SSブログ

飯守泰次郎さんの想い出 [お悔み]

飯守さんの音楽は「音楽すべてを肯定する」という前向きの強い意志が基本になっていると自分は思っている。

そのためその音楽のタッチは強靭で音楽の深部に切り込み肉薄するような凄まじさが内面にあったが、またそれと同時にカイルベルトのような職人的な熟成感も持ち合わせていた。

それは2001年聴いたハイドンとブラームスの交響曲でもじつによく感じられたが、その色合いは年々強くなっていったような気がする。

あと彼はベートーヴェンやブルックナー、そしてワーグナーといったドイツものばかりが評価されているが、2005年に新交響楽団を指揮して演奏された、矢代秋雄の交響曲とラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」(全曲版)などでも、やり方そのものは変えていないのに、その音楽の核心を突いたようなそれもまた素晴らしかった。

自分は飯守さんのオペラを聴いたことが無いので、あまり大きな事は言えないけど、それでもコンサートにおけるそれはとにかく大きな感銘を受けたものが少なからずあった。

その中でも結局これが飯守さんを聴く最後となった、2017年の神奈川フィルとのベートーヴェンの8番とシューベルトのグレイトが最も強く印象に残っている。それはとにかく凄まじいの一語に尽きる、まさに鬼のような壮絶極まる超弩級の大名演だった。あれが録音されなかったのは本当に残念としか言いようがない

だがその後何故か飯守さんのコンサートから足が遠のいた。

というのもこの時期から、今まで実演で聴いた事がない曲や指揮者を聴くことに自分が軸を移したことが大きかった。

そしてコロナが襲い、その後飯守さんが手術を受け、体調があまり思わしくないという事を聞き、それがまた「怖くて」足が遠のいてしまった。

だが最近はブルックナーを立て続けに指揮をするなどしているので、ある程度回復されたのかと思い、秋のシューベルトプロに久しぶりに行こうかという矢先の今回の訃報だった。。

自分にとって21世紀の最初の十年間は、シュナイト、トゥルノフスキー、アニハーノフ、そして飯守さんの四人でまわしているような感じがするくらい、とにかくこの四人は良く聴いていたし、とても充実した十年間だったと思っている。

その時の指揮者がまた一人いなくなってしまった事は本当に辛い。しかも年齢的にそんな年でもなかった事を思うと猶更です。

最後は自分の弱さが招いたこととはいえ「怖さ」を押しのけても最近のシューマンやブルックナーを聴きに行くべきだったのかも。

とにかく今まで本当に素晴らしい音楽を聴かせていただき本当に深謝です。

あらためて謹んで深く哀悼の意を表します。

合掌

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

マリス・ヤンソンス氏死去 [お悔み]

旧ソ連ラトビア出身の世界的指揮者、マリス・ヤンソンスさんが11月30日、サンクトペテルブルクの自宅で死去した。76歳だった。首席指揮者を務める独バイエルン放送交響楽団が12月1日、発表した。(朝日新聞)


マリス・ヤンソンスの名前が日本で知られたのは、
1971年のカラヤン国際指揮者コンクールで二位になった時だと思う。

それ以降彼はムラヴィンスキーに評価され、
レニングラードフィルの副指揮者となるかたわら、
彼の助手としても活動したという。

次に彼の名前が日本で聞かれたのは、
1974年に翌年来日する予定のモスクワ放送響の同行指揮者に、
フェドセーエフとともに名前がクレジットされた時。

ただしこれも結局はフェドセーエフ単独による公演となり、
ヤンソンスの初来日は流れてしまった。

そして1977年のレニングラードフィルの来日公演に、
ヤンソンスは同行しついに初来日を果たすことになる。

その時の初日のプログラムがこれ。

9月26日:東京文化会館
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(P/ラザール・ベルマン)
チャイコフスキー/交響曲第4番

ただこの公演はベルマンの初来日の方に話題が向き、
ヤンソンスは多少その陰にかくれてしまった。

しかもヤンソンスというと、
当時はまだ父アルヴィドの方が知名度も人気もはるかに高く、
ヤンソンスというとほとんどの人が父を想起した時代だった。

ただ自分はこのときヤンソンスが、
ムラヴィンスキーが初演したのに早々とレパートリーから落とした、
ショスタコーヴィチの交響曲第9番を
その当人が同行した公演でかなり集中的に演奏していたことが、
とても強く印象に残った。

