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沼尻竜典指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団を聴く(4/20) [演奏会いろいろ]

沼尻.jpg

2024年4月20日(土)

横浜みなとみらいホール 14:00開演 

曲目:
ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(ノヴァーク版)

コンサートマスター / 石田泰尚


今年はブルックナー生誕200年ということで、とにかくあちこちでブルックナーが演奏される。

これは1974年の生誕150年の時には考えられないことで、この半世紀の間にブルックナーが日本のクラシックファンにしっかり根付いたということなのだろう。

というわけでいろいろな曲が演奏されているけど、不思議な事に関東地区では交響曲第5番がほとんど演奏されないという、ちょっと意外なことになっている。今回の沼尻さんと神奈川フィルの5番はそんな間隙を突いたかたちにもなったせいか、けっこういい入りとなっていた。

開演前に沼尻さんのプレトークがあった。そしてここでも高関さんの名前があがってきた。先月の下野さんでもそうだったけど、日本の指揮者にとって、ブルックナーをやるときは高関さんの存在っていったいどれだけのものなのでしょう。などと思っているうちに開演。


第一楽章

じつに淡々としたテンポではじまった。クナッパーツブッシュがウィーンフィルを指揮して録音した大昔の演奏とほぼ同じといえば、だいたいどういうテンポだったかお分かりかと。

ただ金管のコラールが出て来るところではどっしりと構えて響かせ、運動的になるところでは小気味よく音楽を流動させという具合に、その演奏は泰然自若というより緩急自在といった方がいいかもしれない。

そういう意味ではフルトヴェングラー的というかんじかもしれないけど、あれほど熱狂的なアッチェランドを疾風怒濤のごとくかけまくるといったことはしていない。ただ緩急自在に音楽を動かし、それによって表情付けや風景の変化を描いていくせいか、ひじょうに視覚的というか、劇場的ともいえる感じのする演奏で、細かい表情をつけながらの主題の現れ方の明確な表現のしかたのせいなど、何かワーグナーの楽劇のライトモティーフを聴いているかのような気さえしてしまった。

また沼尻さんの音のつくりがとにかく丁寧。そのせいかブルックナーの持つ素朴さだけでなく、彼の住んでいたウィーンという都会のもつ洗練された雰囲気までも映し出していたようにも感じられました。これは今回のブルックナーのひとつの特長でもありました。

第二楽章もほぼこのラインに沿った演奏で、弦のとても厚みのある美しい響きも、ブルックナーらしい素朴な宗教感だけでなく、目の覚めるような写実的ともいえる印象も強く、このためこれまたワーグナーのオペラの一場面を見ているかのような趣のあるものになっていました。

もっともそこには官能的とか、かつての飯守さんのようなタッチの強い厳しいものとは違い、もっと自然体かつクリアなものがあり、そういう意味ではあまりいい例えではないのですが、ワーグナー風であっても、カラヤンやフルトヴェングラーといったものより、テンシュテットやボールトに近いと言った方がいいのかもしれません。

ここまでだいたい40分。かなり正直濃密な時間。

このあとの二つの楽章もほぼこのやり方を踏襲しているのですが、楽章が進むにつれ音楽の起伏と熱量がどんどん上がっているのが感じられ、特に終楽章は弦の動きというか生命感が素晴らしく、ブルックナーがこれを書いてる時、オルガン演奏者としてかなり狂熱的な即興演奏をしていたそれが、この曲にいかに深く刻み込まれているかということを実に強く感じさせられるものがありました。

特にこの日の神奈川フィルの中低音の弦がかなり素晴らしく、コントラバスなどときおりパイプオルガンの足鍵盤を踏み込んでいるかのような響きを随所に聴かせており、これがこの日の演奏により強い説得力を与え、そして前にも書いた奏者としてのイメージを強く感じさせていたのかもしれません。

因みにこの日神奈川フィルの弦は16型。自分がかつてよく聴いていた頃は14型だったので、これもまたうまく作用していたのかもしれません。尚、トランペットとホルンもこの日一人ずつ増員していました。

そして最後のコーダ。とにかくこのときの熱量が異常なほどで、熱狂的ではないにもかかわらずかなり煽情的ともいえるそれが圧倒的なまでに最後堂々と響き渡ったのには本当に驚いてしまいました。

それだけに最後、その余韻のすべてを指揮の沼尻さんやオケの人達にしっかりと味わってほしかったのですが、とても残念なことになってしまいました。

指揮の沼尻さんが指揮台の上で背をこちらに向けながら、両手でそれを制していたため、このフライングの拍手と歓声は一時収まり、その後しばらくして沼尻さんが構えをゆっくり解き、そこであらためて万雷の拍手と相成りました。

ふつうなら指揮者が構えを解く前の拍手歓声はご法度であり、演奏者に対するリスペクトの致命的な欠如であり、恩を仇で返す愚行と断罪されてもいいくらい最低最悪の行為なのですが、とにかくこの日の演奏は最後尋常じゃない熱量と煽情感だったので、演奏者の方には申し訳ないけど、今日に限っては仕方なかったのかなあという気もしています。

とにかく最後ちとあれでしたけど、演奏についていえば沼尻さんの指揮は言う事なしで、それを描き切った神奈川フィルも見事な演奏でこたえた、じつに素晴らしい弩級の名演だったといえるでしょう。もちろんライブにつきもののキズが多少は散見されたものの、あの熱量と情報量の膨大な演奏にとってはじつに些細なことといってもいいと思います。

演奏時間は、楽章間のインターバルを含めて80分を少し切るくらいのものでした。

ところでブルックナーは交響曲を書く時、彼の敬愛するベートーヴェンの書いた交響曲の調を強く意識していたと言います。

今回の5番は変ロ長調。ベートーヴェンでいうと交響曲第4番と同じですが、交響曲以外ではピアノ三重奏曲第7番「大公」、ピアノソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」、弦楽四重奏曲第13番とその初稿では終楽章だった「大フーガ」という具合に、各ジャンルにおける重要な大曲が勢ぞろいしています。

特に終楽章で第九を想起させる部分やフーガが使われていることから、「大フーガ」はもちろん「ハンマークラヴィーア」でも終楽章でフーガが使われていること、そして゜この作品の作曲時期が、ベートーヴェン没後50年(1877)に近しい年であったことなどから、個人的にはこの曲が天国にいるベートーヴェンに捧げるために書いた曲と思っているのですが、この日の演奏は、もしワーグナーが彼もまた敬愛していたベートーヴェンに交響曲を捧げるとしたら、じつはこの交響曲近しいものを書いたのではないかと、前で書いた事も踏まえてこの日の演奏はそんなことも感じさせてくれる演奏でした。

ブルックナーとベートーヴェンだけでなく、そこにワーグナーもまた加えたような、じつに熱量だけでなく情報量も多かったこの日の演奏。できればもう一度聴いてみたかっただけに、別公演が無いのが本当に残念。

ところでこのコンビ、次は5月25日の「昭和のレトロクラシック」を来年無期限長期休館に入る県民ホールでやるとのこと。

今回とはまったく趣向が変わるものの、今回の演奏を聴くと、どんな曲を演奏しても期待大といったところでしょう。

以上で〆
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下野竜也指揮広島交響楽団を聴く(3/10) [演奏会いろいろ]

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2024年3月10日(日)

すみだトリフォニーホール 15:00開演 

曲目:
細川俊夫:セレモニー ~フルートとオーケストラのための
上野由恵(フルート)
ブルックナー:交響曲 第8番 ハ短調 WAB.108(ハース版)


先月の高関さん指揮の富士響に続くブルックナーの8番。

しかも同じハース版というだけでなく、第一楽章の五小節目に出て来るクラリネットの一くさりのソロまでカットしているというおまけつき。

これには理由があって、高関さんは以前からここの部分が腑に落ちず、閲覧できる限りのスコアを調べた結果、「これはブルックナーのものではない」ということで欠落させたのですが、下野さんの場合はチェリビダッケがこの部分をファゴットで、しかも音まで変えているのにビックリしその理由等を高関さんに聞き、これこれしかじかということを聞かれたあと、一度はチェリビダッケ式を取り入れたもののやはり違和感はぬぐい切れず、結果先月の高関さん同様、このクラリネットをカットしたというもの。

