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アルトゥーロ・トスカニーニ指揮フィラデルフィア管弦楽団 [クラシック百銘盤]

トスカニーニが1941年の11月から翌年2月にかけてフィラデルフィア管弦楽団に客演し、その時演奏した曲目の多くがセッション録音されました。

トスカニーニが何故この時期フィラデルフィアに客演したかというと、トスカニーニとNBC上層部にオーケストラ団員にまつわるいくつかの事実が発覚、それを知ったトスカニーニが激怒し1941年秋からのNBCとの契約を拒否し楽団から去ってしまったことがそもそもの発端とか。

このためトスカニーニはその機会にNBC以外のオケに客演することになるのですが、彼にとって最大のハイライトとなったのがフィラデルフィアへの客演となりました。

当時このフィラデルフィアのトップに立っていたのはユージン・オーマンディで、フィラデルフィアはボストン響と並んで名実ともに全米最高の楽団といわれていました。

オーマンディは1936年からこのオケのトップにいましたが、1940年のシーズン迄は前任者ストコフスキーとの共同だっため、彼自身が単独でこのオケのトップとなったのは、この1941年のシーズンからでした。

オーマンディはトスカニーニを生涯深く尊敬していたこともあり、その最初のシーズンにこの報せはオーマンディにとって願ったり叶ったりだったかもしれません。

トスカニーニは11月中旬にまず、

・シューベルト:交響曲第9番ハ長調 D.944『グレイト』
・ドビュッシー:『イベリア』
・レスピーギ:交響詩『ローマの祭り』

を演奏し、その直後にこれらを録音。


翌年1月と2月にはニューヨークとワシントンで三回ずつ指揮台に立ち
1月に

・ハイドン:交響曲第99番変ホ長調 Hob.I:99
・バッハ(レスピーギ編) :パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582
・メンデルスゾーン:『真夏の夜の夢』より7曲[1942年1月11,12日]
・R.シュトラウス:交響詩『死と変容』 Op.24

2月に
・チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調 Op.74『悲愴』
・ドビュッシー:交響詩『海』

を演奏し、これらも1月と2月にそれぞれ録音がされました。


ですがこれらの音盤の制作過程で事故が起き、不純物が制作時に混ざったことや、戦時中ということで、素材が良質のものではなかった等の理由により、音盤はノイズの激しいものとして仕上がってしまったようです。

トスカニーニはこれを聴き一部は破棄を命じたもの、残りは許可を出したり、再録音をするということでいったんは落ち着きました。

ところが1942年から 1944年にかけて全米音楽家ユニオンによるレコーディング禁止令のため再録音が出来ず、そうこうしているうちにフィラデルフィアがRCAからコロンビアに移籍したことから、RCAはこれらをすべて廃盤扱いにし、すべてNBCと再録音することに決定ということになったようです。

このときトスカニーニはそれを聞いてかなり激怒したようですが、じつはそれくらいトスカニーニはこの録音を高く評価していたようです。

結局この録音はトスカニーニの生前ついに日の目をみませんでしたが、1962年のトスカニーニの没後5年時に、この時の録音を何とか使えないかと当時のスタッフがシューベルトのグレイトのテープを修復したものの、原盤の状態がかなり劣悪で、最初の二つの楽章だけで、修復に750時間かかるという大苦戦を強いられたとか。

最終的に残り二つの楽章を含めた四つの楽章を復刻、翌年にはこれがLPになり、それは日本でも発売されました。

その後さらに7曲が修復され1977年にLPで発売されました。

さらにその後CDの時代になり1990年の晩秋に四枚組の紙製のボックス入りでこれら全8曲が発売されました。

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自分はシューベルトのみかつて1970年代にFMで聴いたことはあるものの、それ以外はこの時初めて聴いたのですが、正直その音質の悪さ、特に盛大なノイズのそれにはかなり驚いてしまいました。また回転ムラによる音のふらつきも曲によっては散見され、正直いくらテープ録音以前とはいえ、これはいかがなものかという感じがしたものでした。

ですが、それでも演奏はかなりのものがあり捨てがたい魅力があり、手放すことはさすがにできませんでした。

ところが2006年。RCAがソニーに権利が移った事で、トスカニーニのこのセッションを再度最新の技術で復刻、さらにワルターやセルでも使用され音質向上に成果を上げたDSDも使用し、CD3枚に収めで発売されました。

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トスカニーニ没後50年に合わせてのそれということですが、これが素晴らしかった。

確かにあいかわらずノイズや原盤の傷、また以前はノイズでマスクされていた原盤の切れ目の繋ぎなどがハッキリ聴きとれるようになったという痛し痒しの部分はあるものの、とにかく1990年のCDよりはるかにノイズが後退、音の立ち上がりや質感の向上、そして緯線より管もクリアに前面に出るようになりました。

