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ムラヴィンスキー来日(1981、1986) [ムラヴィンスキー]

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※クリックすると、もう少し鮮明になります。

5月29日:神奈川県民ホール
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

6月1日:群馬県民会館
モーツァルト/交響曲第39番
プロコフィエフ/交響曲第6番

6月4日:東京文化会館
モーツァルト/交響曲第39番
プロコフィエフ/交響曲第6番

6月17日:名古屋市民会館
モーツァルト/交響曲第39番
プロコフィエフ/交響曲第6番

6月20日:福岡サンパレス
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

6月23日:フェスティバルホール
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

6月26日:NHKホール
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番


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9月25日:昭和女子大人見記念講堂
[ショスタコーヴィチ生誕80周年記念演奏会]
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番
チャイコフスキー/交響曲第5番

10月1日:シンフォニーホール
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番
チャイコフスキー/交響曲第5番

10月19日:サントリーホール
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

じつはこの来日公演の前、
「ウィーンのムラヴィンスキー」
という1978年に楽友協会大ホールで収録された、
LP四枚分のライブ録音が登場した。

音質は些か残念なレベルではあったけど、
それでも久しぶりのステレオによる新録音で、
しかも曲目も定評のあるものばかりということで、
コンサートに行っていない人たちにも、
近年のムラヴィンスキーの円熟ぶりを知らしめた事もあり、
この時の来日公演は久しぶりに話題性の高い公演となりました。


ですがご存じのように、
この1981年はオーケストラそのものが来日中止。
代わりにシモノフとキタエンコ指揮のモスクワフィルが来日。

ただこれではあまりにも役不足となったためか、
この公演の中止により長らくレニングラードフィルを招聘元し続けた、
新芸術家協会が倒産。

このため秋のカラヤン指揮ベルリンフィルの来日公演が、
あわや吹っ飛ぶのではないかと危惧されましたが、
これを別の所が代行し事無きを得るという、
かなり荒れた展開が繰り広げられてしまいました。


この来日中止は日本のモスクワ五輪ボイコットが理由といわれていますが、
1979年の亡命事件時に当局とムラヴィンスキーが、
売り言葉に買い言葉で「言ってはいけない」言葉を両者が発し、
このため党員でなかったムラヴィンスキーに、
オケのメンバーの多くに渡航ビザを発給しないという、
あり得ない蛮行を直前に当局がしかけたというのが、
公演中止の実情だったようです。


その後ムラヴィンスキーもレニングラードフィルも来日の予定はなく、
来日がありそうだった1983年も来日は無く、
正直この時点で個人的にはもう来日は無いと覚悟はしていました。

ですがその後ゴルバチョフ政権になると、
それまで途絶え気味だったソ連のオーケストラの来日が活発化し、
1986年には、

モスクワ放送交響楽団が11年ぶりの来日。
ソビエト国立文化省交響楽団が初来日。
そしてレニングラードフィルが7年ぶりの来日。

しかもそこにはムラヴィンスキーの名前もあり、
これが最後だろうという事もあって、
同時期にヨッフム指揮コンセルトヘボウや、
チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィル、
そして結局は小澤征爾に変更になったものの、
カラヤン指揮ベルリンフィルの来日があったものの、
それらと比べてもこの前評判はかなり高いものがありました。

そしてこの当時、
メロディア系を中心とした、
ステレオ録音のCD14点をカタログにあげていたビクターは、
当時販売していたVHSとVHD用に、
この公演の収録も予定していました。


ですが残念ながら1985年頃から体力の衰えが見えだしたムラヴィンスキーが、
この来日前に体調そのものも好調とはいえないこともあり、
結局来日取りやめとなってしまいました。

本人はその後コンサートを開けるぐらい回復したものの、
日本行きはやはり負担が大きすぎるということだったのでしょう。

その後翌年三月に行われたコンサートを開くも、
体調は芳しくなく、
晩秋に予定されていたコンサートも結局キャンセル、
翌1988年1月19日に亡くなられました。

このときはNHKのニュースにもなり、
また毎日新聞はかなり大きな訃報を当時掲載しています。

翌年レニングラードフィルは、
1989年にテミルカーノフとマリス・ヤンソンスの指揮で、
ムラヴィンスキー没後初めて来日しますが、
その演奏は全体的にどこかちぐはぐで、
決して誉められたものではありませんでした。

ですがムラヴィンスキーのレパートリー中、
彼が特に得意として何度も演奏された曲を演奏すると、
その時だけムラヴィンスキーの音が突然鳴り出すという、
驚くべき事にも何度か出会いました。

それを聴いた時、、
最後にもう一度だけムラヴィンスキーを聴く事ができたようで、
オーケストラに深く感謝をしたものでした。


その後メンバーも大きく入れ替わり、
都市名の変更ととものにオケの名前もかわり、
文字通り「レニングラードフィル」は消滅しましたが、
その時の録音がいくつも記録して残っているのはありがたいことです。

今後はヨーロッパ各地での録音が発掘され、
耳にできる機会が増える事を願ってやまない次第です。


以上で〆


2018年1月19日。ムラヴィンスキー40回目の命日に寄せて。
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ムラヴィンスキー来日(1977、1979) [ムラヴィンスキー]

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9月25日:神奈川県民ホール
ワーグナー/マイスタージンガー、第1幕への前奏曲
ワーグナー/ローエングリーン、第1幕への前奏曲
ワーグナー/タンホイザー、序曲
ブラームス/交響曲第2番

9月27日:東京文化会館
ワーグナー/マイスタージンガー、第1幕への前奏曲
ワーグナー/ローエングリーン、第1幕への前奏曲
ワーグナー/タンホイザー、序曲
ブラームス/交響曲第2番

9月30日:福岡市民会館
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」
チャイコフスキー/くるみ割り人形、抜粋

10月4日:広島郵便貯金ホール
シベリウス/トゥオネラの白鳥
シベリウス/交響曲第7番
チャイコフスキー/交響曲第5番

10月6日:フェスティバルホール
ワーグナー/マイスタージンガー、第1幕への前奏曲
ワーグナー/ローエングリーン、第1幕への前奏曲
ワーグナー/タンホイザー、序曲
ブラームス/交響曲第2番

10月8日:フェスティバルホール
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」
チャイコフスキー/くるみ割り人形、抜粋

10月10日:名古屋市民会館
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」
チャイコフスキー/くるみ割り人形、抜粋

10月12日:東京文化会館
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」
チャイコフスキー/くるみ割り人形、抜粋