このことを下野さんは開演前に急遽ミニプレトークで話されたが、理由はこのことを説明するためというより、何も言わないでそのまま演奏してしまう、冒頭で「クラリネットがやらかした」とネットで拡散されクラリネット奏者の名誉に関わりかねないためだったとか。

そういえば高関さんも富士響の公演時に同様のものを行ったけど、理由の一つはやはりこれだったのだろう。ただもうひとつの理由として今回は故意に開演を5分遅らせる事で、第三楽章の終結部の静かな部分で携帯等の時報が鳴って興醒めさせられることを防ぐためということも話されていた。因みに今日の下野さんがそのことに触れなかったのは、この日は前半に細川さんの曲があるので、そういう危惧が無かったということがあったと思われます。

ということで始まったこの日の演奏会は「すみだ平和祈念音楽祭2024」+「広響創立60周年記念 東京公演 広島交響楽団 特別定期演奏会」+「下野竜也音楽監督ファイナル」の一環。


前半はまず細川さんの曲。

冒頭フルートのソロがまるで虎落笛(もがりぶえ)とも虚無僧の吹く尺八とも聴こえるような音で始まるが、これがなんとも虚無的とも自然的ともいえる感覚を聴かせる。これを聴いていたらデューク・エリントンが「極東組曲」における「Ad Lib on Nippon」で、クラリネットの音を尺八に準えた話をふと思い出してしまった。

オーケストラも武満さんやシベリウスの「テンペスト」を想起させる部分があり、2022年に初演された作品ではあるものの、難解な現代音楽というイメージはあまりなく、むしろ聴きやすい作品だった。

もっともこれはソロの上野さんはもちろんですが、下野さん指揮の広島響の力に追う所も大きかったと思います。おそらく昭和の頃のプロオケだったら雑音みたいに響くオケによって興醒めしていたことでしょう。

20分休憩の後後半のブルックナー。

今回のブルックナーはインテンポで淡々と押していく。このあたりは先月の富士響と共通しているけど、富士響はとにかく管楽器の音圧が凄く、全体的に「剛」のイメージが強いものだったが、今回の広島響はやや明るめの洗練された響きの弦が印象に残る「柔」のイメージが強いイメージで、それはあたかもベームとベルリンフィルとワルターとコロンビアの各々のモーツァルトくらい雰囲気は違うものだった。

それにしても下野さんのインテンポ感と、そこからくる安定感は無類のもので、ひょっとするとこの曲を初演したハンス・リヒターはこういう方向性の指揮をしていたのではと思われるほどだった。

劇的な効果を必要以上に求めず、とにかく外連味や誇張の無い、ある意味淡々といっていいくらい自然体に事を進めていく。

正直「つまらない」と思われてもいいというくらい愚直に音楽に対峙していくその姿勢を聴いていたら、かつて十代目柳家小三治師匠の言った言葉を思い出した。それは、

「落語は面白くやろうとしたらダメ。もともと落語は面白いものだから、そのままでやればいい」

今回の下野さんはまさにそれという感じの演奏だった。

そのため終楽章のもつ劇的なそれもじつにごく自然かつ過不足なくホールに鳴り響いていたのは当然の成り行きだったと言える。ある意味とても納得させられる演奏だった。

因みにこの日の演奏では、何故か今迄聴いてきた同曲の演奏の中でも飛びぬけてハープがとても印象深く聴こえた。第三楽章はもちろん第二楽章でもそれはかなり顕著だった。

この曲だけ何故ブルックナーは三台もハープを使おうとしたのか、そのときようやくその真意が分かったような気がするほど、とにかく強く印象に残る響きでした。もっともその真意はブルックナーではなく弟子の誰かのものかもしれませんが。

終演後大きな拍手が起きたが、その後舞台上で指揮者とオケが記念写真を撮っていたとか。これは今日が下野監督最後の「定期公演」ということなのだろう。因みに本当のラストは今月末の30日にある「ふるさとシンフォニー」コンサートで。広島響のサイトによると、

「音楽総監督・下野竜也と広島交響楽団が、今年度で閉校となる広島県立安芸高等学校を会場に地域の皆様に身近に音楽に触れていただくコンサートです。
安芸高等学校校歌を安芸高等学校音楽部OB・OGの皆さんも参加されて広響との共演によるオーケストラの演奏でお届けします」

というもの。

何かとても羨ましい気がします。このコンビを聴けたことに今は素直に感謝です。

因みにこの日のブルックナーは約85分。第三楽章は30分近いものだったが、まったくダレることない濃密なものでした。録音もされていたようです。

以上で〆
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エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団を聴く(2/22) [演奏会いろいろ]

都響20240222.jpg

2024年2月22日(木)

東京芸術劇場コンサートホール 14:00開演 

曲目:
マーラー:交響曲第10番 嬰へ長調(デリック・クック補筆版第3稿1版)


マーラーの10番というと、もう半世紀近く前に国内でもフォノグラムから発売になった、ウイン・モリス指揮ニュー・フィルハーモニアによる二枚組LPが自分にとっての全ての始まりであり、未だに強い刷り込みと大きな影響を与えている。

このため過去どのような演奏を聴いても、モリス盤の呪縛から抜けられない状態の為、モリス盤越しにその演奏を聴いてしまうことが延々と続き、ほとんどの演奏に納得したことがない状態が続いている。

その中にはかつてインバルがフランクフルト放送と録音したものも当然入っており、その印象もそれほど大きなものではなかった。

だがあの演奏は1992年録音ということで今から32年も前のもの。当時インバルは56歳、現在は88歳ということでどれくらい印象が変わるか、もしくは変わらないのかということを含めこの日の演奏会を聴いた。
(2014年7月の都響とのそれは、当時この曲を聴く精神状態ではなかったのでパスしています)


冒頭、弦が驚くほど堅い。というより室内楽的ともいえる研ぎ澄まされた感覚の響きといっていいのかもしれない。

よく「ふわっ」とはじまるそれとは明らかに違った。
また全体的にはインテンポだが、随所でテンポを落としじっくり聴かせるところがあるため、一本調子ということにはならない。それどころか第一楽章は過去のマーラー作品のエコーのようなものが聴こえてくるような、過去聴いたどのような演奏よりも表情豊かかつ情報量の多い音楽だった。

それはときには巨人や角笛交響曲の時期、ときにはウィーン時代に書かれた時期の作品のようなものが、まるで走馬灯のように次々とあらわれては消えて行くような、マーラー自身の回想録を聴いているかのような感さえあった。

また例の印象的なトランペットの叫びが聴こえる不協和音の全合奏が、まるで作曲時のマーラーのどす黒い情念のようなもののように響くため、この日のインバルの演奏は前述した事とあわせると、今までのどの演奏よりも過去と現在が激しく鮮烈に、ただし過剰な刺激には走ることなく描かれていたように感じられた。これは演奏の線が太いことも影響しているのかも。

その後の楽章もこの第一楽章で感じたそれが強く感じられた。

第二楽章のスケルツォが19世紀におけるマーラーの心象府警、第四楽章のスケルツォが20世紀におけるマーラーの心象風景のように感じられたのも、第一楽章のそれが影響していたからなのかもしれない。

演奏は第三楽章以降すべて続けて演奏された。

第四楽章における例の葬送の太鼓はひじょうに早めのテンポだったが、これまでのインバルのやり方を思うと早すぎると感じることはなかった。

それはインバルの指揮が真正面から膨大なあのすべての音楽をとらえきっていたことで、マーラーの思いの丈の多くの断片が細かく複雑に散りばめられながらも、あたかもあの巨大な宮沢賢治の「春と修羅」の序の冒頭のような趣さを呈していたように感じられたからなのかもしれない。あまりいい例えではないしはなはだ分かり辛い物言いで申し訳ありませんが。

そして終楽章。

どちらかというと辛口で厳しい雰囲気ではじまった。それは前の楽章かに続く太鼓の決然とした響きにも顕著にあらわれていた。前半に出て来るフルートのソロとそれを受け継ぐかのようにどこまでも美しく高揚していく弦の響きは、それだけにとどまらないものも強く感じられた。

