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高関健指揮富士山静岡交響楽団を聴く(2/6) [演奏会いろいろ]

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2024年2月6日(火)
東京オペラシティコンサートホール 19:00開演 

曲目:
ブルックナー/交響曲 第8番 ハ短調 (ハース校訂による原典版)


「2020年11月、いずれもNPO法人であった静岡交響楽団(創立1988年)と浜松フィルハーモニー管弦楽団(創立1998年)が合体し、2021年4月より一般財団法人「富士山静岡交響楽団」として県下全域に密着した演奏活動を継続、2022年4月より公益財団法人の認可を受け、財政基盤の強化と更なる演奏力の向上に向けて大きく前進を続けている」

今回聴いたオケの公式サイトにある楽団紹介の一部をあげたけど、この富士山静岡交響楽団は静岡県内唯一の常設プロオーケストラ。

ただ神奈川のお隣のオケということなのに自分は一度もこのオケを聴いた事がない。指揮の高関さんも実演は今回が初めてということで、結構前からじつはかなり楽しみにしていた演奏会でした。

開演5分前に高関さんから今回の演奏についてのいくつかこの曲に対する考えがプレトークで述べられた。

高関さんに言わせるとブルックナーの交響曲のいくつかには、作曲家本人の意思だけでなく弟子たちの少しでも多くの人達に「受ける」ようにしようという「善意」からきた強い意見が反映されたものがあるという。しかもそこには原典版といわれているものにも存在している。

今回演奏される第8交響曲もそのひとつで、1887年の第一稿こそ作曲者がすべてを書き上げたものの1890年の第二稿、つまり最近一般的に演奏されているノヴァーク版(第二稿)やハース版は、完成までに弟子たちの意見によりかなり手が入り、第四楽章に至っては形的に「完成」こそしているものの、内容的には自分の考えと弟子たちの意見が混然一体となり、そこに何の解決も見出さぬままの「未完成」状態であるという。

今回の演奏はそれらのことを踏まえてハース版を基にしているものの、ブルックナー以外の手による部分を極力排除し、ブルックナー自身のそれに近づけようという試みがあるという。

自分はこれを聞いた時、この日の演奏のテーマはブルックナーに対し「あなたの本音はどこにあるのか」ということを曲から聞き出すことのように感じた。

おかしな例えかもしれないが、それはシャーロック・ホームズや金田一耕助のような名探偵が、目の前にある多くのヒントからいかに事の真実に辿り着くかという、その推理と考察にひじょうに似ているように感じられた。

そうなると学究的なものに固執するというより、事実という多くの点と点を理論と感覚と経験をもとに結び付けていくことで、ひとつのドラマに仕上げていくという作業に近いものになるような気がしたのですがはたして。

結論からいうとひじょうに熱量の高く、劇的で強いブルックナーだった。

そういうとかつての飯守泰次郎さんのそれを想起させるけど、あれほど厳しいタッチで強烈に描いたという感はなく、金管などはかなりの咆哮を要求してはいるが、それ以外は鋭角的だったり刺激的だったりという響きはあまり感じられず、むしろ腰を据えた打っても叩いてもびくともしない安定感と音の厚みの方が強く印象に残る音作りになっていた。

また音の厚みというけど、重厚さとはまた違った趣で、第三楽章の冒頭など弦楽四重奏的ともいえる、線的な響きを軸とした横の流れの平行的ともいえる美しさが異常なほど印象に残ったりするところもあった。

プレトークでの高関さんの言葉にもあったように、確かにブルックナー以外の手の入った音にいろいろ施した結果、聴きなれない音や無くなった音などがいろいろとあったように聴こえたけど、聴いているとそんなことよりも、上にあげた音楽そのものの印象の方がより強く感じられるものとなっていた。