10月16日:新潟県民会館
シベリウス/トゥオネラの白鳥
シベリウス/交響曲第7番
チャイコフスキー/交響曲第5番

10月19日:NHKホール
シベリウス/トゥオネラの白鳥
シベリウス/交響曲第7番
チャイコフスキー/交響曲第5番


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5月16日:宮城県民会館
グラズノフ/交響曲第5番
チャイコフスキー/眠れる森の美女、抜粋
チャイコフスキー/フランチェスカ・ダ・リミニ

5月21日:東京文化会館
ベートーヴェン/交響曲第6番
ワーグナー/トリスタンとイゾルデ、前奏曲と愛の死
ワーグナー/ジークフリート、森のささやき
ワーグナー/ワルキューレ、ワルキューレの騎行

5月25日:金沢厚生年金会館
グラズノフ/交響曲第5番
チャイコフスキー/眠れる森の美女、抜粋
チャイコフスキー/フランチェスカ・ダ・リミニ

5月28日:フェスティバルホール
ベートーヴェン/交響曲第6番
ワーグナー/トリスタンとイゾルデ、前奏曲と愛の死
ワーグナー/ジークフリート、森のささやき
ワーグナー/ワルキューレ、ワルキューレの騎行

6月2日:名古屋市民会館
ベートーヴェン/交響曲第6番
ワーグナー/トリスタンとイゾルデ、前奏曲と愛の死
ワーグナー/ジークフリート、森のささやき
ワーグナー/ワルキューレ、ワルキューレの騎行

6月5日:神奈川県民ホール
ベートーヴェン/交響曲第6番
ワーグナー/トリスタンとイゾルデ、前奏曲と愛の死
ワーグナー/ジークフリート、森のささやき
ワーグナー/ワルキューレ、ワルキューレの騎行

6月8日:NHKホール
グラズノフ/交響曲第5番
チャイコフスキー/眠れる森の美女、抜粋
チャイコフスキー/フランチェスカ・ダ・リミニ


1977年公演は、
そのプログラムの質量、さらに公演回数からみて、
ムラヴィンスキーが最も充実していたツアーといっていいのかもしれません。

特に今回は前回かなわなかったオールドイツ音楽プロもあり、
ムラヴィンスキーの魅力前回となったものでした。

ただ面白いのはこの年が、
べートーヴェン没後150年という事もあって、
この年来日した各オーケストラ、

スイトナーとベルリン・シュターツカペレ
ベーム&ドホナーニとウィーンフィル
ハイティンクとコンセルトヘボウ
ショルティとシカゴ
カラヤンとベルリンフィル

この各団体がかならずベートーヴェンの交響曲をプログラムに組み込んでいたのに対し、
ムラヴィンスキーは四度の来日中、
なぜかこの年だけベートーヴェンを指揮しませんでした。

このあたりがいかにもという気はします。

因みにムラヴィンスキーが10月に東京滞在時、
じつは読売日響に客演するため初来日していた、
セルジュ・チェリビダッケも東京にいました。

おそらく両者とも同じ文化会館で演奏や練習をしているため、
ホールに告知掲載されている、
互いの公演のポスターを目にしている可能性があり、
この二人が互いをこのときどう意識していたのか、
今でもとても気になっています。


尚1975年来日時には、
偶然同時期にバイエルン放送響と来日していたクーベリックと再会、
彼のコンサートの成功に祝電を送ったとのことです。


そしてその一年半後の1979年来日公演。

曲目がかなり地味という事と、
バーンスタイン指揮のニューヨークフィルの、
その絶賛された来日公演が終了したばかりということもあり、
最も話題的に地味になったツアーだったと思います。

しかも来日前には、
長年このオケのコンマスを勤めていたリーバーマンが亡命、
そしてさらに拙いことに、
この公演の6月8日公演の直前には、
オケのメンバー二人が亡命してしまうという事態が発生、
これが後々大きく尾を引くこととなってしまいます。

文化会館でムラヴィンスキーが指揮をした時、
客席からたまにムラヴィンスキーの指揮棒がある高さにくると、
その指揮棒の先がキラっと光ったのが今でも印象に残っていますが、
それもこの公演で見納めになってしまいました。

因みに人づてに聞いた話では、
このとき演奏された「ワルキューレ」が、
ある会場で最後物凄い大リタルダンドをかけたため、
とんでもなく巨大な演奏になってしまったらしいのですが、
終演後指揮者がなかなか客席をふり返えらなかったため、
「ひょっとして振り間違え?」
という噂がたったとか。

はたして事の真偽はいかに。
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ムラヴィンスキー来日(1975) [ムラヴィンスキー]

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この公演。

前回とは違い前年には早くも発表され、
比較的余裕をもって進められているかのように、
当初そうみえていたのですが、
なんと今度は一部公演日でなかなか曲目が決まらない。
(上記の△印の公演)

主催者の新芸術家協会に聞いても

「先方から何の連絡も来ない」

とお手上げ状態のようでした。

その後やっと曲目が決まり無事発売されたかと思うと、
今度はベートーヴェンの交響曲第5番等が演奏される日のうちの3公演が曲目変更。
(上記※印)

後半がすべて今回の公演に入っていなかった、
チャイコフスキーの交響曲第5番にすべて変更された。

このため当時の「音楽の友」のチケット売買掲示板には、
かなりこの該当日のチケット売りますというそれが、
かなり大量にでまわっていました。


これがなぜこんなに曲目決定の遅れや変更が、
この公演でこうもあったのかということを、
後にムラヴィンスキーが来日歓迎のレセプションで、
その理由の一端を語ってくれました。

これは当時の毎日新聞に写真入りで紹介された記事にその事が書かれていますが、
それによると

「来日前に体調を崩してしまい、ショスタコーヴィチの交響曲第8番を仕上げることが出来ずもってくることができなかった。」

という発言。

おそらくこのため手慣れたチャイコフスキーの5番を公演に入れ、
ショスタコーヴィチの8番が発表前に5番に変えるなどの、
プログラムの組みなおしや、
代替の曲目選定に時間がかかったみたいです。


ただ「日本だからまた来たのです」ということもこのとき話ているように、
この来日は本人の強い希望なくしては実現しなかったようです。

最終的には以下のような公演となりました。

5月11日:神奈川県民ホール
プロコフィエフ/交響曲第6番
ベートーヴェン/交響曲第5番

5月13日:東京文化会館※
モーツァルト/交響曲第39番
チャイコフスキー/交響曲第5番

5月19日:宮城県民会館
モーツァルト/交響曲第39番
チャイコフスキー/交響曲第6番

5月21日:NHKホール△
プロコフィエフ/交響曲第6番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