できれば聴きにいきたかったけど、
当時は諸事情で断念した。

その後1986年ようやく彼の指揮を初めて聴いた。

それはムラヴィンスキーの代役として指揮した、
ショスタコーヴィチ生誕80周年記念演奏会と銘打たれた公演の後半の、
チャイコフスキーの5番。
(※前半のショスタコーヴィチの6番は仕事が長引き聴けず)

演奏は若干ムラヴィンスキーに比べると小ぶりだけど、
その圧倒的ともいえる気迫と力強さは強く心に残るものがありました。

そのため次回来日したら今度はちゃんと行こうということで、
1988年のオスロフィルとの初来日公演には二度出かけ、
グリーグ、ドヴォルザーク、シベリウスを聴くことができた。

この時の演奏はときおり一本調子になるところが気になったものの、
なかなか前回同様熱い演奏を聴かせてくれました。

特にサントリーホールでは、
「悲しきワルツ」「眠りの森の美女」から二曲、
そして「山の魔王の宮殿にて」の四曲をアンコールでやり、
その四曲が極めて圧巻の演奏となった。

だが演奏の好調さとは裏腹に、
この年の1月に亡くなったムラヴィンスキーの後任に、
彼が選ばれることはついになかった。

このとき自分のところには、
テミルカーノフのよからぬ噂が山のように流れ込んできたり、
彼がロシア人でないから外されたという話が伝わったりと、
じつにいろいろなそれがあったけど、
その後の彼のそれをみると、
そんなことなどどうでもいいくらいの実績と信頼、
そして地位をヨーロッパ全土で築いていった。

特にコンセルトヘボウとバイエルン放送という、
世界的にみても屈指の二大オケのトップに同時に立ち、
その両方から大きな信頼を得、
聴衆からも強く支持されたことは、
いくら称賛されても足りないくらいのものがありました。

日本にも1990年以降、
サンクトペテルブルクフィル、オスロフィル、モスクワフィル、
ピッツバーグ、ベルリンフィル、コンセルトヘボウ、バイエルン放送と、
世界各地の名門オケとともに来日し好評を博し、
それは2016年秋まで続いた。

昨年6月にはウィーンフィルから名誉団員の称号を授かり、
秋には来日公演も予定されていたがそれは健康上の理由で来日中止、
そして2020年秋のバイエルンとの来日もかなわぬものとなってしまいました。

ヤンソンスはもともと父同様心臓に爆弾を抱えていたようで、
1996年にオスロで指揮の最中に倒れ緊急入院。
一命はとりとめたもののやはりこのままではということで、
ピッバーグで胸部にペースメーカーを埋め込み、
これによりようやく健康を回復しました。

ただ今年に入り健康状態が悪化、
一時回復したものの、
11月に入りキャンセルが連続し心配されていましたが、
心不全で30日に亡くなられました。


自分にとってヤンソンスは、
メータやハイティンクさらにブロムシュテット同様、
学生時代からよく耳にし、
そして演奏会で聴いた指揮者だっただけに、
やはりとても寂しいものがあります。


自分が最後に聴いたのは2004年のコンセルトヘボウとの、
ベートーヴェンの2番と「英雄の生涯」。

指揮者の十八番とオケの十八番ということで、
とても期待して聴きに行き、
そしてその期待通りの名演だったことで、
ヤンソンスが押しも押されもせぬ名匠になったと、
それを痛感させた忘れ難いコンサートとなりました。

その後はなかなか都合がつかなかったり売り切れたりと、
ついに聴くことができなかったのが心残りです。

心の強さと温もりを強く感じさせる指揮者でした。


謹んで哀悼の意を表します。

合掌


R-11795765-1522605282-6791_jpeg.jpg
自分が初めて購入したヤンソンスの音盤。

ムラヴィンスキー時代最後の録音で、
オケの巨大さと情報量に前半圧倒されていたものの、
後半指揮者がそんなオケを強くドライブした好演となった音盤。

1988年に発売された当時は、
まだオーケストラの方が扱いが大きかったのが目立ちます。
nice!(0)  コメント(9) 
共通テーマ:音楽

声優の中村正さん死去 [お悔み]

