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トーマス・ダウスゴー指揮PMFオーケストラを聴く(08/01) [演奏会いろいろ]

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2023年8月1日(火)
サントリー・ホール 19:00開演 

曲目:
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64
ブルックナー:交響曲 第9番 ニ短調(第4楽章補筆完成版)
※コールス校訂版(オーレル及びノヴァーク校訂版による。2000年))
※サマーレ、フィリップス、コールス、マッツーカによる補筆完成版 (2012年) [第四楽章]

ヴァイオリン:金川真弓
指揮:トーマス・ダウスゴー


ブルックナーの第九。

その四楽章版を聴くのはこれで二度目。前回は2001年のヘレヴェッヘ指揮によるもの。

この間いろいろと四楽章版の音盤は発売になったが、日本での演奏会はほんとうに数えるほどしかなく、サントリー・ホールではひょっとすると今回が初めてかもという状況。

自分はモーツァルトのレクイエムの全曲演奏が有りなら、ブルックナーの第九の四楽章版も有りという立ち位置なので、今回のそれも何の抵抗もないしむしろ大歓迎。なので今回の演奏会は本当に楽しみだった。

それだけにこの日突然の大雨&落雷大会には会場に行けるのかとちと心配になったほどでした。


まず最初のメンデルスゾーン。

聴いていて「この曲、北欧絡みの作品だったっけ?」と思うくらい、ソロもオケもとにかくタッチが強く底力も尋常じゃなく感じられ、しかも冷ややかな感触も随所に有るという、とにかく自分がこの曲にイメージしている哀愁感と小粋な詩的感に満ちた作品というそれとはかなり違う。

確かに「スコットランド交響曲」に近い雰囲気もあるので、決して北欧と無関係という感じではないのかもしれないけど、ここまでシベリウス風味を感じさせる演奏というのはあまり聴いた記憶が無い。

ただこの北欧風の演奏がじつに上手くハマっていて、今年のこのクソ暑い猛暑には最高に涼感溢れるものとなっていて、じつに聴いていて心地よかった。

この曲の印象に新しいものが付け加えられたようで、じつに有難い演奏でした。

この後金川さんのソロで雰囲気たっぷりの「サマータイム」がアンコール。
(ふとこのとき1987年にこのホールで聴いたキース・ジャレットの同曲の演奏を思い出した。金川さんの今回のそれとは全然違う雰囲気の演奏ではありましたが)

しかし金川さんのソロはメンデルスゾーンもそうだけど、ものすごく強くしなるような歌い方をする。この曲が北欧風というかシベリウス風に聴こえたこれが要因なのだろうか。

それにしてもこの日のPMFオケ。

弦が12-10-10-8-4の通常配置なもののかなり中低音が力強い。二日前の山響といい、人数が音楽の強さを決めるものではないことを、あたりまえではあるけどあらためて再認識させられる。そしてこれは後半のブルックナーでものすごく大きな武器となった。
(因みに後半の弦は、チェロを除き一人ずつ増員されたように見えた)


休憩時間20分の後後半のブルックナー。ちょうど20時に演奏がはじまる。


後半のブルックナー。

一言で言ってしまえば「すべてに決着をつけにきた」ブルックナーというのだろうか。

とにかく激しいし音楽への切り込みと抉り込みが半端じゃない。

オケ全体を鳴らしに鳴らす。金管の咆哮といいティンパニの響きといい、フルトヴェングラーやワルターのライブを随所で想起させられるくらいに壮絶だけど、あれよりも前半のメンデルスゾーンでも感じられた清涼感を透徹感に置き換えたようなところある分、もう少し結晶化したような印象がある。

もっともだからといって必要以上に硬質に傾いた演奏ではなく、このあたりが指揮者のダウスゴーの強さと柔軟さを備えた絶妙なバランス感覚がものを言ったという気がした。

これがより強烈に発揮されたのが第二楽章で、弦に弓をべったりつけたような感じで強靭に刻みまくったスケルツォは、まるで旧ソ連オケがお国物を演奏しているかの如くで、ここまでやってしまった演奏というのを自分はあまり記憶にない。これに対しトリオは歌うわ歌うわで、これまた対象が鮮烈だった。

続く第三楽章もまた先行した二つの楽章でのそれを踏まえた感じの演奏で、告別的というより辛口で孤高的ともいえる厳しさを強く押し出した演奏になっていた。そしてここでの充実感もまた素晴らしく、通常のようにここで終わっても何の異論もでないレベルの音楽の閉じ方だった。
(じっさいこの楽章が終わった時けっこう会場を去られた方がいたけど、それはこの時点で21時近かったということが大きかったような)