5月23日:フェスティバルホール
モーツァルト/交響曲第39番
チャイコフスキー/交響曲第6番

5月26日:広島郵便貯金ホール
プロコフィエフ/交響曲第6番
ベートーヴェン/交響曲第5番

5月30日:岡山市民会館
プロコフィエフ/交響曲第6番
ベートーヴェン/交響曲第5番

6月1日:フェスティバルホール※
モーツァルト/交響曲第39番
チャイコフスキー/交響曲第5番

6月4日:名古屋市民会館※
モーツァルト/交響曲第39番
チャイコフスキー/交響曲第5番

6月7日:東京文化会館
モーツァルト交響曲/第39番
チャイコフスキー/交響曲第6番


この時は前回と違い放送等は一切ありませんでした。

演奏は個人的には、
曲により若干ムラはあったものの、
自分はかなり満足度の高いものとなりました。

ただこの時の「音楽の友」における評はいまいちで、

「厳しさも一歩踏み外すと魅力のないものになる。」

というそれが語られたりしていました。

もっとも音楽の友とムラヴィンスキーはいまいち相性というか、
いろいろとついてない事が多く、
1979年にはムラヴィンスキーの公演の評は、
締め切り等の関係もあったせいか掲載されず、
(アルヴィド・ヤンソンス公演時の評はある)
また四度の来日時に、
ムラヴィンスキーの顔が表紙を飾ることは一度もありませんでした。


この公演は前評判はそこそこあったものの、
話題性としては若干最後地味になったところがあり、
また録音も1973年来日時以降新しいものはなく、
むしろ古い録音が日本で初発売され来日記念盤になるという、
なかなか話題づくりに苦しむ部分もあったようですが、
それが後々来日公演のチケットが入手しやすくなるという、
こちらとしてはありがたい事に繋がっていくことになります。

ある意味「好きな人達」だけが集まるという、
「定期公演」的な雰囲気がその後は会場にけっこう感じられる、
そんなものへとなっていきました。
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ムラヴィンスキー来日(1973) [ムラヴィンスキー]

1973年初め。

三年前の大阪万博時に初来日を果たしたリヒテルの再来日公演が、
突然本人の急病により無期延期となってしまいました。

ソ連当局は前年日ソ平和条約締結交渉をはじめていたこともあり、
ここは自分達の面子上どうしても日本の聴衆が納得する代わりを、
急遽たてなければならない状況になりました。

このため当局は70年には来日を自らが阻止したムラヴィンスキーに、
急遽来日公演をさせるという命をくだしました。


これがいかに急なみのであったかは、
当時この公演の主催だった毎日新聞が、
2月21日朝刊の社告として告知をだした事からも伺えます。

チケット発売はなんと2日後の23日。

この時日本公演の初日にあたる京都公演まではたった三ヶ月しかありません。
オーケストラの来日公演としては前例の無い、
極めて異例の事態でした。

公演プログラムは前年の10月から11月にかけて行われた、
西ドイツ・オーストリア公演で演奏されたものを中心に組まれました。

こちらも急な事だったようです。

その後来日間近の4/28.29の両日、
本拠地レニングラード音楽院大ホールでは、
この来日公演のプロからの曲による演奏会が、
来日公演のリハ込みのような形で行われています。
(この時のライヴもメロディアから発売されています[一部はビデオ化])

そして10日後の5月9日に飛行機嫌いのムラヴィンスキーは、
じつに150時間にもわたるシベリア鉄道の旅につきました。

その後ナホトカで後発したオケの面々と合流した後客船バイカル号に乗り継ぎ、
5月18日の午後4時に横浜大桟橋に到着しました。

この時ムラヴィンスキーはオケの後から最後に上陸し、
淡いグリーンのコートに身をつつみ、
「約束をはたしにきましたよ」といって笑顔で挨拶をしたそうです。

その後新幹線で移動したムラヴィンスキーは、
5月21日に京都で歴史的な日本公演初日のタクトをとることとなります。


この時日本公演初日にあたる5/21プロの京都公演の模様を小石忠男氏は、

「ショスタコーヴィチの交響曲第6番が極度に緊張した透明な響きを起伏させると、本当に荘厳な儀式が行われているような気分が襲ってきた。それほどムラヴィンスキーの音楽は厳しく透徹したものである。-(中略)-、この演奏ではチャイコフスキーの持つ古典的な構成感が浮き彫りにされ、実に強靭な表現が生み出され。それは毅然とした感動的な人生を肯定した音楽であった。」

と評していました。

ムラヴィンスキーは後日別のインタビュー時に、
その見事な指揮ぶりを賞賛されると、

「そういわれるのは本当にうれしいが、オーケストラというのはもともとそのようなものではないか。もう35年すみずみまでしつりつくしているのはあたり前のことだし、ただ指揮者だけの力と は思わないでほしい。オーケストラと両者の力があつまって演奏を生むのだから。」

と答え、また公演初日となった京都の印象を聞かれると、

「そこには古い歴史が息づいている。伝統のよさが生かされている。この歴史について思いをめぐらしているうちに、それは火を吐くドラゴン(地震?)との戦いではなかったか。という感想にたどりついた。このたたかいにきたえられて日本人は素晴らしい建物をつくった。汽車だって素晴らしい。
 日本の聴衆は自分たちの音楽をよくわかってくれる。それは永年の経験というもので、背中
にピンと伝わってくる。日本の聴衆に心からのあいさつをおくりたい。」

こでいう「汽車」というのは、
この時横浜から京都への移動に使用した新幹線の事で、
当時新幹線ホームでのムラヴィンスキーの写真が、
書籍等に掲載されています。


その後5/26は東京公演の初日が、
トロヤノフスキー駐日ソ連大使等も臨席した中演奏されました。

この時の模様は5月31日にTVでも放送されました。
(この模様は音のみですが、現在Altusから発売されています)

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※、因みに上の写真は、来日時に横浜大桟橋で撮影されたものかと。


この初来日時にある在京オケの方が6月1日野を公演聴かれたとき、
チャイコフスキーの5番の第2楽章のホルンのソロを

「とてもホルンの音とはおもえなかった。まるでトロンボーンのように力強く響くその音に驚嘆した。」

というコメントをしています。

このソロはおそらく、
ソ連史上最大のホルン奏者ブヤノフスキーのものと思われますが、
この時のレニングラードフィルは、
ムラヴィンスキーの強大な音楽を表現することのできる、
まさに史上稀に見る巨大な情報量をもつオケでもあったようです。

自分はこのときの公演を、
それからしばらくして再放送された、
NHKのTV放送でしかみてないないのですが、
このとき観たショスタコーヴィチの5番!

