ユージン・オーマンディについて。 [クラシック百物語]
少し前の話ですが、評論家の奥田さんによるユージン・オーマンディの講義を聞いた。
内容は彼の経歴やラフマニノフとのことなどがあったが、それ以上に彼が何故日本では低く評価されているかということに重きがあった。
奥田さんは日本に誤った情報が広まった事が大きな要因と言われた。
これは彼はオペラが指揮できない、なのでウィーンフィルなどからも評価されずにヨーロッパで相手にされない。という間違った情報が広く流布されたことが少なからずあるというもので、実際は彼が1950年代から60年代にかけてかなりウィーンフィルの定期に呼ばれていたということを強く指摘していた。
また一部評論家の中身の無い空虚な音楽という評も指摘していた。
自分もこういう評を当時よく目にしたし、中にはオーディオファン向けの音楽と切って捨てたりとか、この音楽を支持するフィラデルフィアの街の人たちに対する誹謗ともとれるような言い方とか、とにかくどちらの人達にも失礼極まりないものすらあった。
だがはたしてそれだけだろうかという気もじつはしている。
これについてはかつていろんな人達と意見を交わした事があるが、個人的にはもっと根深いものがあるような気がしている。
ひとつは日本で起きた1950年代頃からのアメリカの機能至上主義や商業主義みたいなものへの否定で、これは反米的なものが高まりをみせ、後に学生運動へと大きなうねりとして発展していったものなのですが、当時インテリ層みたいな似非肩書をもっていた(もしくは錯覚していた)評論家がそれに迎合する、もしくは否定的な事を言ってバッシングされないための保身に走ったことも要因としてあるのではないか。
ひとつは、ヨーロッパ楽壇への埋めようがない劣等感を癒すため、アメリカのオケや指揮者(アメリカを主戦場としている外国人指揮者を含む)を精神的に貧しいとか、そのオケも機能ばかりを追求し音楽を逸脱していると評し、「精神的」な面で自分達の方が上というくだらない満足感を持とうとしたこと。
ひとつはオーマンディが協奏曲や小品をかなり高いレベルで演奏しているにもかかわらず、それらを大量に録音しているというだけで協奏曲しか取り柄が無い、小品録音を大量製造するポップス指揮者みたいに思われたこと。
ひとつは、規格外の凄いものを聴かされたとき、現実を直視することができず結果苦し紛れの否定に指揮者もろともまきこんでそれに走った事。特にこれなどは昭和の頃の貧弱な日本のオケにどっぷり浸かったがために起きた弊害という気もした。もっとも当時の日本のオケの団員は評論家と逆で、それら評論家から全否定されたアメリカのオケを口を極めて絶賛していた。そしてそこにはセル&クリーブランドだけでなくオーマンディ&フィラデルフィアがあり、一部ではこの両者こそ世界最高のオケとまで称賛する声があった。
そして最後は、日本は特に「陽性」な演奏家をやや低く見るきらいがあるということ。どららかというと陰影のあるものを持ち上げるということ。そして時には音の汚れまでもそれと同じように扱うというケースまで散見されること。
というのが他の理由としてあると思っている。
このためショルティとシカゴ、そしてオーマンディとフィラデルフィアは初来日当初からこういうポジションに立ち位置をもった人達から、かなり手厳しい言葉を浴びせられることとなった。
じつにくだらない事だけど、声がデカくてご立派な肩書を持った人がもっともらしい能書きを垂れてしまうと、悲しいかなどうしても昭和の頃はそれにへいこらひれ伏して右に倣えとズルズル引きずられる人が多かった事も事実。
ただ令和の今は、さすがにそういう愚かな物言いに左右されることもなく、目の前の音楽にイーブンに対峙してくれる方がほとんどなので、オーマンディもフィラデルフィアも今はかなり真っ当に評価されているように感じられる。
因みに奥田さんは触れなかったけど、自分はオーマンディはロバート・ショウ同様、トスカニーニに強く私淑した直系に近い指揮者だと思っている。
それは彼が聴きやすいが媚びたりあざとさに走る事がない、真摯で誠実な演奏スタイルがそれを如実に物語っていると思う。またあの決して笑わない目が音楽をこちらの想像以上に深いところで見据えているような気がしてならない。
(ただしときおり大胆なアレンジを施したヴァージョンを演奏することはある)
その最たるものが西側初録音となったショスタコーヴィチの交響曲第4番と、晩年EMIに録音したシベリウスの「四つの伝説曲」とヒンデミットの「弦楽と金管のための協奏音楽」だろう。
