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「かぐや姫の物語」雑感 [スタジオ・ジブリ]

これは公開当時に書いたものです。
高畑監督へ心から哀悼の意を表し上にあげさせていただきます。

kaguya.png
http://kaguyahime-monogatari.jp/
(公式サイト)


「かぐや姫」の話というと
それはそれは子供の頃からよく知っている話だし、
もちろん多くの方々もその話は知っているだろう。

だけど正直かぐや姫の話が面白いか面白くないかはともかく、
かぐや姫自身の心というものが自分にはとにかく昔からみえなかった。

なんというのかあまりにもまわりに流され過ぎで、
最後に天に戻るときも泣きすがる翁(おきな)と媼(おうな)に対して、
あまりにも形ばかりにすぎないかと、
正直あまりかぐや姫に感情移入するという気持ちにはなれなかった。

そんな物語をあの高畑勲監督がつくったという。
高畑監督というと自分にとって忘れられないのは、
1981年の「じゃりン子チエ」劇場版。

特に遊園地から帰る電車の中で
母のひざでうとうとしているチエの描写は、
自分がみてきたアニメの中でも屈指に印象に残るシーンだった。

その高畑監督が「かぐや姫」をやる。
おそらくいままでと違うかぐや姫になるだろうという気はしていた。
そしてそれは「風立ちぬ」の予告編で疾走するかぐや姫のそれで、
限りなく確信にかわった。

その動きをみたとき、
自分は一瞬、信貴山縁起の「飛倉の巻」を思い出してしまった。
このただごとではない雰囲気で期待をしてはいたが
悲しいかな公開してもなかなか見ることができず、
ようやく公開十日目にしてみることができました。

平日の昼で、しかも数日前に1000円均一の映画の日だったにもかかわらず、
意外なくらいこの日映画館は入っていた。
そしてそれを見に来ているのはアニメファンではなく、
一般の比較的年配の方々だった。

このあたりにもこの作品に対する一般の受け取られ方が、
なんとなく感じられるものがあった。

じつは映画をみるまえ自分はパンフレットを購入、
高畑監督のこの作品に対するプロローグ(という言葉が適当かどうかは微妙ですが)を、
自分はひとしきり読んでしまった。
正直ここで書かれたことのほとんどは作中でも描かれているが、
ただこれを読むと読まないとでは、
ちょっと作品に入るこちらの心構えに、
多少差異が生じてくる部分があることは確かだと思う。

理想としてはまずは読まずに観、
そして二度目に読んでから観るようにしたいところだろうか。

このあと感想となりますが、
公開も十日経つことからネタバレ込みで書かせていただきます。
このあたりご注意ご了承ください。


さて「かぐや姫」というと、

○竹から生まれる
○大きくなって美しくなる。
○五人の貴族から結婚を申し込まれ無理難題で追い払う。
○月へ帰る

というこの四つがでかいところの軸なので、
これはさすがに動かしようがなく、
逆に言えばこの四つを守ればいかようにも話は広げられる、
と、ふつうは考えてしまうのですが、
高畑監督は想像以上に原作に沿って話を展開させる。

とはいえかぐや姫が竹の中ではなく、
いきなり生えてきた筍の先から花が咲くように生まれ、
その姿は最初は手のひらサイズの小人みたいなお姫様だったのが、
一度赤子に戻りそして急成長していくという手順をとる。

このとき前述した高畑監督のそれを事前に読んでいると、
このあたりの受け入れ方がちょっと変わってくると思う。

このあと捨丸というキャラなどが登場し、
随所に高畑監督のオリジナルが含まれていく。

ただこうしてみるとかぐや姫の表情や行動が大胆になるところは、
ほぼ高畑監督によって肉付けされた部分なのですが、
それらがただおもしろおかしく興味本位で付加されたというより、
最後の結末へ向かうまでの必然としての伏線であるところがまた素晴らしく、
それが行動的で気の強いかぐや姫を形成しながら、
今まで流されるだけにみえたかぐや姫が、
自立しようとしながらもその手段や表現に、
いまひとつ気持ちや行動がまわりきらないため、
ひたすら別れへ向かっての一本道を走っていくという、
観ているこちらにも強く迫ってくる姿を表出しているところに、
なんともいえない哀しさを感じてしまったものでした。

そしていつのまにかいままで希薄な存在だったかぐや姫が、
とにかく強く生々しく描かれていった。

ある意味かぐや姫の地球でのそれは「ただひたすら走りつづけている」
そんなかんじを強く受けた。
それらは喜怒哀楽を激しく身にまとったそれであり、
屋敷からの脱出シーンや捨丸との飛行シーンは、
すべて夢がらみではあるものの、
かぐや姫の感情が振り切れたエネルギーからきたものであることを思うと、
ある意味「生き急いだ」というかんじすら強く受けた。

そしてそれが後々かぐや姫の後悔へと繋がっていくことを思うと、
もちろんこれはかぐや姫の地球のことではあるけれど、
月の世界のそれを来世と考えた場合、
それは人生を生きた者が最後に感じるひとつの反省であり未練でもあるような、
そんなことにも感じられた。

姫が天上の衣を身にまとい記憶と同時に表情までなくなった瞬間、
それがまた人の死とどこか重なるように感じたのは、
はたして自分だけだっただろうか。

※ただよくみると完全に失ったというわけではないようです。

それが罪や罰からの許しであり解放だった結果なのかと考えると、
ここにはいろいろと仏教がらみのことが入り込んでくる。

そのためかラストの天上人の姿など、
多少違和感というか感覚的に受け入れられないものが人によってはあるかもしれませんが、
このあたりのことや物語の時代を思うと、
そうならざるを得ないんだろうなという気が個人的にはしています。

またこのとき天上人たちの奏でる音楽がまた場違いなくらい明るいものがある。
これまた違和感がかなりでるかもしれませんが、
ニューオリンズでの葬儀のパレードは行きも帰りもじつに明るいものがあり、
あれもまた「現世の苦しみから解放されてよかったね」という、
そういう意味も含まれての明るさだと聞いたことがある。
このあたりもそんなことも考えての演出だったのかもしれません。


話はかぐや姫が帰るところで終わり、
帝が不死の薬を富士で焼かせるという部分は無し。

上映時間137分という、
ちょっとしたオペラなみの長さですが、
正直個人的にはほとんどダレた感じは受けませんでした。

ダレそうになるといろいろと視覚的なもの等で、
それらの要素を極力減らしていたことがありますが、
そんな中でいちばんいいタイミングでそれを防いだのが、
伊集院光さんの演じる阿部右大臣が、
持参した宝物を火で焼かれるシーンでのそれ。

正直ちょっとこれはダレるかなあと思い始めたときに、
このコミカルな伊集院さんのそれはじつにタイムリーで、
その後のお遊び無しの展開を思うと、
ちょうどいい感じで気持ちがリフレッシュでき、
そして後半に入れた気がしたものでした。


