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沼津城跡を散策する [沼津~三の浦]

静岡県沼津市にある「沼津城跡」に行く。

この城についてはやや複雑な様相を呈しているが、
以下のサイトにかなり簡潔かつ分かり役書いてあるので、
ご参照ください。
https://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/siro/sanmai.htm

今回の沼津城は、
16世紀後半に築城、そのご二十年程で廃城になった、
旧沼津城ともよばれている「三枚橋城」の跡地に、
18世紀後半につくられた平城。

ただし平時に築城されたということもあり、
三枚橋のように敵方と狩野川や駿河湾を挟んで、
つねに臨戦態勢だった城とは違い、
戦闘などはあまり念頭に置いていなかったこともあってか、
その規模は三枚橋城より小さかったという。

城は明治に入り廃城となり、
その後鉄道の開通とともに市街地がいろいろと整備されたことだけでなく、
二度の大火と止めの沼津空襲によって遺構はほとんど消滅した。

なので今回はその遺構というより、
今のどのへんに沼津城が鎮座していたかという事のそれが中心となりました。

今回は以下のような青点線内に沿って歩き、
さらにその中をいろいろと歩いていきました。

この青点線がだいたいの沼津城のあった範囲です。
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沼津駅の南口に出るとロータリーの向こうに、
東海道線に平行して走る162号があるが、
ここが沼津城のだいたの北端。

その沼津駅を背にして162号の左側方面。
よくバスがお休みしている近くの協和ビル付近に、
「搦手(からめて)門」があった。

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そしてこのあたりを沼津城の外堀が162号に沿って東西に延びていた。

今回はここを出発点にしてそのまま162沿いに
イーラdeを左に観ながら西へと向かう。

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イーラdeの端までくると、
ここで上本通へ向かうために左折。
沼津城の外堀もここを直角に曲がり南に延びていたようですが、
この角に三の丸「角櫓」があったそうです。

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しばらく歩くと通りの右側に「日本の近代的小学校発祥の地」の碑がある。

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この碑の通りに面した反対側に「丸馬出門」があったとのこと。

このあとさらに直進し、アーケード街のそれに来る。

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ここで堀は直角に左折しそのままさんさん通りを突っ切って、
静岡銀行沼津支店があるアゴラ沼津のあたりまで行きます。

その途中の「魚ぶん」さんのあたりに
「大手門」があったようです。ここが沼津城の正面玄関。

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旧東海道のすぐそばです。

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そしてその先にある、
先ほど述べましたアゴラ沼津には「三枚橋城」の方の石垣が出土したことで、
それがこのように展示されています。

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このあと沼津中央公園。ここを中心に本丸がありました。

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ただ実際にはこの公園よりひとまわり大きかったようで、
本丸「二重櫓」は公園の東端にあったようですが、

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本丸「天守台」は通りの向こうにある「松浦酒店」さん付近にあったとか。

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多くのみなさんは、
じつは沼津城天守台跡の真上で酒盛りが出来るという、
たいへんな贅沢をしているわけです。


このあと中央公園を背にして右側の方にみえる、
ニッセイ沼津ビル横の道に入り北に向かう。

ここには「喰違門」があったようで、
東海道にはここと大手門が出入りに近かったようです。

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そのあとさらに北上し城岡神社がみえるこの通り、
ここの田沢医院横の道あたりに「日頭門」。

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そしてこれらの門の内側にあたる場所で本丸を除く所、
つまり三井住友信託、三島信用金庫、沼津信用金庫、清水銀行といった、
銀行がけっこうたくさんある大手町付近一帯が二の丸となります。

この城は上から見るとこの二の丸が中心となるようにみえるのですが、
さらにその中心にあったのが「二の丸御殿」。

これは目安でいうと、
さんさん通りにある東海や伊豆箱根の「大手町」停留所付近が中心で、

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東のそれは清水銀行からさんさん通りを挟み、
三井住友信託を包み込むようにして、
その一部はここにもかかっていました。

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これも目印かと。

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これはこの城でも最大級の建築物だったと思われます。

この二の丸の外に内堀があり、
そことさっき自分が歩いた外堀の間の地域が三の丸となります。

城の外堀は一周三十分もあればまわれますが、
これらすべてを散策すると一時間以上はかかると思います。


因みに三枚橋はこれよりも南、そして南西側に大きく膨らんでいたようで、
さんさん通りを沼津城外堀りの南端からさらに南に行った、
沼津リバーサイドホテル前にも、
このあたりから発掘された三枚橋城の石垣が展示されていますし、
それよりやや南にはその石を利用した碑もあります。

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この場所沼津駅に向かって右側には、
細い道を抜けた先に上土朝日稲荷神社が、
そして左側にはさんさん通りを挟んだ細い道を行くとつじ写真館さんがあります。

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つまり沼津駅からつじ写真館さんまで歩くと、
だいたい三枚橋城の南北に横切った感じとなります。

因みに沼津城は沼津駅から浜忠さんあたりまで歩くと、
南北を外堀込みで横切ったかんじとなります。


たしかに沼津城はほぼ完全に消失してしまいましたが、
新潟県の長岡にあった長岡城のように、
城の本丸跡に鉄道が通り駅ができたことで、
本当に見事に更地になったのとはやや違い、
外堀の外に東海道線も駅も位置した事から、
水戸から大洗まで走る水浜線跡のように、
城の外堀や内堀沿いに歩く事ができ、
城の規模を自分で歩いて確かめられのは、
とてもありがたいことでした。


ただ個人的はこういう跡地について、
もう少し各所にその案内みたいなものを建ててくれると、
観光に来た人にも地元の人にも、
けっこう嬉しいものになるんじゃないのかなあという気がしました。

正直自分もこのあたり専門ではないので、
一部間違ってるところがあるかもしれませんが、
もしそういう部分がありましたらお詫びします。


最後に余談ですが、
三枚橋が出来た頃このあたりは武田氏の領地で、
興国寺城も当時は武田氏だったものの、
長浜城や現清水町徳倉にあった戸倉城は、
ともに北条氏のものでした。

当時は同じ沼津でも、
最初に書きましたように狩野川や駿河湾を挟んで、
敵味方に分かれて激しく戦やりあっていたとのことです。



二の丸「太鼓櫓」があったと思わる場所。

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写真撮影を失敗したのでグーグルマップを使用しました。
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沼津に航路は不要なのか [沼津~三の浦]

自分が沼津から三の浦まで歩くようになったのは、
2016年からだいたい十回くらいだと思うけど、
その間いつもおもうことに、

「これだけ綺麗な景色と海をもちながら何故航路がないんだろう。」

という疑問だった。

そのことをある人に聞いたところ、
かつては確かにあったけど今はたまに臨時便がある程度ということだった。

確かにネットでみるとかつては、

沼津〜大瀬〜戸田〜土肥〜松崎、という航路があり、

それが廃止された後にも

沼津〜戸田〜土肥、という航路が臨時としてあったようです。


自分は沼津の地図や実際歩いてみた時感じたのは、

木負~ららら、あたりまではなんとなく沼津から
「続いている」
というイメージがあるけど、

歩くという意味ではそこから先、
さらにバスという感覚からみても
大瀬から南は別世界というか沼津というイメージが希薄だった。

最近はその大瀬まではバスが少し増えたので、
大瀬に関しては少しイメージが強くなったけど、
戸田より先は沼津市役所 戸田庁舎があるとはいえ、
やはり個人的には沼津から直接の交通手段が無いことから、
正直自分には「沼津市」というイメージはあまりない。

沼津駅近辺に住んでる人にとっても、
三島はもちろん、
清水や静岡の方が在来線で行っても、
時間も金額も半分程で着いてしまう。


じゃあバスを戸田まで常時延長させるかと言うと、
これまた二時間程かかるし、
金額も二千円近くなってしまうことを思うとはたしてどうなんだろうと、
正直疑問に思ってしまう。

因みに戸田から沼津に行く場合は、
バスで修善寺まで出てそこから電車で三島、
あとはそこから乗り換えて沼津というのが最短らしい、

他にもバスで伊豆長岡から沼津へ向かうルートもあるけど、
こちらの方がやや時間がかかってしまうようだ。

ただそれ以上に問題なのは採算性だろうか。

あまり参考にはならないかもしれないけど、
自分が朝平日伊豆箱根バスで「口野口」まで乗った時、
沼津ではけっこう混んでいたけど、
「獅子浜」をすぎると三人くらいしか乗っていなかった。