因みに指揮のダウスゴーはどの楽章も終了後その余韻をじっくり味わうかのように構えをなかなか解かなかったが、聴衆もそれにしっかり反応していたのは嬉しかった。

そして注目の第四楽章。

自分はこの四楽章版を第八交響曲に例えると、最初の三つの楽章が1890年稿で終楽章のみ1887年稿で聴いたような気持ちにいつもなってしまう。つまり終楽章のみ初稿のような、それこそ書き出した当初のノリと勢いが勝ってしまったつくりのままという感じで、まとめ仕上げを施す前の「原石」状態のように感じてしまう。それは最初のSMPC版から一貫した印象だけど、今回も最初はやはりそういう感じがした。

ただ曲が進むにつれ次第にそういう印象がだんだん希薄になっていき、かわりに一足早く二十世紀に音楽に踏み込んだように聴こえてきた。つまり仕上げを施す前の粗さに聴こえたのは、時代をブルックナーなりに先取りした結果ではないのかというふうに聴こえた。

確かに第三楽章でもそういう感じのところが散見されたけど、第三楽章が書かれて以降の二年間によりその度合いがより大きくより深まった結果なのではという気がした。これはダウスゴーの早めのテンポ設定がそう聴こえさせたという部分もあるのかもしれない。
(尚この日のブルックナーは、第一楽章が22分、第二楽章が10分、第三楽章が21分、第四楽章が20分くらいで、全体では75分ほどの演奏時間でラトル盤に比べると5分以上早い演奏でした。ただそのために急ぎすぎのように聴こえたところはありませんでした)

だが中盤あたりそんなことはどうでもいいくらい、この粗いながらも尋常ではない情報量をもつ音楽が、堰を切ったように怒涛の如く流れてくるそれをダウスゴーはそれを見事に捌いていく。

このあたりはもう目眩くという感じで、ちょっとミンコフスキと都響のブルックナーの5番の終楽章を想起させるほどのものがありました。そしてコーダの途中で一瞬タメを作った時、一瞬「あれ、ここで全休止とる形に変えるのかな」と思わせるほどの見栄の切り方をみせたものの、次の瞬間そのまま一気に怒涛のごとくラストまで上り詰めるように走り切っていった。

終わった瞬間ダウスゴーが微動だにせず、まるで時間が止まったようにさえ感じられる時が過ぎていく。その後ゆっくりと棒を下ろすが、それが完全におり切る前に拍手が起き、後は延々と万雷の拍手が起きた。

正直これほど凄まじい熱量をもった第四楽章というのを音盤も含め初めて聴いた気がした。

それはまるでブルックナーがこの曲にすべてをかけ、自分が音楽とともにどこまで上り詰める事ができるかという、自分の生き様のすべてに渡って決着をつけにかかったかのようで、作曲者の凄まじいまでの執念と没我の狂気が強烈に感じられるものだった。これはこの曲の基本概念を根底から崩しかねないくらいもので、できればもう一度すぐにも聴いて確認してみたいと思ってしまうほどでした。

(あと決着という意味ではもうひとつ。四楽章版が演奏され人々に聴かれるだけのものなのかどうかを、指揮者がこの演奏にすべてをかけ決着をつけにきたという感じも、この日の演奏から強く感じられました)

この日はマイクが下がっていたようなので、いつかはこの日の録音を聴くことができるかも。そのときは冷静になって繰り返し聴いてみたいです。

これほどまでに凄い音楽ができたのはもちろん指揮者のダウスゴーのそれが大きいのですが、PMFオケの大健闘も大きい。

なにしろ75分間、ほとんどの楽器が休むことなく音楽をしつづけるというだけでなく、第四楽章などその運動的な音作りの為、弦は弾きまくり管は吹きまくりという状況で、しかも後ろに行けば行くほどそれが度が過ぎるくらい凄まじいものになっていく。

こんなヘビーな曲を四日間で三回、しかも一日は長距離移動日ということを思うと、最終日よくぞあそこまで思いの丈をのせ捲って咆哮しまくったものだとただただ驚き感嘆してしまいました。

正直これほどのブルックナーはなかなか聴けないですし、しかもこの評価もさだまっていない第九の四楽章版でここまでやってしまったことは絶賛されて然るべきと思います。

もしこの曲が今後日本で今より演奏されるようになったら、この日のこの演奏がきっかけになったといってもいいかもしれません。

とにかくいろんな意味で忘れ難い演奏会となりました。

PMオケの全楽団員の皆様に深謝です。


しかしブルックナーは最後作曲家ではなくオルガン奏者としての自分に帰っていったのだろうか。

以上で〆

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