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佐村河内氏のドキュメント映画「FAKE」を観た。 [佐村河内事件]

去る6月4日(2016)から公開された、
佐村河内守氏のインタビューを軸につくられた、
森達也監督のドキュメンタリー映画「FAKE」をみた。

index_main.jpg
http://www.fakemovie.jp/
※公式サイト

上映時間107分ということだが、
ひじょうに旨くつくられていて飽きることなく、
それこそ一気にみせられてしまった。

途中ちょっと冗漫に感じられたところもあったが、
そのあたりのフォローもしっかりしていた。

ラストは森監督自身、
とても気に入っているといっていたが、
正直自分は思わず「クスっ」と笑ってしまった。


そして何でだかわからないけど、
観終わった後、
ちょっと楽しい気持ちになってしまった。

それは今でも理由は分からない。


映画は最初聴覚の異常の話がメインとなっているが、
とにかくこの話の根が意外と深い。

そしてマスコミを利用しての「FAKE」、
マスコミがつくる「FAKE」の現場というのを、
ここでちょっとみせてくれる。

それはマスコミの本質だから仕方が無い部分があるが、
見ている人によってはえげつないものに見えるだろう。


そして後半は、音楽についての話になってくる。

ここでいくつか今までの報道とはかなり違うものが提示されてくる。

確かに聴覚の部分でもそういうものが少なからずあったが、
こちらの方は

「じゃあ今まで報道されていたのは何?」、

という感じすらしてくる。

佐村河内氏に

「ならば音楽でつくった借りは音楽で返せ」と、

ここのところをみて思わず言いたくなってしまったほどだった。


それにしても「FAKE」というタイトルは秀逸だ。


この映画の描いている「FAKE」とは実際何なのか、
ひょっとするとこの映画そのものが「FAKE」ではないのか、
と観ていていろいろなことが覆されていくそれをみていると、
正直何もかも疑ってしまわなければダメという、
そんな感じがしてしまう。


因みに初日の舞台挨拶で森監督は、

「今、佐村河内守はマンションの一室でおそらく、うずくまっています。椅子に座ってぼーっとしていると思います。多分、これからも」と紹介。さらに「同時にそういう人は日本だけでもいっぱいいます。助けを求めている人。苦しんでいる人。もだえている人。僕らがちょっと気付けば助けられる人はいると思います。いろんな所で苦しんでいる人はいると思います」と、訴えかけるように語った。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160604-00000080-nksports-ent

それもこれも身から出たものということで、
正直同情はしないけど、
ただこれに随分いろいろと付加されたりしたものだという気がした。

因みに当時自分はこの事件のことをけっこう書いてるけど、
特に以下の項に詳しく意見を述べている。
http://orch.blog.so-net.ne.jp/2014-02-07
http://orch.blog.so-net.ne.jp/2014-02-11
http://orch.blog.so-net.ne.jp/2014-03-27

当時自分もひっかかった一人ではあったけど、
その後のマスコミや一部の評論家のそれには、
かなり疑問や不誠実なものを感じていた。

ただたがらといって今回の映画をみて

「俺の言ったことは正しいだろう」

という気はじつはぜんぜんしてこない。


というのもやはりこの映画で、
自分はいくつもの思い違いをしていたことを、
かなり痛感させられたからだ。


たしかにそれらの事も含めて、
この映画がとらえたものが果たしてほんとうに真実なのか、
それともタイトルそのもののFAKEなのかが、
自分の中でもまだ判然としてはいないものの、
それだけによりそういう事を言う気がしないのだ。


このへんは佐村河内氏に、
あの事件発覚時にマスコミの貼ったレッテル、
そしてそれを既成事実として強く自分の心に刷り込んだものが、
なかなか前提として強固にできあがり、
この映画を正面から受け取れないでいるという部分も影響している。

とにかくこの映画をみていて、
疑惑が晴れるどころか、
何が真実で何がFAKEでというより、
何を信じていいのか分からなくなっていくという、
とにかくそういう部分がとても大きく感じられた。

でも何故かそれでも最後笑ってしまった。

それは自分のそういうことへの足掻きに対する、
照れ隠しのあらわれなのかもしれませんが…。



ところでこの映画でもはっきり言われているが、
とにかく事の発端は佐村河内氏自身にある。

それは本人も映画の中で認めている。

そしてそのつけがとてつもなく大きく、
しかも他人の分まで払わされているのが現状なのだろうし、
それがこの人の犯したことへの罰なんだろうなあと、
自分は考えているし、それは間違ってはいないと思う。


あのとき騙されたといって憤慨していた人は百や千ではないのだから。

そこの所は動かし難い事実であり、
避けて通ってはいけないところだ。


だが正直いうと、
残念ながら肝心のそこのところが、
この映画ではかなり抜けていたように感じられた。


自らの今までの発言や行動の否は認めても、
それによって巻き込まれた人への思いというのは、
ついぞ明確に聞かれることはなかった。


もちろんだからといって、
これに便乗して詐欺まがいの行為をしたという、
そういうとんでもない指揮者のことまで、
これに乗じて佐村河内氏に負わせようとは思ってはいないが、
やはりこのあたりのことは、
もう少しなんとか描いてほしかった。

自分が上で

「音楽でつくった借りは音楽で返せ。」

と思ったのはそういう部分の欠落からくる苛立ちもあった。


とにかくこの映画はいろいろと思うところがあったけど、
映画としても個人的にはなかなか面白かった。


この事件でふりまわされた人、
そして特に佐村河内氏と直接この事件が起きる前に会った人たちには、
ぜひこの映画をみてほしい。

そしてそういう人たちの感想もぜひ聞いてみたいものです。


因みにこの映画、
事件の起きた2014年の秋から翌年の夏くらいまで
かなり長期にわたって撮影されている。

※実際は2015年冬(初め)から2016年冬(初め)と、FAKE様からコメントがありましたので、訂正をかけさせていただきます。ありがとうございました。



最後にこれだけはFAKEではないことをひとつ。


佐村河内家のネコがかわいい。


以上です。


公開している映画館が少ないのが惜しい。



(参考)

因みに佐村河内氏の耳の状態について以下のような記事が当時あった。
あのときテレビではあまり報道されていなかった部分といえると思います…、
というより声の大きな大手マスコミに、
かき消されマスクされた状態だったのかもしれませんし、
自分もかなりそちらの方向に流され、
気づかなかったんだなあということが分かりました。