さらに日曜日の朝、「多比」行のバスに乗った時は、
「志下」をすぎたあたりから自分ひとりになってしまい、
そのまま終点まで貸し切り状態になってしまった。

それに比べると東海バスはラブライブ特需というかんじで、
三津シーあたりまでかなりいつも混んでいるようだった。

もっとも伊豆箱根バスも、
伊豆長岡から三津シーに行くそれはそこそこ盛況という話を聞く。

ただやはりそこ止まりで、
自分も歩いてみた限りでは木負~ららら付近までが、
ラブライブ特需の南限かなあという感じがした。

だけど沼津に訪問した人でこの街に好感をもち興味を持った人は、
大瀬岬や戸田ありも訪問したい気持ちを持った人は少なくないはずだ。

だが車やバイク等で訪問された人以外、
つまり公共交通機関でしか訪問手段が無い人には、
なかなかこのあたりが難しい。

特に戸田はかなりしんどい。

それを思うと毎日は無理としても、
土日祝だけでも沼津航路を常時再開設しほしいところ。

そしてできればそれは、

沼津~三津~大瀬~戸田

というコースで行ってほしい。


これをどこが運行するかはあれだけど、
沼津市がかなりそれを負担するという形での、
どこかの民間企業への委託という形がベストだと思う。

また土肥や松崎まで延長するのなら、
伊豆市や賀茂郡も一部負担になるかもしれないけど、
そのあたりも考えていいのかもしれない。

そしてできればそこは小型のフェリーでもいいけど、
個人的にはジェットフォイルが理想。

Tokaikisen-Yume.jpg
※wikiより

これは時間的な部分もあるけど、
これだけでも人が呼べるという、
そういう魅力的なものであるということ。

これはLRTと同じ感覚といっていいと思う。

ただもちろんこれも問題がある。

ジェットフォイルに各港が対応できるかということと、
それへの準備等を含めた採算性と市の負担額の大きさがそれ。

因みに来年度には土肥~清水にあった、
駿河湾フェリーが廃止されることが発表されているため、
想像以上ににかなり厳しい部分はある。

ただ沼津や内浦の活気を戸田にさらに流し込み、
よりビジターを呼び込むという意味では、
戸田そのものをより元気にするという意味ではありだろうし、
もともと海水浴客が多い地区なので、
季節によってはより活況を呈するだろう。


戸田往きだったかどうかは分からないけど、
かつては明治の頃から、
三津からの航路があったことが分かる絵もあり、
そういう意味では再度このあたりの航路に一考を要してほしいところ。
三津2.jpg

陸路での移動も確かにあれだけど、
これだけ海に沿った地域ということを考えると、
やはり航路は必要なのでは?と言う気が強くします。


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あのとき沼津はダメだと思った。(2015年からの回想) [沼津~三の浦]

この前「コンテンツツーリズム学会」のシンポジウムに行った。

その後意見交換会に参加したとき、
ある方から唐津や徳島の事についてお話を聞く機会があったが、
そのとき「点と線」の話をしていたらふと沼津の事を思い出した。

なのでこの機会にちょっと長目にいろいろと書きたいと思います。


自分が初めて沼津に行ったのは2015年7月の暑い平日の昼下がり。

数日前に放送された「高尾山古墳」取壊しの件のテレビをみて、
それを観に出かけて行った時のこと。

この時の沼津の第一印象は時間帯の関係もあったかもしれないけど、
とても静かというか「凪いだ街」というのがそれだった。

それは駅の北口もそうですし、
南口はもう少し賑やかに感じられたが、
かつて再開発される前のJR川崎駅にも色彩が似ていて、
どこかモノトーンの街というイメージだった。

そこには新幹線を三島に「取られた」事により、
長期に渡りゆっくりと黄昏ていった街というそれを、
群馬県の水上同様強く感じ、
富士山だけはとても綺麗というそれだけが印象の街だった。

023.jpg

その翌年「ラブライブ」の新作がその沼津が舞台になると聞いて、
正直ピンと来なかったのはそのせいかもしれない。

ただ舞台は沼津市街地南の内浦ということで、
そこにはまだ行ったこともなかったため、
「三嶋大社」「反射炉」「伊豆・三津シーパラダイス」
「長浜城跡」「沼津御用邸」も一緒にまわるコースをとり再訪した。

2016年6月12日の話。

正直言うと前年沼津に訪問したときと印象は同じだった。

ただ穏やかでゆったりと時間が流れていくそれはなかなか心地よく、
ここからの富士山をはじめとする風景もまた素晴らしかった。

そしてこのときまったく偶然だけど、
自分が子供の時父親に連れられて一泊したことのある船のホテルが、
ここより少し先にあった「スカンジナビア号」だったという事がわかり、
自分が1970年代初めにすでに沼津に一度来ている事を初めて知った。

それから「沼津港線跡」や「ビゴーの絵」、「ゴジラ山」、
そして「津波災害に対する対応の仕方」等々、
いろいろと沼津市街地や三の浦を訪れる動機が次々と生じた。

そのため延々とラブライブを追いかけていたわけではないけど、
それでもいろいろと感じる物が多々あった。

そんな中、最初の内浦訪問となったこの6月12日。

正直放送前ということでまだまだ嵐の前の静けさだったようで、
ごく数名の早乗りライバーと思われる方がいたくらいで、
ちょっと拍子抜けするくらい何もない状況だった。

三津シーパラダイスや三の浦総合案内所が、
多少準備が進んでいるようには感じられたが、
翌日がアクアのメンバーの誕生日にしてはあれな感じだったし、
そのことは告知してあったけど、
そこに貼られていたポスターはその人とは別の人のポスターだった。

正直ことラフライブに関しても見るべきものが無く、
その後放送が開始されてからもう一度出かけてみたものの、
あまり目立った大きな変化は感じられなかった。

その後静浦には行ったものの内浦は淡島以外はご無沙汰で、
ようやく次に三津訪問となったのは12月の中旬。

一期が終了し二期がはじまるまでの期間だったけど、
そこでも驚く程内浦は盛り上がりに欠けていた。

確かに大洗も一期終了後はこんなものだったけど、
ただもっと人は来ていたし、
これから賑わうだろうなあという気配は感じられていた。

12月24日は初のキャンドルナイトがあったけど、
それでも大きな盛り上がりとは到底結びつかず、
何か散発的で後に続かないイベントにみえてしまった。

また内浦には大洗のような大きなイベントができるスペースもなく、
そういう意味でちと難しい部分も見えてきてしまった。

またその頃一部で、
あまり開かれた場所ではないところで自由に振舞われて、

「こんなことならやってほしくなかった。」

という手厳しい声も一部であがるトラブルも起きていた。

これは「聖地」の観光の部分だけが先行し、
各聖地で起きている共通したトラブルに対する、
横の連絡網を形成するようなシステムが皆無だったこともあるげど、
ただでさえ盛り上がりに欠けるところにこれでは、

「沼津はダメかもしれない」

と鴨川以上に正直思ってしまった。

この頃実際内浦の内部でも、
こんなはずではなかったという声があがっていたという。


たが年が明けしばらくするとこの状況が変わりはじめた。

自分はこの頃の事を、

http://orch.blog.so-net.ne.jp/2017-01-12

http://orch.blog.so-net.ne.jp/2017-01-23

に書いているが、
この二つの間に内浦を含む三の浦ではなく、
より沼津駅に近い沼津港あたりの一部の店が、
ネットを中心にいろいろと「発信」をはじめていた。

それは次第に数が顕著に増え始め、
しかも地域もかなり広範囲になっていった。

また内容的にも単なる一方向的なものでなく、
次第にネットを通じてのキャッチボールが、
ビジターの方たちとおこなわれるようになり、
明らかにその店のファンが確実に形成されているそれが見て取れていった。

沼津駅北口から沼津駅付近、上土や沼津港、そして西浦と、
今まで聖地としてやや不利と思われた沼津の地理的な長さを、
まるでカバーするかのように多くの店舗が、
しかも明らかにキャラが登場しない地域までも、
沼津という空気と名前を共有しているというそれを軸にして、
この流れに呼応しはじめた。

さらには次第にこれらの中における、
今まで接点が無かった発信者である店舗同志が、
互いに連絡を取り合ったり訪問したりと、
ラブライブ以前では考えられない動きと繋がりがではじめた。

これの要因は本編でキャラクターが三の浦だけではなく、
沼津駅近辺から商店街、そして沼津港まで歩き寛ぎ、
そして走り回ったことが大きい。

特に五話でのそれが大きく、
それ以降沼津港から駅にかけての訪問者が増大したという。

この回はガルパンの大洗と聖グロの練習試合の回と、
同じような役割を果たしたといえるような回だった。

ただ当初、内浦が舞台のアニメがあるという程度の認識だったためか、
それが放送されても対応が一歩遅れで後手にまわったのか、
年末頃までそれらはあまり強くは感じられなかった。