こうして全部を観終わった感想としては、
とにかく凄い作品を観てしまったということでした。

自然の伸びやかな美しさ
都の喧騒やそんな中でも聞こえる鳥の声、
姫のダイナミックな動きと、
素で生きる部分と演じなければならない時の対比、
そしてときおり自分という人間の人からみられた存在の自覚と、
それに対するなんともいえない感情の揺らぎ。

姫を囲む、翁、媼、女童、といった人たち。

また翁の館での宴のそのまるで絵巻物を、
そのままアニメに転写したかのような実在感。

一見粗くみえる絵だけれど、
これらが動くことにより生じる無類の生命力と流動感、
そして「枠」をもうけない「形」のうつくしさの表出等々…、
とにかくあげていけばきりがありません。

そしてなによりも初めてかぐや姫に感情移入できたこと。
あと、ちょっとだけどこみあげるものが感じられたこと。
そのことが我ながら意外であり、そして素晴らしく感じられたところでした。

ここまでやってしまうと、
シューベルトがベートーヴェンの弦楽四重奏の14番を聴いた時、
「この後に我々は何を書けばよいのだ。」
といったことと同じことを言いたくなってしまうような、
そんなかんじすらしたほどでした。

ただ正直いうと、
ちょっとラストが絵的にきもち単調になったように感じられたのですが、
それはこちらが137分という時間に慣れなかったということもあるかもしれません。

ですがそういうことも含めて、
とにかく近年稀にみる巨大なエネルギーと情報量をもった作品でしたし、
日本を舞台にした伝承によるアニメの最高傑作のひとつといっていいかんじの作品でした。

それはかつてウェーバーが「魔弾の射手」というオペラによって、
はじめてドイツを舞台にした伝承による傑作を生んだそれと、
なんとなく重なるように感じられるほどのものがありました。

あと声優さんですが、正直これだけうまくはまれば言う事なしです。
声優云々というのはもはや関係無いでしょう。
宮崎駿監督作品のそれとはここが決定的に違うところでしょうか。
もっともこのあたりは単純には比較できないものはありますが…。

因みにこの作品は声を先に収録するというプレスコを2011年の6月に行ったとのこと。
震災から三か月しか経っていない時期というだけにたいへんだったと思われますが、
そのおかげで翌年6月に急逝された地井武男さんの、
まだお元気だった頃の演技がここに収録されている。
この収録の半年後には入院をされているので、
ほんとうにギリギリのところだったという気がします。

またその地井さんの翁がたいへん素晴らしく、
これが無ければこの作品の悲劇もまた成立しなかったことを思うと、
ほんとうにその急逝が惜しまれてなりません。
あらためて哀悼の意を表したいと思います。

※尚、その後追加等された翁のカットに関しては、三宅裕司氏が担当。

そしてこの作品には氏家齊一郎氏と大久保好房氏両氏による、
資金面での桁外れの協力が無ければ絶対実現しなかったとのこと。

制作費50億というから、
収益の少ない高畑作品としては赤字になってもおかしくないけど、
正直この作品はできるだけ、
それこそ細々とでもいいから長期間に渡って公開し続けてほしい。

この作品は確かに長大で子供向きではないかもしれないけれど、
こんな凄い作品を日本はつくれるんだということ、
人生の生きる価値をあらためて見つめなおさせてくれるということ、
そしてそれは美しも哀しい日本らしい四季の彩りで綴られていることを、
ぜひ一人でも多くの人にみてもらいたい。

そしてこの作品が万が一黒字になることがあったら、
日本はアニメを作る側だけでなく、
観る側のレベルも世界に誇っていいと思う。

この作品は自分にはそう感じられました。
(おお!ここまで言ってしまった。いいのかなあ…。あまり気にしないでください…とちょっと弱気。)

それにしても「キングコング」や「宇宙戦争」と同じで、
ストーリーを動かせない原作付きの作品で、
よくここまで作品の本筋を崩さず動かせるものだと、
そこのところにも感心しきりです。
たいていは原作に縛られ過ぎて完敗しちゃうんですけどねえ。

タイプは違いますが、
杉井ギザブロー監督の「銀河鉄道の夜」以来かもしれません。

尚、音楽は久石譲さん。
演奏はミューザ川崎で収録した東京交響楽団による演奏。
高畑監督と久石さんの組み合わせも珍しいですが、
(これは「かぐや姫」の制作が遅延したことによる副産物だったそうです。)
ジブリ作品を新日本フィルではなく東響がやるというのも珍しい気がします。
このあたりは今年3月に久石さんと東響の初顔合わせが実現したことが、
この組み合わせによるそれに繋がったのかもしれません。

たいへん長くなりましたが以上です。
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「天空の城ラピュタ」を久しぶりにみて。 [スタジオ・ジブリ]

「ラビュタ」を久しぶりにみた。

ディスクが手元にあるとなぜかいつの間にか見なくなるのに、
こうしてテレビで放送されると律儀に観たり録画したりしてしまう。

「ラピュタ」に限らずけっこうこういう事が多い。不思議。

51mvIqLeiCL.jpg


「ラピュタ」は最初の30分で下へ下へと降りていき、
残りの90分をかけて上へ上へと昇っていくような作りになっている、
このため下りる三倍もの時間をかけて上っていく為なのか、
前半のジェットコースターのようなスピーディーな展開に対し、
やや後半ペースダウンしたように感じられような気がする。

ただ何度か見ているうちに、
このことにより引力の持つ重さを感じられるようになった。

今回も久しぶりにみてあらためてそれを実感できた。

本当によく計算されている作品と感心。

とにかく宮崎監督の当時の魅力が、
これでもかと贅沢に詰め込まれたこれは傑作だ。

ただいいことばかりではなかったようで、
ラピュタが映像商品として発売された時、
VCとLDしか当時発売されてなく、
VCはともかくLDが発売された時は、
LDは片面一時間が収録限度だったため、
この作品はギリギリ二枚組となり価格が高くなってしまった。

しかも二度にわたり盤の入れ替えをしなければいけないため、
VCに比べいくつかの点で不便が生じてしまった
当時の徳間の担当の方はけっこうこの事を気にしていた。


ところで「ラピュタ」の頃の時代は宮崎監督の作品に
「空を飛ぶ夢を追い続ける」姿勢が強くかんじられたけど、
先週放送された「ポニョ」には、
「空を飛ぶ夢を諦めた」雰囲気が感じられた。

それはかつての宮崎監督は自らの飛行目線だけでなく、
よくみられるこのアングル

GI01.jpg

やや下から丘と空を描いているお馴染みのシーン。

個人的に「高い丘のモチーフ」と勝手によんでるけど、
これなどは宮崎監督の空へのあこがれや、
その空を飛ぶ夢をのせた、
宮崎監督のベースとなる心象風景のひとつだと思っている。