弱いです。



公表した診断書の右48・8デシベル、左51・3デシベルの聴力は「中度難聴」の域にあり、普通の会話が聞き取りづらいとされる。都内の耳鼻咽喉科専門医によると「補聴器をつくるかどうかのギリギリのレベル」で、補聴器をつけることで問題なく会話できる人もいるという。

 また、「感音性難聴」とも診断されており「語音聴力検査」の最高明瞭度は右71%、左29%。「音は聞こえるが、言葉は結構不明瞭。“カニを食べた”が“ワニを食べた”と聞こえるような感じ」(同専門医)で、個々の症状によって聞こえ方は違ってくる。

 感音性難聴は、内耳や聴神経などの障害が原因で、一般的には医学的治療は難しいとされる。聴覚障害者支援をしている言語聴覚士の女性は「この程度の聴力がある子供たちは通常学級に通うことが多い」としながら「何デシベルという聴力だけで聞こえ方を診断するのは困難」と話した。

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/03/08/kiji/K20140308007731400.html
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ぜんぜん知らなかったネーメ・ヤルヴィの「HIROSHIMA」の中止。 [佐村河内事件]

(大事なことなので再度上にもってきました)

HIROSHIMA. Final Concert of the Season

このコンサート

May 14, 2015 at 7 pm — Estonia Concert Hall

4th concert of the NAUTIMUS series

Richard Strauss (1864–1949). “Japanische Festmusik” (“Japanese Festival Music”), Op. 84 (1940)
Sergey Prokofiev (1891–1953). Piano Concerto No. 2 in G minor, Op. 16 (1913)
Mamoru Samuragochi (1963) / Takashi Niigaki (1970). Symphony No. 1 “Hiroshima” (2003)

Tengku Ahmad Irfan (piano)
Estonian National Symphony Orchestra
Conductor NEEME JÄRVI


なんらかの理由で曲目も指揮者も以下のように変更になったもよう。
ただ4月上旬にはすでに変更になってたようです。

そろそろ演奏会も近いので久しぶりにのぞいてみたらこのありさまでした。
ぜんぜん知りませんでした。

http://www.erso.ee/?concert=hiroshima-final-concert-of-the-season&lang=en

FINAL CONCERT OF THE SEASON
May 14, 2015 at 7 pm — Estonia Concert Hall

4th concert of the NAUTIMUS series

Arvo Pärt (1935). Collage on B-A-C-H (1964)
Sergey Prokofiev (1891–1953). Piano Concerto No. 2 in G minor, Op. 16 (1913)
Igor Stravinsky ( 1882–1971). Divertimento from “The Fairy’s Kiss” (“Le baiser de la fée”; 1928/1950)
Pyotr Tchaikovsky (1840–1893). Suite No. 4 in G major “Mozartiana”, Op 61 (1887)

Tengku Irfan (piano)
Estonian National Symphony Orchestra
Conductor NIKOLAI ALEXEEV


しかし原因はなんでしょう。
オケのサイトにも理由は無いし。

未だ指揮者のサイトも、ensoの指揮者のページもそのままだし、
なんかかなりいろいろとあったような気がします。

ただそれ以上にヤルヴィ氏も面白くない目にあったのではと心配です。

これでもうこの曲は当分演奏されることは無いでしょうね。

残念です。


というか、金儲けさせてもらったんだから、
最後まで曲の面倒くらいみてやったらどうなんだ。

佐村河内!

自分と一緒に曲まで地獄に道連れにするんじゃねえよ。

…と思ってたらそれだけではないとのこと。

ただそうなると罵倒する対象がさらに増えてしまう。

酷い話だ。
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こういう公演があるそうです。[新垣隆コレクションwithフレンズ] <終了しました> [佐村河内事件]

aragaki.jpg

新垣隆コレクションwithフレンズ

日時:2014年6月7日(土)13:00開演(12:30開場)

会場:Hakuju Hall http://www.hakujuhall.jp/access/index.html
チケット:全自由席 一般:3,500円  小・中・高校生:2,000円 *未就学児のご入場はご遠慮下さい
主催:日墺文化協会  新垣隆演奏会実行委員会
チケット販売・お問合せ:日墺文化協会 TEL.03-3271-3966 FAX.03-3271-3967 E-mail: j-austria@mx2.ttcn.ne.jp


《プログラム》

バルトーク:ルーマニア民俗舞曲
新垣 隆 :《明るい街角で》
新垣 隆 :《見えないパッサカリア》
新垣 隆: 《無伴奏ウ゛ァイオリンソナタ》より
島崎藤村 大中寅二 :《椰子の実》
きむらゆういち 新垣 隆 :《ボクらはオコジョのおまわりさん》
新垣 隆 :《台湾民謡集》
ハイドン: ピアノ協奏曲 二長調



《出演者》

新垣 隆(作曲・ピアノ)
デュオ・プリマ(Vn. 礒 絵里子・神谷 未穂 ) 
アンサンブル ル クルーゼ(Fl. 岡林 拓也 Ob. 土屋 英晃 Cl. 澤本 璃菜 Hr. 井上 華 Fg. 鈴木 一成 )
Vc. 海野 幹雄
Vn. 川畠 成道
Sop. 佐藤 容子
M.Sop. 佐藤 寛子
うた 飯原 道代
デュオ・ロズウ゛ィー (Vn. 加藤惠理・小林玉紀 )
Vn. 宮本 恵 江副 麻琴
Vla. 若松 美緒
Vla. 三浦 克之
Vc. 金子 鈴太郎
Kb. 前田 芳彰
Vn. 大久保 美来
Cond. 新田 孝 


*曲目、出演者は変更になる場合もございますのでご了承下さい。
---------------------------------------------------------------------------------------

というものです。

興味のある方はぜひどうぞ。
ただそれにしてもすごいメンバーです。
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佐村河内事件に対して言う資格がないのにいいたい砲台します。 [佐村河内事件]

まあすでにいろいろと言ってるのになんだよと言われるかもしれないし、
あんたが言える立場かと言われるかもしれないけれど、
どうしても言いたいことがあるので今回は言わせもらう。

前回躊躇して言わなかった後悔というのもあるので、
いいたい砲台というタイトル通りここは言わせもらうことにします。

ただそれでも今回のはちと根が深いものがあります。
きついことも書いていきますので、かなりしんどいことになるかもしれません。
その点は最初におことわりしておきます。