特にそれは後半二つの楽章により顕著にあらわれていたような気がする。

じつはこの日。第二楽章終了後オケがチューニングをし、その後第三楽章へという段取りだったのですが、何故かチューニングが終わっているタイミングで、一階席前方から後方扉に向かって退席する女性の方がいた。しかもその靴の音がなかなかしっかりとホール内に(決して大きな音ではなかったけど)が響いていたため指揮が始められない状況がおきた。

これは後半どう影響するのだろうかと危惧したが、むしろそれで火が付いたかのようにより集中度の高い音楽が鳴り響いた。

その第三楽章はヨッフムやチェリビダッケあたりの指揮だと神の声が天から降りてくるような趣になるけど、高関さんの場合は天に向かってブルックナーが渾身の祈りを捧げているような趣だった。

このため宗教性が後退したように感じられたかもしれないけど、モーツァルトのレクイエムやベートーヴェンのミサのような演奏会用宗教音楽的劇性がその分強く投影されたように感じられた。ムラヴィンスキーの同曲の録音における第三楽章でも似たような印象を受けたことをこのときふと思い出したが、そういえばあれもハース版だった。

終楽章も前のめりにならない怒涛の演奏という感じで、煽情的ではないものの、音の流れの強靭さのようなものがとにかく全面に出た演奏で、終演後間髪入れず拍手が起きたのも、ふつうなら余韻を楽しみたいだけに嫌な気持になるところ、この日は「もうこれはしかたない」と、ちょっと納得してしまうほど音楽が聴き手を強く巻き込む類の圧倒的な音楽がそこにはありました。

このため終演後はかなり熱狂的な反応が会場から湧き上がりましたが、これは指揮の高関さんだけでなくオケに対しても当然ありました。

この日初めて聴いた富士山静岡響。編成は14~12型の中間くらいでしたがオケのパワー、特に管楽器がなかなか強力で、ホール内にかなりの音響を形成していました。また弦楽器も表情豊かな音楽を奏でていて、第三楽章のシンバルが鳴る前後の強い思いの丈を感じさせる音楽には強い感銘を受けました。

それにしても四日間でブルックナーの大曲を三カ所三公演というのはなかなか凄いです。ただたいへんだったかもしけませんが、最終日のこの日はそれまで練習と二回の本番で、しっかり練り込まれた見事な演奏で高関さんの指揮に応えていたと思います。

またいつか機会があったら聴いてみたいオケです。

因みにこの日コンサートマスターは、ゲストソロコンマスの藤原浜雄さん。

最後に。

終演後何故かハース版を聴いたにもかかわらず、どこか作曲者自身の手でつくられた初稿版のような感覚がどこか付きまとう、それこそ初稿と二稿の間の、1.75稿みたいな感じが今でもずっとしています。

ブルックナーの音楽は弟子の手を離れれば離れるほど、今日のようにより思いの丈が前へ前へと出てくる熱いものなのかもしれませんし、そこには作曲家ブルックナーだけでなく、オルガンの即興演奏の大家として聴衆を熱狂させた、演奏者ブルックナーの奔放かつ狂熱的な姿がより明確に浮かび上がってくるのかもしれません。

逆に言えば弟子たちのそれはブルックナーのそれをより一般受けさせるために、ワーグナー的な聴きやすさ、もしくは耳の心地よさを織り込んだものといえるのかもしれませんが。これれはあくまでも自分の感覚的な物言いです。

そういう意味でも、とても貴重な体験もできた演奏会でした。

以上で〆


※追加

指揮の高関さん。

なんというのかひじょうにしっかりと音楽を計算し設計しているという印象を受けたのと同時に、熱狂のようなものもある程度計算してつくりだしているような感じを受けました。

もっともそれはスコアを読みつくせばそうなるということの表れともいえるかもしれませんが、そういう意味ではカラヤンやメンゲルベルクとちょっと近しい部分も感じられました。

近々演奏されるマーラーや「幻想交響曲」そして「英雄」やバルトークのオケコンもそれを思うとなかなかの聴きものになるような気がします。

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