とにかく指揮が激しい!

その激しい指揮により、
胸につけていたの勲章がこれまた激しく揺れる映像や、
文化会館の照明のせいか妙に頬の辺りに影ができてしまい、
顔に深い影を落として指揮をしていたその表情が、
とても印象に残ったのですが、
それ以上に演奏終了後こちらが「おお、すごいなあ」と思った瞬間、
指揮者が客席を振り返らない。

激しい歓声と爆発的な拍手にもかかわらず、
スコアを見ながらなにかを確認するようなそれをしていたのにはさらに驚いた。

もちろんそれは一瞬だったのかもしれないけど、
何か妙に長い時間それがあったように感じられた。

ただこの映像、その後確認ができないため、
最近思い違いかもしれないという気がしてきている。
どこかにそのときのVTRがないものだろうか。

因みにNHKでは、
当時ビデオテープが途方もなく高価だったらしく、
しばらくすると消去し再利用していということと、
この手の中継も「報道」であって「記録」ではないという姿勢から、
すべて消去されてしまったという事を、
関係者の方からお聞きしたことがあります。

尚、この公演の評価は賛否いろいろとあり、
当時「音楽の友」で担当された評論家の方はムラヴィンスキーを、

「歌はない指揮者」

として否定的に評されていた。

またこれはこの公演に限らず、
二年後の公演でもそれを聴いた、
当時来日中のアシュケナージとインタビューをされた評論家の方が、
やはり「音楽の友」の中でこれまた、
さらにより否定的な意見をされていた。

「頭の中だけで考えだ音楽で、心からのものが感じられない。」

というようなだいたいの意味でした。

もちろん賛辞の声も多くありましたが、
今はそちらの方ばかりクローズアップされいるようなので、
ここではあえてこのことにもふれておきたいと思います。


といわけで今度は否定的ではないものを、
この公演を聴かれた野村光一氏が、
1975年の来日公演パンフで述べられたものから。


「オーケストラを統率することでは、彼は天才的な手腕を発揮していて、それを完全にコントロールしてしまっていた。オケの末端に至るまで、如何ように輻輳した箇所にさえも彼の指揮棒はきわめて正確、俊敏に浸透してゆくのである。彼の棒はあたかもコンピューターのごとくありとあらゆる箇所へ誤りなく到達する。統率者としての彼の最大の強味はやはりリズム感の極度の正確さ、強靭さにあったようである。そのリズムは演奏基盤の最深奥まで断乎として触れており、そしてその上にまことに安定のある、これまた性格なテンポが載り、さらにそれに鮮やかなダイナミックが付随しているのだから、それが優秀な指揮者としての基本条件になったのだった。わたしは最近ベームの指揮するウィーン・フィルを聴いて、彼のベートーヴェンやシューベルトへの音楽表現があまりに深く、豊かであったのにまったく感激をさせられてしまったが、その彼の音楽の深奥さは、ウィーン・フィルを統率する際の彼のリズムとテンポが徹底的に正確無比であったことに依るのであり、いうなれば指揮者としての伎倆が客観的に完璧に発揚されたからなのである。この時わたしはそれと同じことをムラヴィンスキーがレングラード・フィルを駆使してチャイコフスキーで行っていたのを不図想い出したのである。ムラヴィンスキーはそんな指揮者ではないのだろうか。」

この時のムラヴィンスキーの演奏記録。

5月21日:京都会館
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番
チャイコフスキー/交響曲第5番

5月23日:フェスティバルホール
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番
チャイコフスキー/交響曲第5番

5月26日:東京文化会館
ベートーヴェン/交響曲第4番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

5月28日:東京文化会館
グリンカ/ルスランとリュドミラ、序曲
プロコフィエフ/ロミオとジョリエット、第2組曲
ブラームス/交響曲第4番

5月30日:東京文化会館
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番
チャイコフスキー/交響曲第5番

6月1日:東京文化会館
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

6月4日:宮城県民会館
グリンカ/ルスランとリュドミラ、序曲
プロコフィエフ/ロミオとジョリエット、第2組曲
チャイコフスキー/交響曲第5番

6月7日:フェスティバルホール
ベートーヴェン/交響曲第4番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番


最後に、ムラヴィンスキーの来日公演時に会場で発売されていたパンフレットに掲載されてた各年事の記事のタイトルを記しておきます。


(1973)

園部三郎:ロシア=ソ連音楽とレニングラード・フィルハーモニー
園部四郎:ムラヴィンスキー(その人と芸術)
門馬直美:レニングラード・フィル
木村重雄:来日したソビエト新進指揮者群像
志鳥栄八郎:ムラヴィンスキーのレコードから
野崎韶夫:レニングラード - 私の音楽地図


(1975)

野村光一:レニングラード・フィルとムラヴィンスキー
小石忠男:ムラヴィンスキーと古典派の音楽
井上和男:ロシア・シンフォニズムの系譜


(1977)

村田武雄:潔癖な指揮者とオーケストラ
菅野浩和:指揮者陣容への期待 - 特にムラヴィンスキーの芸術について
門馬直美:レニングラード・フィルとソビエトのオーケストラ
中村洪介:ムラヴィンスキー讃
宇野功芳:厳しく、深く、痛切な音楽
井上和男:ムラヴィンスキーと<ロシア音楽>
家里和夫:レニングラード・フィル -聞く度に新しい感銘を与えてくれるオーケストラ
佐川吉男:ソ連の指揮者雑感 -ムラヴィンスキーの師匠たちからマリス・ヤンソンスまで
加藤一郎:ロシア・シンフォニズムの魅力
野崎韶夫:レニングラード、白夜祭の頃


(1979)

野村光一:レニングラード・フィルハーモニー交響楽団とムラヴィンスキー
寺西春雄:アルヴィド・ヤンソンスとレニングラード・フィル
中村洪介:ムラヴィンスキーと《ロシア音楽》
船山隆:レニングラード・フィルの中の「伝統」
宇野功芳:ムラヴィンスキー…その独自の世界
柴田仁:ムラヴィンスキーの音楽哲学
森田稔:レニングラード・フィルとソビエトのオーケストラ

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ムラヴィンスキー来日(1958、1970) [ムラヴィンスキー]