最初はその分弦が引っ込んだように聴こえたものの、聴いているうちに前の録音同様の厚みも艶も確保された音質に仕上がっていることが確認され、ようやく年代相応にほぼ近い音質にまで改善され、おかげで繰り返し聴いてもまったく苦にならず、このセッションを愉しく聴くことができるようになりました。

もしトスカニーニが生前このレベルの音を耳にしていたら随喜の涙を流したのではないかというくらい、とにかくようやくまともな音になってくれた。


ところでこの演奏。

聴いていて、なにかベーム指揮のウィーンフィルのセッション録音とどこか重なるような感じがした。


ベームというと初期はトレスデン、その後ウィーンフィルと録音したものの、ウィーン国立歌劇場の地位を去った頃からドイツのグラモフォンに移籍し、主にベルリンフィルと録音をするようになった。

この時期のベームを色気や柔軟性に乏しいという意見が多く、そのためウィーンとの共演は互いにかけている部分を補った演奏と、高く評価された。

このトスカニーニにとフィラデルフィアにも自分はどこかそれを強く感じる

確かにNBCのようなアタックの強さや、ティバニーの強靭な響きは感じられないものの、NBCの時の柔軟さや色彩感の不足がここでは払拭され、トスカニーニのNBCでは聴くことのできなかった、より自然な流動感、強弱のデリケートなコントロール、そして決して過度に刺激的にならない陰影の妙など、隠れた、もしくは彼本来の魅力のそれが表出されたように聴こえるように感じられた。

そしてひょっとして、もし戦後彼がウィーンフィルとこれらの曲を録音したらこんな感じに仕上がったのではないかとすら感じられたものでした。


ところで自分は最近このトスカニーニのフィラデルフィアセッションを録音された順に聴くようにしているが、それを聴いているとかつてセルの後を継いだマゼールが、クリーヴランドを指揮してその最初のシーズンの終盤に録音したプロコフィエフを思い出した。

それは最高の状態にある最高のヴィルトゥオーソオケを指揮した喜びといっていいのだろうか。無駄な練習に時間を割くことなく、自らの思う理想的な音楽を練習する以前からすでに奏でる事のできる団体と対峙することで、自分の音楽をより強くオケに投影できる満足感というのだろうか。

とにかくそういうものが、最初のシューベルトのグレイトからもすでにそれが溢れんばかりに伝わってくる。トスカニーニがこの録音を廃盤にされた怒りと嘆きがあらためて感じられるほど、とにかくトスカニーニの気持ちのノリが素晴らしい。

その軽やかな足取りと弾力性のあるリズム感、そして隅々まで瑞々しく歌いつくされたそれは、天性のメロディーメーカー、シューベルトの二十代の若々しい息吹すら感じさせるもので、これは間違いなく同曲屈指の超名演といっていいと思う。

(ただオケの方も決して通常運転でトスカニーニに対応できたというわけではなく、全団員が今迄にないほどかなり強い緊張感をもち、個人個人のレベルでもいつも以上の練習をした上でこのセッションにのぞんだようです)

この雰囲気は翌年のセッションでももちろん健在だけど、トスカニーニとフィラデルフィアが互いに手の内がつかめてきたのか、41年の11月のセッションの時のような他流試合的な緊張感よりも、共同作業的な雰囲気が若干強くなったように感じられる。

特に2月の「悲愴」はストコフスキーはもちろん、オーマンディもすでにフィラデルフィアと録音しているので。トスカニーニもフィラデルフィアの語法と伝統というものを尊重しているようなものが感じられる。ただそれは妥協とはまた違うものかと。


この時期がすぎると戦争の激化等の状況の変化もありトスカニーニは再びNBCに戻り指揮をするようになる。
(因みにあの有名なNBCとの「レニングラード」アメリカ初演はこのフィラデルフィアの「悲愴」の五か月後)

そしてトスカニーニはNBCと1954年までその関係を結び続けることになる。


もしというのはあれだけど、もしトスカニーニがNBCに戻らず、またフィラデルフィアもコロンビアに移籍しなかったら、トスカニーニとフィラデルフィアははたしてどうなっていただろう。

さらに十年以上その関係が続き、NBCとの録音されたその多くがフィラデルフィアと録音されたかもしれないし、その中にはベートーヴェンやブラームスの全集も含まれていたかもしれないし、そうなっていたら、トスカニーニのイメージは少なからず今とは違っていたかもしれない。

とにかくそんなことをふとこの一連の録音を聴いて思ったりしました。

トスカニーニとフィラデルフィア。

決して録音は多くありませんが、いろいろと考えさせられる珠玉のセッションといえると思います。


◎録音内容

① シューベルト:交響曲第9番ハ長調 D.944『グレイト』[1941年11月16日]
② ドビュッシー:『イベリア』[1941年11月18日]
③ レスピーギ:交響詩『ローマの祭り』[1941年11月19日]