だが最大の聴きものは第一楽章でも出てきたトランペットの叫びを伴う不協和音が静まり、それこそ音楽が止まるのではというほど遅く鎮静化していったその直後。

中低音の弦を軸にした強い響きからはじまるマーラー渾身の歌。

ここから先はある意味マーラーの思いの丈、そこには妻アルマに対する狂熱的な愛情表現と同時に、マーラー自身の自分への嘆息や慟哭のようなものが交錯し、それこそ「自分の人生はこんなものか」と吐き出すような音楽を美しい響きと歌に悲痛なほどのものを乗せて歌い上げた音楽にいつも感じさせられてしまうのですが、インバルはそんな自己を否定するようなマーラーに対し、「それでも自分はあなたのすべてを肯定する」と言わんばかりのありったけの力強い音楽をそこにぶつけていく。

神を信じようとして信じ切れず、最後の最後にはそんな自分さえ信じ切れないマーラーと一緒に泣くのではなく、あなたをすべて肯定するという指揮によってマーラーに応えようとしたインバルのその指揮に、自分はこの曲に強く琴線に触れる感銘と感動を受けた。

モリス盤のように泣けるマーラーではないが、力強く長く深い所にまで心に響く、そしてすべてが救われたようなマーラーであり、マーラーの生涯とその音楽を大団円に導くような演奏だった。

そのせいかこの最後の最後にあるグリッサンドの前あたりから終結部まで、まるでRシュトラウスの「英雄の生涯」の「英雄の隠遁と完成」の終結部とどこか重なるようにもこの日の演奏は聴こえた。

いつもならマーラーの無常を嘆く深いため息のように聴こえてしまうのですが。

とにかく作品を通し作曲家を肯定し尽くすと、ここまでいろいろと見える風景が変わるのかと、本当にいろいろと考えさせられるじつに見事な凄い演奏だった。

演奏終了後、水を打ったように会場は静まり返る。

インバルはそんな中思ったより早く棒を下ろし構えを解いたようにみえたけど、客席の方が一瞬それでも拍手するのを躊躇ったように感じられたのは、この演奏のそれを誰もが強く感じとっていたのだろう。

こういうタイプの感銘を受ける素晴らしいマーラーを、今後自分は聴く機会があるのだろうか。

そんなことを思わず考えてしまうインバルのこの日のマーラーだった。

因みに演奏時間。
都響側は当初74分と推測されていたようだけど実際は80分近い演奏時間となっていた。

最後に。

そして都響も凄い!

以上で〆
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久石譲指揮新日本フィルハーモニー交響楽団を聴く(2/16) [演奏会いろいろ]

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2024年2月16日(金)

すみだトリフォニーホール 14:00開演 

曲目:
J.S.バッハ : 管弦楽組曲第3番より第2曲「アリア」 (献奏)

久石譲:I Want to Talk to You - for string quartet, percussion and strings –
  (vn: 崔文洙、ビルマン聡平、va: 中恵菜、vc: 向井航)
モーツァルト:交響曲第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」


新日本フィルハーモニー交響楽団 桂冠名誉指揮者である小澤征爾氏がこの演奏会の十日前にお亡くなりになられた。

このため演奏会の最初にバッハのG線上のアリアが久石さんの指揮で献奏された。

事前に団員登場時の拍手は今回ご遠慮願いますという場内アナウンス。その後指揮者の久石さんか登場し小澤さん追悼の為献奏を行うが拍手はせずにしてほしいとマイクを通し場内に伝えられた。

そしてG線上のアリアが演奏。

それは淡々とした早めのテンポで瑞々しく、心地よいほどの軽快なピッツィカートも印象に残る清澄な響きの演奏だった。
この演奏後しばらくの間長い沈黙が続く。

場内が小澤さん追悼の深い祈りに包まれた後、一度指揮者と一部団員が退場。

その後舞台の準備を整えた後、あらためて一曲目演奏を行うための団員(献奏に出ていなかった団員の方々)とソロの四人、そして指揮者の久石さんが拍手に迎えられあらためて登場。

こうして演奏された一曲目。

四人のソロが各々自分の担当に該当するパートの前に立つという(チェロのみ協奏曲のように台の上で座っての演奏)編成。

今回演奏された久石さんの曲は2021年3月に初演された弦楽四重奏と弦楽合奏、それに打楽器を加えた曲で、全体を久石さんのベースであるミニマルミュージックで描かれている。

この曲が演奏された時、自分は小澤さんがお亡くなりになった日の、雪が積もり曇天と冷たい空に覆われた東京のあの日をなぜか思い出してしまった。これはこの曲の雰囲気だけでなく、献奏において自分の中に生じた気持ちが尾を引いていたのかもしれないが、聴いていてちょっと個人的にはしんみりとしてしまった。

途中ちょっとジブリ系の雰囲気をもった音楽が聴こえたりしてなかなか楽しめ、そしてどこか心に染みる曲でした。


続いてモーツァルト。

こちらは冒頭から引き締まり颯爽した音楽が素晴らしい。特に低音弦の威力がなかなかで、全体的にはちょっとアーノンクールとRCOの録音を思い出してしまうような演奏だったけど、演奏側のせいなのか聴き手側の自分のせいなのかは分からないが、最初の二つの楽章が前述した最初の二つの曲の雰囲気を気持ちが引きずってるように聴こえ、なんか今一つ気持ちが乗らないまま目の前を通りすぎていくような感じに聴こえてしまった。

ただ第三楽章以降、曲想のせいもあったのかもしれないけど、一気に吹っ切れたかのように音楽に勢いがつき、素晴らしく活気と推進力に富んだ演奏となっていった。ただこのあたり先鋭さより温かさのようなものの方がより強く出ていて、アーノンクールよりもワルターとNYPOやエルネスト・ブールあたりの演奏に近いように聴こえたのが面白かった。特に終楽章は秀逸。

尚、この日のオケの弦配置は、第一Vn、Va、Vc、第二Vn、Cb、という変則的な対抗配置だったが、ヴィオラが客席側に向いているせいか、中音域が豊かに聴こえていたように感じられた。

このあと二十分の休憩後、後半のストラヴィンスキー。

これがなかなかだった。

決して熱狂的だったり野性的だったりという煽情的な要素を前面に押し出したような感じではなく、全体をとてもクリアかつ見通し良く、それこそハイドンの交響曲のような確かな寸法と設計を施しているようにさえ感じられるほど、すべての音がしつに整然かつバランス良く聴こえてくる演奏だった。それはまさに「音そのもの」で勝負する演奏というべきか。

特に印象深かったのは、そのことでストラヴィンスキーがこの曲の随所に施した、ひとつの音型を執拗なまでに繰り返すという手法がかなり明確に聴きとれたこと。それは強調は繰り返すことで生まれるということを実践しているかのようにも感じられるし、また「春の祭典」初演から半世紀後に姿をみせる、久石さんの音楽のベースにもなっている「ミニマルミュージック」の先触れのようにすら感じられた。

これを久石さんが狙っていたかどうかは不明だけど、そのためかときおりスティーブ・ライヒの「18人の音楽家のための音楽」がイメージ的に何となく重なってしまうときもあり、今までにない感覚をとにかく聴いていて味わった。

この時、「春の祭典」初演から半世紀以上経った時期に録音された、ブーレーズ指揮クリーヴランド盤(旧盤)とメータ指揮ロサンゼルスフィル盤が発売当時じつに新鮮かつ大きな話題になった事を思い出した。

たしかにあそこまである種のインパクトの強い演奏ではないけど、初演から百年以上経ったにもかかわらずまるで古さを微塵も感じさせない、それはまるで古き時代の文化財をものの見事にリフレッシュさせたかのようなこの演奏に、ブーレーズやメータのそれと同じようなものを感じた。しかもそれでいてブーレーズやメータにはあまり感じられなかったどこか原点回帰的なものも感じさせるところもあるという、とにかく今までになくとても新鮮な演奏だった。

またこの演奏、確かに迫力や刺激、そしてそこからくる原始性にはそれほど重きは置いていないけど、すべての音がとにかくバランス良くクリアなことで、この曲のもつ巨大な情報量が一気に開陳されたかのような感じとなり、この曲のスケールの大きさをあらためて強く認識させられる演奏になっていた。

そういう意味では1986年にヘルベルト・ケーゲルが東フィルを指揮した同曲と似た方向性を感じさせられるが、今回の久石さんの方がよりクリアさに秀でていたように感じられた。(ケーゲルはケーゲルで、巨岩が目の前をゴロゴロと転がっていくような圧倒感を感じさせられましたが)