 中村 正さん(なかむら・ただし=俳優、声優)11日午前9時10分、胆のう炎による敗血症のため神奈川県内の病院で死去、89歳。名古屋市出身。葬儀は近親者で済ませた。

 東京俳優生活協同組合(俳協)に創立時から所属。主に声優として活躍し、米ドラマ「奥さまは魔女」のナレーション、「チャーリーズ・エンジェル」のチャーリー役などで知られた。近年は細田守監督のアニメ映画に出演し、昨年の「未来のミライ」では新幹線役を務めた。

https://www.jiji.com/jc/article?k=2019112201024&g=soc

自分にとって中村さんはある意味特別な存在だった。

というのも自分の少年時代、
今より地上波のテレビでは、
昼でもゴールデンでも、
今とは比べ物にならないくらい、
吹き替えによる洋画やアメリカのテレビドラマが、
じつに多く放送されていました。

そしてそんな中でも、
中村さんの声の存在感というのは、
図抜けて強く印象に残るもので、
そのどことなく気品とユーモアを兼ね備えたそれは、
デヴィッド・ニーヴンの吹き替では特に秀逸でした。

他にもフレッド・アステアのそれでも、
(「足ながおじさん」や「タワーリング・インフェルノ」等)
やはりいい味を出していました。

「奥様は魔女」のナレーションも、
もちろん印象に強く残っています。

ただ時には凄みのある怖い役もしていて、
「サブウェイ・パニック」における、
ロバート・ショー演じるMr.ブルーでは、
冷酷な犯人役のそれを見事に演じていました。


そんな昭和の時代に特にお世話になっていた中村さんが、
令和初の誕生日で卒寿を迎えられるということだったのですが、
本当に残念なことになってしまいました。


心より深く哀悼の意を表します。

本当に今迄ありがとうございました。

合掌


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ハンス=マルティン・シュナイト指揮神奈川フィルハーモニー(2009年5月16日) [お悔み]

去る5月28日に逝去されました、指揮者ハンス=マルティン・シュナイトさんが最後に神奈川フィルハーモニーを指揮した、

シュナイト音楽堂シリーズVol.17「シューマン・シリーズIV」

の別の所に書いた当時の感想をここに転載します。


シュナイト.jpg

(会場)神奈川県立音楽堂
(曲目)
シューマン:マンフレッド、序曲
シューマン:ピアノ協奏曲(P/ダニエル・シュナイト)
シューマン:交響曲第4番


シュナイト最後の音楽堂は、大曲「ヨハネ受難曲」から一週間というタイトなスケジュールの中行われた。以前ドイツレクイエム公演後から一週間もあけずに演奏会を行ったとき、その直後に倒れられてしまったことがあった。このことからこの公演にはかなり危惧するものがあったが、心配された通りシュナイトの体調は予想以上に最悪だった。

五分ほど押した後に開演。その冒頭のマンフレッドは、練習不足なのかやや散漫な響き。最後こそうまくまとめていたけど、こういうところにも以前と違うシュナイトのそれを感じてしまった。だがそれ以上に驚いたのは指揮台を下りる時、シュナイトが突然膝から崩れ落ちそうになったこと。すぐに石田さんや他の団員の方が助け起こしたが、これには心配どころのものではないものを強く感じてしまった。おそらくこの時点で石田さんはある意味完全に腹をくくったように感じられたのですが、そのことにつきましてはまた後ほど。

たしかにここ数年のシュナイトの体調は決して芳しくないし、練習中に体調を崩し緊急帰国をしたり、公演が中止になったこともあった。じっさいある日の公開練習時など、休憩のため外に出てきたときに、疲労困憊といった表情をされていたこともあった。だが公演中にこのような姿を見せたことは少なくとも自分は記憶に無い。

続く協奏曲では幾分持ち直したものの、ソロをとる子息ダニエルはそれどころではなかったようだ。目前で指揮者の父が崩れ落ちる瞬間を目にしたこの若いピアニストに、平常でソロだけを心がけろというのはやはり無理で、随所に心ここにあらずのような瞬間が散見された。プロだからそんなことに左右されるなという声もあるだろうし、演奏後派手にブーイングが飛ばされていたが、日本滞在中も自分のことだけに集中できない状況であったことを考えると、自分は単純にその否を声高に指摘することはできなかった。なかなかいい音の持ち主だけに、次回はピアノに集中できる環境でぜひ聴いてみたい人だったのが救いだった。