だかこのモチーフが作品が新しくなるにつれ、
次第に抑制されていったような気がする。

「ポニョ」では空の占めるシーンが、
ずいぶん小さくなってしまっている。

また遠くの水平線や地平線、
もしくはそれに代わるものをみつめるシーンにも、
それらが強く感じられるが、
これらのシーンもやはり控えめ目になっていった。

というより宮崎監督の遠くをみる距離が、
だんだん遠くなくなってきているように感じられる。

宮崎監督の「千尋」以降に裾野の伸びやかさを感じられなくなったのは、
そういうところがあるのかもしれない。

それは作品が次第にファンタジー色よりも、
メッセージ性が強くなっていくことと関係があるのかもしれないが、
このあたりは正直あまりよくわかっていない。

とにかく「ラピュタ」をみていると、
後の宮崎作品により強く表出されたものと、
失ってしまったものが感じられた。


あと今あらためて思う事に、
「ラピュタ」では声優さんがまだ普通に使われていたし、
そこに不自然さも感じないということ。

その後は御存じのように、
宮崎作品から声優がある時期を境に急速に排除されていくが、
それは宮崎監督の絵の精度と密度が上がるにつれ、
絵の表情や表現力を補う事を主として発達した日本の声優のそれが、
次第に宮崎作品にとって余計な色付けとなっていったことも理解できた。

つまり宮崎作品は完成度が上がるにつれ、
より監督の色というものが強烈に隅々まで浸透し、
それと異質な色合い等をもったものは、
自然と排除されるようになってしまったという事。

それは同じアニメでも他の多くの作品とかなり違ってきて、
声優の個性や演技力が大きく反映している今のテレビアニメとは異なる、
そういうことを許さない、
監督のそれがすべてに最優先されるという事でもある。


そういう意味で宮崎監督のそれは、
多くのアニメが歌手の力を大きく必要とする「オペラ」であるのに対し、
指揮者の意図の方が歌手のそれより大きくものを言う、
それこそ「オラトリオ」や「劇的交響曲」といっていいのかもしれない。


それは以前も言ったけど、
トスカニーニのNBC時代におけるオペラ録音とも共通している。

かつてイタリアの大指揮者トスカニーニが
その晩年オペラを演奏会形式で録音したとき
たしかに会社の権利関係があったものの、
名のある大歌手をあまり起用しなかったことが多々あった。

それはトスカニーニが妥協無き指揮者であり、
歌手のスタンドプレーを許さず
音楽そのもののもつ力と自分の音楽に絶大な信頼を寄せ
自らの巨大な世界を築ききっていた事が理由としてあるけど、
その姿勢は宮崎監督のそれとかなりの共通点がある。

またそのときトスカニーニが指揮したオーケストラ、
「NBC交響楽団」はトスカニーニの為に創設されたオケで、
これもまた宮崎監督とジブリの関係と通じるものがある。

宮崎監督の今世紀に作られた作品の特色と、
何故声優を使わないかという事は
これがいちばんいい例であり理由のような気がする。

と、そんなこともまた、
この「ラピュタ」をみてあらためて強く感じられた。


ただそれじゃあ映像技術がこれからもあがっていくと、
今の「声優」はいらなくなるのではと思われるかもしれないが、
それははたしてどうだろう。

おそらくアニメの幅が広がるのと同じように、
声優も幅広いスタイルを要求されていくような気がする。

もちろんそれは個人個人の枠をも超えてくる場合もあるため、
さういう場合はいろいろと各自の持ち場も、
そのスタイルによって決まってくるような気がする。


以前あるベテラン声優さんが今の声優は個性が無いと言っていたが、
各自の個性をかならずしも必要としない局面も、
これからはいろいろと増えてくるような気がする。

もちろん個性を要求される場合もあるけど、
その個性の要求のされ方もまた多様になっていくのかもと
そんなことも「ラビュタ」みてあらためて思った次第。


とっちらかった内容ですがこんなところで〆です。

※一部ツィッターに書き込んだものも含めて再構成したものも落とし込んでます。
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NHKスペシャル「終わらない人 宮崎駿」雑感。 [スタジオ・ジブリ]

miya.jpg
3年前、突然引退を宣言したアニメーション映画監督・宮崎駿さん。世捨て人のような隠居生活を送り、「もう終わった」と誰もが思っていました。でも実は終わっていなかったのです。手描きを貫いてきた宮崎さんが、75歳にしてCGで短編映画に初挑戦。それは長年夢見た幻の企画でした。新たなアニメーションとの格闘を繰り返すなかで、下した大きな人生の決断!「残された時間をどう生きるのか」。独占密着!知られざる700日
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586742/


宮崎監督のドキュメントを今頃みた。


内容は短編づくりにはげむ監督。
CGというツールに向き合う監督。
新作長編に動き出す監督。


という姿を描いたもので、
そこには年齢からくるいろいろなものと向き合いながら、
「物創り」をおこなう監督の姿が描かれている。


これをみててまず思ったこと。


以前、監督が長編をやめたのは、
狭心症のためだったという記事を読んでいたので、
かなり心配をしていたが、
(正直自分にとって他人事ではない)
にもかかわらずたばこを吸っていたのをみると、
少しは治まっているのかなという気がして、
きもち安堵したこと。


またしばらく休んでいて、
やりたいことをいろいろやってはいるものの、
予想以上に気力体力とも残っていたのか、
物創りのそれが抑えられなくなってしまったということ。


そして何といってもCGに手を出し、
それを自分の表現ツールにくわえようという、
その貪欲な気持に脱帽といったところか。


宮崎さんの場合、
手書きにこだわっていたのは、
その微妙な表現、
指先の感覚の微妙な調整で千変万化する表情や世界を、
完璧に描けるのは自分の指先の技術だけという、
そういう自負があったことは確かだろう。

ただCGの技術も驚くべき進歩を果たしていることを、
うすうす感じていたのだろう、
それを自分がやったらどうなるかという、
そういう部分の好奇心というか、
俺だったらもっとこのツールをうまく使いこなせるという、
そういうところもあると同時に、
ひょっとしたらまだ見ぬ世界がそこに広がっているのかもという、
そういう期待があったのではないかという気がする。

それはあたかも、
チェンバロしか弾いたことがない人の目の前に、
突然88鍵のピアノがあらわれたような、
そんなかんじだったのではないだろうか。


ただ「なかなかうまくいかない」と、
予想以上にこのツールが、
自分の手先指先のようにコントロールできないもどかしさに、
かなり苦戦していたのは、
しかたないといえばしかたないのかも。


またこれはこちらの勝手な想像だが、
監督は自分の指先で直接いろいろと書きながら、
その描かれていくものだけでなく、
そのときのリズムや感覚などから、
自然といろいろなインスピレーションが沸くタイプで、
新しいツールではその部分が欠落してしまい、
それがいつもと違う何かとなってしまったのではないだろうか。


このため監督自らいつものスタイルでいろいろやりだし、
それをCGとのそれをうまくミックスさせだすと、
いつもの、
そしてちょっと違う宮崎ワールドがあらわれた。
それがあの「夜の魚」なのだろう。