なので第二部最後の「生贄の踊り」における打楽器の強打や金管の咆哮も、曲の巨大性と膨大な熱量を余すことなく伝える事に徹したようなものとなっていた。

音楽は最後も見事に決まったが、そのせいか聴衆の反応も熱狂的というより感心し感銘を受けたというものに感じられた。

残念なことにこの日の演奏は収録等がされていなかったが、そのあたりも含めもう一度聴きかえし、いろいろと確認してみたいと強く思わせる演奏だった。

因みにこのコンビは秋にドヴォルザークとブラームスという超スタンダード、来年にはメシアンの大曲と、かなりふり幅の大きなプロが予定されている。今回の演奏を聴くとはたしてそれらはどのような演奏になるのだろうか。とても興味深いものがあります。


以上で〆。


※この日は満員御礼だったけど、一部空席、しかも一部には隣の人がその空席に荷物を置いてる座席もあった。

空席待ちの長蛇の列が開演前にあったことを思うと、しかたないのかもしれないけどこれには「なんとかならんか」という気持ちになった。

「荷物に曲聴かせるくらいなら並んでる人に聴かせてあげてよ」と思ったのははたして自分だけだろうか。

これだけは何とも残念な光景でした。

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高関健指揮富士山静岡交響楽団を聴く(2/6) [演奏会いろいろ]

富士山響.jpg

2024年2月6日(火)
東京オペラシティコンサートホール 19:00開演 

曲目:
ブルックナー/交響曲 第8番 ハ短調 (ハース校訂による原典版)


「2020年11月、いずれもNPO法人であった静岡交響楽団(創立1988年)と浜松フィルハーモニー管弦楽団(創立1998年)が合体し、2021年4月より一般財団法人「富士山静岡交響楽団」として県下全域に密着した演奏活動を継続、2022年4月より公益財団法人の認可を受け、財政基盤の強化と更なる演奏力の向上に向けて大きく前進を続けている」

今回聴いたオケの公式サイトにある楽団紹介の一部をあげたけど、この富士山静岡交響楽団は静岡県内唯一の常設プロオーケストラ。

ただ神奈川のお隣のオケということなのに自分は一度もこのオケを聴いた事がない。指揮の高関さんも実演は今回が初めてということで、結構前からじつはかなり楽しみにしていた演奏会でした。

開演5分前に高関さんから今回の演奏についてのいくつかこの曲に対する考えがプレトークで述べられた。

高関さんに言わせるとブルックナーの交響曲のいくつかには、作曲家本人の意思だけでなく弟子たちの少しでも多くの人達に「受ける」ようにしようという「善意」からきた強い意見が反映されたものがあるという。しかもそこには原典版といわれているものにも存在している。

今回演奏される第8交響曲もそのひとつで、1887年の第一稿こそ作曲者がすべてを書き上げたものの1890年の第二稿、つまり最近一般的に演奏されているノヴァーク版(第二稿)やハース版は、完成までに弟子たちの意見によりかなり手が入り、第四楽章に至っては形的に「完成」こそしているものの、内容的には自分の考えと弟子たちの意見が混然一体となり、そこに何の解決も見出さぬままの「未完成」状態であるという。

今回の演奏はそれらのことを踏まえてハース版を基にしているものの、ブルックナー以外の手による部分を極力排除し、ブルックナー自身のそれに近づけようという試みがあるという。

自分はこれを聞いた時、この日の演奏のテーマはブルックナーに対し「あなたの本音はどこにあるのか」ということを曲から聞き出すことのように感じた。

おかしな例えかもしれないが、それはシャーロック・ホームズや金田一耕助のような名探偵が、目の前にある多くのヒントからいかに事の真実に辿り着くかという、その推理と考察にひじょうに似ているように感じられた。

そうなると学究的なものに固執するというより、事実という多くの点と点を理論と感覚と経験をもとに結び付けていくことで、ひとつのドラマに仕上げていくという作業に近いものになるような気がしたのですがはたして。

結論からいうとひじょうに熱量の高く、劇的で強いブルックナーだった。

そういうとかつての飯守泰次郎さんのそれを想起させるけど、あれほど厳しいタッチで強烈に描いたという感はなく、金管などはかなりの咆哮を要求してはいるが、それ以外は鋭角的だったり刺激的だったりという響きはあまり感じられず、むしろ腰を据えた打っても叩いてもびくともしない安定感と音の厚みの方が強く印象に残る音作りになっていた。

また音の厚みというけど、重厚さとはまた違った趣で、第三楽章の冒頭など弦楽四重奏的ともいえる、線的な響きを軸とした横の流れの平行的ともいえる美しさが異常なほど印象に残ったりするところもあった。

プレトークでの高関さんの言葉にもあったように、確かにブルックナー以外の手の入った音にいろいろ施した結果、聴きなれない音や無くなった音などがいろいろとあったように聴こえたけど、聴いているとそんなことよりも、上にあげた音楽そのものの印象の方がより強く感じられるものとなっていた。

特にそれは後半二つの楽章により顕著にあらわれていたような気がする。

じつはこの日。第二楽章終了後オケがチューニングをし、その後第三楽章へという段取りだったのですが、何故かチューニングが終わっているタイミングで、一階席前方から後方扉に向かって退席する女性の方がいた。しかもその靴の音がなかなかしっかりとホール内に(決して大きな音ではなかったけど)が響いていたため指揮が始められない状況がおきた。

これは後半どう影響するのだろうかと危惧したが、むしろそれで火が付いたかのようにより集中度の高い音楽が鳴り響いた。

その第三楽章はヨッフムやチェリビダッケあたりの指揮だと神の声が天から降りてくるような趣になるけど、高関さんの場合は天に向かってブルックナーが渾身の祈りを捧げているような趣だった。

このため宗教性が後退したように感じられたかもしれないけど、モーツァルトのレクイエムやベートーヴェンのミサのような演奏会用宗教音楽的劇性がその分強く投影されたように感じられた。ムラヴィンスキーの同曲の録音における第三楽章でも似たような印象を受けたことをこのときふと思い出したが、そういえばあれもハース版だった。

終楽章も前のめりにならない怒涛の演奏という感じで、煽情的ではないものの、音の流れの強靭さのようなものがとにかく全面に出た演奏で、終演後間髪入れず拍手が起きたのも、ふつうなら余韻を楽しみたいだけに嫌な気持になるところ、この日は「もうこれはしかたない」と、ちょっと納得してしまうほど音楽が聴き手を強く巻き込む類の圧倒的な音楽がそこにはありました。

このため終演後はかなり熱狂的な反応が会場から湧き上がりましたが、これは指揮の高関さんだけでなくオケに対しても当然ありました。

この日初めて聴いた富士山静岡響。編成は14~12型の中間くらいでしたがオケのパワー、特に管楽器がなかなか強力で、ホール内にかなりの音響を形成していました。また弦楽器も表情豊かな音楽を奏でていて、第三楽章のシンバルが鳴る前後の強い思いの丈を感じさせる音楽には強い感銘を受けました。

それにしても四日間でブルックナーの大曲を三カ所三公演というのはなかなか凄いです。ただたいへんだったかもしけませんが、最終日のこの日はそれまで練習と二回の本番で、しっかり練り込まれた見事な演奏で高関さんの指揮に応えていたと思います。

またいつか機会があったら聴いてみたいオケです。

因みにこの日コンサートマスターは、ゲストソロコンマスの藤原浜雄さん。

最後に。

終演後何故かハース版を聴いたにもかかわらず、どこか作曲者自身の手でつくられた初稿版のような感覚がどこか付きまとう、それこそ初稿と二稿の間の、1.75稿みたいな感じが今でもずっとしています。

ブルックナーの音楽は弟子の手を離れれば離れるほど、今日のようにより思いの丈が前へ前へと出てくる熱いものなのかもしれませんし、そこには作曲家ブルックナーだけでなく、オルガンの即興演奏の大家として聴衆を熱狂させた、演奏者ブルックナーの奔放かつ狂熱的な姿がより明確に浮かび上がってくるのかもしれません。

逆に言えば弟子たちのそれはブルックナーのそれをより一般受けさせるために、ワーグナー的な聴きやすさ、もしくは耳の心地よさを織り込んだものといえるのかもしれませんが。これれはあくまでも自分の感覚的な物言いです。