④ メンデルスゾーン:『真夏の夜の夢』より7曲[1942年1月11,12日]
エドウィナ・エウスティス(ソプラノ)
フローレンス・カーク(ソプラノ)
ペンシルヴァニア大学グリークラブ女声合唱団

⑤ チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調 Op.74『悲愴』[1942年2月8日]
⑥ ドビュッシー:交響詩『海』[1942年2月8、9日]
⑦ ベルリオーズ:『マブ女王のスケルツォ』[1942年2月9日]
⑧ R.シュトラウス:交響詩『死と変容』 Op.24[1942年2月11日]


アルトゥーロ・トスカニーニ指揮フィラデルフィア管弦楽団

録音場所:フィラデルフィア、アカデミー・オブ・ミュージック

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「波よ聞いてくれ」第12話「あなたに届けたい」をみて。 [アニメ]

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正直言うと、最初の頃はこの話のスピードについてけなかったし、話によってはまったく合わないものもあったけど、それでもとにかく毎回見逃さずに見続けさせる何かがある作品だった。

で、今回の最終回。

今迄の11話の総括というわけではないけど、その多くのものがここに否応なくかかわる事柄がメインに据えられた話だった。

北海道胆振東部地震

2018年(平成30年)9月6日3時7分59.3秒に、北海道胆振地方中東部を震央として発生した地震。地震の規模はMj6.7、震源の深さは37 km。最大震度は、震度階級でもっとも高い震度7、北海道では初めて観測された。(以上ウィキペディアより)


それがこの日、このアニメで描かれた。

実際の地震は3時7分に起きたが、このアニメでは3時半過ぎに起きたことになっている。

なので厳密にはこれがその地震をそのまま描いたわけではないのかもしれないが、その後いろいろな描写は、間違いなくそこからのものが流用されている。


そんな地震を扱ったこの最終回。

話はいつもの面子によるいつもの雰囲気で、何事もなく日常が続いていく。

放送開始後。

ミナレの淀みの無い話もいつも通りだし、深夜ということもあり本番が始まる早々あくびをしている瑞穂の姿など、いつもと変わらぬ平和な日常。

それが放送間もなく起きた地震によりすべてが一瞬にして非日常になる。このあたり多くの人達が一気に非日常に突入する瞬間がいろいろと描かれているし、中には「おいおい」というシーンもある。

とにかくここのあたりの描写もかなり細かい。

このとき地震は3時32分頃起きたとなっているが、本編でも麻藤がスタートと言ってから1分20秒程でペットボトルの水面に小さな波紋が起きた描写があるのも細かい。

この後、話は一気に非常時に突入する。

後半、瑞穂がみている画面の時刻が3時34分となっているが、実際ペットボトルの水面のシーンからCMを挟んでこの瑞穂が画面をみているシーンまでも四分程なので、少なくともこの前後まではリアルの時間とシンクロさせている。

そして本当の胆振地震の時は発生後18分で道内全域が完全に停電、いわゆるブラックアウトになるのですが、このアニメでも、放送開始から20分が経った3時50分を時計が指しているシーンが来る前に、道内全域が停電している事をミナレが伝える。

またミナレが伝えた震度や、その前に瑞穂がみていた各地の震度も胆振地震で気象庁が発表したそれと同じと、とにかく細かい。

このときミナレがかなり動揺しているシーンが描かれているけど、あれが普通だと思うし、ミナレだからあれで済んだのだと思う。

またこのとき麻藤とミナレのメモと目のやりとりが秀逸で、ここでもラジオならではという感じがした。

その後ミナレは、不安になった人達のそれを情報混みでひたすらラジオで読み続ける。

このため見ているこちらにもそれがひじょうにリアルに感じられ、非常時に人間はどう動くか、そしてラジオは何ができるか、そしてプロがそこでやるべき事がじつに濃密に、そして強いメッセージも強烈に感じられた。

311の時に、そして最近のコロナの時も、右往左往した付和雷同的な報道が、己の主義出張のみを前面に出したかのように、制限なく垂れ流されたいくつかの民間放送のテレビのそれを思うと猶更でした。


地震後動き出す多くの人達の描写でこの話は閉じるけど、この最終回がいつ制作されたかはわかりませんが、何か今のコロナで厳しい状況に置かれている今の人たちにエールを送っているかのようで、ものすごく強く心に残るラストでした。



※余談をひとつ。

胆振地震の時の札幌の日の出はミナレが放送を終えた直後の5時4分なので、あの星空のシーンは地震直後に実際みえたそれをうまくこれに被せたのかも。因みに札幌の天気は前日の午後からこの日の昼までは晴れ、朝の最低気温は20度だったそうです。