おそらくあの場にいた、
多くの若いCG関係の人が、
それまではかなり神経をすり減らしていただろうが、
あのときだけは、
その天才に脱帽したことだろう。


じっさいそれより前にも、
監督の絵コンテをみてかなり度肝をぬかれていたようだが、
それをみてたら、
なんかU2のボノとBBとの邂逅を思い出した。


ただ監督のそれはBBのようなものとは違う。


ここから先はちと嫌なことを書く。

監督はとにかくすべての動きに理由と意味と、
その先にある目的としているものを明確化させるため、
それに応えるというのは現場の人にとって半端ないものがある。

ある意味杉下右京にも通じるものがある。

だからといってジブリが人材の墓場というわけではない。


もともとジブリは高畑&宮崎両監督のためにつくられたものだ。

音楽でいえば、
トスカニーニのためにつくられたNBC交響楽団みたいなもので、
そこでは両監督のそれが絶対なのだ。

ジブリの中では、
各人駒としてしか動くことができないシステムであり、
宮崎監督もそれだからこそ、
あれだけの作品を次々と作り出せたのだ。

番組内で監督が「食べる」と表現したことと、
このあたり多少抵触してるかもしれない。


だからあのTVで映っていた人たちは、
みなそれこそたいへんな思いをしていたことだろう。。

正直歩き方ひとつひとつに対しても理由付けを求められたら、
その姿勢に慣れてない人にはかなりまいってしまうだろう。


天才や職人には一瞬にこたえが導き出せても、
普通の人にはなかなかそこまではできない、
昔気質の親方のところで、
ぶん殴られながらつかえている弟子という、
そんな感じになっていたような気がしたのだがどうなのだろう。


ただこれはしたかないことで、
宮崎監督の育った時代、
そして見て感じてきた時代が、
今の若い人たちとはまるで違うことがここでは大きい。


戦後の焼け跡で、
米一粒のありがたさ、
「いただきます」
というその言葉の意味で深く考え、
そして身に沁み込ませていた、
監督はそんな世代なのだ。


その人たちと今の若い人たちが、
同じものをみても、
当然みえている風景も感じ方も違ってきてしまう。


番組後半でドワンゴの人たちと対立したあのあたりなど、
まさにそれが極まったというべきだろう。


もっともあそこでの監督の怒りはそれだけでなく、
またたんに身障者に対する云々というだけではない。


最初のころ魔法の小箱のようにみえていた、
それこそ使いようによっては素晴らしい夢のようなツールが、
ただの面白半分のためにこれといった意味もなく、
その場の面白さのためだけに使われているように見えたという、
そういうことも大きく作用していたような気がする。


「おれの夢をぶち壊すな」


そんな気持ちがあそこにはあったのではないだろうか。

そしてそれはCGのもつ危うさというか、
目先の面白さばかりに気をとられ、
素晴らしい可能性を追求しようとしいない、
使う人によっては心ない遊び道具になってしまうと、
そこでは感じられたのではないだろうか。


これを年寄りの柔軟性に欠けた癇癪、
または今の若い人の無頓着さ、
と片付けてしまうことも可能だろうけど、
はたしてそれはどうだろう。


自分にはこれがどちらにとっても、
決して間違ってはいないという気がする。

お互い表現の可能性と夢を追求するという、
そういう立場はまったく同じだと思う。

ただそこには互いの育ってきた土壌によって育まれた、
哲学というか価値観の違いがある。

監督はあれを身障者に対する侮蔑ととられたが、
ドワンゴ側にはもちろんそういう意識などない。

そこに至る発想や経験が、
互いにそういう意識をもたせたといえるだろう。


ただここでひとつ強く感じたことに、
想像以上に監督にとって短期間で
CGというものが自分にとって大きなものになっていたことを、
このときの怒りで強く感じられたものでした。

監督は性格的にはあれかもしれないけど、
根は愛情が深いんだなあとこのときちょっと感じたものでした。

錯覚かな?


ところでこの後監督は「もう終わり」みたいな怒りを口にしていたが、
ドワンゴ側はおそらく釈然としないままだっただろう。

「ああ、そういう意見もあるのか。」

と、思いはしたが、内心

「もっと言い方があるだろう。」

と絶対そっちの方にドワンゴ側は気持ちはいっていたことだろう。

多少言い返しはしたが、
その後の沈黙に自分はそれを強く感じてしまった。


このときこれが宮崎監督なんたろうなあと、
自分は強くそれをここに感じてしまった。

言いたいことを言う。
だけど言った相手がそれをどう思うかという、
そういう部分は監督にはない。


あれだけ作品における理由付けと終着点を明確にする人が、
ひとつの言葉を放ったことが、
どう相手に波紋を起こし、
そして自分の真意を真っすぐ受け取ってくれるかという、
本来の終着点というか目的を無理なく理解してくれるかという、
そういう部分の計算や手段というのものを、
この人は持ち合わせていないのだ。


物凄い矛盾のような気がするが、
相手がどう受け取るかというより
そう考えるより以前に、

「今言ったことが分からないのなら、どう説明しても無駄。」

というその絶対の自信というか信念というか、
それが宮崎駿という人であり、
それがまたこの人を支えるポリシーでもあるのかなあと、
そんな気がこのときしたものだった。

それは最初に記した、
この人の手書きへのこだわりの要因と、
相通じるものでもあるのですが。


そう言ってしまうと宮崎駿はパラノイアだと、
そう思われてしまうかもしれないが、
このあたりの定義は自分も曖昧なので今は保留にしておく。


とにかく宮崎駿監督の、
いろんな面を確認もしくは発見した50分でした。


かつて某作曲家を現代のベートーヴェンと言っていたけど、
監督の方がよっぽどその言葉があうような気がした。


とにかく作品がすべてにおいて大事。
そして受け手へのメッセージが最も大事と。


これじゃあなかなか人間がそこに入るのはたいへんです。

まあそういう人は他にもいますので、
決して珍しいことではないのですが…。


以上で〆。


保田道世さんが亡くなられていたことを初めて知った。
また日本アニメから大きな方が去られてしまった。
心より哀悼の意を表します。

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宮崎駿監督:「生涯アニメ作り続ける」短編を計画 [スタジオ・ジブリ]

卓越した業績を残した世界の映画人に贈られるアカデミー名誉賞の受賞が決まった宮崎駿監督(73)は、8日(日本時間9日)の授賞式を前にAP通信のインタビューに応じ、「死ぬまでアニメ作品を作り続ける」と話した。APは5日、記事を配信した。

 宮崎監督は「物語を作り、描くのが好きだ」と変わらぬ創作への意欲を示し、三鷹の森ジブリ美術館(東京)で上映するための短編アニメの製作を計画していることを明らかにした。こうした作品は「興行的に成功するかを心配しなくていいのが長所だ」と述べた。(共同)

http://mainichi.jp/feature/news/m20141106k0000e040148000c.html


ファンの方も一安心かと。

それにしても作品111を書いた後のブラームスみたいですね。
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米アカデミー賞:宮崎駿監督に名誉賞 [スタジオ・ジブリ]