そういう意味でも、とても貴重な体験もできた演奏会でした。

以上で〆


※追加

指揮の高関さん。

なんというのかひじょうにしっかりと音楽を計算し設計しているという印象を受けたのと同時に、熱狂のようなものもある程度計算してつくりだしているような感じを受けました。

もっともそれはスコアを読みつくせばそうなるということの表れともいえるかもしれませんが、そういう意味ではカラヤンやメンゲルベルクとちょっと近しい部分も感じられました。

近々演奏されるマーラーや「幻想交響曲」そして「英雄」やバルトークのオケコンもそれを思うとなかなかの聴きものになるような気がします。

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NHK交響楽団第1997回 定期公演を聴く。(11/25) [演奏会いろいろ]

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2023年11月25日(土)
NHKホール 18:00開演 

曲目:
スヴィリドフ:小三部作〇
プロコフィエフ:歌劇「戦争と平和」-「ワルツ」(第2場)〇
A. ルビンシテイン:歌劇「悪魔」のバレエ音楽-「少女たちの踊り」〇
グリンカ:歌劇「イワン・スサーニン」-「クラコーヴィアク」〇
リムスキー・コルサコフ:歌劇「雪娘」組曲〇

休憩

チャイコフスキー(フェドセーエフ編):バレエ組曲「眠りの森の美女」●

指揮 : 平石章人〇
指揮 : 湯川紘惠●


当初予定されていたフェドセーエフが体調不良で来日中止となった。

これでN響は二か月連続でAプロの指揮者が来日中止、10月は公演中止となり今月は指揮者を変えて決行となった。

自分は定期公演というものはオケが主役であって、指揮者が変わっても公演中止にしてはならないというのが持論。

なので決行は当然と自分は考えていたが、指揮者がNHK交響楽団の指揮研究員の若手二人になったことで一部に抗議の声が上がったとか。

ようするにあまりにも役不足ということなのだろうけど、今回のプロははたして名前がある指揮者ならうまくいくのかというとそれは難しいという気がする。

というのも今回のプロは、一見名曲&小曲コンサートにみえるけど前半の小曲はかなり渋い。

また後半のチャイコフスキーもフェドセーエフの考えがかなり投影された道筋で組まれている。

何故フェドセーエフがこのプロを考えたのかというのは本人にその真意を聞かねばわからないけど、個人的にはN響と今の自分の心象風景にあった音楽を共に奏で共に楽しもうという要素が、他の公演に比べてひじょうに大きかったと思っている。

というのも今回のそれはブルックナーやチャイコフスキーの交響曲をやってのそれとは違い、曲目の細かい選定によってコンサート全体をくみ上げてしまっているため、余計指揮者の思い入れと趣味性がプロの段階で投影されてしまっているため、指揮者は各々の曲の作曲家とフェドセーエフの両睨みを強いられ事になってしまっている。

そうなってくると指揮者はよほどフェドセーエフに強く心酔してるか、そうでなければ曲目の全面洗い直しの二者択一を強行するかを迫られる可能性がある。

ならばN響の言葉をそのまま借りると、

「2023年3月に行われたフェドセーエフ氏指揮で行った近畿・中国を巡るN響の公演で、2人は同氏から多くの教えを受けました。
また両名は今回の11月定期公演Aプログラムの準備段階において、フェドセーエフ氏が編んだ《バレエ組曲「眠りの森の美女」》の楽譜作成に携わるなど、同氏ならではの今回のロシア特集プログラムを音楽面で最も深く理解していることから、今回の代役にふさわしいと判断いたしました」

ということになるのは決して無理筋ではないと思う。

ただ正直、事務方にとってこれは追い詰められての博打という部分があったような気がする。

言い過ぎかもしれないがそれもこれも10月の定期を中止したツケが回ってきたともいえるけど、とにかく「フェドセーエフによるフェドセーエフの為のコンサート」を若手二人が指揮をするという、N響史上稀にみる公演が11月25日行われた。


この日自分がいたまわりはかなり空席が目立っていたが、これはもう仕方ないのかもしれない。

ハッキリ言ってしまうと、自分にとってフェドセーエフはかつてのムラヴィンスキーやオーマンディほど自分にとって占める割合はそう大きくはない。確かに1986年から十年程は毎回来日公演を聴いていたけど、ここ十年ほどは決してそうではない。

だからある程度冷静なのかもしれないけど、だからといってフェドセーエフが来日できなくて憔悴してしまった人の気持ちが分からないではない。

なのでこの空席をみても、決して何とも思わなかったことはなく、むしろフェドセーエフがここまで日本に愛されているのかと、そのことをあらためて強く感じれたさせられたものでした。

ぜひともまた元気になって来日し、2025年には来日50周年を盛大にお祝いしたいものです。

一方舞台上のオケの雰囲気はこれといった変化は感じられなかった。

が、ある意味指揮者だけでなくオケの技量そのものも推し量られるような部分も大きいだけに、演奏するだけなら難しくないかもしれないが、それだけに逆にごまかしのきかない剥き出し状態で聴かれる緊張というのもあったかもしれないけど、そのあたりはどうだったのでしょう。

前半、まず平石さん。緊張の一曲目はスヴィリドフの小三部作第一曲。

この最初の音が鳴った瞬間正直自分は安堵した。とにかくオケが見事にブレンドされた音を出していた。

ここだけならフェドセーエフが指揮しても大差ないと思われるくらい充実した音だった。

このあとじつに渋い曲がスヴィリドフ、プロコフィエフ、ルビンシュタインと続く。

正直指揮者の経験値と年季の入った腹芸的なものが必要な部分があるけど、平石さんは愚直なくら真正面から指揮していく。

グリンカあたりかつてフェドセーエフで聴いたそれと比べると、低音のリズムの表情づけなどが少しサッパリしてるような気がしたけど、曲全体をクリアにとらえている事を考えると、これはこれで有りという気がした。

前半が終わると大きな拍手。平石さんにとって初日いろいろと想うところはあったかもしれないが、とにかく後半に上手くつなげるような指揮だったと思う。

このあと20分の休憩。

じつは自分は前半の終わり頃から体調を崩してしまい、休憩時間にN響の係員の方にお手数をかけさせてしまったが、このときとても良心的な対応をしていただいたおかげで無事後半に臨む事ができました。

この場を借りましてあらためて係りの方に深く感謝いたします。

さて後半はそういうわけで万全な状態で聴いたわけではないけど、湯川さんの指揮はよく音楽の流れを活かした聴きやすい演奏だったように聴こえた。

ただこの曲は曲順をフェドセーエフが最終決定した段階で、解釈というかやる事がゴールに向かって一本道になっていたようなところもあるので、やることが決まっていてやりやすかった半面、フェドセーエフとの距離が近すぎると縛りの多い演奏になったような気もしたけどどうなのだろう。

けっこう深く考えると立ち位置の難しい部分があるので、最後は腹くくって気持ちもろとも指揮したのかもしれない。なんかそういう潔い感じがけっこうしたような気がした。

それにしてもこの「眠れる森」組曲。

最後の三曲が「コッペリア」のディヴェルティスマンを想起させられとてもユニーク。もっともこれは終曲との兼ね合いもあるのかもしれない。

この12曲ものの組曲。この公演だけではちともったいない気がするので、もう少しいろいろな所で演奏されてほしいものです。

終演後、これまた大きな拍手。また前半でもそうだけど、オケから指揮者にも盛大な拍手が贈られていた。

正直、いろいろ感じるところはあるけどそれは他ならぬ指揮者本人の方がよくわかっていると思う。ただ自分が想像していたものよりははるかにいい演奏だったのは嬉しかった。

あと今の若い世代は、本当に日本のオケが世界で通用する時代に育ったんだなあという気を今日も痛感。

とにかく音楽の作り方がクリア。これはそれをしっかり音にできる今の日本のオケがあればこそだ。

今回のこのお二方も、今の好調な日本のオケによってより大きく成長してほしいものです。そうすれば今回の博打を打ったN響の方達も大いに報われることでしょう。

以上で〆

追加※

この前この演奏会がテレビで放送されたが、フェドセーエフはこの「眠れる森の美女」組曲をラヴェルの「マ・メール・ロワ」組曲のようにしようと思っていたのではないかと感じた。考えてみれば「眠れる森」の作者ペローの童話集「Histoires ou contes du temps passé」と「マザーグース(Mother Goose)」は少な化ぬ関わり合いがあるので、ひょっとするとかもしれないと思いました。