正直言って佐村河内氏と新垣氏によってつくられた数々の曲、
それらに対して聴いていたほぼすべての人々は、
その曲のみを聴いていたという人はまずいないだろう。

かならずセットで佐村河内氏の「病」というドラマをセットにして聴いていたはずだ。

だがこれらは決しておかしなことではない。

多くの人たちがクラシック音楽を聴くとき、
そのCDを選ぶときや演奏会を選択するとき、
はたしてどれだけの人が曲のみで選択しているだろうか。

おそらくほとんどの人が、
演奏者や作曲家に対して、
各々が個人的にいろいろな情報や経験で蓄積された情報をもとに、
各種の要素をそれらに付加し選択しているはずだ。

チェコの指揮者のドヴォルザークなら間違いないとか、
戦争中の録音ならさぞやドラマティックだろうとか、
ショパンコンクールで優勝した人ならショパンは絶品だろうとか、
そんなふうにである。

つまり自分のそれらに対する「らしさ」を期待し選択しているということだ。

そしてそれらが裏切られる「ダメ」とか「不出来」のレッテルを貼る。
完全な自分だけの価値観と思い込みのみがその判定基準なのにです。

もちろんこんなことは日常茶飯事なので責められることではないし、、
どんな素晴らしい演奏でも聴いた人すべて絶賛するものなどありえない。

だがそれらと今回の佐村河内氏のそれとまったく関係ないと言えるだろうか。
その自分が受けた情報から「らしさ」を思いうかべ勝手にドラマを想像し、
そしてそのCDを買い演奏会に行くのとどこが違うだろうか。

情報の流された規模の大小や、
結果虚偽だったということはあったかもしれないけれど、
自分にはそこのところにあまり大きな差異を感じることができないでいる。

今回のそれはまさにそこのところが重要といえるだろう。

佐村河内氏はこれらのことを踏まえて、
それらの価値観や判定基準を各種のやり方で、
自分の思っている方向に向かせることを考え、
そしてそれを実行し実現させた。

事はそういう話なのではないだろうか。。

これがもし佐村河内氏が新垣氏とこれら作品を共作ということにして、
それらのことを最初からオープンにし、
自らの耳の事もあそこまではやらないものの、
その他のことはそのままあの形で行い演じていたら、
はたして今現在どうなっていたことだろう。

たしかにあそこまでの熱狂はなかったかもしれないが、
それでも週刊誌に暴露されることもなく、
未だにこれらのことが現在進行形で行われていたことだろう。

佐村河内氏にはたしかに耳の病気の疑惑等もあるが、
こと音楽に関しては、
やり方さえあそこまで度を越した虚偽を盛り込みさえしなければ、
多くの人たちもそれらの音楽で前向きな活力を得ていたことは間違いない。

それを思うと
果たして佐村河内氏の音楽に関してのそれは、
こと一部のやり過ぎ行為はともかくとして、
はたしてどこまで責めることができるのかということもある。

あの熱狂も聴き手の「らしさ」に対する勝手な思い込みが、
事をあそこまで大きくしてしまったことにつきるのではないだろうか。

佐村河内氏はそれこそ稀代の手品師で、
タネも仕掛けもあるやり方で私たちに大きな「夢」をみせ、
より強い「らしさ」を満足させていただけではなかったのか。

もちろんだからといって現実はよりどす黒いものがそこには存在し、
佐村河内氏は稀代の詐欺師となってしまったわけですが、
稀代の「手品師」とはじつは紙一重だったということも、
また言えないだろうかということだ。

このあたりは新興宗教におけるそれと似たものがあるが、
正直これはもう自己責任であり、
目が覚めたときにいかに自己のプライドを支えられるか、
そして金銭の損失を諦められるかという、
そこに対する個々のあがきだけが、
悲しい話ですが残されたといっていいのかもしれない。

残酷な言い方ですが最後はそんな結末だったといえるでしょう。


しかしそれにしても佐村河内氏のやり方は姑息だがうまかった。

曲をそのまま聴かせてしまえばごくふつうのいい曲だったかもしれないが、
それにいくつかの情報や要素を付加させることにより、
それをとんでもなく人を惹きつけるものにしてしまった。

しかもそこに人が音楽に託す要素のひとつである、
「未来への希望」や「立ち上がる力」などの高揚感を加えたのだから、
印象が悪かろうはずがない。

そしてさらに作曲家を「病」と闘う人間としてのドラマをつけ加えたのだから、
悪く言われる理由すらない。
ほとんど錦の御旗をたてて曲を掲げたようなものなのだ。

あのとき「病など関係ない、目の前にある曲だけで評価する」といった人が、
はたしてどれだけいただろう。

もちろんそういう人もいたことはいたが、
それもまた最後は己の価値観のみの判断であった人が多かったことを思うと、
じつは賞賛していた人とただ価値観が違ったというだけであって、
別に音楽を見抜く力があったとか、
そういう立派な話ではなかったのではないだろうか。


あたりまえだが音楽そのものには正義も悪もない、
すべては聴き手そのものにそれが届き、
その人の今まで培ってきた価値観や哲学と邂逅し、
そこで初めて音楽として人々に受け取られ、
そして自らの中でそれらが化学反応を起こすことにより、
各々にとっての正義(好き)や悪(嫌い)等となっていくのです。

ただそれだけのことなのです。

今回の佐村河内氏のそれは、
それが考え抜かれたものなのか、
それともただ単純に感覚的なものなのかはわかりませんが、
そういう音楽の本質というか宿命をうまくついていたこともまた事実。

たしかに金銭的もしくは精神的な損失を、
大なり小なり被った方も少なからずいると思いますが、
それが音楽のもつひとつの本質からきていることを思うと、、
悲しい物言いですがしかたのない話だと思います。

車はじつに便利なものですが事故を起こすリスクもある。
これと似たことだと自分は思います。

それを思うと今回の事件、
佐村河内氏が聴き手の「らしさ」に対する飽くなき渇望と、
音楽のもつ特長からくる長所と短所を、
じつに的確に利用したものともといえるでしょう。

しかもこれはクラシックだけに限らず、
音楽全体にも言える部分があるだけになおさらです。

これからは善意で行われるチャリティコンサートでさえ、
その裏を見透かさねばならないような、
そんなことが当たり前の世の中に、よりなっていくのかもしれません。


ところでここまで書いていて、
じつはさらにどうしても言いたいことがでてきましたので話題を強引に変えます。

それは佐村河内氏と新垣氏の、
この件の顛末に関する公表の仕方だ。

この二人のからんだ作品によって、
生きる力やこれからの希望を自分中に育んだ人たちが少ながらずいる、
この件に関しては上でもさんざん触れましたが、
それを思うと今回のあの公表の仕方は、
その人たちに対してあまりにも「人でなし」的な行為だったという気がします。