米アカデミー賞を主宰する映画芸術科学アカデミーは28日、卓越した業績を残した世界の映画人に贈られる名誉賞を日本のアニメ映画監督宮崎駿氏(73)らに授与すると発表した。

 日本人監督の受賞は1990年の故黒沢明監督以来2人目。授賞式は11月8日にハリウッドで行われる。

 アカデミーは宮崎監督について「千と千尋の神隠し」で2003年にアカデミー賞長編アニメ賞を獲得したほか「ハウルの動く城」「風立ちぬ」で同賞にノミネートされた経歴を紹介。

 「もののけ姫」で世界的に有名になる前から、日本で絶大な支持を受けていたとして、長年の功績をたたえた。(共同)

http://mainichi.jp/select/news/20140829k0000e040153000c.html

とても素晴らしいニュースです。

それにしても宮崎監督のこれからの一歩も期待したいですね。
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ジブリ、「小休止」へ 製作部門解体 [スタジオ・ジブリ]

日本の映画歴代興行収入1位の「千と千尋の神隠し」など数々のヒット作を世に送り出してきた「スタジオジブリ」(東京都小金井市)が、製作部門をいったん解体する方針であることが4日、分かった。鈴木敏夫代表取締役プロデューサー(65)がジブリの株主総会で明言した。新作は「小休止」となり、現在公開中の「思い出のマーニー」以後、当面製作されない可能性が高くなった。

 スタジオジブリは昨年、宮崎駿監督(73)が「風立ちぬ」を最後に長編アニメ製作からの引退を表明。高畑勲監督(78)も8年がかりで製作した「かぐや姫の物語」を公開し、スタジオの今後の経営方針に注目が集まっていた。

 鈴木氏は6月27日に開かれた株主総会で、宮崎氏引退のインパクトが非常に大きかったことを強調。「延々と作り続けることは決して不可能ではなかったが、(新作製作は)いったん小休止して、これからのことを考えてみる」と述べた。

 スタジオジブリは昭和60年設立。従業員数は約300人。「千と千尋-」は米アカデミー賞長編アニメ賞を受賞し、ほかに「ハウルの動く城」「もののけ姫」などのヒット作がある。

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140804/ent14080420580006-n1.htm

ああ、やっぱりNBC交響楽団と同じ道を辿りましたか…。

まあ宮崎さんと高畑さんの作品を作るために特化したような所なので、
宮崎監督の長編引退と高畑監督の年齢等を考えれば、
トスカニーニの演奏のために特化したスーパーオーケストラだったかのNBC交響楽団が
トスカニーニの引退後のそれを思うと、
ジブリがそれと辿る道が同じになったことは至極当然というところでしょうか。

ほんとうはジブリを一時的に日テレと国か都が経営を保持し、
もう数作制作をするという手もあったかもしれませんが、
製作者のモチベーションがそれだともたないんだろうなあ…。

なんかもったいないというか、
こういうあたりのことを綺麗にできるかどうかで、
日本のアニメが本当に文化として機能しているのかが、
なんかわかるような気がするんですよね。


まあもったいないけど、これが当然なんでしょう。

しかし…うーん…。


そういえば来年生誕90年を迎える芥川也寸志さんがこんな言葉を言われていたという。

「感動と言うのは精神の風車を廻すことである。たとえば、私たち音楽を愛する者が楽器の技術は拙くとも練習に練習を重ねて、僕等の拙つたない精神の風車を廻す練習をし、ある作品を舞台で演奏すると、その廻る風車の風に吹かれて客席のみなさんの精神の風車も徐々に廻り始める。さび付いた風車も、普段から手入れの行き届いた風車も勢い良く廻り始める。これが感動と言うものだと思う。だから自分の風車をまず廻そう・・・」(「オーケストラ・ニッポニカ」公式サイトより)

ジブリには今、この風車を回すだけのそれがもう無いということなのでしょうか。


ただねえ…、


なんかジブリを観に来てる人のかなりの人が
「ジブリ」じゃなくて「宮崎駿」というブランドを観るために参加しているというか、
なんかそんな気が今回した。

高畑監督の「かぐや姫」はなかなか一般向けしづらいかもしれないけど、
それをいうなら「風立ちぬ」も一般向けしづらいし、
今回の米林監督のそれの方がはるかに一般向けだし、
イギリスではたいへん有名な児童文学とのこと。

そう考えると、
けっきょくは「宮崎駿」のファンはいたけど「ジブリ」のファンはいなかった。
ということなんだろうなあ…という気がした。

ただそうなると、
じゃあそんなに宮崎駿抜きのジブリって魅力が無いの…?
ということになる。

もしくは人を劇場に引っ張る力が無いのかということにもなる。

自分はこれは魅力が無いというより分からない、
正体が分からない人の作品という、
そういう部分が足を遠ざけているという気がする。

つまり米林監督の監督としての売りは何なのさいう、
そういうものがついぞこちらには伝わってこなかった。

たしかにいろいろと宣伝されたりしてはいたけど、
なんかはっきりしない物言いばかりで、
自分も正直このあたり記憶にまるで残っていない。

そこがやっぱり問題なんだろうなあ…ということなんだろう。

たとしたら鈴木プロデューサーは何やってたの?
と、言われてもしかたないのかもしれない。

米林監督はベストを尽くした。
正直監督には興行成績等の責任は皆無!

だけどプロデューサーあなたはベスト尽くしましたか?

人をそれほどよぶ力の無い「ジブリ」のいつものやり方にのみこだわったという、
そういう安直な姿勢は皆無でしたか。


まあとにかく、
以上が「思い出のマーニー」がジブリの白鳥の歌になった理由なんだろう。


なんかやりようによってはこうなる前に、
いくつか手はあったんじゃないのという気がしている。

あと声優に使用した俳優にやたら金使ったもののその効果もなく、
ただ費用がかさんでいったような気も個人的にはしている。

潰れてもいいから声優だけには頼らないし、
そういう人たちのファンを呼び込んでまで延命はしないという、
そういう何か哲学でもあったんならしかたないだろうけども。

ただ、だとしたらいい道楽だなあという気もした。


とにかく制作方のみなさまお疲れさまでした。

いい作品と夢を最後までみせていただきありがとうございました。
ジブリと同じ時代を生きれたことを、私は誇りにしたいと思います。

次にどこかに行かれる方は新天地でのご活躍をお祈りします。


以上です。


(8/7追加)

 スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーは6日、「長編アニメーションの制作を小休止する」と語り、現在公開中の「思い出のマーニー」(米林宏昌監督)以後の新作映画には、当面着手しない考えを明らかにした。ジブリはほぼ1~2年ごとに長編を発表してきたが、次作は少し間が空くことになりそうだ。