このあと20分の休憩後に交響曲。シュナイトはこれでブラームスに続きシューマンの交響曲を全曲演奏することとなった。この休憩でだいぶ持ち直したのか、交響曲冒頭から素晴らしく風格豊かで密度の濃い音楽が鳴り出した。特に主部の弦のうねるような巨大な響き、そして終盤のテンポが遅いにもかかわらず、その弦の推進力のある表情から、異例なほどの爽快感をともなった見事な流動感がじつに素晴らしかった。特に後者の感覚は今回の演奏で初めて感じたもので、シュナイトの天才的ともいえる感覚が見事に表出された瞬間だった。コーダの追い込みも素晴らしい。

第二楽章は一転粘らず、あまり遅く感じさせないように音楽を運んだものとなっていました。ですが続く第三楽章は一転して個性爆発。トリオにおいて他のシューマンの交響曲でも聴かせた大リタルダントがここで炸裂。オケが表情をつくるのに賢明だったのが印象に残った。

そして終楽章。雄大ながらも多少抑制された序奏の後主部に入ると、低音が俄然強く切り込んできて、まるでそれは巨人の歩みさえ感じさせるほどのものがありました。オケも分厚くじつに充実した音楽が熱気と勢いをもって奔流のように押し寄せてくる、まさにシュナイトと神奈川フィルならでは音楽が形成されていたそのとき、突如としてシュナイトの体調に異変が生じた。

シュナイトが左手を指揮台後ろにある手すりをつかんで放さない。しかも棒をもった右手はときおりだらりと下がったりして、次第に動きをなくしていった。シュナイトは若干半身になりやや前傾の姿勢をとったままほとんど動かなくなってしまった。ふつうならもういつ演奏が止まってもおかしくない状況だが、このオーケストラには石田泰尚というコンサートマスターがいる。そしてこういう事態が起きる以前にこのコンサートマスターはもう腹をくくっていた。シュナイトが自分で止めるかもしくはそれ以上の緊急事態が起きないかぎりこの演奏を最後までやりぬきオケを引っ張るということを。たしかにこれもまたあたりまえの心構えかもしれないが、今回そう決断したのはそれだけではない。目の前でシュナイトの今の状態をみてしまっているということもあるが、この演奏会が極めて特別なものであり、そのためシュナイトがふだんなら演奏会をキャンセルしてもおかしくない体調であるにもかかわらず、演奏会を強行したことを石田さんは感じていたのだろう。もちろんシュナイトの性格というものをよく知りつくした上で。

このため最後の数分間、石田さんはシュナイトが最後まで指揮台にいることを信じて全力で演奏しオケを引っ張った。オケ全員もよくついていった、というより皆が一致して最後まで音楽を演奏し続けた。今の神奈川フィルは、ひとつの勢いがつくと誰にも止められないほどの力をもつことがある。幸運なことに今回シュナイトがその事態に陥るとほぼ同時にオケはその勢いがついた状態に突入していた。これもシュナイトがこのオケから引き出したもののひとつだった。

シュナイトはこのとき、動くことのできなくなった自分を支えている石田さんをはじめ、賢明に演奏しつづける神奈川フィルに自分の持つ音楽が、自分からこのオケに譲与されたことをあらためて感じていたのかもしれないし、自分が何年もその持てる力の多くを注ぎ込み、育て、そして過去から現在にかけての自分の知識を分け与えたことによって、神奈川フィルがもうひとりの「自分」になっていたこともあらためて感じていたのかもしれない。

シュナイトは最後の数分間、自分が創り育て上げた音楽によって、自分自身が支えられていたのだった。

最後。それまで動けなかったシュナイトが渾身の力をこめて棒を振り上げ音楽をまとめた。そしてその瞬間、オケの全ヴァイオリン奏者の弓が上に向けて弾き抜かれた。それはまるで全員で高々と天を指し示しているようにさえみえた。シュナイトの言う「心から心へ」という音楽への総意が、それこそ天に向かって捧げられたような、そんなかんじに一瞬見えた、それは一瞬だったが、じつに稀有な、そして生涯忘れることのできない光景だった。