前年末に「沼津は…」と思ったのもそれが原因。


ただ沼津各所でのそれらが軌道に乗るとちょっと面白い現象が起きた。

つまり、
沼津駅~沼津港が「表玄関」、
三の浦全体が「奥座敷」みたいな感じとなり、
二重構造聖地というかなりユニークなそれとなっていった。

そして「表玄関」はどちらかというと「食」と「遊び」、
「奥座敷」では「観る」と「体感」がメインとなり、
その色分けがうまくできていっているように感じられた。

これによりとても全体がうまく潤滑するようになっていったが、
これは何かを狙ってしめしあわせてそうなったのではなく、
沼津のこれらの地域の本来の特性が、
ラブライブによって街の流れが活発化したことでより明確化した、
もっというと本来の姿を取り戻していったということなのだろう、

それはあたかも元気のない人が、
身体にあるツボともいえる反射区を刺激し、
その人本来の健康を取り戻していくそれのようにも感じられた。

その頃にはかつてモノトーンにみえた沼津駅の南口も、
以前に比べ「色彩」がより自分には感じられるようになっていった。

ただこれは沼津の人と物の流れが活発化しただけでなく、
自分自身がこの街の魅力をこれらのことにより気づかされたことも、
少なからずあったような気がした。

何かが動き出すとこうまでいろいろと変わっていくのかと、
おそらく行政レベルでもそのあたりのことを、
この頃には感じ始めていたのではないだろうか。

その後沼津市の公式サイトのトップページにおいて、
アクアの各キャラの誕生日がお祝いされるようになったのは、
多くの方がご存知の事かと。


もっともそれを行政が認識したからといってそこまでするには、
それ相応の流れや雰囲気が街にないと些かやりすぎとなってしまうが、
これにはあるもうひとつ顕著な動きが原因としてあったような気がする。

それはファミリー層への浸透と認知だった。

このあたりは、
http://orch.blog.so-net.ne.jp/2017-02-15
にもかつて書いたけど、
最近では一部幼稚園でアクアの歌を歌っている所があったり、
自分も各所で子供連れの人がアクアの事を親子で話し、

「どの子が好きなの?」

という話題となっているそれを何度もみかけた。

おそらくこれはテレビや告知物、
さらにはラッピングタクシーやバスの効果もあるだろうけど、
花火大会や盆踊りでのそれも大きかったという話を聞いた。


また最近ではかなりの年配の方も、

「あの可愛い女の子のことでしょ。」

とアクアの事を話しているそれに出合わせたこともあった。


オタク向け、もしくはそういう人達の多い層向きと思われた作品が、
いつの間にか街の幅広い層に拡がっていったことは本当に驚きだ。

もちろんすべての人たちが好意的に受け入れてるわけではないだろうけど、
それでもこの流れはとても素敵なものがある。

※これは数年前の鷲宮でも見受けられた。

アクアがそれこそプリキュア要素をもった「くまモン」のような、
幅広い層を巻き込んでのご当地キャラになってしまったように感じられた。

またこの流れによって伊豆・三津シーパラダイスの、
以前からあるマスコットキャラだった「うちっちー」が、
全国レベルのキャラにまで有名になっていった。

なんかガルパンのボゴと重なるものがあったけど、
以前からいたキャラクターの有効活用と活性化という、
これもまたとても地元のファミリー層への浸透にも、
一役かっていたような気がするけどどうなのだろう。


沼津は今、単発のイベントや一部店舗だけの「点」頼りではなく、
広い地域の多くの店舗が連携するかのように繋がり、
また街そのものが作品を好意的に受け入れその雰囲気を大事にし、
本来ある街のそれを有効活用しながら活性化し、
それによって生じた「面と線」によって聖地を形成することができた。

またその動きは沼津だけにとどまらず、
新横浜でのイベントでは作品にも登場した「のっぽパン」、
そして大洗では地元の「みかん」を販売している。
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特に大洗でのそれは一見関係無いように感じられるかもしれないけど、
この二つの作品のファンだっているだろうし、
また大洗に来ているビジターの中には、
むしろ沼津の方が距離的には近い人だっているかもしれない。

そういう人達に認知してもらい、
呼び込む努力をする考えと言うのも、
これまた「点」よりも「線」を重視する考えの発展型といえるだろう。


沼津は現在完全に「ラブライブ」を呑み込み昇華し、
自分の街のツールとしはじめている。

これには沼津という街が、
「城下町」「宿場町」「港町」
という三要素をもった本来多彩な街であったことが、
いろんな事柄を生み出す引き出しにもなっていたのかもしれませんし、
外から流れて来た今までに経験の無い事物に対しても、
タフな展開を経ながらちゃんと対応できた理由なのかもしれません。


とにかく二年前の年末には「ダメだ」と思わせた街が、
今はこの状況なのだから本当に物事一寸先は分からない。

これから沼津がさらにどうなっていくのかはわからないけど、
ひとつ誤解してほしくないのは、
聖地云々がその街を活性化するのではなく、
聖地はあくまでもそのきっかけやとっかかりであって、
あとはその街自身の力によって勝手によくなっていくという事。

そこではその街が今までどういうことを地道にやってきたかが、
ある日突然全国区で問われるという、
逆にいうと抜き打ち試験並みの怖さもそこにはあるけど、
例えば小売店の接客レベルでのベースでもある、

「人づくり」「店づくり」「顧客づくり」

を疎かにすることなく行っていれば、
怖れという要素は極めて小さいといえるだろう。

なので今の沼津は、
それまで自分たちがやってきたことが、
正真正銘の大当たりだったことを、
身を持って体感しているともいえるだろう。

劇場用作品の公開も予定されているので、
まだまだこれからもそのあたりを含め、
よりいろいろと進化していくことでしょう。

それにひょっとするとこの映画、
かつて「花咲くいろは」の劇場版が、
その作品の「聖地」に近い金沢で先行上映されたように、
これまた沼津で先行上映されるかもしれません。

そのときはその時点における沼津がさらにどう進化しているか、
そのあたりもより感じられるかもしれません。


…といったところが、
この前の「コンテンツツーリズム学会」のシンポジウム時に、
徒然と浮かんできたものでした。


そういえば最初にふれた唐津と徳島の話。

自分はこの二つは妙に立地的に似たものを感じているけど、
徳島は唐津に比べると「阿波踊り」や「マチアソビ」の時はともかく、
それ以外ではなかなかその流れが来ないとか。

これはおそらく徳島が「ラブライブ」初期の沼津のように、
「点」としたものに売りが偏りすぎているという、
そういう部分があるのではないかと思った。

それを思うと例えば微々たるものかもしれないけど、
商店街で「空き」になったところを改装して、

「マチアソビ記念館」

のようなものを開設し、
過去のマチアソビの記録や記念のもの等を展示したり、
地元と関係している製作者や声優、キャラなどの紹介や展示をするという、
そういう年中公開ものがあったっていいだろうし、
そこでミニライブやミニトークとか随時やるのもいいと思うし、
地元のサークルの発表の場を提供したっていいだろう。

そういう一部期間のみの開催ではないもの、
それまでの積み重ねの記録的なもの、
そして何といっても地元関連性の強いものがやはりほしい。


また唐津にまで打って出て「マチアソビ」だけでなく、
「徳島紹介ブース」みたいなものを、
「ユーリ」のイベント時等に出すというのも有りだろう。

これはそこで唐津の人たちを呼ぶのではなく、
唐津に来る人たちに認知してもらうというもので、
その中には岡山、兵庫、大阪、京都と、
徳島に近い人たちだって唐津に行ってるかもしれない。

そういう「線で結ぶ」的な感覚も徳島にはより必要だと思う。

まあダラダラと書いてしまいましたけど、
今一度これらの事を考えるきっかけとなった、
このシンポジウムに参加した学生さんには本当に深謝です。

こういう若くて頭も行動力も柔軟な方が、
これからの日本を支えていくんだろうなあと思うと、
ちょっと嬉しい気がしました。

あとこの日講義をされた伊藤成人さんの話を聞いていたとき、
前述した「人づくり」「店づくり」「顧客づくり」
を思い出した次第。

それはおそらく自分の仕事や考え方のベースと、
ひじょうに近しいものがあったからかもしれませんし、
こういうときに自分のベースの棚卸ができるのは、
ある意味沼津の今の活性化と相通じるものがあるのかも。