 鈴木プロデューサーは7日朝には、NHKの情報番組「あさイチ」に生出演。昨年9月に宮崎駿監督が長編アニメからの引退を宣言し、約300人の社員を抱えるジブリの今後について、「一部報道で『解体』とか言われているが、要は(アニメの)作り方を変えるということ」と語り、「解体」説を否定した。また、宮崎監督とは「短編を作ろうという話をしている」と明かした。

http://www.asahi.com/articles/ASG873GD6G87UCLV003.html?iref=comtop_6_03

解体はしないとか。なんかよくわかりませんが最悪ではないようです。
一応一安心。
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「思い出のマーニー×種田陽平展」に行ったのですが…。 [スタジオ・ジブリ]

「思い出のマーニー×種田陽平展」。

映画がよかったことから帰り道に立ち寄ってみた。

main_visual.jpg
http://www.marnietaneda.jp/

じつによくできた展覧会だった。

ちょっとネタバレ入れちゃいます。

ジオラマも凝ってるし、
マーニーの部屋の再現や、
「湿っ地屋敷」裏の船着き場の入り口の様子や
サイロの中のそれもじつによくできている。

それと本来はガラス越しにつくられそうなジオラマも、
そういうこと抜きで直にみられるのもうれしい配慮だ。

思わずさわりたくなるけどそれはご法度です。

他にもマーニーの森の中を歩く姿や、
婆やにきつく髪をすかれ、我慢できずに立ち上がるマーニーの姿も、
窓越しに映し出されるという細かい演出もあるなど、
とにかくなかなか見どころがあります。

三鷹のジブリ美術館の引っ越し展みたいといえば、
雰囲気がわかりやすいかもしれません。

とにかくこの展覧会をみていると、
この映画がじつに愛情もってつくられたのだということを、
じつにすべての展示物が雄弁にものがたっていることが感じられる。

映画を見て好感をもった方にはお勧めです。


観に行ってほんとうによかった…

…とふつうならこれで終わりなのですが、ちょっと言いたいことがあります。


なんとこの展覧会のオフィシャルガイドがいきなり売り切れている。
公開二日で売り切れなんて前代未聞だし、
しかも次回入荷が8月半ば以降!

なんとこの展覧会の期間半分以上もオフィシャルガイドが無い状態がつづくという。

見込み違いといえばそれだけかもしれないけれど、
いくら在庫を持ちたくないからとはいえ、
これはちょっといただけない。

撮影厳禁だからこそ、
こういうものをぜひ買って帰りたいというものだろう。

なんか言えない事情でもあって生産を絞ってたのかもしれないが、
これにはちょっとがっかりだった。

だがこれですんでればまだしも、
この会場の関係者にも「これはどうなのよ」といいたくなった。

じつはこのホール内のショップで

「オフィシャルガイドを希望の方はカウンターまで。」

という意味のそれが複数箇所たっていた。

このときはてっきりカウンター販売なのかと思ったら、
なんとそこではじめて売り切れ&次回入荷日を聞かされ、
そしてそこで自宅配送への手続きをとるということになっていた。

これ酷くないかい?

だったらそういうことはもう事前にさっきの告知といっしょに明記、
そしてその手続きをカウンターでとるというのが筋というもの。

カウンターでそのことを初めて聞いた人の「えっ?」という困惑した顔をみていて、
「そりゃ驚くよな」と思ったものでした。

その人はカウンターで文句も言わず手続きをしていたけど、
正直こういう細かい所に気配りがいきとどかないところで、
自分の個人情報をここで出す度胸は自分にはなかった。

しかたなく、泣く泣く帰宅し、来月半ば再度来ることにした。


せっかくの素晴らしい展覧会なのに、
なんかちょっとガッカリしてしまいました。

自分はこういうことに神経質なのであれかもしれませんが、
混雑しているときなどトラブルになってもおかしくないような気がします。


一生懸命この会場をつくりあげていたみなさんが可哀想な気がしてしまいました。


※知人も会場でオフィシャルブックを申し込んだが、なんと近くのアニメショップで売っていたとか。会場ではここだけの販売といわれたので申し込み、ずっと待っているのに未だ未着ということでかなり凹んでました。ちょっとあんまりな感じで可哀想でした。 (ここの※のみ8/8追加。)

※その後先週ようやく知人の所にも送られてきたそうですが、もう本人半分忘れてたそうです。そりゃそうか…。(ここの※は8/26に追加。)

マーニー2.jpg

行かれる方にはここの部分を事前ご了承のうえおでかけください。

繰り返しますが内容はとても素晴らしいですし、
ちょっとした聖地巡礼気分も味わえるかも。

興味のある方はぜひどうぞ。

070.JPG

※「思い出のマーニー」の感想。
http://orch.blog.so-net.ne.jp/2014-07-20
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清澄な映画だった「思い出のマーニー」。 [スタジオ・ジブリ]

スタジオ・ジブリの新作、
米林宏昌監督の「思い出のマーニー」を観に行く。

今日は夜、横浜港で花火大会があり、
それを観た後映画館に行く。

宮崎・高畑両監督が関わっていない、
初めてのジブリ作品ということで注目を集めた作品ということで、
興味津々というかんじこそあれ、
正直そんなに注目してはいなかった。

予告などをみていると今までのジブリもろかぶりだし、
それ以上に宣伝のポスターがあまりにも魅力無さすぎというか、
これで人呼べるのか…というより呼ぶ気あるのかというくらい、
とてつもなくイージー感全開のそれに軽い失望さえ感じたほどだった。

自分が観た回は夜9時近い開始だったこともあるが、
そのせいかどうかは知らないが、
人の入りの少なさはちょっと驚きのものがあった。

とにかくすべてが不安だらけではじまった。

※ただ他所の別時間帯はけっこういい入りだったようで一安心。

因みに自分はこの原作をまったく知らない。
つまりOVA感覚でみているので、
原作のどこをどう省略したかとか強調したかとか、
そういうことはまったくわからい。

しかもパンフも読んでないので本当にまったくまっさらな状態で、
今回のこの作品を観たことを最初に明記しておきたい。

mani.jpg
http://marnie.jp/index.html

上映時間103分。


以下、ネタバレ込みで書きます。


最初みて驚いたのは絵の穏やかな美しさだ。

けっして美麗とか鮮やかとは違い、
じつに落ち着いた雰囲気のものにしあがっている。。

特に舞台が札幌から地方の沼沢地帯にうつると、
その穏やかさと空の広がりの秀逸感が素晴らしい。

これをみているとかつて、

「イギリスのそのどこまでも続くなだらかな丘陵地帯の良さがわからなければ、イギリス音楽の良さはわからない。」

という意味の言葉を聞いたことを思い出した。

夜と月の光と、
そしてそれが映える沼沢地帯の詩的な美しさも、
じつに穏やかな感銘を与えてくれた。

そしてそんな穏やかな風景の中で、
この話はゆったりと展開していく。

だが途中から、
これ「怪談か?」というかんじがしてきた。
それこそあの名作「牡丹燈篭」や、
怪談ではないが映画「シャイニング」みたいなそれのような。


まあたしかにこれは一種の怪談かもしれない。

だがそこには人間のもつはかなさと、
愛情と友情の深さからくる美しいドラマがある。

そしてそれらが幾重にも重なりながら、
次第にひとつひとつのほつれやからみを解きほぐしつつ、
ひとつの大きな奇跡の輪をつくりあげていく。

米林監督はそれらを、
じつにじっくりと、
そして静かな語り口で紡ぐように描いていく。

だからといって平板というわけではなく、
終盤の嵐の場面などなかなかの不気味さと怖さもあるが、
不必要な劇的効果というものここにはなく、
変にこのシーンが全体から浮くこともなかった。

