも一時間にも感じられる十分だったことは確か。

終了後、膀胱の中から垂れるゼリー状の麻酔薬に注意した後、別室で元の服に着替える。

検査結果はそれからしばらくして今度は診察室によばれて聞く。

幸い何の異常もなく心配なしとのお墨付きをもらって無事帰宅とあいなりました。

麻酔が切れた後の痛みや出血等もほとんど自分はありませんでした。


結論から言うと、

〇ゼリー状の麻酔を入れるときは意外とくるものがある。
〇膀胱鏡の痛さは予想とはかなり違う。
〇無痛ではないが我慢できない痛みということはなかった。
〇かわりに感覚的に苦しく感じるものはあった。
〇されど何度もやりたくはない。

というのが結論です。

しかし昔の硬性鏡でやってた頃の痛みってどんなものだったのだろう。

因みに自分が検査をしたのはコロナがかなり鎮静化していた時期。

診察から数日でできたのはそのためだろう。

今はなかなかそうはいかないのかもしれないので、早くまた鎮静化してほしいです。

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アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルハーモニー交響楽団を聴く(11/2) [演奏会いろいろ]

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2021年11月2日(火)オーチャードホール
14:00開演 オーチャードホール

東京フィルハーモニー交響楽団第12回 渋谷の午後のコンサート
〈バッティストーニの運命〉

ヴェルディ/歌劇『運命の力』序曲
ヴォルフ=フェラーリ/歌劇『マドンナの宝石』間奏曲
プッチーニ/歌劇『マノン・レスコー』間奏曲
ポンキエッリ/歌劇『ラ・ジョコンダ』より「時の踊り」
ベートーヴェン/交響曲第5番『運命』

指揮とお話:アンドレア・バッティストーニ


じつに二年ぶりのコンサート。

コロナ禍の為これだけ大きく間が空いてしまった。

久しぶりの渋谷駅は湘南新宿を使用したため大きく様変わりしたように見えたけど、会場前に通例となっていた他公演のチラシ配布は無く、チケットも自分で半券切って傍の箱に入れ、退場時も時差退場方式と、すべてが二年前と一変していた。

ただ幸いにしてここしばらく感染者が全国的に急速に減っている。二か月前、一日千七百人を超えていた神奈川の感染者発表数も今日は十人ということでほとんど奇跡のような減り方になっている。

そんなこともありワクチンも二度接種したこともあって、自分もようやく演奏会に行く気になり、この日の演奏会に足を運ぶことにしました。

会場も最近の落ち着いた感染状況からか、雰囲気は二年前と変わってはいませんでした。マスクをしながら聴くことを除けば。

ただ確かにこの鬱陶しいマスクだけど、咳や鼻息等のノイズもかなり抑え込んでいるせいか、むしろそういう意味では以前より神経を尖らせるようなことが無くなったのは不幸中の幸いと言うべきなのかも。

今回、じつはバッティストーニを聴くのは初めて。来日する度に人気が高まっているので楽しみにしていました。

この日は前半はイタリアもの、後半はドイツものを、途中通訳の方を通してのバッティストーニのトークを織り交ぜながら進行するというもので、雰囲気としてはじつに穏やかなもの。

トークの内容は演奏される曲目について、他公演で演奏されるバッティストーニ自身の作品について、日本の印象、アマチョアオケの印象、クラシック以外の好きな音楽等と多彩なものになりました。

じつはこの日の曲目。通常の演奏会としてはやや少なめの分量なのですが、15分の休憩込で、ほぼ二時間まるまる費やしての演奏会になった程、とにかくこのトークの分量が豊富でした。

7日にも同じ内容の演奏会がありますが、そこではどういうトークがあるのか興味津々です。自分は行けませんが。


バッティストーニの指揮。

前半の曲を聴いていて思ったのは、とにかく音がクリア。そして弦を中心にひじょうにブレンドされた響きが素晴らしく、弦の弱音や木管の表情付けなどかなり細かく神経が行き届いたものになっていました。