正直もう少し違うやり方があっただろうし、
もっと傷の浅い、よりそういう人たちに対して「やさしさ」を大事にした説明というのが、
自分にはもっと他にあっただろうという気がしてしかたがない。

これでは人としての思いやりがあまりにも無さすぎる。

あれでは騙されたということだけでなく、
自らの内側に生まれた希望や「力」というものまでをぶっ叩いた、
傷ついた人にさらにとどめをさしにいったようにすら感じられた。

二人で最後まで墓にもっていくという選択肢は無理としても、
多少の嘘はあってももっと聴いていた人を大切にしようとする、
そういう選択肢があのときほんとうになかったのだろうか。

自分が新垣氏の謝罪会見の時、
胸糞が悪くなった理由のひとつは、
そういう思いやりをまったく考えに入れなかった、
自分たちがすっきりして金が入ればいいという、
マスコミや作家のエゴのそれが強く感じられてしかたがなかったからだ。

しかもそういうことに疎い新垣氏を全面に立てての会見だっただけに、
余計そういうフォローなど無いものとなってしまった。
まあ多少お飾り程度には触れられていましたが…。

これでは錦の御旗をたてて曲を出し続けた佐村河内氏と、
彼らマスコミや作家とどんだけの違いがあるのだろうか。
いやこれまったく同じでしょう。
ただ攻守が単純に逆転しただけの話ですよ。

この謝罪会見で結局聴き手に対する救いというものが、
完全に断ち切られるということになった。
まさに彼の音楽に希望をもった人たちには、
さらになんとも情もへったくれもない結末とあいなってしまった。

だが話はここで終わらない。
なんと一部の評論家が自らの弁護に窮するあまり、
聴き手の多くを突き放すような発言に出たことだ。

つまり本来同じ被害者の側であるはずの評論家と聴き手の両者が、
まるで加害者と被害者のような関係になるようなことがおきてしまった。

これでは聴き手の多くが二次災害にあったようなものだ。

これをみたとき、
自分はかつてアメリカで激しい人種差別が起きていた時、
白人対黒人ではなく、黒人対黒人で差別問題が起きているという、
そういう悲惨な状況を知らさせたことを思い出した。

この原因が貧富や地位の差によって生じたことは言うまでもないだろう。
だがそれだけではなく出身地によってもそういうことがおきていたというのだ。

これは黒人の一部(一部というより多数ですが)が、
白人だけでなく一部の黒人からも差別されるという、
二重差別のような状況に陥っていたということを示している。

今回の一部評論家のしでかしたそれは、
まさにこの差別問題と同じような状況を形成してしまったのだ。
しかもおもいっきり上から目線爆発の者もそこにはいた。

しかもそれだけではなく、
評論家の間や演奏家の間、
いやそれらを含めた音楽関係者全体の間でもこういう形の亀裂が走っているという。
もちろんそれは表ざたにはなってはいないようですが…。

そしてもちろん聴き手の間にもそれはあるし、
聴き手と音楽関係者の間にもそれらは生じている。
特に聴き手と一部音楽評論家とのそれはかなり厳しいものがある。

確かに自分の弁護も大事かもしれないが、
起きてしまったことをとやかく塞ごうとするより、
傷ついた聴き手をなんとかサポートしようとする、
そういう考えというか良心というものが、
この人たちにはなかったのだろうか。

難しいお題目や後出しジャンケンは誰でもできるのですから、
発信力のある人が今の自分たちにできる最善のことを考えないで、
いったい今他に何をするの?ということなのです。

なぜ自分は騙されたのか、
それは何に起因しているのか、
そしてなぜこれだけの人たちが巻き込まれてしまったのか、
巻き込まれた本人がそれを精査し検証しないことには、
こういうことがいつかまた起きますよ。

自分はそういう意味で今回騙された評論家の多くが、
その責任の取り方を間違っていると思ってます。

反省だけではたんなる日記と自己満足であり、
傷ついた事故のプライドの修復行為に他なならない。

大事なのはそこをさらに踏み込み、どう前向きに対策をたてるかが、
これらの人たちの今なすべきことだと思いますが違うでしょうか。

(もちろんそういうことも含め真摯に悩みをうちあけている方もいます。)

そしてそれは後出しジャンケン的に、
そのとき騙された音楽関係者を糾弾している人たちにも言えることです。

責めるだけでそこから建設的な意見が出せないのなら、
それは騙された人たちと同じで、
けっきょくはやはり「躍らされている」ということにかわりはないのです。

ようするに手も足もでないで結果論のみに終始しているという、
己の無力と情けなさを露呈しているにすぎないのです。

マスコミは当初の予想通りこういうことのケアは何もなく、
すでに話は音楽とは関係のない耳の病と訴訟という、
もう音楽関係者やクラシック音楽愛好家のみなさんは、
「このあとはどうぞ勝手にやってくんなまし」の世界に行ってしまいました。

今、あのとき傷ついた聴き手や広島や震災の被災地の関係者の方は、
はっきりいってあの日以来何のフォローもないまま放置されまくってます。

じゃあどうすればいいかと言われればあれですし、
今から再度いろいろ言われても、
もういいという部分もあるかもしれませんが、
今回のことを精査し検証し、
そしてこれからをどうするのか、
そろそろみんなで考えてもいい時期に来ているのではないでしょうか。

ただ音楽で傷ついた人を癒すのもまた音楽であり、
音楽にはそういう力もあると自分は信じていますし、
だからこそ音楽はとてつもなく長い時代を生き続け、
世界で愛好されているのだと思います。

音楽にはたしかに最初に書いたように、
ひとつ間違うと脆い面ももってます。
ですがその脆さの原因がまた強さと鼓舞の源であることも事実。

このあたりを軸に何かいい考えと行動をぜひ起こしてほしいものです。

そうでなければこのままではちょっとあまりにも辛く救いの無い結末です。

音楽評論家や関係者がこのあとただ臭いものには蓋をし沈黙をまもるか、
もしくはただ自分の反省というきれいごとだけで終わらせるのか、
それは各々の勝手なのであまりとやかく言いませんが…、

ただ佐村河内氏に吐き散らされ傷つけられた現況を、
そのまま逃げたり知らんぷりしてるのなら、
もうそういう文筆業なんかやめちまえというのが自分の本音です。

あやまるだけなら自分の名前や看板にさらにキズがついても、
聴き手等のケアをするか、
もしくは今回の佐村河内氏のこのやり方を精査し検証しなければ、
また絶対同じことがおき、そしてまた同じように傷つく人たちが累々とすることでしょう。

鉄は熱いうちに叩けなのです!