演奏終了後シュナイトはもはや立つ力は残されておらず、楽団員や舞台裏から小走りに駆けて来た係りの人たちに、まわりから抱きかかえられるようにして退場していった。だが演奏終了後からの拍手と歓声は鳴り止まず、オケが異例ともいえるほど早い段階で観客に一礼し退場した後も、スタンディングで延々と続いた。

もちろんこの拍手はこの日のシュナイトの壮絶なまでの音楽に対する姿勢にだけではなく、今まで何年もこのオケとともに素晴らしい、それこそ「神奈川フィルに奇跡をもたらせたのは誰だ」というほどの音楽を聴かせてくれたことに対する、聴き手の例えようのないほどの感謝の意も含まれている。

しばらくして舞台袖の椅子に座ったシュナイトがあらわれた。ひょっとするとシュナイトの健康が許せば、それこそ何時間も続きそうな拍手が続き、花束も渡された。これは3月のみなとみらいの最終定期ではみられなかった光景だ。

そう、あのときの観客の多くは、音楽監督として最後の公演であり定期であった3月公演ではなく、今回のこの音楽堂公演こそが特別の、そして最後の「定期」公演であると位置づけていたのだ。それがこの拍手ではっきりと感じ取られた。それがわかっていたシュナイトには、この日がいかなる体調であろうともこの特別な公演をキャンセルするという選択肢など無かったのだ。それに対し石田さんも全楽団員も腹をくくったのだ。そして結果神奈川フィルは最後ほんとうの意味でシュナイトの音楽を譲与されたオーケストラとなった。

椅子に座り照明を受け、延々と拍手を受けるシュナイトに、なぜか自分はシュナイトがこの公演で音楽のすべてを搾り出し尽くしてしまったような感じがし、その姿が演奏開始前よりひとまわり以上も小さくなったように感じられてしまった。9月にシュナイト合唱団との最終公演があるのに、何か指揮者としてのシュナイトが今日ですべて終わってしまったようにさえ感じられてしかたがなかった。そしてその小さくなった姿をみていて急にこみ上げるものを抑えることができなくなってしまった。シュナイトさんにはたっぷり休養していただきたい。ほんとうに今までありがとうございました。

こうしてシュナイトと神奈川フィルはひとつの関係を終えた。神奈川フィルは今後定期公演でいろいろな指揮者と共演していく。特に秋から来春にかけての定期公演では、現田さん、湯浅さん、トゥルノフスキーさん、金さん、下野さん、と毎月違う指揮者がその指揮台に立つ。ここで神奈川フィルがどう演奏していくのかほんとうに興味がつきない。特にシュナイトから譲与されたものがこれからどうこのオーケストラの資産となっていくのか。そこのあたりもファンの方はぜひ見守っていってほしいものです。

余談ですが、シュナイトさんが神奈川フィルとアートホールで練習されているとき、昼の休憩時間をかならずホール内の喫茶店、その窓側の決まった席で食事も兼ねて過ごされていました。そこは外を背にした席で、冬などはけっこう背中などあたたかそうな席ではあるものの、なんで外の景色とか観ないのかなと思っていたのですが、その視線の先に練習場となるホールの入り口、そしてフロアで談笑する楽団員の方々がみえたとき、自分はシュナイトさんの音楽とこのオーケストラに対する気持ちの一端を垣間見たような気がしたものでした。もうそれも観られないかと思うとじつに寂しいものがあります。

それはとても厳しくちょっと気難しい、だけどどこか穏やかで温かさも感じられる空間でした。


以上です。

あらためてシュナイトさんには心から深謝です。合掌。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

バッハ研究の権威 礒山雅さん死去 71歳=音楽評論家 [お悔み]

バッハ研究の権威で音楽学者の礒山雅(いそやま・ただし)さんが22日、外傷性頭蓋(ずがい)内損傷のため亡くなった。71歳。通夜は3月4日午後6時、葬儀は同5日午前11時、東京都東大和市桜が丘2の208の1のセレモアガーデン会館玉川上水。喪主は妻智子(ともこ)さん。