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アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルハーモニー交響楽団を聴く。(11/17) [演奏会いろいろ]

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2023年11月16日(木)
東京オペラシティ コンサートホール 19:00開演 

曲目:
チャイコフスキー:幻想序曲『テンペスト』op.18
チャイコフスキー:ロココの主題による変奏曲 op.33
チャイコフスキー:幻想序曲『ハムレット』op.67a
チャイコフスキー:幻想序曲『ロメオとジュリエット』(第3稿)

チェロ:佐藤晴真
指揮:アンドレア・バッティストーニ


チャイコフスキー没後130年を記念しての演奏会だが、シェイクスピアの戯曲をまとめて出版した最初の作品集といわれている「ウィリアム・シェイクスピアの喜劇、史劇、悲劇」、通称「ファースト・フォリオ」が出版されて今年でちょうど四百年を記念しての演奏会ともいえるこの日のプロ。

前半はチャイコフスキーが国民楽派色の強かった時期の作品、後半はチャイコフスキーが西欧を旅行し急速に西欧の影響を強く受けていく時期の作品と色分けしている。

当然こちらもそのあたり意識して臨んだけど、演奏がそういうことはさておいてというくらいに、とにかくそういう要素を吹っ飛ばすくらい、特にシェイクスピアの三曲は強烈だった。

聴いていてチャイコフスキーというより、まるでイタリアオペラの序曲や間奏曲が演奏されているかのようで、歌うわ歌う、そして強烈な程の情熱の叩きつけと、シェイクスピアにまったく疎い自分が聴いていても(自分がシェイクスピアで読んだことがあるのは「ヘンリー四世」と「ウインザーの陽気な女房たち」のみ)、その原作の素晴らしさが伝わってくるように思われる演奏だった。

指揮のバッティストーニは以前聴いた時も曲から驚くほどのエネルギーを引き出していた。

当時自分はこう書いている。

「(前略)~ 前半の曲を聴いていて思ったのは、とにかく音がクリア。そして弦を中心にひじょうにブレンドされた響きが素晴らしく、弦の弱音や木管の表情付けなどかなり細かく神経が行き届いたものになっていました。

また音のクリアさとブレンド感がうまく合わさっていることと、弱音がひじょうにコントロールされているせいか、無理に大きな音を出さなくてもホール全体に強音がしっかり伸び伸びと響くので、大きな音になっても決してギスギスしたり濁ったりせず、バランスもしっかりとれていて、どの曲もとても安心して聴いていられました。

ただこう書いているとオケにあまり推進力が無いように感じられかもしれませんが、オケが弦を中心に表情豊かな流動感のようのものを強く感じさせ、それがとても自然な推進力を音楽に与えており、これがヴェルディやポンキエッリでかなり大きな武器になっていました ~(後略)」

これが今回のチャイコフスキーにもそのまま当てはまっていたが、今回の方がこの指揮者の魅力がより強く感じられた。なにしろ「ロメオ」も「テンペスト」もトランペットがブラームスの交響曲と同じ二人だったにもかかわらず、まるでリヒャルト・シュトラウスなみに豪奢に鳴りに鳴り捲ったのだからこれには正直驚いた。

この指揮者は表題系や曲がドラマ性を豊かに持ち合わせている方がより実力を発揮するタイプなのかもしれない。だとするとドラマという物に対し鋭く反応し実力を発揮する傾向がある東フィルとの相性がいいのは当然なのかも。

おそらくそれらが今回のチャイコフスキーでフルに発揮されたのだろう。

とにかく圧巻のチャイコフスキーによるシェイクスピアでした。

尚、前半演奏された「ロココ」も佐藤さんの熱演もあって、こちらはとても爽やかに聴くことができた。箸休めというとちょっと語弊があるかもしれないけど。


余談ですが、シェイクスピアは徳川幕府初代将軍徳川家康とほぼ同じ時代。それに対しチャイコフスキーは15代将軍徳川慶喜とほぼ同じ時代を生きている。そのことを思うと二百五十年以上の歳月をまたいでの二人の巨人の邂逅をこうして一晩で聴けたのはとても貴重な体験だったような気がします。

今後もまたこういう作家、もしくは画家や彫刻家との作曲家の邂逅をテーマとして取り上げてほしいものです。

最後に個人的なことをひとつ。

自分が初めてクラシックのコンサートに行ったのは、1973年11月17日に東京文化会館大ホールで行われた東京フィルハーモニー交響楽団 第164回定期演奏会だった、

指揮はハンス・レーヴライン、ゲストにバリトンの木村俊光氏を迎えてのワーグナーとその流れをくむ作曲家を扱ったもの。

つまり今回の演奏会はこの初めてのコンサートからちょうど50年目に当たっていた。しかもオケも奇しくもその時と同じ東フィル。

当時今より簡素極まりなかった文化会館で、あまり人の入りが芳しくはなかったもののあの頃からオペラに強かった東フィルが、ワーグナーのトリスタンの前奏曲と愛の死やシュトラウスの「ばらの騎士」組曲、特に後者でじつに素晴らしい演奏を聴かせてくれ、アンコールにもう一度「ばらの騎士」組曲の終結部のワルツをノリノリで聴かせてくれたことが今でも忘れられない。

あの1973年11月。

N響にはギュンター・ヴィッヒ、東響は音楽監督であり常任指揮者の秋山和慶さん、日フィルは同団初登場のスメターチェク、読響は名誉指揮者オッテルロー、都響は音楽プロデューサーとしても有名なオットー・ゲルデス、新日フィルは手塚幸紀さんが指揮をとっていた。

レーヴライン(1909~1992)が最後に東フィルの定期に登場したのが1980年、バッディストーニ(1987~)が初めて東フィルの定期に登場したのが2012年。

そんなことを思いながらの、ちょっと自分にとって感慨深いものもあったこの日の演奏会でした。

しかし東フィルはこの半世紀で別次元の進化を遂げたようです。

月日が経つのは早いですが、その間いかに頑張ってきたかが今の姿なのでしょう。

因みにこの日の演奏会は録音されていたようで楽しみです。


以上で〆

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井上道義指揮群馬交響楽団を聴く。(10/29) [演奏会いろいろ]

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2023年10月29日(日)
すみだトリフォニーホール 15:00開演 

曲目:
モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番 ハ短調 op.43

ピアノ:仲道郁代
指揮:井上道義

ショスタコーヴィチの交響曲第4番は、ヤノフスキ指揮N響の演奏をテレビで見て初めて知った曲で、それからラトルやオーマンディの全曲盤を聴き、いつか全曲を実演で聴きたいと思っていたがこの日までなかなか機会がなかった。

そんななかで聴いた井上さん指揮による4番は筆舌に尽くし難い超弩級の大名演だった。


この日はまず前半にモーツァルト。

天才の書いた曲の前に演奏するのは、これまた天才の曲しかないということなのだろうか、

このモーツァルトはじつに心地よく、そしてとても澄んだ響きによる真正直ともいえるもので、もしこの曲を初めて聴く人がいたら文句なくお薦めしたくなる演奏といっていいものだった。アンコールのブラームスの間奏曲も染みる演奏。

1月のベートーヴェンといい、この日のモーツァルトといい、仲道さんの演奏は本当に安心して聴いていられる。


ここで20分の休憩後16:00過ぎから後半となったけど、このホールはトイレが少ないのか男子のそれが大行列となっていって、自分はホール外に出て近くの商業施設のそれを使用させてもらった。


そして後半のショスタコーヴィチ。

自分はこれをマーラーの7番のように深いメッセージ性は無く、作曲者のインスピレーションと感情爆発にすべてをかけた作品であり、音の背後より鳴っている音そのものすべてで勝負したような作品と思っている。

確かに第三楽章にジダーノフ批判に対する感情が投影されているかもしれないけど、後の交響曲ほどそれは深刻になっていないような気がしている。それを本人が強く心に刻むのは、この曲を初演断念に追い込まれた練習時に起きたいろいろな出来事からなのかも。
(なので今の世界情勢におけるこの時期の日本で聴くというのは、じつは何とも言えないものを感じてしまうのですが…)

