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沖澤のどか指揮京都市交響楽団を聴く(09/24) [演奏会いろいろ]

京響.jfif

2023年9月24日(日)
サントリー・ホール 14:00開演 

曲目:
ベートーヴェン:交響曲 第4番 変ロ長調 作品60
コネソン:管弦楽のための「コスミック・トリロジー」(日本初演)

指揮:沖澤 のどか


開演30分前になってもまだ当日券売り場に長蛇の列。そのせいか5分以上開演時刻が下がる。

このプロでこの状況はとかなり驚き、これは超満員かと思ったら八割くらいの入りだった。

それでもこのプロでこれだけ入ったのはやはり指揮者の人気と期待が大きかったことのあらわれかも。

というわけでかなり出来上がった状況でのはじまりとなりました。


前半のベートーヴェン。

序奏はあまり神秘性こそないものの弦がとてもクリアかつ柔軟、そして穂先が澄んだかのような抜けのよい響きが印象に残る。

だが主部に入ると一転目が覚めるような快速風になる。それはムラヴィンスキーあたりと双璧ともいっていいくらいのもの。

ただムラヴィンスキーが厳しく強靭かつ峻厳な音楽だったのに対し、こちらは線を引くような美しい流動感と平衡感、颯爽としたじつに気持ちのいい、それでいて格調の高さも感じられる音楽となっていた。

あとこの演奏を聴いていたら、何故か「英雄」の終楽章の終盤(第9変奏以降あたり)がイメージと重なってしまい、この曲がまるでマーラーの3番に対する4番のように、「英雄」と「第五に」挟まれた曲ではなく、「英雄」の延長線上において展開されたじつは曲なのではないか、それこそあの「英雄」の第四楽章の変奏の後に、じつはこういう世界が広がっていたのではないかという不思議な気がしてしかたなかった。

それくらい何か描かれているものがシンプルでありながらも従来と違う感じのものがあり、そういう意味でとても新鮮に感じられたものでした。

ところでこの演奏で気になったことのひとつに、オケの強音のピークが意図的なのか均一にリミッターが掛かったようになっていたこと。しかもインテンポに近かったことから、ふつうだと強弱緩急の両面で表現の幅が狭くなり、一本調子になりかねないような危険性を伴いかねない演奏だったのに、曲がそれをある程度許容しているような趣があったとはいえ、そういう事にまったく陥らないというこれまた不思議な感覚をこの演奏で感じた。

出来はシンプルで素晴らしいけど、いろんなところでいろいろと考えさせられる謎の部分の多い演奏でもありました。

因みに弦は12型で、バロックティンパニを使用していたようです。


この後20分休憩、そして後半のコネソン。


一転して16型の大編成。

正直知名度も人気もそれほどあるとは思えないこの曲を東京公演に持ってきたという事は、それくらい指揮者がこの曲に絶対の自信を持っているのだろうという気はしていたので、以前録音盤で聴いた時にはそれほど強く興味は持てなかった曲だけど、今回はちょっと期待した。

だが演奏はちょっとどころではない、ただただ圧巻の演奏でした。

曲としてはジョン・ウィリアムズやゴールドスミス、またウォルトンやジョン・アダムズあたりの雰囲気が随所に感じられ、クラシック音楽というより、SF映画や戦争映画等の音楽を絡み合わせたような、ある種の視覚的ともいえる音響が印象に残る作品で、やりようによってはかなり劇的かつスペクタクルにやれる感じがする作品だったけど、沖澤さんの指揮はそうではなかった。

それはこの巨大な作品をまるで手のひらに乗せるように、それこそ自由にコントロールしながらその膨大な情報量をすべて開帳しようとしているかのようで、以前聴いた時とは録音と実演の違いはあれ、とにかく音楽がスコアからどんどん湧き上がりながら次々と眼前にその姿をみせていくような、何とも筆舌に尽くしがたい壮観な状況となっていった。

演奏終了後、観客があれほど熱く反応したのも、この「壮観な御開帳」状況に圧倒されてしまったからだろう。

これを聴いた時、自分はかつて沖澤さんがアシスタントを務めたキリル・ペトレンコが日本でやった「ワルキューレ」を思い出した。あの時のペトレンコも必要以上に劇的に走ることなく、まるで手のひらの上でこの曲を自由に転がすかのように、自由自在にこの曲をコントロールし、クリアかつ見通しの良い、それでいてこの曲の持つ膨大な情報量を全面開放したかのような驚異的な演奏をしていた。

2017年というからもう6年前の話だけど、その時のことを沖澤さんの指揮で久しぶりに思い出してしまいました。

沖澤さんが今後どういうふうに進化していくのかは分からないけど、何故多くの方から評価されているのかが今回ハッキリと分かりました。これからが本当に楽しみな指揮者です。

しかし今回のプロ。

昭和の日本のオケだったら雑然かつ混沌と演奏され、雑音と不協和音の塊にしかならなかっただろうけど、今の日本のオケはもうそんな事はない。それはこの日の京都市響の演奏でもしっかり証明された。ただ今回はそこ止まりのレベルではなく、この大曲を本当に見事に演奏していたことは絶賛されて然るべきだろう。

とにかく沖澤さんとのコンビはこれから日本のオケでも大注目になるだろうし、それこそ京都が日本のオケの中心になるかもしれません。在京オケもうかうかしていられないかも。

最後にこの日のコンマスが神奈川フィルの石田さんだったのが嬉しかった。

シュナイトさんの時代は毎回石田さんがそこにいたけど、最近はいない事も多くちと寂しい思いをしていたのですが、ここで聴けたのは本当に嬉しかったしソロも聴けて大満足でした。

ところで石田さん。いつから立っている時のヴァイオリンの持ち方を変えたのだろう。


以上で〆


(追加 2017/09/27)

このコンサートの数日後、沖澤さんがベルリンで指揮したモーツァルトをTVでみた。

そこでもあの時のベートーヴェンと同じような事を感じたが、この時往年の名指揮者、ヨゼフ・カイルベルトの日本での演奏、そしてその時のN響の団員の方のコメントを思い出した。

団員の方によると、カイルベルトは思いっきり弾く事をさせず抑制をかけた弾かせ方をさせたという。そのため団員は思い切り弾く事ができずかなりフラストレーションがたまったが、後日のその時の演奏を録音で聴いたら、今まで聴いたことが無いくらい素晴らしい音を自分達が奏でていた事に驚いたという。

それから間もなくカイルベルトはN響の名誉指揮者になったのですが、沖澤さんのあの時感じた抑制感というのが、ひょっとするとこの時のカイルベルトとかなり似たものだったのではなかったかという気がしてきた。

もっともまだ一度しか聴いてないので判断が早計かもしれないけど、沖澤さんが助手を務めたペトレンコもカイルベルト同様バイエルン歌劇場の指揮者だったという偶然もあり、このあたり今後少し注目して聴いていきたいと思います。
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