これもまた勉強になりました。


でも一番勉強になったのは、

「そのときはダメだと思っても、本当にダメなものは無い。」

ということなのかもしれません。

そういう意味で沼津は自分にとってもいろいろと教えてくれた街でもあります。



あと最後に余談ですが、


街が例え聖地になっても決して余所行きの姿に変貌したり、
無理をした企画でその街に負担ををかけるべきではないというのは、
各人の中に形成された「聖地」としてのその街のイメージが、
作品で描かれているようなその町の普段そのものの姿であって、
それ以上でもそれ以下でもないということが理由としてある。

また街が作品と何かコラボしてやるにしても、
ふだんのそれから激しく逸脱することなく、
無理せず継続可能でしかも自分たちも楽しめるというのがベスト。


自分たちの街が聖地になったから云々というのではなく、
じつは来た人達の心の中に本当の理想の聖地がある。

なので自分たちはビジターの心の中にある聖地と、
現実にある自分たちのいる街との、
いわゆる「夢」と「現実」の「鎹(かすがい)」になれるような、
そんなふうにこのあたりのことを、
これからは考えていくべきものなのかもしれません。

そのあたりはアニメとファンの間に存在する声優のそれと、
かなり近しいものがあると個人的には思っていますが、
このあたりのことを話すとさらに長くなるのでここで一応終了です。


以上で〆。

長々ととりとめのない駄文におつきあいいただきありがとうございました。
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興国寺城跡発掘調査現地説明会に行く [沼津~三の浦]

平成29年度興国寺城跡発掘調査現地説明会に行く。

原駅から歩いて30分ほどのところにある興国寺城跡。

ここの発掘調査もすでに15年経っているらしいが、
聞いたところではあともう少し調査をすれば一応終了とのこと。

今回は北曲輪付近における障子堀の発見にからんでのそれ。

配布された資料。
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a21.jpg
a14.jpg
↑見開きの為一度にコピーできなかったので中央付近が一部欠損しています。ご了承ください。

そのため説明も北曲輪の堀2付近で行われた。

ここで全体の概略説明を受けた後、堀2の東端で発掘された障子堀をみるような形。

いろいろと勉強になったけど、
自分が今回勉強になったのは、

①興国寺城は早雲がゼロから作ったものではなく、それ以前にここにあったといわれる興国寺が、おそらく当時の大きな寺院によくみられた、武装化されたものだったそれを利用したものではないかという事。

②この城は何度も戦闘によって城主が変わっているが、そのたびに再度攻められた場合手の内が知られている城の要所要所を、簡単に攻め込まれないよう相手にとって未知の状態にするため改装を施していたということ。

③場所によっては堀の下から堀がみつかっているが、それもその一環らしいとのこと。

④この城がいちばん大きかったのは天正年間の頃で、その後はまた小さくなった。今みている姿は1607年に廃城になった段階でのそれであって、早雲時代の城をみるためには、かなりの深さまで全体を掘らないといけないということ。


そして中でもいちばん興味深かったのは、
この城の北曲輪を中心とした北側が武田や徳川の時代に増設されたものが多いということ。

自分はこれをみて、
攻め落とした方は城の弱点を突いて攻めてる可能性が高いため、
これらの繰り返しで、
城主が戦闘で変わるたびに弱点が補強され、
そのたびに城が大きくなっているのではないかと思った。

だが聞いたところでは、
城へ割かれる人員やそれに対する兵糧等を考えると、
ただ大きくなるというだけでなく、
弱い所をあえて捨ててるところもあるので、
一概に戦闘の度に大きくなったというわけではないとのこと。

おそらくその場合は、
さすがにそのままというわけにはいかないので、
堀がめぐらされたり、
水をはって沼沢地のようにして、
建造物などを設けない、
もしくは取り壊すということをしたのかもしれない。

とにかく城というものは生き物だなあと思った次第。

おそらくこれらの発掘をすることで、
この城がどう攻められたか、
またその攻め方はその攻撃した側の常套手段的戦術なのか、
それともこの城のみの特殊なものだったのかも、
判明していくのだろう。

とにかく奥の深い作業であり調査だと痛感させられました。

できれは高尾山古墳も早い段階で市がこういう対応をしてほしかったです。

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興国寺城跡前の交差点から。車が駐車しているスペースは三の丸跡。

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本丸跡から天守台方面を臨む。

A03.jpg
北曲輪から天守台を臨む。

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三日月堀付近から堀1を臨む。

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今回発掘された障子堀。

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左上の人の大きさからみてかなり深いのがお分かりになるかと。

A07.jpg
本丸跡から二の丸跡、そして原の中心部と興国寺城通りを臨む。

以上です。

今回は天守台には登りませんでした。

前回上ったらけっこう高くて、
高所恐怖症の自分にはあまり得手な場所ではありませんでしたので、今回はパス。



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高尾山古墳見学会に行く。 [沼津~三の浦]

先日開かれた、

「高尾山古墳見学会」

にでかけた。

当日は最初は曇っていたものの、
富士山こそみえなかったが途中から好天に恵まれた。

北口から出るとこれがあった。
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近くで家族でそれをみていた方たちがいて、
そのとき父親らしい方が、
「どの子が好きななの?」
という言葉をかけていた。

沼津とこのグルーブがファミリー層に、
とても自然に浸透している事が感じられた。

このように外からは喜ばれ、
地元から支持され愛されるキャラとなったことは、
本当によろこばしいものだと思った。

これには地元の人達が
ある意味「楽しみながら」アクアとその道を歩んでる事も、
それらの事に大きく影響を与えていると思う。


そんな事を考えながら高尾山古墳に行く。

駅から歩いて三十分ほどのところ。

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ラブライブとはあまり関係の無い地域なので、
このあたりのファンには馴染みのない地域だと思う。

ここへ行くには国道一号を渡ることになるが、
今回はここの渋滞も遺跡問題に絡んでいる。

しかしここの歩道橋の痛み方はかなり酷い。
高尾山古墳も見えるなかなかの場所にあるけど、
もし一号の上に落下したら大惨事だ。

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国交省の管轄らしいがこういうのを見るにつれ、
この国はお金があるのかないのか分からない時がある。


さてこの日の見学会は午前九時から始まったが、
今回のテーマは遺跡の歴史云々ではなく、
ここが今後どうなるかという事を現地で説明するもの。

これについては、
http://www.at-s.com/news/article/politics/shizuoka/436299.html
静岡新聞のそれにもあるけど、ようするに、

「片側をトンネル構造にして古墳を回避する2本の2車線道路を整備する」

というものらしい。

ここで上空からグーグルマップでみた現地のそれをみてみる。

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これをみると分かり易いと思われますが、
新幹線の高架橋を抜けて新しい四車線分の道が右から、
そして左にはより幅広の道が予定されているような空きスペースと、
従来からある二車線が江原公園交差点から伸びている。

そしてそのど真ん中に高尾山古墳がある。

ここはぶっ壊して一気に道路を通そうと、
そういう考えだったのがじつによくわかる。

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高尾山古墳の手前で工事が中断している新しい道路。
片道二車線、往復四車線です。

だがすでにご存知のようにこの古墳は東日本でも極めて珍しく、
しかもひょっとした考古学史上というか、
日本の歴史に大きな発見をもたらす可能性のある。
まれにみる巨大古墳であることが判明した。

だがそれでも当時の市側が取壊し姿勢を覆さなかったため、
その後いろいろとこの問題が取り上げられ、
2015年7月にはテレビ朝日の夕方のニュースで大々的に取り上げられた。

自分はその翌日時間があった事でそれを観に行ったが、
腰を抜かすくらいその規模の大きさに驚かされた。

このときこのあたりを専門とされている方もいらっしゃり、
いろいろと話を聞かせてもらいましたが、
その方もかなりこの古墳に驚かれていたし、
取壊しという姿勢をとっている市側のそれにかなり憤慨されていた。

その後この問題はいろいろと真摯に取り上げられるようになり、
上記した静岡新聞のそれに落ち着こうとしているようだ。

今回の見学会はほぼそれに沿っての説明を、
用意していただいた資料を基にしていただいた。

この日の高尾山古墳。
a-06.jpg

で、実際どのようになるかというと、
ここからは渡された資料やネットに載ってるものから推測すると、

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のように道路ができるらしい。

左右に走っている白とやや灰色がかった白色の道路が、
新しくつくられる予定のもので、
左右に走っている上のそれは途中から地下トンネルになるため、
地下部分を白抜きにしてあります。