ただもう正直かなり冷えてきてはいますが…、
でもなんか事を起こせ、事を抉れ、事を書け!、なのです。

違いますか?

正直、佐村河内氏に一本とられたままで悔しくないですかね。
せめて「第二の佐村河内」をうまないようにするためにも、
自分ならなんとかして一本とりかえしたいと思うものですが…。


以上で〆です。

脈絡の無い、ただただ長い文を読んでいただきありがとうございました。
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佐村河内氏の記者会見があった。 [佐村河内事件]

http://www.youtube.com/watch?v=wdIe0ZtSdUI
http://www.youtube.com/watch?v=8QnAVCOw-fU

YouTubeにupされているが、じつに二時間半以上にわたる長丁場。

正直感想はほとんどありません。

ただこの素顔で同じことやったらあれほどは売れなかったし、
ベートーヴェン云々ということもなかったろうなという気がした。

あと三善晃云々を言いだしたのにも驚いたが、
ここを新垣氏の時、聞いておかないからこうなるんだよなあと、
マスコミの無知にただ嘆息。

正直どっちが正しいかというのはわかりませんし、
両方ともじつは嘘をついている部分があるのかもしれないしと、
とにかくわからないことが多すぎる。

ふつうなら新垣氏の方が正しく、
佐村河内氏の方が虚偽ではないかと思われるだろうが、
かつて自分もそうだしマスコミの多くもそうだったが、
今(2014)から十年近く前の事件ですが、
構造計算書偽造問題における建設会社支店長(当時)が、
書類を偽装した建築士に保身のため罪をなすりつけられ逮捕。
それを鵜呑みにしたマスコミにリンチまがいに罪人扱いされ、
その後の人生を潰されるという事件があった。

あれを思い出すと正直自分には何ともいえないものがある。

あのときマスコミは支店長が逮捕されたときは大きく報道したのに対し、
じつはこの件に関しては冤罪でしたとなると、そのあたりはほとんど報道しなかった。
ようするに自分たちのあやまちを見て見ぬふりで霧散させるという、
極めて卑劣な行為をしたことがあった。

それは最近の学校での虐め殺人の犯人と何ら変わらないものだったし、
それ以来自分はマスコミを一切信じられなくなってしまった。
特にマスコミには正義はまったく存在しないということを強く印象づけられたものだった。

今回の佐村河内氏と新垣氏のそれをみていると、
そのときの支店長と建築士のそれが妙にダブってしかたがない、

そしてマスコミの態度もそのときのリンチ状態に近いものを感じた。
(今回はあのときほど殺気だってはいない気がするが…。)

受け手は自分が納得しやすい、
自分に心地よい情報を「正しい」と受けるきらいがある。
それは発信元が、まったく信用できないところだったとしてもである。

自分もそうだけど、
そういうことを精査せず、雰囲気に流されることがあまりにも多い。

福島原発の当初も極めて楽観的な情報がとびかっていた。
あの隠蔽体質満点の東京電力が情報の発信源であったにもかかわらずです。

それを思うと正直今回のそれも自分には即断できないものがある。

しかも多くが佐村河内氏と新垣氏の二人だけでの話が多すぎる。
すべては闇の中といったところだろうか。

ただひとついえるのは、
ここで軽率に判断をすれば第二の佐村河内事件、
第二の構造計算書偽造問題になりかねないものがある。

ここは今後訴訟がらみになりそうなので、
司法の最終判断まで結論は持ち越したいと思う。

ただそのときマスコミがどういう態度をとるか。
判決次第ではむしろそちらの方を注目したい。

あとひとつ。

これは今回のそれには関係ないが、
佐村河内氏のCDの解説を書いた人がものすごいことをいっていた。

「強引な『ストーリー』をまとわせないと、無名の作曲家を世に出すことは難しい時代。発売後の過熱ぶりには、私もへきえきした」
(毎日新聞)

これが本当だとしたらこれは酷い。
正直墓の中まで持っていくべき発言だったと思う。

これからこの人に解説を頼む所があるのだろうか。
謝罪しろとは言わないけど、
逃げや言い訳と思われるような発言は今は慎むべきだと思うよ。
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本当にこの時期不謹慎な発言とは思うけど… [佐村河内事件]

正直な話、
楽譜がかけないがイメージやコンセプトだけはある人にとって、
図形や指示書だけで自分だけの曲を書いてもらえるというのなら、
お金に余裕があればひとつやふたつ曲を書いてほしいと思った人が、
今回の事件発覚後かなりいたと自分は思う。

00003.jpg


上記のそれは佐村河内氏の出した、
例の「現代典礼」の指示書だが、
これなどみると尚更と思われたことだろう。

そのうちこういうことが
かつての貴族が作曲家に自らのために曲を書かせて演奏させたように、
けっこう個人の楽しみとして普及したりするかもしれないし、
作曲家にとって今より生活しやすい環境になるかもしれない。

場合によってはこういう種類の曲だけ集めて、
発表会やコンクールなどが開かれるかもしれない。

音楽雑誌の広告欄やネットのあちこちに、
「作曲します」みたいな広告などでるかもしれない。

まあそうなったらなったで、またいろいろと問題がでるかもしれませんし、
だからといって佐村河内氏の今回の件が許されるわけではありませんが、
なんかそういう事がいつかは一般化するような、
なんかそんな気が今回の事件でしてしまいました。

時期的にはなはだ不謹慎ではありますが、
ちょっとそんな気がしました。

もちろん自分も書いてほしいと思ってる一人ではあります。
ただし先立つものが…。
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佐村河内守さんの謝罪文 [佐村河内事件]

お詫び


今まで私の起こしたことについて深く謝罪したいと思いペンをとりました。

そして、すぐに説明が出来なくて申し訳ありませんでした。

弁護士さんにも本当のことが言えなくて、決断するのに時間がかかってしまったのです。

また、私のせいで、多くの方々に大変な迷惑をかけてしまったことも心からお詫びしたいと思っています。

私のCDを買った方々、応援して下さった方々、音楽関係の方々、私の噓によって番組を作った方々、本やインタビュー記事を出して下さった方々、大切な本番の直前に騒動に巻き込んでしまった高橋大輔選手、被爆者の人たち、被災者の人たち、障害者の人たち、広島市の関係者、友人、家族等、本当に多くの人たちを裏切り、傷つけてしまったことを、心から深くお詫びいたします。