ムラヴィンスキーは全部で8回の来日が予定され、
うち4回が実現しています。
これらすべてはレニングラード・フィルハーモニーとの公演です。

今回はそれぞれを簡単に振り返りたいと思います。


まず最初に予定されていたのが1958年、
大阪フェスティバル・ホールの柿落としがらみで、
大阪フェスティバル協会の招聘でしたが、
残念ながらこの時は来日が実現しませんでした。

理由としては以前から患っていた内臓系の手術の、
その術後の回復の遅れといわれています。

来日前から彼の録音や、
二年前のウィーンでの公演の評などが、
いろいろと取り上げられていただけに落胆されたものの、
彼の師のガウクが代わりに来日、
当時ソ連楽壇最大の実力者でもあり、
また彼の指揮がたいへん好評だったこともあり、
この公演はたいへん好評と話題をふりまき無事終了しました。

この時新聞に当初発表されていた、
ムラヴィンスキーののプログラムは、

4月15日、16日:フェスティバルホール
4月21日:日比谷公会堂
グリンカ/ルスランとリュドミラ、序曲
ムソルグスキー/ホヴァンシチナ、前奏曲
モーツァルト/交響曲第33番
チャイコフスキー/交響曲第4番


4月22日:日比谷公会堂
5月3日:フェスティバルホール
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番
グラズノフ/ライモンダ、組曲
チャイコフスキー/フランチェスカ・ダ・リミニ

というもの。

因みにこの初日ムラヴィンスキーによって予定されていた公演は、
代したガウクが指揮。CD化されています。

このときこの公演を聴かれた方の話によると、
演奏は二年前ムラヴィンスキーが指揮した時よりも、
随分新しい感じの響きがしたという意味の事を話されていました。

尚、この公演は叔父が聴きに行っており、
この時期聴いた指揮者の中で、
ガウクとミュンシュが特に素晴らしかったと、
いつも聞かされていました。


この後ムラヴィンスキー来日の話はしばらく途絶えますが、
1970年の大阪万国博覧会開催時に、
同オケとムラヴィンスキーの来日が発表。

12年ぶりということもあり、
こちらもたいへん大きな盛り上がりをみせていました。

特に録音も以前よりステレオ録音を中心にかなり増え、
1960年にグラモフォンに録音された、
チャイコフスキーの後期三大交響曲は、
依然そのベスト盤という地位を保ち続けていた時期の来日発表でした。

しかしこの時も来日直前に出国ビザが下りず(表向きは急病の為)、
代わりに彼の弟子である、
当時35歳であったアレクサンドル・ドミトリエフが来日しました。

(当時6月16日の毎日新聞朝刊には来日中止の理由を「心臓病」と発表していましたが、レニングラードフィルハーモニーが来日した直後の記者会見において、当時の同団団長は「4月に肺炎、その後気管支炎を併発、下旬には回復したものの、その後悪化し現在はドクターストップがかかり入院中。」というコメントを出しています。)

この時の関係者やファンの落胆は大きく、
特に年齢的に近いセルやバルビロリが相次いで急逝したため、
元来病弱という事が伝えられていたこともあり、
日本にはムラヴィンスキーはもう来日しないのではないかと思われたりしました。

この時のムラヴィンスキーが指揮する予定だった公演は以下の通り。

7月1日:フェスティバルホール
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

7月2日:フェスティバルホール
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番
チャイコフスキー/交響曲第6番

7月5日:フェスティバルホール
チャイコフスキーくるみ割り人形
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲(VN/ボリス・グトニコフ)
チャイコフスキー/フランチェスカ・ダ・リミニ

7月11日:福岡市民会館
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

7月15日:広島市公会堂
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

7月17日:名古屋市公会堂
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番
チャイコフスキー/交響曲第6番

7月19日:東京文化会館
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

7月20日:東京文化会館
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番
チャイコフスキー/交響曲第6番

7月22日:東京文化会館
チャイコフスキー/くるみ割り人形
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲(VN/ボリス・グトニコフ)
チャイコフスキー/フランチェスカ・ダ・リミニ


しかしその後ムラヴィンスキーはこの年の暮れには、
東ドイツのベートーヴェン生誕200年記念の一環の演奏会を行ったり、
72年にはモスクワ公演(この時のライヴはメロディアからも発売されています)、
そして西ドイツやオーストリア公演も行っています。

ただこの後、
ムラヴィンスキーもレニングラードフィルも来日の予定は無く、
1973年を迎えることとなります。
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ムラヴィンスキー新譜(2014年4月発売分)雑感、そしてお悔み。 [ムラヴィンスキー]

em1.jpg
em2.jpg

この二つの感想を書こうと思っていたが、
ブラームスの方のライナーの冒頭をみて驚いてしまった。

ムラヴィンスキー協会の事務局長の天羽健三氏が亡くなられていた。

76歳だったとのこと、

自分はここ数年協会とはかなり疎遠になっていたので、
この件については何も知らなかった。

天羽氏とは数度お会いしたことがある程度で、
それほど親しくお話ししたということはない。

ただ自分の本体サイトにあるムラヴィンスキーのページを、
協会の会報で紹介してくれたりといろいろと恩はあった。

最後はだいぶ前の話だが、
氏がAヤンソンスの演奏記録を調査していたとき、
日本における公演記録がかなり散逸しており、
なにか手段はないかということをメールされてきたのが最後だった。

あのとき自分は知っているすべてのやり方をメールしたが、
じつに手詰まり感のある返事を出してしまった記憶がある。

年齢的にもまだまだなので、
もうずぐムラヴィンスキーの最後の来日公演から35年経つこともあり、
また何か考えていらっしゃるのだろうかと考えていた矢先の訃報だった。

正直、天羽氏と初代協会会長の橋爪氏がいなかったら、
日本のムラヴィンスキー研究はかなり遅れていただろうし、
これほどいろいろとCDが音質的には玉石混合とはいえ、
市場に出回ることもなかっただろう。

それを思うとこの報はあまりにも自分には辛いものがある。
すぐに自宅にある仏棚にお線香をあげさせてもらいました。

心より哀悼の意を表したいと思います。


そんなことでいろいろとかつてのことを考えながら聴いた上記二つのCD。

[ALT-288]
・ウェーバー:歌劇『オベロン』序曲
・ブラームス:交響曲第2番ニ長調 Op.73

[ALT-299]
・シューベルト:交響曲第8番ロ短調『未完成』D.759
・ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 Op.47

という内容で、いづれも1978年6月のウィーン楽友協会でのライブ。
かつてオイロディスクレーベルからLP四枚組のボックスとして発売された。

これが初めて発売された1981年のときは、
数か月後にムラヴィンスキーの来日が迫っており、
しかも内容がこのときの曲目と1977年来日時の曲目があるということで、
かなりの話題になったものでした。