そして左右に走っている下のそれはやや高架的に作られ、
古墳の平地の部分から三メートルの高さを走るとのことで、
一部橋脚を使用してのそれになるとのこと。

a-09.jpg
この写真でみると、
古墳本体の左端にみえる枯れた白い老木の中ほどの左横あたりから、
写真左端の神社付属の建築物の屋根の右横あたりを、
抜けていくものと思われます。

幅と車の流れについては、
上のそれは二車線で地図の右側へ。

下のそれは途中から二車線が四車線になり右側から左側へと、
それぞれ流れる予定になってます。

この変則的なそれの理由は、
道交法によるもので、
安全等の基準からこうならざるを得なかったとのこと。

本来は上下ともトンネルならよかったのでしょうが、
地図から観て下の道路が、
古墳を出るとすぐに交差点になってしまうという所が、
トンネルにするといろいろと基準にひっかかってしまうらしい。

なかなか難しい問題ですが、
最初を慎重に入らなかったツケがここにきて響いてるといっていいだろう。

だがここでそれを今更嘆いてもはじまらない。


あと縦に走っている白い太線は、
以前からある細い道路を前面改装して新しい道路にするもので、
(通称?東西道路)
途中下の新しい道路と交差する予定。
片道一車線の往復二車線。

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因みにその交差点の高さはこの神社のお社の手前にある、
青いフェンスの上あたりになるとのこと。

尚、新設される道路には歩道は、
今の所古墳周辺には予定されていないようです。


正直えらいものができてしまうなあという気持ちが先に立ち、
景観的に古墳のそれは台無し、
朝から午前中にかけて日の当たりも悪くなるし
騒音もあるしトンネルからの振動が古墳に与える影響も心配で、
何十億かけてつくるものがこれかというかんじになり、

「古墳が壊されなかっただけましのレベル」

という気持ちになってしまい、軽い失望を覚えてしまった。

そういう意味では、
悪い意味で泉岳寺の景観問題を思い出してしまった。

あの悲劇に比べればまだ少しはマシですが…。


だがしばらくずっとこれを眺めていて、

「待てよ」

という気になった。

それはこのとき「今後古墳敷地内にも人が入れるようにする」
という事がヒントになった。


自分は本質的に
「まわりにあるものは使えるものはすべて使う」
というところがあるせいか、
次第にこれはこれで使いようがあるという気がしてきた。

まず浮かんだのがこれ。
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確かに古墳は今までのように隣接する神社や、
古墳の北側(上の地図では右)にある東西道路からの、
今までよく見れた場所からのそれは、
この道路が開通するともう見れなくなる。

だが新しい道と東西道路が交差する部分、
上の地図に記した黄色い場所に
そこそこの広さがある古墳を眺められる展望台を、
張り出すようにつくったらどうなるか。

さらに可能なら、そこに少し高めの台を設置したり
小さなベンチや、上に屋根などをつくり、
展望台を設けてはどうかという事だ。

そうなると我々は初めてこの古墳を、
今までにない高さから、
しかも至近距離からみる事ができる。

じつはこれは鎌倉の永福寺(ようふくじ)跡がヒント。

ここもふつうにみるとなんとも平板で全貌が分からないのですか、

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近くのちょっとした高台に展望台が作ってあり、
上ったらごらんのとおりとなった次第。

古墳を上から見れるというのは、
けっこうありそうでそんなにないような気がするので、
そこそこ話題にもなるような気がするのですが。

これも交差点付近が、
結果的に高台のような感じになった事でできる代物で、
ある意味使えるものは使えという発想。

ただそのためにはもちろんそこへ行く道が必要。

希望としては東西通りの古墳よりの端に沿って歩道をつくってもらい、
それによって展望台へ行けるようにし、
展望台のもう片側には、
新しい道路沿いに古墳内に下っていく道をつくるというもの。

またそれと並立させるように、
東西道路から展望台に行く道の途中の、
あまり高さの無いあたりから古墳内に入れる道もつくる。

そして古墳本体の周りは柵などで囲うものの、
そのまわりを周回できる遊歩道をつくり、
そこに先の東西道路からの道と、
展望台から降りてくる道を合流させるというもの。


ただし遊歩道は古墳の東側、
地図でいう上側にはスペース上出来ないと思います。

また遊歩道から熊野神社方向に抜けられる道を作ったり、
多少細めだが大きく江原交差点方向に開いているスペースの先端部分から、
JA南駿やその反対側に行ける歩道橋かトンネルを完備すれば、
地元にとって交通事故のリスクが極端に少ない、
それでいてひじょうに便利なルートが東西南北全方向に確保される。

※↑この歩道橋の意見は他の参加者の方から最初に出たものです。

このことは静岡新聞にも切実な事として扱われている。
http://www.at-s.com/news/article/politics/shizuoka/436697.html


また自分は昨年沼津の宝にも選出されている、
高尾山祭典をここに観に来たけど、
普段じつに静かなこの地が、
物凄い人であふれかえっているのをみて、
これが新しい道路で寸断されるのは悲しいし、
むしろこの人たちすべてを公園化された古墳に集約し、
文字通り高尾山祭典にするのも有りだと思った。

さらには古墳のすくそばまで高架道路が来ているのなら、
その道路の下部付近から遊歩道を照らす照明を取り付ければ、
夜間の通行も心配をあまりすることがない。

またその照明にライトアップができるようにすれば、
クリスマスや高尾山祭典などの時に、
華やかな古墳のライトアップも可能になるだろうし、
観光客を呼ぶことも可能だろう。

照明が近くに住まわれる皆さんのご迷惑にならないよう、
もちろん角度は調節されるだろうが、
古墳の反対側には古墳本体が光を遮ってくれるので、
このあたりは心配はないと思う。

また東西道路が全通した場合、
そこにもしバスが通ることになったら、
最寄りに「高尾山古墳前」というバス停をつくるのもいいだろう。


もし道路が予定と違わずつくられるか、
もしくは多少なりとも古墳にやさしい作り方をさらにしてくれれば、
より地元にとってひじょうに便利な環境になるし、
観光客にとっても繰り返し再訪したくなるような場所になるはず。

※この繰り返し、つまり「顧みられる」事がとても重要。


このように地元から支持され愛され、
外からは喜ばれる古墳になれば、
本当によろこばしいものだと思う。

市側もどうせ大枚をはたいてつくるのなら、
いやいや抗議を受けて拙速案的なものをつくるというのではなく、
作ったらいろんな意味で二度おいしい物、
そしてみんなが楽しめるものをつくった方が気持ちいいし、
前向きにいろいろな方たちの意見をききながらできるというもの。

確かに完成したら、
すぐにいろんなものが形としてはねかえってくるかは、
今度は維持する側管理する側にもかかってくるので、
このあたりはなかなか見通しがつきにくいけど、
ただ作るよりは絶対まともなものができる事は確か。

最初に記した沼津にムーブメントをもたらしたアクアも、
ここまで幅広く支持された大きな要因には、
たしかにアクアのファンが聖地巡礼として大挙訪れたことや、
それに対して敏感に反応した商店の方たちの動きも大きいけど、
その支持層が低年齢層を含むファミリー層に広く拡大した事が大きい。

ようするに地元から支持され愛されたという事だ。

この古墳も同じような過程をもし辿っていくことができれば、
地元から愛されビジターからも愛され顧みられる、
とても幸せな財産となるだろう。


自分がその完成をみるまて元気かどうかは分からないけど、
ぜひこの古墳に関わる事業のすべてが、
いい方向へと流れる過程の糧となることを期待したいです。

以上で〆


余談ですが、
上の地図でみると東西道路の右下にある空き地は、
どうも駐車場になる予定らしい。

そういうものをつくるのであれば、
やはりそれ相応に受け入れるだけの、
器となる古墳そのものの整備は必要かと。

それと誤解無いよう強調しますが、
個人的に目指しているのはシンブルなもので、
こてこてとした装飾は極力排したいというのが本音。

古墳の案内板やベンチは必要だけど、
それ以外の余計なものは極力避けるというのが姿勢。

先に例としてあげた永福寺跡をはじめとした鎌倉全般にみられるそれや、
横浜市都筑区の、大塚・歳勝土遺跡公園がよいお手本かと。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/koudou/see/iseki_kouen/
大塚・歳勝土遺跡公園

沼津の市側の関係者で、
このあたりを未訪の方はぜひ一度行かれる事をお勧めしたい。

もっともあそこまでやるのは規模的に無理なので、
あくまでもその中から参考になるもの使えるものを、
いろいろと考察し精査しチョイスしてほしいという事が目的です。
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沼津~木負まで歩く。 [沼津~三の浦]