私がついた噓は、新垣さんのことだけではありません。

もちろん、新垣さんとの関係については、新垣さんが話しておられるとおりです。他にも、私の音楽経歴についても、大体新垣さんが話されたとおりです。

今は、自分を偽って生きて来たことを深く恥じています。

そして、私の要求に18年もの間応じて来たことから、人生が狂ってしまった新垣さんに対しても、お詫びしたいと思います。

ただ、耳のことについては、新垣さんが、出会った初めころから聞こえていたはずだと言われていることは事実とちがいます。

耳が聞こえなくなって手話サークルに参加して、それから聴覚障害2級で手帳をもっていることはまちがいありません。

そして、耳が聞こえなくて、ひどい耳鳴りに悩まされ続けていたことは本当です。

しかし耳のことでは、最初弁護士さんにも正直にお話しできなかったので、そのことについて説明します。

実は最近になって、前よりは、少し耳が聞こえるようになっています。

三年前くらいから、耳元で、はっきり、ゆっくりしゃべってもらうと、こもってゆがむ感じはありますが言葉が聞き取れる時もあるまでに回復していました。但し、それはかなり体調に左右されるので、体調が悪い時は耳元ではっきりゆっくり話してもらっても聞き取れないこともあります。しかし2月4日に初めて弁護士さんに会った時は、今も全く聞こえないと言ってしまいました。

私としては、新垣さんに作曲してもらったことがバレることによって起きることで頭がいっぱいで、耳のことも聞かれたのですが、怖くて本当のことを言えませんでした。音楽的経歴のこともそうですが、他の噓のことを話すと、引き受けてもらえないと思ったのです。

もう、週刊文春が出る直前でしたから、すがる思いで相談していました。

新垣さんの会見自体は見ていませんでしたが、知人からも、耳のことが問題になっていると聞き、本当のことを言わなくてはと思い、2月7日に少し聞こえるようになっていると話しました。

ただ、この時は、人の言葉は聞き分けられないと説明したのですが、色々な情報が出ていると聞き、もうこれ以上は噓はつけないと思い、2月9日になって、耳のそばではっきり話してもらえば人の言葉も聞き分けられる時があることを告白しました。そうすると、弁護士さんからは、最初から聞こえていたのではないかとも質問されましたが、それだけはちがいます。

全然聞こえなくなって聴覚障害の認定を受けていたことと、3年前くらいまでは、聞こえていなかったことは、真実です。

もうこれ以上、噓に噓を重ねるのはやめると決めました。

ですので、今日は、ここに書いていることは、天地神明に誓って真実です。

耳のことについては、専門家によるきちんとした検査を受けてもいいです。その結果二級ではないと判定されたのなら手帳は必ずお返しいたします。

それと、いくつかご説明もさせて下さい。

もちろん、すべて真実をお話すると決めたので、この後に書くことに噓はありません。

まず、私と新垣さんとの関係は二人きりの秘密でした。

この噓がバレてしまうと、身の破滅になると恐れていたので、妻にも誰にも話していません。

妻も新垣さんのことは知っていますが、現代音楽の専門家なので作曲の仕方などを教えてもらっているとしか説明していませんでした。

また新垣さんへの指示書を書いたのは私です。

お義母さんに妻の筆跡だと言われていると聞いて驚きましたが、誤解です。

何かの一部を妻に書いてもらったことはあるかもしれませんが、そのくらいです。

私の実家にピアノがあったのは引っ越す前のことだったので、お義母さんの知らない時期のことです。

もちろん、お義母さんの言われるとおり、私のせいで、妻にも辛い思いをさせています。

妻が望むなら、離婚してもいいと思っています。

そのことは妻の判断に任せます。

それと私が被爆二世であることも真実です。

私の両親は共に広島で被爆しています。

二人とも被爆者手帳を持っておりますし、弁護士さんにも、写真で確認してもらっています。

私がやってきたことは売名行為と見られても仕方のないことです。

私自身、そういう気持ちが一方にあったことはまちがいありません。

しかし、ある時期からは被爆者や震災の被災者の人たち、障害を持った人たちの助けになればという気持ちもまちがいなくありました。

もちろん、今となってはそのような事を言っても信じてもらえないかもしれませんが、心の中には、いくつもの思いがあったことも確かなのです。

しかし、私の気持ちを信じてくださった方々に、もっと大きなショックを与えてしまったことになります。

本当に取り返しのつかないことをしてしまったと思っています。

もう一つ、弁護士さんにはじめにお願いしたことなのですが、私が新垣さんに作ってもらった楽曲は、私のことさえなければ、きっと後世に残るはずのものですし、今はこの楽曲が生かされ、少しでも周りの方々の被害が少なくなるようにしてもらいたいと思います。

最後になりますが、やっと気持ちが整理できましたので、近い内に必ず公の場で謝罪をさせていただきます。


本当に申し訳ありませんでした。


平成二六年 二月十一日

佐村河内 守

http://www.asahi.com/articles/ASG2D10R1G2CUCVL010.html


※今回自分の感想はとくにありません。
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佐村河内事件の残したもの。 [佐村河内事件]

佐村河内氏の事件についてはすでに自分いろいろと書いたし、
自分自身墓穴を掘った部分もあるのであれなのですが、
ここまでで気になったことだけ少し書いておきます。


ひとつはすでに佐村河内氏のゴーストライターをつとめた新垣氏のインタビュー。
http://www.youtube.com/watch?v=y3xBGIWij9o
がコンプリートな形でUPされているので、
すでに新垣氏側からみたこの件の全容のようなものは、
多くの方々に知られることとなった。

ここでのすべてが真実なのか、
それとも一部脚色されたものがあるかは自分には判別はつけられないし、
最後に会見場で流されたビデオの意図する部分も自分にはよくわからない。

ただ言えることは佐村河内氏側の代理人の発表によることも含めると、
新垣氏の発言のほとんどは佐村河内氏が認めていることから、
ほぼその一致をみている部分に関しては真実だといえることだろう。

多くのマスコミは佐村河内氏のこれからや障碍者疑惑、
そしてそれらに付随して今後起きるであろうドラマへの興味。
ネット人は佐村河内氏を賞賛した人々を見つけだし、
魔女狩りよろしく徹底的に叩き罵倒し責任追及をするだろう。


まあ自分も称賛したととられてもしかたない書き方だし、
少なくともある程度は評価していた人間なので、
その責は受けなければならないだろう。

ただひとつだけ言い訳をさせてもらえれば、
ほんとうはあと少し書くはずの事がじつはあったのだが、
あのとき自分は佐村河内氏が「身障者」であるということから、
そこのところを遠慮し控えてしまったのだ。