また音のクリアさとブレンド感がうまく合わさっていることと、弱音がひじょうにコントロールされているせいか、無理に大きな音を出さなくてもホール全体に強音がしっかり伸び伸びと響くので、大きな音になっても決してギスギスしたり濁ったりせず、バランスもしっかりとれていて、どの曲もとても安心して聴いていられました。

ただこう書いているとオケにあまり推進力が無いように感じられかもしれませんが、オケが弦を中心に表情豊かな流動感のようのものを強く感じさせ、それがとても自然な推進力を音楽に与えており、これがヴェルディやポンキエッリでかなり大きな武器になっていました。

ところで今回のこのポンキエッリの「時の踊り」。

冒頭がカットされていたけど、あれはそういう版があるのだろうか。それとも指揮者の指示だろうか。はじまった瞬間、会場の一部から「あれっ?」という雰囲気も起きていたのでちょっと気になりました。


後半のベートーヴェン。

これも前述したことがここでもそのまま活かされていましたが、この第五はとにかく実直でストレート。フルトヴェングラーの深刻さのようなものはなく、明朗快活で一点一画も疎かにしない、ある意味トスカニーニの系列を汲んでいるかのような古典的ともいえる清潔な演奏といっていいのかもしれません。もっともトスカニーニのような剛直な感はなく、もっと伸びやかで晴れ晴れとしたものがここにはありました。

この演奏で秀逸だったのは第四楽章。

この日のオケの編成は指揮者の指示なのかコロナ禍の事情かは分かりませんが、12型(一階で聴いていたのでちょっと視覚的にハッキリと確認できませんでしたが)という弦はそれほどの大きさではなかったものの、トランペットが3+トロンボーン3+ホルン4と、ブルックナーの3番なみにブラスが増量されていたこともあるのか、第四楽章に入った瞬間金管のクリアで大きな響きがじつに効果的に鳴り響き、音楽の輝かしさをじつに実感できるものとなっていました。

また反復後のオケの響きはさらにより一段大きく高く響くような輝かしさと力感に富んだものになっていましたが、ここはなかなか反復してもただ繰り返しただけみたいな演奏になることが多々あるだけに、とにかく感嘆してしまいました。(因みにこの日は両端楽章とも反復を実行していました)

そして終盤。見得や溜めも一切せずに、どんどんギアを入れながら音楽をグイグイ追い込んでいくものの、それにより高揚感こそ増すもののギリギリとした緊張感とは無縁の、むしろ壮麗とも爽快ともいえる輝かしく清々しいまでの音楽とともにひたすら最後に向かって上り詰めていく様は、とても新鮮、なれどオーソドックスといった感じで、この曲の新しいというより本来の姿みたいなものが描かれていたかのようで、ひじょうに聴き応えのある、そして何故か聴き終わってとても元気をもらえたような気持ちになりました。

とにかくバッティストーニという指揮者が何故来日するたびに高く評価されているのか、その一端が分かった気がしました。この指揮者でいつかベートーヴェンの「英雄」を聴いてみたいです。

東フィル。

本当にいい状態になっているようです。ただどこか他の在京オケより、シンフォニーオケというよりオペラハウスオケみたいな雰囲気をもっているのは相変わらずで、それがとてもいい意味でこのオケの財産になっているようです。

そういえばこのオケにとって忘れ難い往年の名指揮者、マンフレート・グルリットも来年の四月には没後五十年を迎えます。東フィルは何か企画しているのでしょうか。ちょっと気になっています。


追加※

この日のベートーヴェンで、壮麗な音を聴かせた3本のトランペット。

あの時何かとイメージが重なっているように感じていたのですが、今になってバッハのロ短調ミサにおける3本のトランペット重なっていた事に気が付きました。

バッハのこれは「三位一体」と重なるものと言われていますが、はたしてこの日のそれが何かと絡めた結果そのあたりを意識してのものだったのか、それとも単なる音の補強だったのか。

深読みしすぎかもしれませんがどうなんでしょう。

以上で〆

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