1月14日(日)沼津に行く。

今回は久しぶりに木負まで行く予定で、
内浦や西浦に行くのは昨年の五月以来となる。

朝の沼津行に乗る、到着予定は午前8時過ぎ。

途中根府川付近。朝陽が眩しい。
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右端に大島がくっきり見える。稀に見る好天。

到着すると沼津はまだおそろしく寒かった。5℃なかったと思う。

ただ風もなくとにかく最高の晴天ということで予定変更、
木負まで歩く事にする。

過去三の浦に六度歩いている。

内浦までが二度。
木負までが三度。
ららら、平沢までが一度。

ただ今までは千本浜や蛇松を経由していたのを、
今回は御成橋を渡ると、
東海バスの木負から江梨方面行きバスが通るルートを一部経由し、
そのまま最短距離で木負に行くという省エネコースを行く。

ここで捕捉すると、
東海バスの沼津~木負、江梨行と、
伊豆箱根バスの沼津~多比、伊豆長岡行は、
大手町、上土までは一緒だけど御成橋を渡るとそこで分かれる。

東海はすぐ右折し、
沼津南消防署や淡島神社を経由し牛臥入口停留所へ行くが、
伊豆箱根はそのまま直進し414号で合流するとそのまま右折、
それに沿って一気に牛臥入口まで直進するコースをとる。

なので各々のコースを折半して牛臥入口へ向かうと、
最短コースになるという仕掛け。

この二社のバスのコースの合流地点にあるのが、
ファミリーマート沼津下香貫店。
たまにお世話になります。


ここを過ぎたあたりで出発してからだいたい一時間経過。


ここで振り返るといつもいい富士山がみえる。
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このあとしばらく歩くと、
はまゆう前の停留所の手前に
セブンイレブン沼津志下店があった。

昨年最後にここを歩いた直後に出来たらしい。

じつは先のコンビニをすぎると、
次のそれまで二時間近くコンビニが無かったけど、
これが出来たおかけで三十分近くそれが短縮された。
ありがたい話です。

因みにこのひとつの手前の「とうごう」というバス停、
上記二社のサイトでは「島郷」で統一されているが、
ヤフー路線情報では、
伊豆箱根バスは「島郷」、
東海バスは「桃郷」となっている。

なにかの名残だろう。いつも不思議。

このあと馬込停留所をすぎたあたりのカープが振り返る。
ここからの富士山もけっこう好み。
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そして獅子浜北停留所付近で「ゴジラ山」を拝む。
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1964年の「モスラ対ゴジラ」で、
ゴジラが静之浦を襲った時に登場したのがこの山。

静浦小中一貫学校と静浦地区センターの間からみた富士山。
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去年9月に避難訓練を見学させていただきました。


この後、多比の停留所付近で出発から二時間が経過。


このあと内浦に入り江浦湾沿いに口野へ向かう。

(旧)静浦東小学校。
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現在ここでは期間限定で
NUMAZU サイクル ステーションとして、
有料レンタサイクルをしているとのこと。
http://www.city.numazu.shizuoka.jp/cycling/station/index.htm

ここのグラウンドは緊急用のヘリポートにもなっているようなので、
校舎全体もいつかは津波災害時の緊急避難場所込みで、
なにかの施設にして再利用できないものかといつも思っています。

口野から三津や西浜への入り口として、
観光も含めた何かの拠点にならないものでしょうか。

ここでちょっと残念なものをみた。

木村土木さんの口野ソーコの先の方にある、
海岸にそって綺麗に歩道や欄干が整備されている場所、

そこの海沿いの消波ブロックのところが、
まさにゴミの巣窟となっていた。
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けっこう釣り人がいつもいるけど、
入るところなどがないような場所なので、
いつもちょっと危ないかんじがして心配しているのですが、
かなりの漂着物としてのゴミはあるものの、
中には何者かによって投棄されたと思われるようなものがあり、
より危険な感じがしてしかたがない。

誰が投棄しているのかは分からないが、
こういう事は即刻やめてほしい。

そこからの富士山。
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なんとも神秘的です。それだけにこういう所が…。

淡島をすぎたところにある、
ミニストップ沼津内浦店の近くからみた淡島と富士山。
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そういえばロープウェイのロープがかかっていない淡島を初めてみた。
昨年取り外しされたとのこと。


このあたりで出発してからだいたい三時間。
写真撮ったりコンビニよったりなどしたため、
今回は多少ゆっくりとしたペース。


内浦湾にて。
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この日は第2回「内浦仮装Day」ということで、
なかなか賑やかだったけど、
コスプレしている人を無断で撮影するのはマナー違反ということなので、
そういう方たちが映り込まないようにするのに、
ここではちょっと苦労しました。

それにしても賑やかかつ楽しそうだったのがなによりで、
この企画もできれば地元に了解されたうえで、
無理なく続けていってほしいものです。

「かもめのお宿長浜」近くの展望台から。
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いつもとても綺麗なので閉業したとは思えないけど、
ここもいつかは何かの形で再開するのだろうか。

期間限定で素泊まりのみとして再開したら、
今ならそこそこ利用されるような気がするのですが…。

三の浦総合案内所
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そこの前からみた淡島と富士。
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このあと「海のステージ」さんに行って
「アップルパイのセット」をいただく。

出来立てらしく温かいのが嬉しい。


ここで沼津駅を出てからだいたい四時間が経過。


そしてここからの富士。

かつての浮世絵を思わせるような構図と雰囲気が美しい。
これをみるためにここまで来ているようなものです。
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パイが美味しくて元気がまた出てきたので、
いろいろとまたみることにする。


木負農協停留所前に停車していたラッピングバス。
多くの方が写真を撮影されていました。
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このあと歩いてまた内浦に戻るが、
海のステージを少し戻った歩道に、
来る時はなかったけっこう大きな石が落ちていた。(落石?)
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大きさが分かり辛そうなので、
自分の靴を横におく。

因みに靴のサイズは27㎝幅広。

もったら大きさに比べかなり重い。
あぶないので歩道の外に移動させる。

たしかに崖のようなものが側にあるにはあるけど、
そんなに何かが落ちて来そうにはパッと見しなかった。

謎です。

このあと長浜城に行く。
天気がよかったので眺めも最高でした。

長浜城跡の第一曲輪からみた富士と内浦。
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そして後はいろいろと見ながら小海まで歩くけど、
あいかわらず三津付近は賑わっていたし、
海岸やコンビニ、さらには「いけすや」さんあたりでも
コスプレの方等で賑わっていました。

このあとバスがまもなく来るようなのでここでバスに乗車。

小海~二瀬川まで乗車する。610円。

二瀬川で下車したのは沼津港方面に行くためで、
他にも同様の方が数名いらっしゃいました。

尚、
伊豆箱根バスにも「二瀬川」というバス停がありますが、
伊豆箱根バスのそれは東海バスのそれとはかなり場所が離れていて、
東海バスの「二瀬川」停留所直近の伊豆箱根バスの停留所は、
「ダイハツ前」という停留所になりますので、
ご利用の際はご注意を。

このあと沼津港方面に行く。

港大橋から。
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「千本港町」停留所付近からみた沼津港線廃線跡。
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欧蘭陀館さん付近の狩野川沿いにある土手から。
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ここの近くにあるこれ。
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鎌倉あたりの同じものに比べると、
この「浸水深」が書かれている点が目立つ。

これもできれば鎌倉でも将来普及させてほしい。

英語、中国語、韓国語で表記されている事も秀逸かと。

このあと駅へと向かうが
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平成29年1月に開始となっているのに「予告」?