おそらく佐村河内氏はそういう動きなども計算に入れ、
それらを装っていたのかもしれないが
それを見破れなかった自分がそこはぬるかったというところだろう。


ところで今回の記者会見。
お気づきの方もいたかもしれないが、
じつはとても大事というか、
そこをはっきりさせないと今後もこういうことが後を絶たないという、
そういう事柄がじつは記者からまったく質問がでてこなかった。

それは「あなたのようなゴーストライターは他にもいるのですか」ということ。

つまり新垣氏がいとも簡単に受けてしまったこのことが、
この音楽界では比較的よく行われていることなのか、
それともここまでのそれは極めて特異なのか、
佐村河内氏のそれが特異すぎるとしたら、
どこまでは特異ではないのかということを、
じつは白日の下に晒す千載一遇の機会だったのだ。

だがこの件について誰も言わなかった。
佐村河内氏がまったく独自に編み出したことなのか、
それとも似たことは他にも大同小異で行われていたのか、
この件のきっかけともなった闇の部分がきれいにスルーされてしまったのだ。

これはじつに残念というか痛恨ともいうべきなのだが、
ここで酷い言い方をすれば、
こういうことはじつは当たり前というか必要悪みたいなもので、
音楽界だけでなくマスコミを含む他の分野でも、
じつに盛大に現在も行われているため誰もあえて触れなかった、
切ったものの自らもその刃先で致命的なキズを負いかねないという、
そういう部分が働いてのスルーだったのではないかと、
強く感じられたものだった。

そしてもうひとつ、
それはここにきていろいろとした発言がでていることに対して。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20140209-00032494/

例えば上のコメント。

指揮者の大野さんは発言する。

「何万枚の売り上げといった今日的な文句も、その歴史を前にすると、あまりにも表層的なものに思えます。いにしえの人々の魂にじっと耳を傾けながら、今に生き、未来を展望するのが、音楽家の役目だとすると、今回の出来事は、その根元に水がいかなくなったような状態といえばいいのでしょうか。自ら招いたクラシックの死ですね。」

名言だし、これは自分も心にいいきかせなければならない発言だ。

だが

「あのくらいのオーケストレーションは、新垣さんが語っているように、まじめに作曲を勉強した人なら、誰でも書ける。ちょっと音をキラキラさせて、感傷的な部分を入れて…。これは、新垣さんが本当に書きたい音楽、彼自身の語法とはまったく別物でしょう。それに、多くの人がついていってしまった」

これはいけない。

というより、それならなぜもっと早く声を出してくれなかったのかと、
自分はこの発言に悔しさの方を強く感じる。

これを発信した江川紹子 さんはクラシックをよく聴くという。

ここまで言うならあなたはなぜ声をそのとき出さなかったのかと、
自分はその理由をまずとにかく聞いてみたい。
これではあまりにも後だしジャンケンのように見えてならないからだ。

大野さんは自分が大好きな指揮者の一人だし、
江川さんだってしっかりしたジャーナリストなのだろう。
それを思うと「何故」と思わせては、
正直それはダメなのではないかという気がする。
ぜひこのあたりのことも明確に発言してほしいものです。

とにかく自分にとって今回の事件は、
ゴーストライターというものに対する実態と、
いくつかの後だしジャンケン発言というものが、
佐村河内事件そのもの以外では、
今後にけっこういろんな意味ですっきりしないものを残すような気がする。

特に二つ目の後だしジャンケン的発言の多くは、
いろんな意味で音楽界に陰険な確執を生むような気がしてならない。
別に大野さんも江川さんも、
「今、佐村河内氏を叩けば俺は勝ち組、正義は我にある。」
と思っての発言ではもちろんないだろう。

ただそういうひじょうに安直な発言も間違いなくいろいろと存在しているので、
これらのものと一緒にされてしまうのは、
善意で発言した人たちの真意とはまたかけ離れている部分があるため、
これまたこちらが予想もしない波紋を起こすかもしれない危険性がある。

マスコミはこういう部分は絶対フォローしないので、
自分はこの件が残したこのことについてとても心配なものを感じている。

以前賞賛していた人間は当時感性も理性もなかった。
現在糾弾している人間は当時勇気も根性もなかった。
…という問題ではないんですよね。

多くの音楽関係者や愛好家がこの事件による二次遭難にあわないためにも、
そして私たちがこの事件にいつまでも翻弄され続けないためにも、
残されたものに対しての対処をしっかりとやっていってほしいと願う次第です。

そしてそのメカニズムの解明も含めて…。
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胸糞が悪くなった記者会見 [佐村河内事件]

佐村河内氏のゴーストライター使用の件に端を発した一連の騒動は、
それをスクープした週刊文春の発売と、
佐村河内氏のゴーストライターをされていた新垣隆氏の「記者会見」で、
ひとつの大きな山を迎えた。

特に2月6日の午後二時半から一時間半の予定ではじまった、
その新垣氏の記者会見は、
いきなり「謝罪会見」と銘打たれた異様な雰囲気のものだった。
自分はこれをビデオに録画しそれをみたのですが、
みていてだんだんこの光景に強い不快感を感じるようになってしまいました。

箇条書きにすると以下の部分が特に生理的にダメだった。


まず舞台横で今回のスクープをものにした作家の神山展士が、
この状況をじつに満足気にみているその光景。
自分としてはこれからひとりの人生が目の前で潰れていくことを思うと、
その人のやったこと云々以前に、
ここまで焚き付けてここまで晒し者にする権利があなたにあるのかと、
正直とても疑問に思えてしかたなかった。

まあ自分の仕掛けた花火が花開いた瞬間なのだから、
そりゃ楽しくてしかたないのかもしれませんが…。


そしてゴーストライターの新垣氏が、これまた音楽だけの人だった。
これが今回の事態を大きくした要因のひとつなのだろうが、
それだけに今までは佐村河内氏のために音楽を書き、
今度は週刊文春と作家先生のつくりあげた舞台で謝罪をしたりと、
音楽だけの人をうまく利用して、よってたかって食い物にしやがってという、
そんな雰囲気がこれまた強く感じられた。

それだけに今回の新垣氏の発言もどこまでが本意なのかわかりづらく、
ひょっとしたら一部、誰かに吹き込まれた情報を話していた部分もあったのではと、
もう疑心暗鬼ここに極まったという感じにすらなってしまった。