※もうひとつ余談。

主役のミナレを演じた杉山里穂さんの演技力を高く評価する声をよくみかけるけど、正直にいうと自分はそのことより、それだけの人が2017年にデビューして以来、この作品まで一部のファンの方達を除けばほとんどノーマーク状態だったということに、自分はこの業界の怖さを感じてしまった。

もし杉山さんがこの役をしてなかったらはたしてどうなったのだろうかと。これだけの人がほとんどその実力を認知されないまま終わったのかもと思うと本当にきついし、また杉山さんと同等の実力のある人も、じつは以前の杉山さん同様一部のファンの方達のみにしか知られないままで現在に至っているのではないかと、本当にこのあたりいろいろと考えさせられてしまった。

これと同じことはファイルーズ あいさんにも言えるかもしれないけど、今後このあたりの人が次どうなるか、そして実力がありながら埋もれている人達はどれくらいいるのかと思うと。何かいろんな意味で怖いし考えさせられてしまいました。


以上で〆
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この夏のマスクとの付き合い方 [ひとりごと]

「最初にお断りしておきますが、自分は医療関係の人間ではないので、あくまでも一般素人の発言としてみてください」

これより本文


なんとなくだけどコロナに関するそれが全国的に一息ついた気がする。

ただまだワクチンも特効薬も無いという状況は変わっていないので、何かが大きく好転したという気は正直しない。むしろまったくの現状維持状態が続いていると言っていいのかもしれない。


ただそんな中でようやくだけど自分なりにあることがようやくつかめるようになった。

それは「マスク」の使い方…というよりそれとの付き合い方。

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自分はマスクというのは感染を防ぐというより、感染をさせないためというふうに考えていた。

確かにそれは間違ってはいないけど、それは二次的なものということに最近気づいた。

つまり感染しない感染させないための最大のそれは、

「人との距離をしっかりとること」

※今はやりの、そして自分はあまり好きではない言い方でいえば「ソーシャルディスタンス」ということと同じかと。

ということでこれが最優先でありメインだということ。

そしてあくまでもマスクはそれが出来ない時につかう非常手段であり、しかも効果は「他人に感染させないということ限定」ということをしっかりと意識するということ。

だからマスクを買うために距離を詰めて長時間並ぶなどというのは、本末転倒も甚だしい愚行と自分は考えている。

(もっとも自分の近所の薬局やスーパーには、3月以降一度これを書いている6月下旬に至る迄マスクが店頭に並んだのを自分は見た事がないので、自分にとってはあまり関係のない話ですが)


なので今年の夏はマスクはそういうものと考え、とにかく意味なく惰性でつけず、人との距離がとれない非常手段時(室内や車内、そして混雑時等)のみに補助的に使用することで、間違っても熱中症などにかからないようにするという、そんなやり方でお付き合いしていきたいと思っています。

もっともお店などは例え空いていてもそういうことに平常時からかなり気を使っているので、屋外屋内を問わずマスクをつけるようにしている。これは感染云々だけでなく、接客業の人に対する最低限のマナーであり心遣いかと。


だから同じ理由で、ちゃんと人との距離を考えて歩いてる人なら、屋外でマスクをしていなくても自分は何とも思わない。もっともマスクもしないで平気で人との距離を詰めたり、お店の中でガンガン喋る人には正直?となってしまいますが。


あとここからは勝手な思い込みなのですが、自分は今回のコロナは、コロナのウイルスを「浴びる」もしくは「浸かる」ような状況じゃないかぎり、そう簡単に感染しない、もしくは重症化しないのでは?と思っています。

つまり至近距離でマスクをしない状態の人から大きな咳やくしゃみ、またはガンガン語られる時に飛び出す飛沫とともに排出される大量のコロナウイルスを「浴びる」、もしくは室内でウイルスをもっている方が排出したことで、室内に大量のコロナウイルスが滞留している中に「浸っている」状態がとにかく危険なのではと考えています。

「人との距離をとること」「部屋の換気をこまめにしっかりとる」ということを最近しつこいくらい専門家の方が言ってるのも、じつはそういうことが大元にあるんじゃないのかなと。

もちろんだからといって手洗いの励行を疎かにしては駄目だけど、自分はとにかくそう考えるようになりました。


自分は専門家ではないですし、特に後半は勝手な思い込みだけど、そう思うようになってから、ちょっと気持ちに余裕ができるようになった。もちろんそれは油断とは別のものだけど、不必要に恐れることはなくなりました。


最後に繰り返しになりますが結論として、

①とにかく「感染しない」「感染させない」ためには人との距離をとることが最優先。
②マスク着用はそれが出来ない時の「人に感染させないため」の非常手段。
③お店に対しては気遣いとマナーの意味から上の事とは関係なくマスク着用。