ただ音質のぬけが悪く、
しかも音のレベルもなんか一定していないというもので、
録音年代とは思えないほどレベルの低いものでしたが、
内容は驚嘆に値する素晴らしいものでした。

それが今回、以前発売になったチャイコフスキー同様、
たいへん聴きやすい音質として生まれ変わった。

たしかに「これがもう限界だろうな」というかんじもすることはするが、
ここまで音質が改善されれば言う事は無い。

というよりこんなに残響豊かな状態で聴くムラヴィンスキーというのも、
けっこう珍しいという気がする。

たしかに響きがかなり大きなため、
若干音楽のエッジが不鮮明な部分がないわけではないが、
この音質により弦の一枚岩感覚が強く出たことは嬉しかった。

またショスタコーヴィチでは
第一楽章からかつてNHKホールで聴いた、
ムラヴィンスキーの同曲を想起させられるものがあり、
冒頭の強烈な弦の響き、
弱音にくるとまるでホール全体の温度が下がったように感じるほど、
じつに結晶化されたような音が聴こえてきたり、
激しい部分ではやや前に腰を折り気味にして激しく指揮棒を振るその姿に、
「なんだ言われていたような小さな指揮じゃないじゃないか。」
などとホールで思っていた事をあらためて思いだしたりしたものでした。

だがそれ以上に圧巻だったのはブラームス。

同年本拠地で録音されたものや、
前年東京文化会館で自分が聴いた同曲よりもさらに激しい、
圧倒的な高揚感がかなりはっきりと今回は表出されていた。

ムラヴィンスキーは日本公演では、
ここはまるで第二の本拠地といわんばかりに、
いい意味でリラックスした演奏をしていましたが、
ことウィーンではブラームスの演奏に自分よりも深い歴史をもつウィーンということで、
それこそ他流試合的ともいえるほどに、
自らをかなり激しく燃え上がらせるような演奏へと駆り立てていったのでしょう。

確かにそれらのことは以前も感じられてはいましたが、
今回のCDはそれらがさらに見事に表出されたものとなっていました。

今回の以前出たチャイコフスキーも含めた全3枚のウィーンライブは、
今後末永く多くの人に愛し聴き継がれていくことでしょう。

たしかに1978年にしては最高音質というところまでは残念ながらいってませんが、
以前のものとの音質からみればはるかに良好になっています。

天羽氏もきっとこのCDのことを喜んでいると思われます。
ぜひ皆様もこの素晴らしいCDを一度お聴きになってみてください。

最後に制作関係者の皆様。
ほんとうにありがとうございました。
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ムラヴィンスキー新譜二点雑感 [ムラヴィンスキー]

ムラヴィンスキーの新譜CDが出た。

「1978年6月、ウィーン芸術週間でのチャイコフスキー第5番ライヴ録音と、1977年10月、大阪フェスティヴァル・ホールでの『未完成』と『くるみ割り人形』が鮮明な音質で登場!」

というもの。
で聴いた感想なのですが…はっきり明暗が分かれました。

まずチャイコフスキーの5番。

80001.jpg

正直驚きました。

気持ちティンパニーや一部の管楽器が引っ込み気味に感じられますが、
それ以外は完全に別物感覚です。

自分がこの前年聴いた同曲の感動が蘇ってくるように感じられたものでした。

自分はこのときのことを以前以下のうに書いています。



「(前略)

そして後半のチャイコフスキー。

これ以前はもちろんおそらく今後も聴くことのできない
「奇跡」の連続のような演奏となりました。
そしてこの後、ムラヴィンスキーのチャイコフスキーというと
自分にとって「=交響曲第5番」であり
「=1977年10月19日NHKホール」というかんじになってしまいました。

ですがじつはこの時のチャイコフスキーの5番は
この指揮者の数ある同曲の演奏の中でも、
極めて特異なものであったという気がしています。

 ムラヴィンスキーが1973年4月に本拠地で録音したライブや、
1975年に日本公演で録音されたきわめて厳しい音質によるライブは、
それまでの峻厳な中にバランスよく音楽を刻み込んでいく
50年代末期から続くムラヴィンスキーのスタイルが踏襲されています。
また1980年以降のそれでは、
音楽に清澄さと静かなバランスのよい風格が備わった演奏となっていますが、
この1977年の日本公演での演奏や、
翌年のウィーンライブにおけるそれはそのどちらとも違う、
ある意味均衡やバランスのよさを二の次にしたような演奏となっています。

それは厳しい造型の下にいつもは隠されている、
この指揮者の激しい感情の吐露が
一気にその割れ目から噴き出してきたようなかんじでして、
しかもそのことによっておきた今までにはなかったような激しい表情の変化が、
次から次へと表出されていくその様は、
音楽が生き物であるということを痛感させられるくらい鮮烈なものがありました。

しかも随所にこちらの予想しない表情があらわれては消えと明滅していくのですから、
これはもただごとではないというかんじがしたものの、
同時に途中からは正直に言えば自分の器の小ささに悔しさも感じたものでして、
こんな演奏もう一生聴けないという一期一会的な感覚と、
自分に対する激しい憤りが交錯するという、
今まで一度たりとも経験したことがない状況に自分は直面したものでした。
(このときの第2楽章冒頭の弦の完全に静態したままの響きなどは
いまだに忘れがたいものがあります。
また終楽章でのコーダで一瞬音が小さくなる部分で、
いきなり音がムラヴィンスキーの背中の一点から響くような
音の絞込みをした瞬間はなにが起きたか一瞬わからなくなるくらい驚嘆したものでした。)

(中略)

それにしてもNHKホールがこれほど雄大に鳴った演奏というのを
自分はあまり聴いた記憶がありません。
四ヶ月前にショルティ指揮のシカゴによる「幻想交響曲」や
アンコールでの「タンホイザー」序曲でさえこんなことはありませんでした。

たしかにシカゴの場合は音の方向にあるものに対しては圧倒的な力を誇示するものの、
その方向からずれるとややその力が弱まって感じられるふしがありました。

それがレニングラードの場合は、
弱音に強く聴き手の耳を意識させ
研ぎ澄まさせるということをさせた上でのということもあるのでしょうが、
音の進行方向の直線上だけでなく、
そのホールの背後というか側面からも響きをつくりあげている部分があるためか、
その音の進行方向の直線上にいない人にも
圧倒的な音を誇示することを可能としていたようです。