先月27日に雪で足を滑らせ転倒、頭を打ち入院していた。

 専門はドイツ音楽史と音楽美学。国立音楽大招聘(しょうへい)教授、いずみホール(大阪市)の音楽ディレクター。日本音楽学会会長も務めた。著書に「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」「マタイ受難曲」「バロック音楽」など。毎日新聞で演奏会評やCD評を長年執筆し、毎日芸術賞の選考委員も務めた。

https://mainichi.jp/articles/20180223/k00/00m/040/207000c


バッハに対して「つまらない音」と思っていた自分に、
バッハの音楽を意識し振り向かせてくれた方だった。

「マタイ受難曲」とはあいかわらずそりがあわないけど、
それでも磯山さんは自分にとってバッハを聴く機会をくれた大恩人だった。

こういう聴き手のマイルストーンになってくれる方は、
ほんとうにかけがえのない方だと思う。

まだ年齢的にこれからも活躍されると思っていただけに本当に残念です。

心よりお悔やみ申し上げます。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

俳優の大杉漣さん死去 [お悔み]

北野武監督の作品など、数多くの映画やドラマに出演し、幅広い役柄を演じる演技派として活躍していた俳優の大杉漣さんが亡くなりました。66歳でした。

大杉さんは徳島県の出身。20代のとき、東京で劇団に入団し、俳優として本格的な活動を始めました。

ロマンポルノの作品やVシネマに出演したのち、40代で、北野武監督の映画「ソナチネ」の、凄みのある暴力団幹部の役をオーディションで射止め、演技派として知られるようになりました。

これがきっかけで、映画界で次第に知名度を増していき、北野監督の作品には、映画「HANAーBI」や「アウトレイジ最終章」などに出演して、常連となりました。

テレビドラマでも、NHKの連続テレビ小説「どんど晴れ」や「ゲゲゲの女房」など出演があいついだほか、バラエティー番組でもコミカルな一面を見せて、幅広い世代の人気を博していました。

また、3月放送予定のNHKスペシャルでも、福島第一原子力発電所の事故当時の所長役を演じるなど、ごく最近まで、俳優としての活動を続けていましたが、66歳で亡くなりました。

大杉さんは自身のブログに、3日前の2月18日の早朝にも猫の写真を載せるとともに、メッセージをつづっていました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180221/k10011337991000.html


「シン・ゴジラ」の撮影時にお見掛けしていただけに、
なんか実感がわきません。

しかも現在進行形でテレビでも活躍していただけになおさらです。

心より哀悼の意を表します。

好きな俳優さんだっただけに本当に残念です。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:芸能

声優の鶴ひろみさん死去 [お悔み]

人気アニメ「それいけ!アンパンマン」のドキンちゃん役などで知られる声優の鶴ひろみさん(57)が16日夜、東京都中央区の首都高速都心環状線の中央分離帯に接触して止まった乗用車の中で意識不明の状態で見つかり、搬送先の病院で死亡が確認された。鶴さんが所属する「青二プロダクション」によると、死因は大動脈剝離(はくり)で、運転中に発症したとみられるという。通夜・告別式は親族のみで行うとしている。

 同プロダクションによると、鶴さんはドキンちゃんのほか、「みゆき」の鹿島みゆき役や「ドラゴンボール」のブルマ役なども担当したという。

http://www.asahi.com/articles/ASKCK3H1JKCKUTIL00Q.html


まだお元気に活躍されていたのに本当に残念です。

個人的には『きまぐれオレンジ☆ロード』の鮎川まどか役が強く印象に残っています。

気が強いけどじつは…みたいな、
今のアニメではけっこうよくみかける王道ヒロイン的なそれを演じ、
幅広く支持された最初の声優さんだったかもしれません。


まだお若いのに本当に残念ですが、
本人がいちばん無念かもしれません。

心より哀悼の意を表します。

nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アニメ

ジェフリー・テイト氏死去。 [お悔み]

Il direttore d’orchestra Jeffrey Tate stroncato da un malore all’Accademia Carrara

Il 74enne stroncato da un malore all'Accademia Carrara nel primo pomeriggio di venerdì 2 giugno è il direttore d'orchestra Jeffrey Tate.

di Redazione - 02 giugno 2017 - 17:30

jeffrey-tate-577724_660x368.jpg

Il 74enne stroncato da un malore all’Accademia Carrara nel primo pomeriggio di venerdì 2 giugno è il direttore d’orchestra Jeffrey Tate. Il famosissimo (e malato) direttore d’orchestra si è accasciato poco lontano dall’ingresso, probabilmente colpito da un infarto, e non si è più ripreso.