そういう意味ではこれは彼がむき出しの本音でありったけの思いの丈をぶちまけることができた最後の交響曲なのかもしれない。

そういう立ち位置の自分が聴いたこの日の井上さんの4番は、この膨大な情報量をもつ大曲のすみずみまで描き尽くし語り尽くすという、恐ろしく能弁でありながら、それでいてそれらをしっかりと掌握しているため、その音楽すべてが目の前で視覚的に繰り広げられているように錯覚させられるほど恐ろしいほどに分かり易く描かれているように感じられた。
(このためこの曲を初めて聴いた人の中にもこの曲をとっつきやすく感じられた方もいたのではないだろうか)

とにかくこれほどこの巨大な曲の全貌が見事に演奏された事って今迄あったのだろうかというくらいに正直驚がくしてしまった。

ただこれにはこの日の群響の素晴らしい演奏も大きかった。

じつによく透る弱音、圧倒的に響きながら決して汚くならない強音、対局から対局へ一気にとぶ鮮やかさ、そして展開部のフガートにおける気持ちの乱れをまったく感じさせない見事な弦など、あげていけばキリがない。

自分が前回群響をこのホールで聴いた時のドビュッシーの「海」の第二楽章も絶品だったけど、今回もまた群響の素晴らしさに感服してしまった。これだけのオケをもつ群馬の人達が本当に羨ましいと正直思ってしまった。

最後終楽章のチェレスタが意外と大きな音に聴こえたのは、こちらがオケの弱音に耳が馴染んでしまいすぎたためなのか、それともまた別の何か意味があるのかは分からないけど、これはこれでまだ何とも言えない余韻を感じさせられた。

終演後井上さんが構えを解かれた後に大きな拍手、そして井上さんが振り返ると嵐のような歓声と拍手が起きた。
(井上さんの構えを解くのが意外と早く感じたけど、かつての日比谷での同曲の録音を聴くとこれがふつうなのかも)

その後も元気そうに舞台上で振舞われてはいたしカーテンコールにも登場されていたが、ときおり少し歩く時に気を付けていたのがやはり心配になった。

開演前のプレトークでも坐骨神経痛の方を話されていたし、公式サイトでは痛み止めの薬を吞まれていたという。これ以上厳しい事にならないように今は願うばかりです。

最後に。

今回の井上さんのショスタコーヴィチ、かつて聴いたムラヴィンスキーの5番が全てを切り詰め結晶化する事で真髄に迫ろうとするのに対し、全てを描き尽くしパノラマ化する事で真髄に迫ろうとするような演奏だった。しかもそれはトスカニーニのベートーヴェンに対するフルトヴェングラーのベートーヴェンのように、ムラヴィンスキーのショスタコーヴィチとある意味対極にありながら、同じ高みに到達するほどのものだったように感じられた。

井上さん引退まであと一年と少し、そして群響とはこの日の公演で最後。

はたして今後このような途方もないこの曲の演奏に巡り合う事が自分にはあるのだろうか。

因みにマイクをかなりの数見かけたので録音されていたのかも。
だとしたらCD化が楽しみです。



余談

あとこの曲の第1楽章を聴いていると、ときおりヴァレーズの「アルカナ」を感じさせるところがある。「アルカナ」はこの曲が出来る十年ほど前にアメリカで初演された作品だけど、ショスタコーヴィチはこの曲をどこかで知っていたのだろうか。ちょっと考えにくいところではあるので、偶然の産物だとは思いますが。

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坂入健司郎指揮タクティカートオーケストラを聴く(10/11) [演奏会いろいろ]

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2023年10月11日(水)
東京芸術劇場 19:00開演 

曲目:
ブルックナー : Locus iste(この場所は神によって創られた)WAB23
ブルックナー: Os Justi(正しい者の口は知恵を語り)WAB30

合唱:Coro Oracion
指揮:伊藤心

ブルックナー:交響曲第9番 WAB109(新補筆完成版 =石原勇太郎版)

管弦楽:タクティカートオーケストラ
指揮:坂入健司郎


まず最初にブルックナーの合唱曲。

1869年と1879年の作品。最初に演奏されたWAB23はウィーンでブルックナーが初めて作曲したモテットで、ミサ曲第2番初演時に同曲と一緒に演奏することを前提に書かれた曲とのこと。

二曲でも十分程でしたが、実際はもっと長く聴いていたように感じられました。

しかしこうしてあらためてブルックナーのモテットを聴くと何とも心が洗われるような気がし、いつかブルックナーのモテットだけで演奏会が開かれたら行ってみたいと思ったものでした。

編成は60名程の無伴奏混声合唱。


この後、坂入さん、伊藤さん、石原さんによるトーク。
三人によるブルックナー愛に満ちたトークが約十分ちょっと、和気藹々と行われる。


その後15分の休憩の後交響曲へ。


第一から第三楽章迄がコールズ校訂版、そして第四楽章のみがこの日の為に石原勇太郎氏が制作した版というもの。

当然注目されるのは第四楽章だが、じつはそれ以外の楽章も予想以上の聴きものだった。

坂入さんの指揮はピリピリとした緊張感や禁欲的なものではなく、清澄なそれでいてロマンティシズムを感じさせる、詩的で流動感にみちたもので、無理なく自然な起伏としっかりとした息遣いのようなものが強く感じられる、そんなブルックナーだった。

第一楽章は三十分近くかかっているが実際はそんなにかかっているという感じはしなかった。おそらくそれは前述したことから無理なく音楽が流れていったことによるものなのだろう。

第二楽章も自然な感じの演奏で、そのため8月に聴いたダウスゴーのような抉り込む凄みのようなものはないが、中間部の音の運びがなんとも心地よい好演だった。

第三楽章はかなり深い呼吸を随所にとった悠揚とした演奏だったけど、深刻になりすぎることなくむしろ何か達観したかのような、不思議な静寂のようなものがベースに感じられる演奏だった。ただ虚無的なものからきた達観とはまた違う感覚で、これは何とも言葉で形容しようのない、そういう意味ではとても音楽的な第三楽章といえる演奏でした。

正直ここで終わっても充分説得力のある演奏だったのですが、もちろん今日はここでは終わらない。

ここからが注目の石原版第四楽章。

因みに前半あったトークタイムで、今回の第四楽章の新補筆完成版をつくった石原さんは、

① 現在残されている楽譜には最終的には捨てられたであろう音も混ざっている。
② 現行の多くの補筆版は学術的には正しいが今回はそれらとは違う。
③ 第四交響曲のつくりを参考にした。

という意味の事を話されていた。

自分はじつはこの考えに全く同意だった。

今迄の版を聴くと、先行する三つの楽章は「最終稿」のような感じなのに、補筆された終楽章を聴くとそこには「初稿」感が強く、それこそ、第三や第四、さらには第八交響曲を終楽章だけ初稿で聴いたような感がとにかくあった。

おそらくブルックナーは最初の三つの楽章は完成するまで複数回書き直していたのに、この第四楽章だけは一発目の書き込みしか残していなかったためではなかろうか。

これは自分の勝手な思い込みだけど、本人は亡くなる直前までじつは死がすぐそこまで来ている事に自覚や危機感がなく、あと何日かあれば最後までの目星がつくし、もし急にもうダメとなったら弟子たちに後は託そうなどと考え、今はちと疲れたから少し眠ってまた午後からと思い床についたら、そのまま永遠の眠りについてしまったのでは、という気がじつはしている。

なのでそういう状況で残されたそれは当然他の楽章のような推敲する時間などなく、結果初稿的なものが残され現在に至るというのが個人的な考えなのだが、石原さんはそのため今残されたものをすべて使うと、どこまで煮詰めても初稿以上の物にはならない、ならば最終稿になった時、捨てられそうなもの、変化させられたもの、付け加えられたもの、などを大胆に展開した方がより最終稿に近づき、結果他の三つの楽章との違和感もより小さくなる。

おそらくそういう流れが石原さんの今回の版のベースになっていたと思う。

聴いていて自分が異質感を感じていた部分にほとんど石原さんは手を入れていた。そっくり消えたもの大きく様相が変わったものなど、とにかくSMPCやキャラガン、さらにはシャラー等と比べてもかなり大胆なものに仕上がっていた。