が、自分のこの夏のマスクとの付き合い方です。

とにかくマスクが原因で熱中症で倒れ、結果ただでさえ疲弊している医療関係者の方々に、余計な負担をかけないようにしましょう。

以上で〆
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山形交響楽団のブルックナーの6番 [クラシック百銘盤]

2011年3月11日。

日本にとって忘れられない一日だった。

自分は当時横浜の西区高島の帷子川にかかる万里橋の側でこの揺れに遭遇した。

時間は午後二時四十六分を少し過ぎたころだろう。

このとき自分「ついに東南海が来た」と思ったが、その後震源が東北と聞いて仰天した。

確かに宮城県沖で震度7クラスの地震が起きると警告されてはいたが、この揺れはそれとは規模があまりにも桁違いだった。

それからはまさに未曾有の体験の連続だった。そして福島原発の予想もしなかった崩壊。

今のコロナとはまた違った、というより終末感はもっとあったような、そんな日が続いていった。

それから一年ほど経った翌2012年2月22日に、山形交響楽団が当時音楽監督だった現芸術総監督の飯森範親氏の指揮で録音したブルックナーの交響曲第6番が発売された。

録音は2011年4月25日と翌26日。

十日ほど前に行われた第212回定期公演で演奏された後にセッション録音されたもの。


311当時、山形は最大震度5強の揺れにみまわれた。自分が横浜で経験したそれと同じかなり強い揺れだ。

海に面していなかったこと、廻りを高い山に囲まれていたこと、地盤が固かったことなどがあり、他の太平洋に面した東北の県に比べれば人的被害も、そして放射能の直接的な影響も小さかったが、それでも翌12日の山形交響楽団の定期公演は「建物への影響の点検に時間がかかるなどの理由から中止になった」(山形新聞)。

また多くの質的被害、停電やガソリン不足、そして新幹線の運行休止など起こったが、宮城県等がより壊滅的被害を受けた地区があったこともあり、早くも11日の夕方から宮城県への医療救護活動を行っている。

その後4月初旬に再度大きな地震があり一時復旧にブレーキがかかったものの、山形新幹線、そして山形空港という陸と空の交通機関は同月中旬にはしっかりと動いていた。特に山形空港は早い時期から機能していたことが幸いしたとのこと。

この中で山形交響楽団の定期公演が行われた。当時評論家の東条碩夫氏は大阪伊丹から空路山形へ飛びこの演奏会を聴きにきておりこのときの定期演奏会の事を書かれている。

そしてその十日程後にこのブルックナーが録音された。

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さてこの演奏。

山形交響楽団はもともと弦の人数が三十人程しかいないため、他のブルックナーの録音のような分厚く迫力のある弦の響きはここでは感じられない。

ただ19世紀中ごろのブルックナーが交響曲を書いていたころの欧州のオケの多くは二管+弦が多くて四十人程だったというので、そういう意味では当時の規模に近いそれなのかもしれない。

全体的にはちょっとワルター指揮のコロンビア響のそれにも似たようにも感じられるが、こちらの方が神経の細やかな響きを弦が奏ででおり、弦が痩せてか細く苦し気に演奏しているようなそれも感じられない。

あえていうと、ちょっと水彩画的な弦の響きに、それよりも油絵のような色合いが濃く感じられる管楽器が、違和感なくひとつの響きの中でブレンドされているといっていいのかもしれない。これは録音の力やホールの特性もあると思う。

演奏会当日は東条氏のそれによると、かなりトランペットが強靭に吹いていたというけど、ここではそれはあまり感じられないが、それでも終楽章のコーダではなんとなくそれを彷彿とさせるものがあった。

それにしても人間的なものと自然の美しさのようなものが見事に調和された、じつに自然体のブルックナーだ。

ふつうここまで自然体にすぎると小味になってしまいかねないけど、オケの響きが端正ながら伸びやかにに歌っている事でそういう感じをうけないのだろう。

それはじつに瑞々しく清々しいとさえ感じられるほどだった。これにはもちろん指揮をされている飯森さんの力がかなりあることも強調しておきたい。

演奏時間は、

16:29、17:15、9:19、15:12


最後に、

自分はこれを聴いていて、ここにはすでに311の傷のようなものなく、むしろ復興に向かって力強く歩み出した東北の姿をみる思いの方が強く感じられた。

実際、まだ仙台フィルなどは定期公演を開ける状況ではなく、先の山形交響楽団による定期では苦境にある仙台フィルに対して募金が会場で行われていたという。

だけど繰り返すように、決して声高に叫ぶような演奏ではないにもかかわらず、ここにはそのような苦しみの中からも、間違いなく立ち上がろうとしている人たちの姿が自分には強く感じられた。それは6番という剛毅な力を内包した曲だったから余計そう感じられたからなのかもしれない。