Nato il 28 aprile 1943 era stato insignito del titolo di Sir. Affetto dalla nascita di spina bifida e cifosi, aveva studiato pianoforte e composizione nel prestigioso Trinity College di Cambridge e aveva intrapreso anche gli studi universitari in medicina. Una volta laureato in medicina decise di svolgere la professione medica, continuare a coltivare la sua autentica passione, la direzione d’orchestra, che ben presto divenne la sua occupazione principale.

Nel 1970 era al Covent Garden di Londra come maestro collaboratore al clavicembalo di Georg Solti prima e di Colin Davis, Rudolf Kempe, Carlos Kleiber, John Pritchard e Herbert von Karajan poi. Nel 1976 Pierre Boulez lo volle come suo assistente a Bayreuth per il Ring del centenario. Nel 1978 l’esordio con Carmen di Bizet all’Opera di Göteborg.

http://www.bergamonews.it/2017/06/02/il-direttore-dorchestra-jeffrey-tate-stroncato-da-un-malore-allaccademia-carrara/256004/


今度はテイト氏が亡くなられた。

読売日本交響楽団によく来演されていたが、
そのときのヴォーン=ウイリアムズの交響曲第5番と、
エルガーの交響曲第1番における名演が忘れられない。

謹んで心より哀悼の意を表します。


しかし今年はあの悪夢の1973年を思われるほど、
指揮者の訃報が続いている。

もうこれ以上悲しい報せを今年は聞きたくないです。
nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

イルジー・ビエロフラーヴェク氏死去 [お悔み]

V noci zemřel po dlouhé těžké nemoci uznávaný český dirigent Jiří Bělohlávek. Bylo mu 71 let.

BTT4d7dd2_jb.jpg

Už na začátku ledna se objevily spekulace o Bělohlávkově zdravotním stavu. Česká filharmonie se ale k tomuto tématu nechtěla vyjadřovat. Za svoji soukromou věc to považoval také dirigent Bělohlávek. Šéfdirigent a umělecký ředitel ČF Bělohlávek na začátku ledna podepsal na dalších šest let smlouvu s Českou filharmonií. V čele nejznámějšího tuzemského orchestru stál už čtyři sezony. Ve funkci tak měl setrvat do sezony 2021/2022.


„S hlubokou lítostí oznamujeme, že dnes ráno zemřel po statečném boji s těžkou nemocí šéfdirigent a hudební ředitel České filharmonie, profesor Jiří Bělohlávek,“ napsala Česká filharmonie na Facebooku. „Po dohodě s rodinou, které Česká filharmonie vyjadřuje svou upřímnou soustrast, budou okolnosti posledního rozloučení oznámeny později. Do té doby nebudeme poskytovat žádné další informace,“ doplnila.


„Je především jeho zásluhou, že Česká filharmonie za posledních pět let zažila mnoho mimořádných úspěchů a znovu si vydobyla respektované postavení doma i v zahraničí – stala se vpravdě národním orchestrem, opět pronikla na pódia nejprestižnějších světových koncertních sálů a realizovala řadu oceňovaných nahrávek. Nejen Česká filharmonie, ale celá naše země odchodem Jiřího Bělohlávka přichází o člověka mimořádných uměleckých i osobních kvalit,“ cituje server iDnes.cz mluvčího České filharmonie Luďka Březinu.


Své kondolence poslal přes sociální síť rodině Bělohlávka a České filharmonii i Londýnský symfonický orchestr.