誤植だろうか、橋をよく見ていないのでなんともいえない。

ただ工事期間はとにかく混雑するようなので、
車を利用される方はご注意を。

つじ写真館さん。
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このとき家族連れの方がこの下の写真を撮っていた。
お子さんは幼稚園か小学生低学年くらいにみえたけど、
これがどうも目当てだったらしいです。


以前も言いましたが、
地元のこのあたりの年齢層にファンが広がってるのが、
今回のAqoursの最大の特長かと。


仲見世商店街を通った後、
午後三時前に沼津から熱海行に乗る。

もう少し滞在したかったのですが、
いろいろと諸事情でここまででした。

乗り継ぎが異常なほどよく行ったので、
新幹線を使わなかったにもかかわらず、
二時間もかからないうちに横浜につく。

そして横浜からみた富士山。
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最後まで富士山づくしの一日でした。


しかし天気がよく空気が澄んでる時の沼津からの富士は最高です。


あと余談ですが、
沼津駅から木負農協まで歩くと、
全部で五十程の停留所があるので、
個人的にはこのコースを「三の浦五十三次」と呼んでます。

いつか気がむいたら各停留所ごとの写真を撮ろうかなと、
なんとなくですが考えています。


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東熊堂高尾山神社祭典に行く。 [沼津~三の浦]

「ぬまづの宝100選」にも選ばれている

「東熊堂高尾山神社祭典」に行く。

かなりの歴史をもつお祭りということて゜、
今回初めて行く。

みの日は天気がよく、
沼津駅北口から歩きしばらくすると、
くっきりと富士山がみえた。

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162号をひたすら北上して20分ほどすると、
早くも露店がいくつも道路上にみえてくる。

そして江原公園交差点付近が、
ふだんと違う大賑わいの状況になっている。

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いつもは閑散しているところに、
大勢の方々がとにかく集まっていた。

周辺の道路も足掛け二日間閉鎖というかなりの規模で、
バスも停留所一か所閉鎖しコースも変更していた。

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高尾山古墳の現況。
もう少し綺麗に整備されるといいのですが…。
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この後30分程歩いて「菓南」さんというお店でお菓子を購入。

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http://www.okashiya-kanan.jp/

特に「おおたけシュー」が美味しかった。
ちょっと体調がこの日いまいちだったけど、
これを食べたら元気になりました。

ありがとうございます。

しかしこの日の空はほんとうに綺麗な空でした。
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帰りの三島駅からも富士山が綺麗にみえてました。
ホームからも大勢の方が写真を写されていました。

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帰り、15:56発の「ひかり470号」に乗る。

自由席は超満員。
以前平日も混んでいたので、この列車の自由席は鬼門かも。

因みに往きは特急「踊り子」の自由席で三島まで行ったけど、
こちらはガラガラでした。

横浜~三島(そして修善寺)まで自由席特急料金は980円。

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三島・修善寺方面まで行く本数が少ないのが残念ですが、
この空き具合だとしかたないのかも。

以上です。
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ビゴーと内浦を描いた絵いろいろ。 [沼津~三の浦]

明治時代日本に長期在住されたフランスの画家、
ジョルジュ・ビゴーは、
今から百三十年程前に、
今の静岡県沼津市の内浦に滞在、
いくつもの
絵画を遺しているが、
その纏めをここで分かっている範囲でしたいと思う。

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①「富士(沼津江浦)」

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②「三津(伊豆)寺の境内から望む淡島」

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③「三津風景」

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④「Un coin de l'île d'Awadjima, Foudgi Yama」
※「淡島の角越しにみる富士山?」



今のところわかっているのはこの四枚で
①は静岡県立美術館に所蔵。
②は宇都宮美術館に所蔵。

作品はだいたい1887年あたりに描かれたもので、
今(2017)から130年前のもの。


描かれた場所は、

①は重寺付近の高台付近からみたもの。
(①の淡島のようにみえるのは今は無き大久保山)

②は来迎寺の山門から淡島をみたもの。

③はその参道の階段を降り切った所から氣多神社の方をみたあたり。

④は最初右にみえてる島影が淡島だと思い長浜付近の山道か高台あたりから描いたものと思っていたのですが、富士山がちょっと小さすぎるように見えることと淡島と富士の位置関係からみる陸と淡島の距離感が、長浜だと少し近すぎる気がするので気になってます。

ただ淡島がじつはこの絵の左にあるもののこの絵には描かれてないと考えた場合だと、①よりもう少し北の方で書かれたと考えられ、そうすると比較的しっくりとするものがあります。はたしてどちらなのでしょう。
(④で淡島を「安房島」と書いているのが面白い。かつてはこのように書かれていたのだろうか。)


ところでこれをみて分かるのは、
少なくともビゴーは重寺から三津付近を、
絵を描きながら移動していたこと。

ビゴーが修善寺に宿をとっていたのは、
いくつかの絵からも分かっている。

ビゴーが内浦に宿泊していたかは分からないが、
これだけの絵を遺している事を思うと、
修善寺と内浦を日帰りで何度も往復していたとは考えにくい。

この地域で一番古い旅館の「安田屋」さんは、
明治20年(1887)創業ということなので、
開業したばかりの安田屋さんに宿泊していたか、
それとも他にも当時いろいろとあった小規模な宿、
または松濤館さんや三津ホテルが開業していればそこだったのかも。

とにかくそのあたりをベースにしていろいと絵を書いていたと思います、

絵の描かれた場所もそのあたりを軸に拡がっていますし。

あと面白いのはこれら四枚のうち三枚が、
富士山や淡島を描いたものということ。

今の自分の内浦の写真も、
富士山や淡島がかなり占められている。

ビゴーにとってもやはりこの二つは魅力的な被写体だったのだろう。

このあたり、いつかこれら作品が一堂に会しての
「ビゴーの描いた沼津、伊豆」の展覧会をみてみたいものです。




②の現在(2017年)の様子。
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沼津とラブライブ。ネットでみかけるゴタゴタについて。 [沼津~三の浦]

これはツィッターで書いたことを、
一度再度並べなおして、
もう少しいろいろと書き足したものです。

またかなりきつい言い方もしてますので、
不愉快になられる事もあるかと思いますので、
その点ご了承ください。

以下本題に入ります。


沼津とラブライブもしくはラブライバーに対して、
最近いろいろとネットで意見が飛び交ってるが、
沼津という街もラブライブという作品も、
今いろいろと言われているような、
面倒くさい事を本質的にうみだすようなものでは本来なく 
まわりの人間が話をよってたかって、
とにかくひたすらややこしくしているだけのような気がしてしかたがない。

しかもそのうちのいくつかは自分の価値観のみに凝り固まったものがあり、
それがいつの間にか沼津市民の総意みたい語られていて、
それに同意しないお前はダメみたいな物言いまでしているのを見てると、
些か辟易とさせられるものがある。

しかもこれは街のどこがどう笑っていて、
街のどこがどう笑っていないか、
そして今文句や賛辞を述べているあなたは、
街のどこの部分のどこの人たちをどうみているんだという、
ここの部分がすっぽりと抜け落ちていて、
そのためそれによるすれ違いを助長し、
話をややこしくしているように思われる。


またそのことは、
沼津という街についてのそれも、
若干素通りしているようにも感じられる。

自分の場合沼津でも大洗でも、
あまり地元の人ともアニメファンの人とも会話をもたないので、
そんなに沼津に詳しいといわけではない。

ただそんな自分でも、
沼津に来て内浦なり木負なりまで何度も歩いていて感じた事に、
この町はかなり多様だということがあった。
「城下町」「宿場町」「港町」といろいろな顔がこの町にはある。

そして場所が変わるにつれ、
当たり前だけどその地域の顔や表情というものも変わってくる。

それらはじつに多彩で、
おそらく訪問を重ねると、
これらはさらに奥深い様相を呈してくるだろう。

そしてそれはひとつの地区内でも感じられた。

それを思うと繰り返しになるけど、
自分の意見というものが沼津に発せられた場合、
それがどこに立脚しどこに対して向けられたものかという事を考えると、
かなり曖昧なものなのではないかという気持ちが起きるようになり、
ここがはっきりしないと甚だ「無責任」という誹りを免れないものがあると、
そう考えるようになった。

街のどこがどう笑っていて街のどこがどう笑っていないか。

最初に触れたこの部分がぼやけてきてしまうのです。


ここで唐突に話の矛先を変えますが、
ひとつの論を確立するためには、
その論を否定するものを次々とぶつけ、
とうとうそれを否定できなくなったところで、
ようやくその論が確立できるというのが、
ひとつの論を確立するための段取りであり約束事であるという事が、
自分の考えのひとつにはあるけど、
相手に対して自分の論をぶつける場合、
果たしてそこまでやってる人ってどれだけだけいるのかなあと、
特に沼津でのやりとりをみてると些か疑問に感じてしまう。

そこまで行く前の気軽な話し合いや、
相手との意見の軽い交換というのならそこまでやる必要もないけど。
相手に厳しい意見をぶつけるのなら、
せめてそれくらいして事をあたるのがふつうだと思う。