とにかく今もまた苦しい時代だけど、この演奏を聴いていると、それでもまたいつかしっかりと立ち上がり前へ進むことができるということを確信させられる、そう強く感じさせられるこれはブルックナーという気が強くしました。

コロナが収まったら、今度はいつか山形交響楽団の演奏でブルックナーの2番を聴いてみたいです。


以上で〆。
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ハイティンクのエルガーの1番 [クラシック百銘盤]

ハイティンクというと、今でこそベートーヴェン、ブルックナー、ブラームス、マーラーという独墺系の交響曲のスペシャリストというイメージがあるけど、実際は他の作曲家、特にイギリスの作曲家に対しても深い造詣をもっていた。

彼がいつからイギリス音楽に深い造詣をもったかは分からいないが、1960年代の彼はバルトークやドヴォルザークも演奏し、初来日の時はオランダの作曲家ヘンケマンスが二年前に作曲した「パルティータ」を演奏しているため、19世紀後半から20世紀半ばにかけて隆盛を誇った同時代のイギリスの作曲家に興味を抱いていたことはさして不思議なことではないと思う。

そんな彼がイギリスの名門、ロンドンフィルの首席指揮者になったのは1967年。同団にとって初のイギリス出身以外の首席となった。

彼はその二年後日本に同団初来日公演にも同行したが、ここではイギリスのオケと深い関係があるシベリウスが演奏されているが、イギリスの作曲家の交響曲は取りあけられていない。ただこれは当時の日本のイギリスの作曲家の交響曲に対する認知の極端な低さもあり、それを考慮してのものだった可能性もあるので、これをみてハイティンクがまだこの時期イギリス音楽に対してどうこうというのは早計かもしれない。

因みにこの年の秋、ハイティンクはコンセルトヘボウの演奏会を中断しなければならない、いわゆる「くるみ割り人形」事件に巻き込まれている。これはハイティンクと当時のコンセルトヘボウの芸術監督のプログラム選定が、あまりにも保守的すぎるといったことに対する一部勢力の抗議によるもので、その時その勢力からは同団の指揮者にブルーノ・マデルナも就任させろという要求まであったという。

後にこれは沈静化したが、これは当時大きな話題と問題になった。尚、ハイティンクがあの武満を録音したのはこの翌月、そして一緒に収録されているメシアンはこの年の二月に演奏されている。

閑話休題

ハイティンクとロンドンフィルの関係はひじょうに良好で、この関係は十シーズン以上も続いた。そして1974年から1976年にかけて、1977年のベートーヴェン没後150年にあわせ自ら初のベートーヴェン交響曲全集を録音した。

だがこの時期いちばん同オケと活発に録音していのはじつはハイティンクではなく、当時同団の会長に就任していたエードリアン・ボールトだった。

彼はこの時期、ブラームス、ワーグナー、チャイコフスキー等を中心とした作品を大量かつ集中的に録音していた。そしてそれらはハイティンクのレパートリーと重なるものがあった。

(余談ですが1976年にはヨッフムもロンドンフィルでブラームスの交響曲全集を録音している)

ここで面白いのは、ボールトがこれらの曲を録音している近しい時期に、ハイティンクもまたコンセルトヘボウで、これらの作曲家の曲を録音しているということ。シューベルトのグレイト、ワーグナーの管弦楽曲、ブラームスの管弦楽曲と交響曲全集がそれ。

(尚、ボールトはブラームスの3番を含む一部の曲はロンドンフィルではなくロンドン響と録音をしています)

それを思うとこの状況下、ハイティンクがボールトの録音をまったく意識してなかったということはないと思うけど、なかなか興味深い関係をこの時期この二人がもっていたことは偶然の部分があるとはいえ確かだと思う。

そんな中、デッカがかつてこのオケと関係がありイギリスでも活躍しているショルティに、じつに17年ぶりにロンドンフィルと録音するという話をもちこんだ。しかも曲がエルガーの交響曲第1番。

これはハイティンクにとってもあれだったかもしれないが、より強く反応したのはボールトだったようだ。

ショルティが1972年の1番に続き、1975年の2月にエルガーの2番を録音すると、ボールトはその年の秋から翌年にかけ同曲を、そして1976年の秋には1番をそれぞれロンドンフィルと録音した。

(また1978年の2月にショルティが「惑星」を録音すると、前年秋から演奏会から遠ざかっていたボールトがその三か月後に同曲五度目の録音を挙行し、12月にパリーの作品を録音している。翌年ショルティがロンドンフィルの首席になるが、それ以降ボールトは録音を一切行っていない。ボールトが引退を正式表明したのは1981年)
※ハイティンクもロンドンフィルと「惑星」を録音しているが、時期は1970年3月と前者とはかなり離れている。