Zdroj: http://www.lidovky.cz/v-noci-zemrel-po-dlouhe-tezke-nemoci-uznavany-cesky-dirigent-jiri-belohlavek-1sx-/kultura.aspx?c=A170601_095415_ln_kultura_sij

http://www.lidovky.cz/v-noci-zemrel-po-dlouhe-tezke-nemoci-uznavany-cesky-dirigent-jiri-belohlavek-1sx-/kultura.aspx?c=A170601_095415_ln_kultura_sij


ちょっと突然の訃報に言葉もありません。

秋の来日を愉しみにしていたのですが…。


自分がビエロフラーヴェクの実演を聴いたのは、
1987年のN響とのマーラーの2番が最初だったと思う。

その後間隔があいてしまうが、
2004年の日本フィルとの「死者の家から」とドヴォルザークの7番。
2006年の日本フィルとの「わが祖国」
2009年の日本フィルとのブルックナーの5番
2013年のチェコフィルとのドヴォルザークとブラームスの1番。
2015年のチェコフィルとのベートーヴェンの5番、他。

これがすべてだと思う。

特に今世紀に入ってからのそれはどれも名演揃い。

日本フィルもよかったけど、
チェコフィルの状態が究極的といっていいぐらい素晴らしい。

特に2015年浜松での演奏会は白眉で、
中でも最後アンコールで聴いた「売られた花嫁」の道化師の踊りは、
二年前にサントリーホールでアンコール時に聴いた、
「売られた花嫁」の序曲と並んで、
チェコフィル最盛期ともいえるような輝かしいかぎりの、
それこそもういう事なしのとびきりの超名演でした。

当時は自分はこのときの事を以下のように書いている。


「そして最後のスメタナ。これはもう絶品。この曲をチェコフィルの実演で聴くのはこれが初めて。すべてにおいて「このカードをきれば世界中の誰にも肩をならばせない」というかんじの名演奏でしたし、こういう曲を持つオーケストラに正直自分は羨望の念を深く持たされたものでした。

終わってみれば現在のチェコフィルの好調ぶりと、その醍醐味が満喫できるような演奏会でした。このコンビ、確かに熱狂的な支持者を生むというタイプのそれではないでしょうが、これほど自分達の語法にのっとった高い水準の音楽を常時演奏できるコンビというのは世界的にもそうは多くないと思います。

チェコフィルにとって新しい黄金時代の到来を感じさせる、チェコフィルらしい見事な演奏会でした。」

https://blogs.yahoo.co.jp/orch1973/55125094.html

だから当然今年の来日公演も行く予定だった。

それなのに…。

チェコフィルにとってこれはあまりにも大きすぎる損失だ。

ビエロフラーヴェクも、
一度は手放したチェコフィルのポストに再度赴任、
その円熟期と相まって生涯最高の時を謳歌している、
その最中の出来事だ。

まだあと最低でも5年は、
指揮者もオケもその状態が維持できただけに、
この急な死は本人にとっても無念としか言いようがないだろう。

本当にかえすがえすも残念です。

それにしてもチェコの指揮者、
特にチェコフィルとの関係の深い指揮者は早く亡くなる人が多い。

アンチェル、ノイマン、コシュラーと、
みな指揮者としては早すぎる感がある、
そこに今回のビエロフラーヴェク。

ほんとうに残念です

横浜で予定されていた演奏会の告知をここにあげ
謹んで哀悼の意を表します。

171001-1-1.jpg
nice!(3)  コメント(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

スクロバチェフスキ氏が死去 [お悔み]

staˌɲiswaf skrɔvaˈt͡ʂɛfskʲi.jpg

指揮者のスタニスラフ・スクロバチェフスキ氏が21日、米ミネアポリスの病院で死去した。93歳。ロンドンの所属事務所が発表した。

 1923年、ポーランド(現ウクライナ西部)のリビウ生まれ。ポーランド各地で指揮者を務めた後に渡米。60~79年に現在のミネソタ管弦楽団で音楽監督、2007~10年には読売日本交響楽団の常任指揮者も務めた。近年は「世界最高齢の現役指揮者」としても知られ、最後の公演は昨年10月だった。(ニューヨーク=共同)

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG22H1R_S7A220C1CC0000/



来日中止の報を聞いて、
いつかはと覚悟はしていましたが…

氏なら100才まで元気に指揮台に立たれると思ってました。


謹んで哀悼の意を表します。


しかし昨年から、

ブーレーズ、アーノンクール、マリナー、プレートルと、

相次いで大御所の訃報が続いている。

世代交代が進んではいるが、
このあたりのなじみの深い指揮者が去られて行くのは、
やはりつらいものがあります。
nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