※このシーン、ちょっとディズニーの「風車小屋のシンフォニー」を思い出してしまいました。


そういう意味でとてもバランス感覚と見通しの良いつくりとなっている。
というよりクリアな出来といっていいのかもしれない。

こういう点では米林監督の前作「アリエッティ」と通ずるものもあるし、
ここでもあのとき同様等速的なテンポで話はすすめられている。

だけど今回は「アリエッティ」でのそれが若干疑問符をうたせたのに対し、
このことが全体のトーンをひとつの大きな響きの中に表出させることになっていく。

しかもあのときよりも細かい緩急が細部でいろいろ施さているため、
単調な運びに陥るということもない。

原作が米林監督のそれにあっていることもこれはあるのかもしれません。

とにかく今回は米林監督のやり方がいい方向に出た作品といえると思います。


あと違う意味で気になったこととして、
最初の家の中での歩くときの床のきしむ音が、
杏奈とおばさんの体重差を考えるとちょっと?だったり、
豪華俳優陣による吹き替えは今回は可もなく不可もなくだったたものの、
これだけの顔ぶれで、あいかわらずモノトーンでしあげるとなると、
やっぱり最後は適役云々より話題性なんだろうなあと、
そんな気が今回はより強くしてしまいました。

まあもっともだからといって
彩香役を井澤詩織さんがやったらこれはどうなんだいということもあるので、
無理してカラフルにせいとはいいませんが…。

因みに、甲斐田裕子さんが今回クレジットされていました。
そろそろ俳優声優の意味の無い部分での垣根が外されるのかもしれません。

正直もうジブリはそんなに名前にいつまでもこだわる必要は無いと思う。
作品そのものにあまり自信が無いというのであれば分かりますが、
それでももう少し作品を信じてもいいような気がするのですが…。

いずれこの部分がジブリにとって足かせというか、
ひとつの限界をつくる要因になるような気がしてなりません。

やめろとはいいませんが、加減は必要といったところでしょうか。


それと杏奈とマーニーの顔だけジブリ風ではない、
なんか深夜アニメでよくみるような感じの顔つきだったりと、
なにか意図していたのかなあというのがちょっと気になました。


他にも細かいところで気になるところはあったものの、
(宮崎監督と似た演出やシーンが散見されたところとか)
「アリエッティ」よりは遥かに不満度の小さい…、
というよりそういうことなどどうでもいいのかもしれないというくらい、
とにかくじつに詩的でおちついた作品でした。

それは氷のように冷たくなった心もあたためてくれるような一杯の紅茶のような、
そんな心あたたまる怪談であり
そして水彩画のような美しい作品でもありました。


そしてまったく宣伝用のポスターとは大違いのイメージの作品でした。

こういう一編がつくれる米林監督の今後により期待したいです。


ラストは予想がつくとはいえ、
なんかかつてTVで放送された、
アレックス・ヘイリーの「ルーツ」の最終回をみたときと似たような感銘を受けましたが、
これって自分が何者なのかという意味も含めた、
いわゆる自分探しの旅でもあったのかもしれません。


〆です。



余談ですが、
終演後何故か自分の頭の中に、
ヴォーン・ウィリアムズによって編曲された
イギリス民謡「緑の茂み(The Green Bushes)」が鳴っていました。

本編中鳴っていた曲は、「アルハンブラ宮殿の思い出」だったのですが…。

原作買って読もうかなあ…。

mani1.jpg
mani2.jpg

※上がマーニーの原作におけるイギリスのノーフォーク、下は釧路湿原。ともにGoogleのストリートビューより。


(追加余談)

喘息ってくるしいんだよなあ…と思ったけど、
この映画ではあまりそういう雰囲気が伝わらなかった。
後半杏奈の雨の中で倒れていたシーンをはじめ、
けっこう夜中に外で倒れていたり眠っていたりするシーンをみていると、
ぜったい喘息もちにはやばいよなあと思ってしまった。

自分が「牡丹灯篭」と思ってしまったのは、
そこから命を吸い取られているように感じられれたためです。

案外監督はそういうミスリードを防ぐために、
あまりこの部分を深く描かなかったのかもしれません。


なんだかんだ言ってて宣伝等に、

「原作は宮崎駿監督も愛読している」云々みたいなこを記しているけど、

けっきょくどこかで宮崎監督と関係づけたいんだよなあ…と、
やはりジブリはNBC交響楽団なのだろうか。

フィルハーモニア管弦楽団みたいに将来なればよいのですが…。
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「宮崎駿 引退宣言 知られざる物語 」をみて。 [スタジオ・ジブリ]

「NHK プロフェッショナル 仕事の流儀」で
去る11月18日に放送された
「宮崎駿 引退宣言 知られざる物語 」をようやくみた。
http://www.nhk.or.jp/professional/2013/1118/index.html

宮崎監督の引退に至るまでのそれを、
再度NHKが今までの取材から再構成したもの。

で、みた感想ですが、
宮崎監督が自分に博打をうてなかったということ、
というか何かあったとき、
作り出したものが最後自分のあずかり知らぬ状況で完成されてしまうという、
そういう恐怖というか不本意なそれを、
とても恐れていたというか直面したくなかったという、
そういう気持ちが強く感じられた。

そしてもうひとつは、
創造者としての宮崎駿と表現者としての宮崎駿の、
そのバランスがずれてきたことも苦悩として感じられた。

宮崎監督はようするにワーグナーのような人で、
歌劇をつくるとき、台本から曲からすべて自分でつくりあげ、
演出も指揮もすべて手掛けるタイプといっていいと思う。

そんな宮崎監督の今をワーグナーに例えて言うと、
指揮者や演出家としての表現力は、
じつはとても円熟した状況に今いるにもかかわらず、
作家や作曲家としての気力と体力がかなり減退してしまったという、
そういう状況にあるような気がする。

