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ハイティンクのエルガーの1番 [クラシック百銘盤]

ハイティンクというと、今でこそベートーヴェン、ブルックナー、ブラームス、マーラーという独墺系の交響曲のスペシャリストというイメージがあるけど、実際は他の作曲家、特にイギリスの作曲家に対しても深い造詣をもっていた。

彼がいつからイギリス音楽に深い造詣をもったかは分からいないが、1960年代の彼はバルトークやドヴォルザークも演奏し、初来日の時はオランダの作曲家ヘンケマンスが二年前に作曲した「パルティータ」を演奏しているため、19世紀後半から20世紀半ばにかけて隆盛を誇った同時代のイギリスの作曲家に興味を抱いていたことはさして不思議なことではないと思う。

そんな彼がイギリスの名門、ロンドンフィルの首席指揮者になったのは1967年。同団にとって初のイギリス出身以外の首席となった。

彼はその二年後日本に同団初来日公演にも同行したが、ここではイギリスのオケと深い関係があるシベリウスが演奏されているが、イギリスの作曲家の交響曲は取りあけられていない。ただこれは当時の日本のイギリスの作曲家の交響曲に対する認知の極端な低さもあり、それを考慮してのものだった可能性もあるので、これをみてハイティンクがまだこの時期イギリス音楽に対してどうこうというのは早計かもしれない。

因みにこの年の秋、ハイティンクはコンセルトヘボウの演奏会を中断しなければならない、いわゆる「くるみ割り人形」事件に巻き込まれている。これはハイティンクと当時のコンセルトヘボウの芸術監督のプログラム選定が、あまりにも保守的すぎるといったことに対する一部勢力の抗議によるもので、その時その勢力からは同団の指揮者にブルーノ・マデルナも就任させろという要求まであったという。

後にこれは沈静化したが、これは当時大きな話題と問題になった。尚、ハイティンクがあの武満を録音したのはこの翌月、そして一緒に収録されているメシアンはこの年の二月に演奏されている。

閑話休題

ハイティンクとロンドンフィルの関係はひじょうに良好で、この関係は十シーズン以上も続いた。そして1974年から1976年にかけて、1977年のベートーヴェン没後150年にあわせ自ら初のベートーヴェン交響曲全集を録音した。

だがこの時期いちばん同オケと活発に録音していのはじつはハイティンクではなく、当時同団の会長に就任していたエードリアン・ボールトだった。

彼はこの時期、ブラームス、ワーグナー、チャイコフスキー等を中心とした作品を大量かつ集中的に録音していた。そしてそれらはハイティンクのレパートリーと重なるものがあった。

(余談ですが1976年にはヨッフムもロンドンフィルでブラームスの交響曲全集を録音している)

ここで面白いのは、ボールトがこれらの曲を録音している近しい時期に、ハイティンクもまたコンセルトヘボウで、これらの作曲家の曲を録音しているということ。シューベルトのグレイト、ワーグナーの管弦楽曲、ブラームスの管弦楽曲と交響曲全集がそれ。

(尚、ボールトはブラームスの3番を含む一部の曲はロンドンフィルではなくロンドン響と録音をしています)

それを思うとこの状況下、ハイティンクがボールトの録音をまったく意識してなかったということはないと思うけど、なかなか興味深い関係をこの時期この二人がもっていたことは偶然の部分があるとはいえ確かだと思う。

そんな中、デッカがかつてこのオケと関係がありイギリスでも活躍しているショルティに、じつに17年ぶりにロンドンフィルと録音するという話をもちこんだ。しかも曲がエルガーの交響曲第1番。

これはハイティンクにとってもあれだったかもしれないが、より強く反応したのはボールトだったようだ。

ショルティが1972年の1番に続き、1975年の2月にエルガーの2番を録音すると、ボールトはその年の秋から翌年にかけ同曲を、そして1976年の秋には1番をそれぞれロンドンフィルと録音した。

(また1978年の2月にショルティが「惑星」を録音すると、前年秋から演奏会から遠ざかっていたボールトがその三か月後に同曲五度目の録音を挙行し、12月にパリーの作品を録音している。翌年ショルティがロンドンフィルの首席になるが、それ以降ボールトは録音を一切行っていない。ボールトが引退を正式表明したのは1981年)
※ハイティンクもロンドンフィルと「惑星」を録音しているが、時期は1970年3月と前者とはかなり離れている。