当然ハイティンクはこの動きをしっかりとみているが、結果的に二人の全くタイプの違う名指揮者によるエルガーの二つの交響曲全集(3番の補筆がはじまったのは1990年代)が、よりによって自分の手兵を使って当時最高レベルの録音で完成されてしまったため、ハイティンクがエルガーの交響曲にこの時期手を出すことはなかった。

その後ハイティンクはロンドンフィルをはなれたが、その後もグラインドボーン音楽祭等での関係で繋がりを持ち続け、1984年からヴォーン=ウィリアムズの交響曲の録音を、テンシュテットが首席指揮者になったロンドンフィルと開始した。これは結局マズアが同団に赴任する直前まで、じつに十年以上続くことになる。

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自分は以上のことからハイティンクがエルガーを録音、しかもEMIから発売と当時聞いた時、オケを確かめもせずロンドンフィルだとばかり思いこんでいた。

だがオケは意外にもフィルハーモニア管弦楽団だった。録音はボールトが逝去した二か月後の1983年4月から1984年春にかけて行われた。この当時フィルハーモニアはムーティがフィラデルフィアに去り、シノーポリが赴任する前の空白期間だった。


そのせいかハイティンクのこのエルガーは、ロンドンフィルを指揮しなかったことで、ショルティやボールトと比較されることも、必要以上に意識することもなく、そして当時首席が空席だったこともあり、誰にも気兼ねせず伸び伸びと自分のやりたよいように演奏している。

この中で自分は2番についてはやや疎遠な部分があるので1番のみよく聴いているけど、ボールトのような壮麗さや、ショルティのようなメリハリの利いたスペクタクルともいえるものとは違って、ややくすんだ、だけどロンドンフィルの時よりも明るく、そして構えの大きなバランスのとれた、この時期のハイティンクがブルックナーやマーラーでみせるそれがここでも展開されている。

また今回のこれはデジタル録音ということもあり、音の立ち上がり、特にティンパニーの粒立ちがかなりしっかりとらえられていて、これが小気味よさと力強さの両方を兼ね備えた響きを全体にもたらしている。

しかしいちばんの特徴は大太鼓とシンバルだろう。

この交響曲の好き嫌いが最も分かれるとしたら、この大太鼓やシンバルがときおりドンシャンドンシャンと鳴り響く部分だろう。

この独特のそれは、独墺系の交響曲ではあまり聴かれないもので、正直聴く人にとってはけたたましい、もしくは耳障りで喧騒にすぎると聴こえるだろう。自分も最初ショルティの指揮でこれを初めて聴いた時、やはりちょっとついていけないように感じられたものでした。

だがハイティンクのそれでは大太鼓はティンパニーの響きの延長感が強く、シンバルも鳴ってはいるが、録音のせいか奥に退いた感じで響いていて、シンバル独特のあの堅い質感があまり感じられない。砕いていってしまうと、大太鼓とシンバルの存在感が極めて希薄。

そのため通常イメージとてしある「エルガーらしさ」なるものが後退したともいえるけど、ハイティンクのマーラーが刺激的要素を必要以上に強調しないそれが、この曲でもあらわれたことを思うと、ハイティンクの指揮の特徴や語法を尊重した場合当然の結果といえるし、むしろこのやり方をみとめればこの演奏は大成功の部類といえるかもしれない。

ただこのため聴きようによってはイギリス風ブルックナーにも聴こえないでもないが、以上の理由から自分はこれを失敗とは思ってないし、むしろかつて自分の手兵上で繰り広げられた二人の指揮者のエルガー合戦の事を思うと、このどちらにも組しない、しかもいかにもこの時期のハイティンクらしいしっかりとした自らのエルガー像を確立したハイティンクのそれは、いくら称賛してもいいと自分は思っている。

素晴らしい同曲屈指の名演ですが、それと同時にエルガーのこの曲にいまいち感を持っている人にはぜひ聴いてほしい演奏です。

演奏時間は、

21:59、06:50、12:35、12:28

因みにハイティンクはその後ロンドンではロンドンフィルとロイヤルオペラ、そしてその後ロンドン響と強く繋がりをもち、自身三度目のベートーヴェン全集をロンドン響と録音していますがフィルハーモニアとはどうだったんでしょう。

けっこうハイティンクは客演や録音する時のオケのトップとの相性に煩いので、もしフィルハーモニーと疎遠になってしまったとしたら、シノーポリとはちょっとあれだったのかもしれません。

以上で〆

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ロストロポーヴィチとボールトのドヴォルザーク [クラシック百銘盤]