ようするに宮崎さんの本来はひとつになっていた表現と創作の二つの面が、
微妙にそのバランスを欠きズレを生じさせてしまったということだ。

宮崎さんの発言から愚痴や未練のようなものがでてくるのは、
完全主義としての定めなのかもしれないが、
そこにはそういうズレというものもあるのだと思う。

そしてこのことにはかつて野村克也氏が話していた、
ある言葉が重なってくる。

それは確か捕手として現役だった頃のこと、

年をとればとるほど体がいうことをきかなくなる、
だけど頭だけはどんどん野球がよくわかってくる。
それを思うと誰かにほんと何とかしてほしいと思った。

という意味の言葉だった。

おそらくこのジレンマこそ、
宮崎監督の感じているものであり、
そしてその要因が前述したズレなのだろう。

そしてその部分に、
最初に話したもし未完となった場合の恐怖、そして未練がどれほどのものか、
宮崎監督はそれにとても耐えられなかったのだろう。

ただ創るということにもちろん魅力を失ったわけではなく、
それはあたかも後年のベートーヴェンやブラームスが
交響曲から室内楽へとその表現する世界を変えていったそれのような、
そんなこともまた強く感じさせるものがあった。

例えばもしジブリによって、
何人かの監督が各々15分位のオムニバスを担当するような作品をつくるとして、
そのうちのひとつを宮崎監督が担当するとしたら、
おそらくそれに見合う気にいった題材があれば、
宮崎監督は躊躇なく制作に入られることだろうし、
そうでなくとも、
例えばジブリ美術館用に5分程度の短編を作り続けるという、
そういうことなら、おそらくまだまだ可能だと自分は思っている。

とにかく宮崎監督の表現者としてのそれが、
今後創作者としての自らのそれとどう折り合いをつけ、
そして表出していくのか。

そういう意味では今までにない、
それこそ宮崎監督の自由な考えの中で、
いろいろと今後行われていくのではないかという気がしました。

…と、そんなふうに最後は妙に明るくこの番組を拝見した次第です。


それにしても体力とか健康というのはほんとうに大事です。

自分も一か月近くここの更新をしなかったのは、
たしかにネタもそれほどはなかったものの、
気候の変化等でかなり体調を崩したことがその一番の要因でした。

そういうことを経験しているだけに、
今回の宮崎監督のそれは正直他人事ではありませんでした。

ただ身体はいうことをきかないときでも、
けっこう頭はいろいろと動いているときはあるもので、
そんなところからも、
宮崎監督の愚痴や未練のことも、
なんとなく理解できるようなそんな気持ちがしたものでした。

以上です。
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宮崎駿監督「公式引退の辞」 [スタジオ・ジブリ]

 公式引退の辞

                   宮崎 駿

 ぼくは、あと10年は仕事をしたいと考えています。自宅と仕事場を自分で運転して往復できる間は、仕事をつづけたいのです。その目安を一応“あと10年”としました。

 もっと短くなるかもしれませんが、それは寿命が決めることなので、あくまでも目安の10年です。

 ぼくは長編アニメーションを作りたいと願い、作って来た人間ですが、作品と作品の間がずんずん開いていくのをどうすることもできませんでした。要するにノロマになっていくばかりでした。

 “風立ちぬ”は前作から5年かかっています。次は6年か、7年か……それではスタジオがもちませんし、ぼくの70代は、というより持ち時間は使い果されてしまいます。

 長編アニメーションではなくとも、やってみたいことや試したいことがいろいろあります。やらなければと思っていること――例えばジブリ美術館の展示――も課題は山ほどあります。

 これ等は、ほとんどがやってもやらなくてもスタジオに迷惑のかかることではないのです。ただ家族には今までと同じような迷惑をかけることにはなりますが。

 それで、スタジオジブリのプログラムから、ぼくをはずしてもらうことにしました。

 ぼくは自由です。といって、日常の生活は少しも変わらず、毎日同じ道をかようでしょう。土曜日を休めるようになるのが夢ですが、そうなるかどうかは、まぁ、やってみないと判りません。

 ありがとうございました。

                      以上

                2013,9,4

http://www.asahi.com/culture/update/0906/TKY201309060187.html?ref=com_top6_2nd


というものでした。

この様子をビデオで録画したものを見ましたが、
とにかく取材陣が多く、
監督が登場したときのカメラのシャッター音が凄かった。
そして質問者には、韓国、台湾、ロシア、イタリアの方々もいた。

だが何と言っても印象に残ったのは、
宮崎監督がなんかサバサバしたような、
それでいてまだまだ他にやりたいことがいっぱいあるという、
そういう表情をしていたことでしょうか。

まあ「やめる」=「はじめる」という気持ちが、
そういうところにあらわれていたのかもしれません。


引退の大きな理由としてはひとつは年齢的な問題。

つまり上にもあるように「ポニョ」から「風立ちぬ」まで5年かかった。
もし次をつくるとしたらそれ以上かかるかもしれない。
そうなると自分は80歳になっている。
…というあたりをかなり考えられていたようです。

おそらくその年齢で自分が作品にそこまでかかわっていられるのかという、
そのビジョンが想像がつかなかったし、自信もなかったということなのでしょう。

それからもうひとつとして自分の時代が終わったと感じたということ。

そして最後にいろいろとやりたいことがあるということでした。

そのなかのひとつがジブリ美術館の展示物のことで、
ずいぶんそれらの鮮度が落ちているということを気にされていて、
それらは自分自身がペンを入れなければならないものだとのこと。

かつてそれらに手を入れたらその部分だけ明るくなり、
子供たちが集まってくるのをみたとき、
これらのことを手掛けなければと感じたとのことでした。

またジブリの若手が作品を制作をした場合、
それらにはいかなる形でも手を出さないということと、
今後のジブリは今いるスタッフの中から、
これがやりたい、あれがやりたいといってこなけれはダメ、
ようするにジブリの将来は今やスタッフの方にあるということを、
かなり強い口調で明言されていました。

尚、ジブリスタッフには今回の件を8月5日に知らせたとのことです。

そして監督自身が児童文学の多くの作品に影響を受けたこともあり、
「子供たちにこの世は生きるに値するんだ」
ということを伝えることを根幹に抱いて、
すべての作品をつくりつづけたということも話されていました。

これを聞いたとき往年のドイツの名指揮者カール・シューリヒトが、
「人生は生きるだけのことはあるものだよ。」
といった言葉を思い出してしまいました。

そういえばシューリヒトは練習がたいへん細かく厳しく、
自らを「ロマンテイスト」と発言していたことも思い出てしまい、
シューリヒトと宮崎監督とがなんとなく重なって感じてしまいました。

あと他にも、
「もっとも思い出のある作品は?」と質問されたとき、
ちょっとうなって考えられた後、

「自分の中でトゲのように残っている作品」
として
「ハウルの動く城」をあげ、

「スタートが間違っていた」

意味深な発言をされていました。


このあたりまでみていたら途中で放送が終わってしまいましたが、
とにかく今後は長編アニメにとらわれない
「自由」な活動をしていきたいということでした。

ただその結果がジブリ美術館の
「自分が展示品になるかもしれない」
ということも笑いながら発言されていました。

その「ジブリ」も監督によると、
こんなに長いことやるとは思ってもみなかったということを思うと、
ある意味、未練もあるけど一応満足、

といったところなのかもしれません。


とにかく宮崎駿監督、ひとまずお疲れさまでした。
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