 (聴き手の耳を弱音に集中させ自らの懐にひきこむことにより、
これらの事象を強く聴き手の感覚ベースに浸透させその結果、
直線的な音とその背後や側面から響かせる音、この二つの種類の音をより実感させ、
その上でこれらの音が渾然一体となってホールに圧倒的に鳴り渡ることを
聴き手により痛感せしめた。
いわばムラヴィンスキーとこのオーケストラのみしかできない音楽が、
このときNHKホールにこれ以上考えられないほどに理想的に鳴り響いていたのです。
まさにこれは「奇跡」の時間そのものでした。)

(後略)」



以上です。

これらの事が昨日のように思い起こされる気がしたほどでした。
よくぞCD化してくれたと、本当に感謝です。

ただ人によっては音質的に若干漂白傾向があるように感じられるかもしれませんが、、
個人的にはとりたてて気になるようなものではありませんでした。

他のウィーンライブも再発されるようなので、
ぜひこのレベルであってほしいと願います。


そしてもうひとつ。

・ウェーバー:歌劇『オベロン』序曲
・シューベルト:交響曲第8番ロ短調『未完成』D.759
・チャイコフスキー:『くるみ割り人形』(抜粋)

の大阪ライブ。

80002.jpg

いきなり結論からいいます。これダメでしょう。

録音は多少弦が薄い感じがするものの、
ティンパニーも管もかなり明瞭かつ分離よくとらえられている。

だがそれが裏目にでている。

本来このオケはひじょうに独特のブレンド感を弦管それぞれもってるのに、
これだと管が残響の少なさも手伝ってちょっとぱさついてしまっている。

だが問題はそんな小さなことではない。

とにかくオケも指揮者も大不調だ。
前半のウェーバーとシューベルトはまだなんとかいいけど、
後半のチャイコフスキーはもう散漫にとっちらかってしまってる。

特に終盤の管の不調と金管の音程の不安定さは些か強烈で、
いままではここまでいくまえに踏みとどまることで、
それが絶妙な表情を生んでいたのだが、
今回はそれを踏み越えてしまっている。

指揮者の推進力の不足も意外だったが、
それ以上にオケの疲れのようなものが半端じゃない。

ここでこのときのツアーの日程をみてみよう。
(これも本当はCDに付録としてつけるべき!いつも言いますがこういうのはメーカーの怠慢です。商品に愛着が無いのでしょうか?ひじょうに残念です。)


◎1977年レニングラード・フィルハーモニー交響楽団日本公演
○同行指揮者:エフゲニー・ムラヴィンスキー、マリス・ヤンソンス

9月25日:神奈川県民ホール/ムラヴィンスキー
ワーグナー/マイスタージンガー、第1幕への前奏曲
ワーグナー/ローエングリーン、第1幕への前奏曲
ワーグナー/タンホイザー、序曲
ブラームス/交響曲第2番

9月26日:東京文化会館/ヤンソンス
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(P/ラザール・ベルマン)
チャイコフスキー/交響曲第4番

9月27日:東京文化会館/ムラヴィンスキー
ワーグナー/マイスタージンガー、第1幕への前奏曲
ワーグナー/ローエングリーン、第1幕への前奏曲
ワーグナー/タンホイザー、序曲
ブラームス/交響曲第2番

9月29日:武雄文化会館/ヤンソンス
ロッシーニ/どろぼうかささぎ、序曲
ショスタコーヴィチ/交響曲第9番
チャイコフスキー/交響曲第4番

9月30日:福岡市民会館/ムラヴィンスキー
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」
チャイコフスキー/くるみ割り人形、抜粋

10月2日:鹿児島文化センター/ヤンソンス
ロッシーニ/どろぼうかささぎ、序曲
ショスタコーヴィチ/交響曲第9番
ドヴォルザーク/交響曲第9番

10月4日:広島郵便貯金ホール/ムラヴィンスキー
シベリウス/トゥオネラの白鳥
シベリウス/交響曲第7番
チャイコフスキー/交響曲第5番

10月6日:フェスティバルホール/ムラヴィンスキー
ワーグナー/マイスタージンガー、第1幕への前奏曲
ワーグナー/ローエングリーン、第1幕への前奏曲
ワーグナー/タンホイザー、序曲
ブラームス/交響曲第2番

10月8日:フェスティバルホール/ムラヴィンスキー
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」
チャイコフスキー/くるみ割り人形、抜粋

10月9日:福井文化会館/ヤンソンス
ロッシーニ/どろぼうかささぎ、序曲
ショスタコーヴィチ/交響曲第9番
ドヴォルザーク/交響曲第9番

10月10日:名古屋市民会館/ムラヴィンスキー
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」
チャイコフスキー/くるみ割り人形、抜粋

10月12日:東京文化会館/ムラヴィンスキー
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」
チャイコフスキー/くるみ割り人形、抜粋

10月13日:札幌厚生年金会館/ヤンソンス
シチェドリン/オーケストラの為の協奏曲「愉快なチャストゥスカ」
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲(VN/ヴィクトル・トレチャコフ)
ドヴォルザーク/交響曲第9番

10月14日:室蘭新日鉄体育館/ヤンソンス
ショスタコーヴィチ/交響曲第9番
モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲第4番(VN/ヴィクトル・トレチャコフ)
チャイコフスキー/交響曲第4番

10月16日:新潟県民会館/ムラヴィンスキー
シベリウス/トゥオネラの白鳥
シベリウス/交響曲第7番
チャイコフスキー/交響曲第5番

10月17日:前橋市民会館/ヤンソンス
ショスタコーヴィチ/交響曲第9番
モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲第4番(VN/ヴィクトル・トレチャコフ)
チャイコフスキー/交響曲第4番

10月18日:千葉文化会館/ヤンソンス
シチェドリン/オーケストラの為の協奏曲「愉快なチャストゥスカ」
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲(VN/ヴィクトル・トレチャコフ)
ドヴォルザーク/交響曲第9番

10月19日:NHKホール/ムラヴィンスキー
シベリウス/トゥオネラの白鳥
シベリウス/交響曲第7番
チャイコフスキー/交響曲第5番

10月20日:東京文化会館/ヤンソンス
ロッシーニ/どろぼうかささぎ、序曲
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲(VN/ヴィクトル・トレチャコフ)
ドヴォルザーク/交響曲第9番


これをみると大阪あたりでちょうど日程的に疲れそうなところに、
それまで北陸、九州、山陽と、大移動である。
まあ1975年に博多まで新幹線が開通しているので、
そのあたりは多少軽減されてるかもしれないが、
やはりきついことはきつい。