前者のその切り詰めた緊張感と力感は凄まじいものが有り、フィラデルフィアのオケの精度の高さも相まって驚異的な演奏となっているし、もしこの曲をムラヴィンスキーが録音していたとしも一歩も引けを取らないレベルの演奏だと思う。
また後者は1978年に神奈川県民ホールで聴いたこのコンビを、これほど彷彿とさせる録音も稀というくらい素晴らしくその魅力がとらえられおり、演奏の見事さも相まって、このコンビの実演でのそれをかなり忠実にとらえた名盤と自分は確信している。
(個人的にはRCAものは音質が堅く、かつてCBSソニーから出ていた国内盤は着色過剰ともいえるような音質だったと感じています)
とはいえ曲目がややマニアックなので、もし人にこのコンビを勧める時は、1978年に録音した「英雄の生涯」と、XRCD化されたシベリウスの2番、そして「英雄の生涯」と近しい時期に録音されたメンデルスゾーンの「スコットランド」を上げる事にしている。
あと合唱ものではメンデルスゾーンの「最初のワルプルギスの夜」やベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」もなかなかだけど、何故かオーマンディの合唱ものは、声を器楽扱いしているという評のせいかあまり芳しい印象が日本ではないのが残念。
ただ前述したけど、かつてに比べれば随分まともに評価されるようになっただけでもありがたいし、1967年の初来日公演がCD化されたことなど昔を思えば夢のようです。
とにかく昭和の時のように、おかしな色眼鏡でものをみたり、保身や人気取りで物事を語ったりするのは令和のこの時期にはもう勘弁です。
まもなく没後40年。
これからもオーマンディとフィラデルフィアが真摯に評価され続ける事を深く願います。
〆
内容は彼の経歴やラフマニノフとのことなどがあったが、それ以上に彼が何故日本では低く評価されているかということに重きがあった。
奥田さんは日本に誤った情報が広まった事が大きな要因と言われた。
これは彼はオペラが指揮できない、なのでウィーンフィルなどからも評価されずにヨーロッパで相手にされない。という間違った情報が広く流布されたことが少なからずあるというもので、実際は彼が1950年代から60年代にかけてかなりウィーンフィルの定期に呼ばれていたということを強く指摘していた。
また一部評論家の中身の無い空虚な音楽という評も指摘していた。
自分もこういう評を当時よく目にしたし、中にはオーディオファン向けの音楽と切って捨てたりとか、この音楽を支持するフィラデルフィアの街の人たちに対する誹謗ともとれるような言い方とか、とにかくどちらの人達にも失礼極まりないものすらあった。
だがはたしてそれだけだろうかという気もじつはしている。
これについてはかつていろんな人達と意見を交わした事があるが、個人的にはもっと根深いものがあるような気がしている。
ひとつは日本で起きた1950年代頃からのアメリカの機能至上主義や商業主義みたいなものへの否定で、これは反米的なものが高まりをみせ、後に学生運動へと大きなうねりとして発展していったものなのですが、当時インテリ層みたいな似非肩書をもっていた(もしくは錯覚していた)評論家がそれに迎合する、もしくは否定的な事を言ってバッシングされないための保身に走ったことも要因としてあるのではないか。
ひとつは、ヨーロッパ楽壇への埋めようがない劣等感を癒すため、アメリカのオケや指揮者(アメリカを主戦場としている外国人指揮者を含む)を精神的に貧しいとか、そのオケも機能ばかりを追求し音楽を逸脱していると評し、「精神的」な面で自分達の方が上というくだらない満足感を持とうとしたこと。
ひとつはオーマンディが協奏曲や小品をかなり高いレベルで演奏しているにもかかわらず、それらを大量に録音しているというだけで協奏曲しか取り柄が無い、小品録音を大量製造するポップス指揮者みたいに思われたこと。
ひとつは、規格外の凄いものを聴かされたとき、現実を直視することができず結果苦し紛れの否定に指揮者もろともまきこんでそれに走った事。特にこれなどは昭和の頃の貧弱な日本のオケにどっぷり浸かったがために起きた弊害という気もした。もっとも当時の日本のオケの団員は評論家と逆で、それら評論家から全否定されたアメリカのオケを口を極めて絶賛していた。そしてそこにはセル&クリーブランドだけでなくオーマンディ&フィラデルフィアがあり、一部ではこの両者こそ世界最高のオケとまで称賛する声があった。
そして最後は、日本は特に「陽性」な演奏家をやや低く見るきらいがあるということ。どららかというと陰影のあるものを持ち上げるということ。そして時には音の汚れまでもそれと同じように扱うというケースまで散見されること。