それが時間的にも資料的にもできないというのなら、
相手の意見を一度すべて受け止めかみ砕いた後、
そこから自分の意見を展開するくらいの事はせめてするべきだと思う。

みんな仲良くは無理としても、
もう少し感情的なものを排した、
提案としての意見の交換をまずはしてほしいところです。

否定のぶつけあいは何も生まれないし不毛以外の何ものでもない。
そんなことに沼津をネタにすることこそ地元にとっては迷惑そのものだろう。

沼津が興るも廃るも、
最後は地元のいろいろな立場に立った市民のみなさんの、
その意志によって決まっていくことなのですから。


にもかかわらず、
己の考えのみに凝り固まって、
相手の意見の出てきた土壌や方向性も無視したような、
それでいてその自分の意見も、
段取りや約束事を無視したような所で成立しているような、
そんな意見ばかりを互いにぶつけあったり、
最初にもふれたように、
沼津市の幅のある多様な面を広くとらえようとせず、
その一部のみの反応を、
自分に都合のいい部分ばかりひろっているようでは、
個人のエゴが優先されたと受け取られても文句は言えないし、
そんな内容での話し合いなどどこまでいっても平行線だろう。


もっとハッキリ言わせてもらば、
自分が納得できればOKみたいな事ばかり通していたら、
このゴタゴタは永久になんともならないだろう。

それにだいたいこれは自分を納得させるという類のものではない。

すでにこの時点で大間違いも甚だしいし、
話し合いもくそもあったものじゃない。

小さな親切大きなお世話ではないけど、
みていていちばん蚊帳の外に押し出されているのが、
この時点でじつは沼津の地元の方たちという感じさえ、
ここまでくるとしてしまう。

さらにもう暴言覚悟で言わせてもらえれば、
沼津の事をと言ってはいるが、
じつはみんな「俺様至上主義」であって、
上でも少し触れたけど、
沼津はそのためのネタくらいにしか思っていないだろうと、
そんな感じさえ強くしてしまう。

海未さんではないが「何様ですか」だ。


だいたいこんな不毛な言い合いというか、
基本姿勢や段取りもすっ飛ばした話し合いなど、
正直沼津のイメージが悪くなるだけで、
ほんとに地元にとって有難迷惑そのものという感じだろう。

一部にはねつ造や煽り目的という、
しょうもないものもあるにはあるけど、
今ここで話しているのはそれらとは根本的に違う、
むしろ沼津が好きという人達による、
「よかれ」と思っての熱意がベースにあるため、
表現が純粋かつ先鋭的に傾きがちになり、
さらには「親しき中にも礼儀あり」どころか、
「親しくないのに礼儀なし」というかんじが強いため、
余計そのことによって負うキズが、
こちらが思っている以上に深いものになる危険性が高い。


本来これらの話し合いは、
相手の顔がみえてのそれであれば、
互いの力加減が微妙にわかるので、
より柔軟な会話となるため、
そのような危険性も低いのですが、
ネットのように顔の無い会話では、
なかなかそのあたりのことが十分には機能せず、
結果殺伐としたものになっていく傾向がある。


そんな中でのやりとりだけに、
本来はより慎重かつ柔軟にやってほしいのですが、
現実には上で自分が能書きを延々と垂れるような、
そんな事があちこちで起きている。

正直それで傷つき自爆するのが当人同士なら、
別にこちらもとやかくは言わないが、
実際には蚊帳の外に半ば押し出されたような、
沼津やその地元の人達が傷つく可能性があるとなると、
さすがにそれはかなりの困りものだ。


当人同士は自分たちだけの世界の中の、
極私的なやりあいかもしれないが、
そこで扱われているものが極私的ではない場合、
それがネットで公にやられると、
もうそれは当人同士だけの問題で収まらない場合がある。

せめて自分の発言がどういう波紋を起こし、
どこにどう波及していくのかという事を、
今よりもう少し考えてほしいところです。


あとツィッターは字数制限があるため、
どうしても言葉が粗くぶっつけ調になってしまう。

そのあたりも注意し、
また受けた方も割引いて受けけないと、
これまた感情的なしこりとなる場合がある。

以前も言いましたが、
ツィッターはとても便利ですが、
ある意味それと同じくらい不便なツールでもあります。

このへんもより一考を要してほしいところです。


と、長々と書きましたが、
ひとつこれだけは念押ししておきたいのですが、
正直この問題には「悪人」がいない…、
というより各人その立場からすれば正しい物言いがほとんどで、
潰されるべき内容のものの方がじつは少ないのも事実。

それだけにそこのところを、
どう少しでもそれらを各自活かすかという事も考えると、
やはり互いの立場や地元のいろいろな立場の人たちの事を、
さらに今よりもう半歩でもいいから自ら踏み込んでいかないと、
すべてが無駄になり水泡に帰してしまうことになるでしょう。


一度築いた自分の意見や考えを崩すのは、
自分のプライドや自分自身をを痛く傷つけるものがあり、
なかなか認めたがらないというのはわかりますが、
そのために地元が痛く傷つけられるようなことがあったら、
それは半ば恩を仇で返したような形になり、
しかも結局は自分自身ももっと深手を負う事になるでしょう。


そういう最悪に至らないためにも、
今より少しだけでもいいですから、
もう少し相手に寛容かつ自分には厳しく、
そして柔軟にこの話題に接し発言を心がけてほしいものです。

このままでは誰も得をしない、
全員がすべて痛い思いをしたまま終了になりかねない、
そんな危険性がありますので。


そんなところです。

予想より長くちととりとめのないものなりました。

読んでいただきありがとうございました。
不愉快になられた方には申し訳ありませんでした。



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沼津の旧東海道(川廓通り)を行く。 [沼津~三の浦]

というわけで今回は沼津にある、
旧東海道の一部「川廓通り」を行く。

といってもそんなに大規模なものではなく、
東海道からさんさん通りへ行く近道みたいな通りで、
狩野川と中央公園に挟まれたような形で道が形成されている。

さんさん通りを沼津港方向にしばらく歩くと、
「浜忠」さんがみえてくる。

その通りを隔てた静岡銀行の横に、
狩野川方面に伸びている石畳風の道がみえるが、
それが川廓通り。

その入口付近。
aa02.jpg

反対方向をみると、
通りの向こうに浜忠さんがみえる。
aa03.jpg

通りを中央公園方面に歩く。
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途中にこの通りの解説がある。
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中央公園を見上げる位置。
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逆側の狩野川の堤防越しの景色
aa13.jpg

そして川廓通りのもうひとつの入口、
東海道側からみた川廓通り。
aa08.jpg

地図でみるとこんな感じです。
aa14.jpg

ここを歩くと、

「東海道ってこんなに狭いの」

と思われるかもしれないけど、
当時としてはそこそこ大きな道だと思うし、
あまりデカすぎても、
謀反を起こして江戸に攻め上られた場合、
大軍を一気に移動させないために、
この程度というかんじだったのだと思います。

因みに神奈川県川崎市川崎区の砂子から、
京浜急行の八丁畷駅前まで伸びている道も旧東海道で、
これもそんなに幅のある道ではありません。

ここからスルガ銀行本店のある場所へ。

そこには沼津宿の碑があります。
aa09.jpg
aa10.jpg

その近くにある町の解説。
aa11.jpg

けっこう歴史に触れるという意味でも、
なかなかの場所だと思います。


因みにこの旧東海道、
何度も地震による大津波に遭遇したため、
津波の来ない場所にコースがどんどん変更されていったとか。

このため旧東海道より北側、
つまり内陸には津波の来ない場所が多く、
沼津市はほぼすべてが該当していると思われます。

特に市内の永代橋付近で、
東海道は西に向きを変えますが、
このあたりから港に向かって、
ゆるやかに下り坂になっていきますが、
このことからも、
旧東海道より内陸部は、
少し海抜が上がっているのです。

永代橋そばの交差点が海抜5メートル以上なのに、
それより通りに沿って南にある第二小学校の側では、
海抜2メートルもありません。

このあたりがけっこう津波の時は大きなポイントなります。

旧東海道の地図
https://ssl.gpscycling.net/tokaido/tokaido.html

このあたりの話はまたいつかということで。


あと今回初めて欧蘭陀館さんに行きました。

時間的にかなりおちついた時間帯だったこともあって、
のんびりとくつろがせていただきました。

机の絵鬼あるアンティーク風な照明が味があって好きでした。

あとアイスティーの量が半端じゃなかった。
味も好みのそれだったので、
あれだけでもけっこう満足してしまいました。

しかしなんか不思議だったのは、
ここでみた看板娘の曜さん関係のそれ。

ふつうだとあんなにおいてあると、
オタクっぽい感じになってしまうはずなのに、
なんというのかとてもアットホームというか、
ここの家族の一員みたいな趣すらあって、
微笑ましい感じすらしました。

いいなあこういう雰囲気。


〆です。
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