しかも悪いことにこの大阪のプロは一週間前に一度きりで、
これでは調子などなかなかでるとは思えない。

東京公演が名演になったのは、
この大阪と二日後の名古屋があったからだろう。

ムラヴィンスキーは回数をこなすと調子がでてくるタイプのようなので、
大阪ではそれが悪い方にでてしまったというところだろうか。

まあそれでも凡百の演奏に比べればたいした演奏なのですが、
ムラヴィンスキーという指揮者を期待してきくとちょっとあれかなという気がします。
ムラヴィンスキーもレニングラードフィルも人間なんだなと、
そういう一コマをみたようなそんなCDです。

もっともこれは個人的感想なので、
これと逆にチャイコフスキーより大阪の方がいいという人もいるかもしれません。

そのあたりは人それぞれということで。

今回はちょっとキツイ言い方をしましたが、
それだけムラヴィンスキーの演奏はハードルを下げられないということです。

以上です。
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ムラヴィンスキーのこと [ムラヴィンスキー]

自分が学生の頃、巨人がV9を達成し山口百恵がデビュー、そして宇宙戦艦ヤマトのTVが翌年に迫っていた1973年。

そんな年にムラヴィンスキーが来日した。

1903年生まれの当時のソ連を代表する指揮者というだけでなく、世界最高の指揮者のひとりとまで称されていた人物だ。

その音楽のスケールはじつに強大で圧倒的、二十世紀最大の指揮者のひとりとまで言う人もいた。

だが日本には1958年と1970年の二度の来日予定が直前にキャンセル、彼の当時の手兵レニングラードフィルのみが他の指揮者と来日した。

また録音もひじょうに少なく、さらにその多くが古いものが多数を占めていたため、ある意味「幻の指揮者」と日本ではよばれていた。

このため健康に不安があるという情報もあいまって、1970年の来日中止のときはもう来日は無いとまでいわれ、多くの音楽関係者や音楽ファンを落胆させたものだった。

そんなある日突如リヒテルの来日中止の代行として、ムラヴィンスキーとレニングラードフィルの来日が急遽決まった。日本公演初日まであと三か月という、ほんとうに急転直下の決定だった。

この公演はもちろんたいへんな前評判となりTVやFMでもその様子は放映放送された。

だが、このときの評判はかなり賛否分かれるものがあり、熱狂的な支持者を生む反面、失望と落胆を感じた人もまた多かった。それはムラヴィンスキーの音楽が予想された以上に峻厳で、妥協がなく苛烈なものである反面、トスカニーニのような直情的なものでもなく、かなり複雑な感情とスタイルを感じさせるものがあったため、カラヤンやベームのように、いい意味でとっつきやすいそれではなかったということがあった。

またさらには一部評論家の誤解や無理解からくる発言もあり、ムラヴィンスキーの印象はこのときを境にかなりの変化をみせてしまった。

そんな自分にとってのムラヴィンスキーはどうだったか。

じつに幸運なことに自分が本格的にクラシックにのめった時期は、ちょうどムラヴィンスキーが初来日公演を終了した翌月にあたり、このあたりのことをまったく知らないまま、その後このときのTV放送をみることとなった。

そしてそれをみて強く引き込まれた自分は、1975、1977、1979年のムラヴィンスキーの来日公演に行くことになります。


ムラヴィンスキーは自分にとってちょうどその来日が学生時代と重なっていた。しかも前述したように音楽にのめった時期と重なっているため、その影響力は半端なものではなかった。

また当時そのレコードの多くが録音は古いとはいえ、廉価盤でしかも近くのレコード店でとても入手しやすかったこと。そして二度目以降の来日公演の切符がかならず入手できことで、自分にとってはとても身近で親しみやすい存在にもなった。

このため今の一部評論家が神格化しているその発言をみていて、自分にはとてもそれが違和感ありまくりにみえてしかたがない。

当時ムラヴィンスキーはたしかに凄い演奏をし、そして神技ともいえるほどの凄い演奏も聴かせたが、当時の会場の雰囲気も開演前はとても穏やかで、日本のオケの定期公演に近い雰囲気すらあった。

これは二度目以降の来日公演がいっさい放送されず、しかもその間も新しい録音が発売されなかったこともあり、ムラヴィンスキーの演奏会に行く人の多くが、過去の来日公演に来たことがある人たちによって形成され、それによってひとつの気心が知れた人たちによる、ムラヴィンスキーの音楽を囲む会のような様相を呈していたという、そういうところが多少あったことがそこには反映されていたと思う。

そのときの会場の雰囲気はじつに心地よいものがありとてつもなく凄い演奏をされても、指揮者を神格化することなく、音楽的な意味での「先生」もしくは「師匠」のような、そういうより身近な存在に感じたものでしたし。

そのためムラヴィンスキーの音楽をただ無条件に賛美するのではなく、その音楽をいろいろと考えようという、そういう意識や姿勢がこちらにもできたような気がします。

そしてそのことが、自分にとって後々とても大きな財産となっていくのですが、それ以来ムラヴィンスキーは、自分にとってたいへん恩義のある、かけがえのない音楽上の先生とひとりとなっています。

だいたい無条件の賛美などというのはムラヴィンスキーに失礼極まりない。そういう姿勢を厳しく嫌ったのが、ムラヴィンスキーの音楽を形成した核心部分なのですから・


それにしても最後にその実演を聴いてから、今年(2013)でもう34年も経ってしまいました。

これがどれくらい昔のことかというのはわかっていますが、経験したものにとってそれはたしかに34年前のものではあっても、現在に続く生きている過去という感覚がそこにはあり、やはり「昔の事」と簡単に切り捨てることができないものになっています。


ところでまたこの話になって恐縮ですが、今活躍している指揮者を過去の指揮者に比べればたいしたことないとか、そういうとんでもない発言をしている人をあいわらず多くみかける。

じつは34年前もムラヴィンスキーよりクナッパーツブッシュが上とか、そういう好き嫌いから派生した馬鹿囃子をうんざりするほど聞かされたが、21世紀のこの時代にまだそういうおかしな人種が存在するのには、もう情けなさすぎて涙もでてこない。

ハーディングのマーラーで人生が変わった人がいたって当然だし、ラザレフを音楽上の師と思っている人がいてもおかしくもなんともない。それなのになんじゃろねえ…である。

というか今の演奏に対し真摯に向かい合えない人は、かつてその時期の「今」だったときも同じように向き合っていなかったという気がします。そしてそれが佐村河内氏をうんだことと関係もしているのですが…。

こういうふうに考えるようになったのも、ムラヴィンスキーの影響といったところでしょうか。

以上です。
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