もっとも正直にいうと変化や起伏が大きいがために流動感がやや弱く鳴った事、場所によって些か手数が多く感じられたり、音楽が理に適うように整理整頓されすぎたのか、ブルックナーらしい無駄な良さみたいなものまで無くなってしまったような事などが感じられたが、これは自分と石原さんのブルックナーに対する感覚や考え方、そして自分のこの楽章の他の版による刷り込みやそれによる慣れのためであって、決して正しい正しくないの問題ではない。

ただそれでも最後よく言われてる「アレルヤ」云々ではなく、この曲冒頭を最後にもってきたり、最後の最後を第五のような終わらせ方をしたのはかなり驚きというか刺激的で、さすがにこれ一度で慣れろというのは厳しいものがあった。

特に最後の第五のような終わらせ方が、おそらくこの日聴いていた多くの方が驚きと抵抗を感じていたように思われたけど、第六や第七も最後同様な終わらせ方をしてもけっこうしっくりしてしまう事を思うとこれとて絶対無理筋とはいえない。

とにかく全体的には極めて意欲的かつ挑戦的な問題作だったかもしれないけどこれはこれで有りという気がしたし、ブルックナーがその作品の数々で多くの人達に福音を与えてくれたことを思うと、多くの人達がこの楽章を完成させ、それをブルックナーに対する感謝の念として捧げる事は決して冒とくでも暴挙でもないと思う。

何しろブルックナー自身が愛する神様に捧げるために書いた曲なのだ。我々が神様になった愛する作曲家のために、その補筆完成版を捧げても罰が当たることなどないだろう。

と、そんなことを聴き終わってずっと考え帰路に着いたら、考え事をしすぎて会場限定のCDを申し込むのを忘れてしまうという大失態。

神様はそこまで面倒はみてくれなかったようです。

因みに今回の凡その演奏時間は

第一楽章 約27分
第二楽章 約11分
第三楽章 約26分
第四楽章 約19分

というものです。

最後に今回のタクティカートオーケストラは平均年齢二十代という若い団体。

演奏は最初、硬く潤いに欠けた伸びの無い音に些か先行きを心配したが、第一楽章途中から次第に音楽が熟し始め、二楽章以降はかなりしっかりとした伸びやかで力強い音楽を奏でていました。

おかしな表現になってしまいますが、霞かがった清澄感ともいえるような弦の響きが特になかなかで、かつて古い録音で聴いたアーベントロートの指揮した時のライプツィヒ放送響のような感じをときおり受けたりしました。

弦は対抗配置の14型(のように見えました)でしたが、音量や豊かさは充分出ていました。

来年もまたブルックナーをやるらしいのでとても楽しみですが、できれはCoro Oracionとの共演で第一ミサなど聴いてみたいものです。

きっとオケ合唱ともに聴き応えのある演奏となることでしょう。


以上で〆

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沖澤のどか指揮東京交響楽団を聴く(10/07) [演奏会いろいろ]

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2023年10月7日(土)
ミューザ川崎シンフォニーホール 14:00開演 

曲目:
ストラヴィンスキー:「プルチネッラ」 組曲
ストラヴィンスキー:詩篇交響曲♢*
ストラヴィンスキー:ペトルーシュカ (1947年版)*

ピアノ:長尾洋史*
合唱:NHK東京児童合唱団、合唱指揮:大谷研二♢
合唱:二期会合唱団、合唱指揮:宮松重紀♢

指揮:沖澤 のどか


ストラヴィンスキーの新古典派時代の作品と、彼の三大バレエのひとつが組み合わさったプロ。

ただペトルーシュカが1947年版ということを思うと、これもその括りに入っているのかもしれない。


最初の「プルチネッラ」。ちょっと乾いた響きか心地よくしかも格調の高さが際立つ。

特に第四曲の「タランテラ」の目が覚めるような弦、そして「ガヴォット」の変奏ごとに味わいを増すそれがとても印象に残った。

ここで弦楽五重奏パートを各奏者指揮者の前に弦楽五重奏団のように半円を描くように配置されていたが、特にこれによりコントラバスのソロがとても美しく聴こえてきたのが素晴らしかった。

続く「詩篇交響曲」。

舞台後方の2Pブロックに合唱団を配置していたが、児童合唱団が四十人程、男声合唱が二十数名程という人数。

たがこの合唱、とくに音圧が凄かった。

全体で六十人とはいえ、その半分以上は児童合唱ということで、そんな力押しはしないのでは?と思っていたがとんでもない。

とはいえ無理な力押しというのではなく、オケがじつにバランスよく響くことによって合唱の通り道みたいなスペースを空ける事で、合唱が無理なくその力を解放したかのように客席にダイレクトに伝わってきたという感じで、これが音圧の凄さみたいな感覚をこちらに与えたのだろう。

なので当然第一楽章でこれがいきなりものを言った。特に終盤はオケのクリアかつ高揚感の素晴らしい音と相まって、稀に見るような強い感銘を受けた。この時音楽を聴いていて本当に久しぶりに鳥肌が立った。凄い演奏だ。児童合唱団を含む合唱団全体の熱量と力感も秀逸。

その後のふたつの楽章も弱音での清澄な静寂感と神秘感の交錯する絶妙なもので、オケも合唱もものすごく血の通った音を集中力を切らさず出しているという感じで、正直これはこの日のハイライトになったといっていいくらいの名演だったし、これが後半のメインになってもまったくおかしくないほどのものだった。

終演後演奏者が退場する時、ふつうなら途中で鳴りやむ拍手が、この時は児童合唱のみなさんが退場するまで続いていたのが印象的で、沖澤さんの指揮はもちろんだけど、この日の児童合唱のみなさんが果たしたそれがいかに大きかったかを物語ったそれでもありました。

休憩20分。

そして後半の「ペトルーシュカ」。

これは前回の京響での演奏会でも感じられたことですが、寸法のはかり方上手いという感じの演奏で、その中には自分が熱くなるタイミングや度合い迄もが含まれているかのような、ちょっとメンゲルベルクとかLAPO時代のメータを思わせるようなものがあり、それがまたこの曲にはうまく作用しているように感じられた。

このペトルーシュカの1947年版を聴いていると、1911年に建てた家を1947年に時代の潮流に合わせたリフォームをしたかのように聴こえる演奏が多いけど、この日の沖澤さんもときおり1911年のような雰囲気は出すものの、やはり他の演奏と似たような感じのものとなっていた。

ただバレエ音楽というより表情の作り方が雄弁なせいか、Rシュトラウスの交響詩を聴いているような感じで、そういう意味ではバレエ向きではないような演奏とい感覚で聴いていた。

が、第四部の謝肉祭に入った途端一変した。

それまでの1911とか1947とかではなく、ストラヴィンスキーが1947年にいたアメリカの大都会のその当時の「今」がそこにあらわれたかのような雰囲気の演奏になり、「このバレエをこの時代のアメリカに置き換えてこの演奏で上演したら最高だろうなあ」と、さっきまでバレエに向かないと思っていたそれをいきなり恥も外聞もなく総撤回させられるほどの、じつに活き活きとした華やかな1940年代後半のアメリカのそれを感じさせ、しかもバレエ的な要素も強く押し出した演奏になっていった。ただそれはこの曲の持つそれをフルに活かした結果なのかもしれないけど、それはそれで指揮者の力のなせる業ということなのでしょう。

こちらの思い込みかもしれませんが。

(この後帰宅してからふと「そういえばバーンスタインの『オン・ザ・タウン』が初演されたのは1944年だったなあ。これの三年前か」と思ったりしました)

その後演奏が難しいといわれる「仮装した人々」から、ペトルーシュカの悲劇的な結末と不気味な終結に至るまでの聴かせ方も見事で、全体的には正攻法ではあるけど、いつもとかなり違う世界を感じさせられた演奏となっていました。

と、こう書いていくとちと難解な演奏をやっていたように感じられるかもしれませんが、演奏そのものはとても聴きやすく、むしろ聴き終わって一種の爽快感すらあるものとなっており、沖澤さんが各地高い評価と人気があるのは、こういう終わった後の快適な後味感のようなものもあるのかなと思ったりしたものでした。

次に沖澤さんが南関東に登場するのは来年1月のシティフィルとのシューマン&ラヴェルプロ。

こちらもまた素晴らしい演奏になることでしょう。

以上で〆

しかし沖澤さんの指揮を聴くと、無性にその曲を家に帰って聴きたくなる欲求に駆られる。ちょっとトゥルノフスキーにそういう意味では似たタイプの指揮者なのかも。
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