というのが他の理由としてあると思っている。
このためショルティとシカゴ、そしてオーマンディとフィラデルフィアは初来日当初からこういうポジションに立ち位置をもった人達から、かなり手厳しい言葉を浴びせられることとなった。
じつにくだらない事だけど、声がデカくてご立派な肩書を持った人がもっともらしい能書きを垂れてしまうと、悲しいかなどうしても昭和の頃はそれにへいこらひれ伏して右に倣えとズルズル引きずられる人が多かった事も事実。
ただ令和の今は、さすがにそういう愚かな物言いに左右されることもなく、目の前の音楽にイーブンに対峙してくれる方がほとんどなので、オーマンディもフィラデルフィアも今はかなり真っ当に評価されているように感じられる。
因みに奥田さんは触れなかったけど、自分はオーマンディはロバート・ショウ同様、トスカニーニに強く私淑した直系に近い指揮者だと思っている。
それは彼が聴きやすいが媚びたりあざとさに走る事がない、真摯で誠実な演奏スタイルがそれを如実に物語っていると思う。またあの決して笑わない目が音楽をこちらの想像以上に深いところで見据えているような気がしてならない。
(ただしときおり大胆なアレンジを施したヴァージョンを演奏することはある)
その最たるものが西側初録音となったショスタコーヴィチの交響曲第4番と、晩年EMIに録音したシベリウスの「四つの伝説曲」とヒンデミットの「弦楽と金管のための協奏音楽」だろう。
前者のその切り詰めた緊張感と力感は凄まじいものが有り、フィラデルフィアのオケの精度の高さも相まって驚異的な演奏となっているし、もしこの曲をムラヴィンスキーが録音していたとしも一歩も引けを取らないレベルの演奏だと思う。
また後者は1978年に神奈川県民ホールで聴いたこのコンビを、これほど彷彿とさせる録音も稀というくらい素晴らしくその魅力がとらえられおり、演奏の見事さも相まって、このコンビの実演でのそれをかなり忠実にとらえた名盤と自分は確信している。
(個人的にはRCAものは音質が堅く、かつてCBSソニーから出ていた国内盤は着色過剰ともいえるような音質だったと感じています)
とはいえ曲目がややマニアックなので、もし人にこのコンビを勧める時は、1978年に録音した「英雄の生涯」と、XRCD化されたシベリウスの2番、そして「英雄の生涯」と近しい時期に録音されたメンデルスゾーンの「スコットランド」を上げる事にしている。
あと合唱ものではメンデルスゾーンの「最初のワルプルギスの夜」やベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」もなかなかだけど、何故かオーマンディの合唱ものは、声を器楽扱いしているという評のせいかあまり芳しい印象が日本ではないのが残念。
ただ前述したけど、かつてに比べれば随分まともに評価されるようになっただけでもありがたいし、1967年の初来日公演がCD化されたことなど昔を思えば夢のようです。
とにかく昭和の時のように、おかしな色眼鏡でものをみたり、保身や人気取りで物事を語ったりするのは令和のこの時期にはもう勘弁です。
まもなく没後40年。
これからもオーマンディとフィラデルフィアが真摯に評価され続ける事を深く願います。
〆
2023-07-15 22:32
nice!(0)
コメント(3)
フィラデルフィア管の演奏会に40回か50回行きましたが、ユージン・オーマンディは、素晴らしかったです.....オーマンディ・フィラデルフィアがハイティンク・コンセルトヘボウやシノーポリ・ドレスデンよりも良いと思います....
by サンフランシスコ人 (2023-07-25 06:25)
日本の評論家は何か変わったことをした演奏家を褒める一方で、特に変わったことはしない正統的な演奏家を切り捨てていたと思います。21世紀になってハイティンクが評価されるようになったのは、わが国の聴衆が成熟して正統的な演奏を受け入れるようになってきた証なのではないかと考えます。
オーマンディのウィーン・フィル客演については、穿った見方からすれば、大戦をきっかけに亡命した人気ソリストの抱き合わせでアメリカの音楽事務所に押し付けられた可能性もあるのではないでしょうか。
by ぶりちょふ (2023-08-16 09:09)
フィラデルフィア管のカリフォルニア演奏旅行が中止です......ユージン・オーマンディの時代にそんな事がなかった....
http://symphony.org/philadelphia-orchestra-cancels-march-2024-california-tour/
by サンフランシスコ人 (2024-01-05 04:40)