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坂入健司郎指揮タクティカートオーケストラを聴く(10/11) [演奏会いろいろ]

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2023年10月11日(水)
東京芸術劇場 19:00開演 

曲目:
ブルックナー : Locus iste(この場所は神によって創られた)WAB23
ブルックナー: Os Justi(正しい者の口は知恵を語り)WAB30

合唱:Coro Oracion
指揮:伊藤心

ブルックナー:交響曲第9番 WAB109(新補筆完成版 =石原勇太郎版)

管弦楽:タクティカートオーケストラ
指揮:坂入健司郎


まず最初にブルックナーの合唱曲。

1869年と1879年の作品。最初に演奏されたWAB23はウィーンでブルックナーが初めて作曲したモテットで、ミサ曲第2番初演時に同曲と一緒に演奏することを前提に書かれた曲とのこと。

二曲でも十分程でしたが、実際はもっと長く聴いていたように感じられました。

しかしこうしてあらためてブルックナーのモテットを聴くと何とも心が洗われるような気がし、いつかブルックナーのモテットだけで演奏会が開かれたら行ってみたいと思ったものでした。

編成は60名程の無伴奏混声合唱。


この後、坂入さん、伊藤さん、石原さんによるトーク。
三人によるブルックナー愛に満ちたトークが約十分ちょっと、和気藹々と行われる。


その後15分の休憩の後交響曲へ。


第一から第三楽章迄がコールズ校訂版、そして第四楽章のみがこの日の為に石原勇太郎氏が制作した版というもの。

当然注目されるのは第四楽章だが、じつはそれ以外の楽章も予想以上の聴きものだった。

坂入さんの指揮はピリピリとした緊張感や禁欲的なものではなく、清澄なそれでいてロマンティシズムを感じさせる、詩的で流動感にみちたもので、無理なく自然な起伏としっかりとした息遣いのようなものが強く感じられる、そんなブルックナーだった。

第一楽章は三十分近くかかっているが実際はそんなにかかっているという感じはしなかった。おそらくそれは前述したことから無理なく音楽が流れていったことによるものなのだろう。

第二楽章も自然な感じの演奏で、そのため8月に聴いたダウスゴーのような抉り込む凄みのようなものはないが、中間部の音の運びがなんとも心地よい好演だった。

第三楽章はかなり深い呼吸を随所にとった悠揚とした演奏だったけど、深刻になりすぎることなくむしろ何か達観したかのような、不思議な静寂のようなものがベースに感じられる演奏だった。ただ虚無的なものからきた達観とはまた違う感覚で、これは何とも言葉で形容しようのない、そういう意味ではとても音楽的な第三楽章といえる演奏でした。

正直ここで終わっても充分説得力のある演奏だったのですが、もちろん今日はここでは終わらない。

ここからが注目の石原版第四楽章。

因みに前半あったトークタイムで、今回の第四楽章の新補筆完成版をつくった石原さんは、

① 現在残されている楽譜には最終的には捨てられたであろう音も混ざっている。
② 現行の多くの補筆版は学術的には正しいが今回はそれらとは違う。
③ 第四交響曲のつくりを参考にした。

という意味の事を話されていた。

自分はじつはこの考えに全く同意だった。

今迄の版を聴くと、先行する三つの楽章は「最終稿」のような感じなのに、補筆された終楽章を聴くとそこには「初稿」感が強く、それこそ、第三や第四、さらには第八交響曲を終楽章だけ初稿で聴いたような感がとにかくあった。

おそらくブルックナーは最初の三つの楽章は完成するまで複数回書き直していたのに、この第四楽章だけは一発目の書き込みしか残していなかったためではなかろうか。

これは自分の勝手な思い込みだけど、本人は亡くなる直前までじつは死がすぐそこまで来ている事に自覚や危機感がなく、あと何日かあれば最後までの目星がつくし、もし急にもうダメとなったら弟子たちに後は託そうなどと考え、今はちと疲れたから少し眠ってまた午後からと思い床についたら、そのまま永遠の眠りについてしまったのでは、という気がじつはしている。