特に高橋大輔さんにこのままでは迷惑になるからと事前発表したというが、
佐村河内氏の曲が高橋さんのそれに決まったのは昨年7月上旬だ。
本気で悩んだのなら、そこから七か月も引っ張るだろうか。
じつはこのあたりのことを自分がみていた記者からの質問には、
ついぞまったく誰も触れることはしなかった。

ただひとりだけそのあたりを指摘した人がいたが、
それもこの七か月の空白についての質問ではなかった。


そしてその記者群のインタビューの質も最低ランクだった。
というよりまず決まり事には従えといいたい。

主催者が「一人につき質問はひとつと」と最初に注意しているのに、
なんと最初にインタビューしたひとが、
いきなり「何点かお願いします」とやってしまった。

大手テレビ局の有名番組からの質問でのっけからこれかよと、もうあんぐり。
あとはもうなしくずしの無法地帯となってしまい、
司会の方が何度も「ひとり一問」をお願いするという有様。

まったくこれが日本の大手マスコミのマナーですかと、
情けなくて涙もでなかった。

最近は一部報道機関の偏向報道を激しく追及する言葉が多いが、
これではしかたないかと、報道機関のモラルにとにかく落胆。
こんなんで番組で視聴者にモラルを問うなよとほんとうに情けなかった。



他にもいろいろあるが、とにかく観てて気分が悪くなることこのうえなかった。
ただ自分は思い込みが激しいので、変に偏った読み流しをしないように、
その後あえて今回のインタビューを文字に起こしながらいろいろと読み返してみた。

ただそうすると今度はそれはそれでまたいろいろと不思議な感覚がそこから感じられた。

これだけの騒動になる告白をしながら、
今後も仲間とともに音楽活動を続けていきたいという新垣氏の発言。
そけは演奏者に対して謝罪の念だけでなく、
感謝の念を口にしたことからも音楽に生きた人という気がするが、
それらを考慮しても何度か謝罪をしながらも、
このあたりに妙になんか浮世離れした感覚を強く感じてしかたがなかった。


また取材陣のヴァイオリン奏者みっくんや、高橋大輔選手に関する発言はともかく、
それに対してあまりにも広島や311の被災者、さらには演奏者やCD購買者に対する、
不思議なほどの取材陣の稀薄な対応にも不可思議満載状態。

音楽云々よりも、障害者を偽っていたのではないかという方に
興味の主眼がじつは置かれていたのではないかという質問の質等々。

確かに音楽関係の雑誌等からの発言が無かったこともあり、
(そもそも来ていなかったのかもしれないが)
本当に途中から単なる身障詐欺疑惑に話がスライドしたような錯覚すら受けた。

所詮はクラシックで22万枚売ったという、この方面における疑惑や行為よりも、
有名人とのそれや、音楽と関係ない事柄の方がこの人たちにはメインなのだろう。

これがクラシック関係の人がいたら新垣氏に
「師である三善晃氏が亡くなったので告白しようと思ったのか」
というくらいの質問はでていただろう。

まあVTR終了後三十分くらいは続いたであろう終盤の記者会見で、
そのあたりも出たのかもしれないが、
だとしたらこのあたりは撤回させていただきます。

とにかくなんかとても不愉快かつ不快、
そして不可思議な印象が強く残った記者会見でした。

尚、このときの記者会見はTVで放送されなかった部分も含め以下にUPされています。
http://www.youtube.com/watch?v=y3xBGIWij9o

あと最後にこの日の会見で質問をされていたK社のKさん。お大事にしてください。

以上です。
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佐村河内さんの曲は別人作 [佐村河内事件]

広島市出身の被爆2世で、両耳が聞こえない作曲家として知られる佐村河内守さん(50)=横浜市在住=の代表作「交響曲第1番 HIROSHIMA」などの楽曲は、十数年前から特定の別の人物が作ったものだったと、佐村河内さんの代理人の弁護士が5日、明らかにした。

 フィギュアスケートの高橋大輔選手がソチ冬季五輪のショートプログラムで使用予定の楽曲「ヴァイオリンのためのソナチネ」も、佐村河内さんの作曲ではないといい、波紋が広がりそうだ。

 代理人は「(作曲した)人物の側にも作曲者として表に出づらい事情があると聞いており、佐村河内が自身を単独の作曲者と表記するようになった」と経緯を説明。佐村河内さんは、決して言い訳のできないことと、深く反省しているという。

 公式サイトなどによると、佐村河内さんは4歳からピアノを始め、作曲を独学。「バイオハザード」「鬼武者」などのゲーム音楽を手掛け注目を集めた。35歳で聴力を失った後も絶対音感を頼りに作曲を続けたという。

 被爆者への思いを込めたとされる「交響曲第1番」は、2008年に広島市で開かれた主要国(G8)下院議長会議(議長サミット)の記念コンサートで披露された。11年にCD化され、クラシック界では異例の10万枚以上の大ヒット。「現代のベートーベン」と呼ばれ、テレビや新聞でも取り上げられた。〔共同〕

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0403J_U4A200C1000000/

ああ、そうなんだ。

というのが偽らざる感想。自分はかつて以下のようなブログを書いている、

http://orch.blog.so-net.ne.jp/2013-04-27

今読んでみると、まあうまくその雰囲気にのまれたんだろうなという、
当時の自分の姿勢がみえてくる。

けっきょくは自分も思い込みが強いところがあるので、
そういう部分を曲に勝手に付加してドラマとして聴いてたんだなと、
音楽と正面から正対していなかった自分の姿勢というのにも多少反省している。

ただ言い訳するようであれなのですが、
まあそれにしてもよくそういうふうに聴こえるようにつくったなあというのと、
フルトヴェングラーの曲が聴きやすく聴こえるようになったのは事実なので、
理由は自分の思い込みがねつ造した幻影や幻想だったのかもしれないが、
その点は「幻を楽しませてくれた」ということで、
個人的には佐村河内さんをどうこう言う気はない。

そう感じた当時の自分にいちばんの責があるので、
そこのところまでどうこう言うのはさすがにどうなのよという気がする。

まあ自分にとってはけっこういい経験になりました。
とはいえ思い込みが強い性格なのでまた「踊らされる」かもしれませんが。

ただなんで本当の作曲者である新垣隆さんは今まで自分で名乗らなかったのか。
まあいいか…これ以上の推測は無しということで。

いやあいい恥かきました。面白いので過去のそれも削除しません。
真剣に読まれた方には申し訳ありませんでした。
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