ロストロポーヴィチがソロをとったドヴォルザークのチェロ協奏曲は、ラフリンから小澤までじつに七種類あるという。

特に有名なのはカラヤンとのもので、次いで小澤やターリヒのものがよく知られ、そして聴かれているようです。

そんな中で1957年4月にロストロポーヴィチが初めて西側で、しかもステレオで録音したのがこのエードリアン・ボールトとの共演のもの。

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だがじつはこの録音、とても気になっている事がある。

それはオケがロイヤル・フィルハーモニーだということ。

自分は最初これがロンドンフィルだとばかり思っていたので、ロイヤルフィルと分かった時は正直かなり驚いた。

ボールトが指揮するオーケストラというと、まずは1924年に初代の首席指揮者となったBBC交響楽団、第二次大戦後はロンドンフィル、その後ロンドン響やニュー・フィルハーモニアと録音が増え、晩年はロンドンフィルとBBCがまた増えるというかんじだった。

それを考えるとこのドヴォルザーク録音時、ボールトが指揮をするのなら首席指揮者をしていたロンドンフィルと録音をするのがふつうなのだが、なぜかオケは前述したとおりロイヤルフィル。しかもその時のロイヤルフィルの指揮者は、ボールトと決して良好な関係ではなかったビーチャムだから猶更だ。

ここからは自分の勝手な想像だけど、おそらく当初は前年彼と共演し録音もしたマルコム・サージェントがこのセッションの指揮も担当するはずだったのが、何らかの理由で不可能となり、急遽ボールトにそれがまわってきたのではないかという気がした。

ロストロポーヴィチは当時まだ三十歳になったばかりだし、ソ連の当時の事を思うと指揮者に希望とかそういうものを言える立場にはなかったので、彼の希望によりボールトが登場したという可能性は低いが、彼がこの時それとなく誰だったらいいのかと聞かれ、前年ソ連にロンドンフィルととともに訪問し好評を博したボールトに好印象をもっていたとしたら、その名前を出したかもしれない。

とにかく最初からこの組み合わせありきで組まれたとはちょっと思えない気が自分にはしている。


ただそれにもかかわらずこの演奏はいい。

録音はステレオ初期のせいか弦の横の拡がりがあまりなかったり、ロイヤルフィルというあまり縁のない、それこそボールトにとってはある意味アウェイな状況であったにもかかわらず、彼らしい端正ながら瑞々しい響きと味わい深さが素晴らしく、しっかりとした聴き応えのあるものとなっているが、ドヴォルザークよりもブラームス風の佇まいをみせているのはボールトらしいというべきか。

ロストロポーヴィチもその響きの中、五年前のターリヒとの共演とまた違う、やや寛いだ感のある演奏を展開している。

演奏時間は、14:43、11:46、12:45。

かつてLP時代はEMIのセラフィムのシリーズから廉価盤として発売されていたこともあるけど、最近は国内盤ではみかけなくなってしまった。

これも時代かもしれないけど、もう少しだけ知られてほしい名盤のひとつ。

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アベノマスクの必要性 [ひとりごと]

以前はアベノマスクが来たら捨てるとか雑巾として使うとか言ってる人がいたけど、寄付の流れが出来てからそういう発言は影を潜めた。

ただ自分はそういう流れが出来る前から、自分の税金がこういう形でその一部が返ってくるという事を思うと、それを捨てる等という発想はまったくなく、むしそういうことを平気で言う人達の、税に対する考えの欠如に疑問を持ったものでした。


ところでのこのマスクだけど、正直マスクはアベノマスクに限らず、来るべきコロナ第二波だけでなく、震災等の災害時において発生する煙や、災害後の後片付けや、資源ごみの置き場等から発生する粉塵除けにも必要不可欠なので、今後30年に7割の確率で発生が予想される東南海連動地震の事を思うと、マスクはいくら手元にあっても自分はいいと思っている。


コロナ第二波、季節性インフルエンザ、台風における災害の後処理時、そして東南海や首都直下、さらには宮城県沖をはじめ大地震等、今後マスクは本当にフル回転必要になってくると思いますし、特に広域災害の場合は、その供給も厳しくなることが予想されるので猶更です。

アベノマスクが来ても決して無下に捨てたり雑巾代わりにすることなく、来るべき非常時への備え、もしくはそれらがそのとき限りなく必要となる施設への寄付をぜひお願いします。


あと余談ですが、あまり言われないけど、震災等の災害時に絶対必要なもののひとつに「目薬」があります。

これはマスクは同様、煙や粉塵などにより目に埃が入ったり充血したりしたの治療用ですが、特に子供は大人より目の位置が低く、砂ぼこりが目に入りやすく、こすって充血したり目から菌が入ってたいへんなことになりかねないのでとても大事です。

マスク同様、こちらもぜひ非常時用に常備しておいてください。

以上です。
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