なのでそういう状況で残されたそれは当然他の楽章のような推敲する時間などなく、結果初稿的なものが残され現在に至るというのが個人的な考えなのだが、石原さんはそのため今残されたものをすべて使うと、どこまで煮詰めても初稿以上の物にはならない、ならば最終稿になった時、捨てられそうなもの、変化させられたもの、付け加えられたもの、などを大胆に展開した方がより最終稿に近づき、結果他の三つの楽章との違和感もより小さくなる。

おそらくそういう流れが石原さんの今回の版のベースになっていたと思う。

聴いていて自分が異質感を感じていた部分にほとんど石原さんは手を入れていた。そっくり消えたもの大きく様相が変わったものなど、とにかくSMPCやキャラガン、さらにはシャラー等と比べてもかなり大胆なものに仕上がっていた。

もっとも正直にいうと変化や起伏が大きいがために流動感がやや弱く鳴った事、場所によって些か手数が多く感じられたり、音楽が理に適うように整理整頓されすぎたのか、ブルックナーらしい無駄な良さみたいなものまで無くなってしまったような事などが感じられたが、これは自分と石原さんのブルックナーに対する感覚や考え方、そして自分のこの楽章の他の版による刷り込みやそれによる慣れのためであって、決して正しい正しくないの問題ではない。

ただそれでも最後よく言われてる「アレルヤ」云々ではなく、この曲冒頭を最後にもってきたり、最後の最後を第五のような終わらせ方をしたのはかなり驚きというか刺激的で、さすがにこれ一度で慣れろというのは厳しいものがあった。

特に最後の第五のような終わらせ方が、おそらくこの日聴いていた多くの方が驚きと抵抗を感じていたように思われたけど、第六や第七も最後同様な終わらせ方をしてもけっこうしっくりしてしまう事を思うとこれとて絶対無理筋とはいえない。

とにかく全体的には極めて意欲的かつ挑戦的な問題作だったかもしれないけどこれはこれで有りという気がしたし、ブルックナーがその作品の数々で多くの人達に福音を与えてくれたことを思うと、多くの人達がこの楽章を完成させ、それをブルックナーに対する感謝の念として捧げる事は決して冒とくでも暴挙でもないと思う。

何しろブルックナー自身が愛する神様に捧げるために書いた曲なのだ。我々が神様になった愛する作曲家のために、その補筆完成版を捧げても罰が当たることなどないだろう。

と、そんなことを聴き終わってずっと考え帰路に着いたら、考え事をしすぎて会場限定のCDを申し込むのを忘れてしまうという大失態。

神様はそこまで面倒はみてくれなかったようです。

因みに今回の凡その演奏時間は

第一楽章 約27分
第二楽章 約11分
第三楽章 約26分
第四楽章 約19分

というものです。

最後に今回のタクティカートオーケストラは平均年齢二十代という若い団体。

演奏は最初、硬く潤いに欠けた伸びの無い音に些か先行きを心配したが、第一楽章途中から次第に音楽が熟し始め、二楽章以降はかなりしっかりとした伸びやかで力強い音楽を奏でていました。

おかしな表現になってしまいますが、霞かがった清澄感ともいえるような弦の響きが特になかなかで、かつて古い録音で聴いたアーベントロートの指揮した時のライプツィヒ放送響のような感じをときおり受けたりしました。

弦は対抗配置の14型(のように見えました)でしたが、音量や豊かさは充分出ていました。

来年もまたブルックナーをやるらしいのでとても楽しみですが、できれはCoro Oracionとの共演で第一ミサなど聴いてみたいものです。

きっとオケ合唱ともに聴き応えのある演奏となることでしょう。


以上で〆

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コメント 2

サンフランシスコ人

生誕200周年の2024年ではなく、今演奏する理由はあるのでしょうか?
by サンフランシスコ人 (2023-10-13 01:49) 

阿伊沢萬

来年にかけてもっといろいろやるのでその最初のようです。
by 阿伊沢萬 (2023-10-30 22:20) 

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