当然ハイティンクはこの動きをしっかりとみているが、結果的に二人の全くタイプの違う名指揮者によるエルガーの二つの交響曲全集(3番の補筆がはじまったのは1990年代)が、よりによって自分の手兵を使って当時最高レベルの録音で完成されてしまったため、ハイティンクがエルガーの交響曲にこの時期手を出すことはなかった。

その後ハイティンクはロンドンフィルをはなれたが、その後もグラインドボーン音楽祭等での関係で繋がりを持ち続け、1984年からヴォーン=ウィリアムズの交響曲の録音を、テンシュテットが首席指揮者になったロンドンフィルと開始した。これは結局マズアが同団に赴任する直前まで、じつに十年以上続くことになる。

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自分は以上のことからハイティンクがエルガーを録音、しかもEMIから発売と当時聞いた時、オケを確かめもせずロンドンフィルだとばかり思いこんでいた。

だがオケは意外にもフィルハーモニア管弦楽団だった。録音はボールトが逝去した二か月後の1983年4月から1984年春にかけて行われた。この当時フィルハーモニアはムーティがフィラデルフィアに去り、シノーポリが赴任する前の空白期間だった。


そのせいかハイティンクのこのエルガーは、ロンドンフィルを指揮しなかったことで、ショルティやボールトと比較されることも、必要以上に意識することもなく、そして当時首席が空席だったこともあり、誰にも気兼ねせず伸び伸びと自分のやりたよいように演奏している。

この中で自分は2番についてはやや疎遠な部分があるので1番のみよく聴いているけど、ボールトのような壮麗さや、ショルティのようなメリハリの利いたスペクタクルともいえるものとは違って、ややくすんだ、だけどロンドンフィルの時よりも明るく、そして構えの大きなバランスのとれた、この時期のハイティンクがブルックナーやマーラーでみせるそれがここでも展開されている。

また今回のこれはデジタル録音ということもあり、音の立ち上がり、特にティンパニーの粒立ちがかなりしっかりとらえられていて、これが小気味よさと力強さの両方を兼ね備えた響きを全体にもたらしている。

しかしいちばんの特徴は大太鼓とシンバルだろう。

この交響曲の好き嫌いが最も分かれるとしたら、この大太鼓やシンバルがときおりドンシャンドンシャンと鳴り響く部分だろう。

この独特のそれは、独墺系の交響曲ではあまり聴かれないもので、正直聴く人にとってはけたたましい、もしくは耳障りで喧騒にすぎると聴こえるだろう。自分も最初ショルティの指揮でこれを初めて聴いた時、やはりちょっとついていけないように感じられたものでした。

だがハイティンクのそれでは大太鼓はティンパニーの響きの延長感が強く、シンバルも鳴ってはいるが、録音のせいか奥に退いた感じで響いていて、シンバル独特のあの堅い質感があまり感じられない。砕いていってしまうと、大太鼓とシンバルの存在感が極めて希薄。

そのため通常イメージとてしある「エルガーらしさ」なるものが後退したともいえるけど、ハイティンクのマーラーが刺激的要素を必要以上に強調しないそれが、この曲でもあらわれたことを思うと、ハイティンクの指揮の特徴や語法を尊重した場合当然の結果といえるし、むしろこのやり方をみとめればこの演奏は大成功の部類といえるかもしれない。

ただこのため聴きようによってはイギリス風ブルックナーにも聴こえないでもないが、以上の理由から自分はこれを失敗とは思ってないし、むしろかつて自分の手兵上で繰り広げられた二人の指揮者のエルガー合戦の事を思うと、このどちらにも組しない、しかもいかにもこの時期のハイティンクらしいしっかりとした自らのエルガー像を確立したハイティンクのそれは、いくら称賛してもいいと自分は思っている。

素晴らしい同曲屈指の名演ですが、それと同時にエルガーのこの曲にいまいち感を持っている人にはぜひ聴いてほしい演奏です。

演奏時間は、

21:59、06:50、12:35、12:28

因みにハイティンクはその後ロンドンではロンドンフィルとロイヤルオペラ、そしてその後ロンドン響と強く繋がりをもち、自身三度目のベートーヴェン全集をロンドン響と録音していますがフィルハーモニアとはどうだったんでしょう。

けっこうハイティンクは客演や録音する時のオケのトップとの相性に煩いので、もしフィルハーモニーと疎遠になってしまったとしたら、シノーポリとはちょっとあれだったのかもしれません。

以上で〆

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