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「最近の声優って技術力&マナーが低下してないかい? 」を読んで。 [声優]

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「声優活動よもやま話5 ~最近の声優って技術力が低下してないかい? 2~」
https://orch.blog.so-net.ne.jp/2018-09-13
でもふれたそれの続編を読む。

ここでは前回の積み残した部分が語られた。

内容としては

「声優業界が歌手から声優をつくろうとしていることの弊害」
「キャラと声優の関係」
「別撮りの弊害とそれによるマナーの低下」

というこの三つについて語られている(…ようにみえた)

今回はこの本に対する感想というより、
そこからいろいろ感じたことを書いていきたいと思います。

前回書いた事とダブるかもしれませんがご了承を。


正直、今の声優の現状というのは、
かつての声優とはかなり質が変貌してきている。

特に気になるのは、
かつて声優はキャラに命を吹き込む仕事といわれていたのが、
今はキャラが声優に命を吹き込んでいるように感じられること。

それはかつてより絵も音楽もストーリーも至れり尽くせり状態になったことから、
声優にかつてほど強い個性を必要としない、
むしろキャラのそれを邪魔しない声を要求、
これによりキャラが声優を支配し命を吹き込むような形になったと、
そう自分は感じていた。

そしてそれはあのジブリが声優を排斥していた道と、
極めて近しい道を通っているようにも感じられた。

ジブリの作品は絵や音楽だけで完成されすぎてしまい、
作品とそぐわない個性より「棒」の方がましみたいなところがあり、
それが今のアニメとその点何か妙に重なるところがあるように感じられるのです。

だからといってジブリが「棒」を肯定、
もしくは「棒」でもアニメができるということを広めたわけではないと思います。

もっとも声の技術にあまり長けていないにもかかわらず、
人気や知名度や話題性だけで俳優や歌手をキャスティングする、
劇場版アニメの最近のそれには充分影響を与えているとは思います。


もっともこのあたりはジブリ側も与えられているのかも。



話を戻しますが、
このキャラによって吹き込まれるということは、
じつはそれ以前にもいろいろとあって、
かつては「水野亜美」での久川綾さんや、
「涼宮ハルヒ」の平野綾さんが、
これにより些か難しい問題に直面したことがありました。

だけどそれでもこのお二人はその後もいろいろと作品に出演しましたし、
存在感のある役をいくつも演じているのですが、
今の人たちは下手するとその後があまり続かず、
ある意味「一発屋」に近い状態になりつつあるように感じられます。

この原因は最初単なるギャラやローテみたいな関係なのかと思っていたのですが、
主役を演じたキャラと切り離された瞬間、
その声優にそのときキャラによって吹き込まれた命が、
かなり無効化しされてしまったんじゃないかという気がしてきました。

だけどその理由というのがいまひとつぼんやりしていて、
何かもやもやとした状況だったけど、
この本で指摘された「不適材適所」「不適材不適所」の項で、
かなりその要因のようなものが、
なんとなくだけでみえてきたのはありがたかったです。

命を吹き込むはずが、逆に吹き込まれる。
これがきっかけとなることに関してはいいことなのかもしれませんが、
結局それに支配されるということが、
この作品終了後に顕著になっていく。

ちょっと話がとっちらかって支離滅裂な書き方になってしまいましたが、
けっこうこれは根が深い話のような気がします。

機会がありましたら、
もう少しすっきりと見通しよくこの事について書いてみたいと思います。


続いて。

別撮りシステムが常態化し若手ばかりで収録する事が増え、
ベテランと共演する機会が激減したため、
その技術を勉強したりマナーを教えてもらったりすることが、
ひじょうに機会として薄くなったことが、
「別撮りの弊害とそれによるマナーの低下」
というところで触れられている。

自分はそれもまた、
前述した「不適材適所」「不適材不適所」とあわさって、
この「一発屋」減少に拍車をかけているのではと思っているのですが、
じつはこの別撮りの弊害というものは、
昨秋大洗である方と徹夜でアニメについて語った時にも出て来た内容で、
(あの「大洗の一夜」を記録してたらかなり面白い内容だっただけに、あれを録音しなかったのは本当にいまでも残念)
かなりその方もこの現状を憂いていました。

そしてこの「一発屋」が次々と生まれる事は、
そのまま一人の声優が育つことを阻害しているに他ならず、
自分はそこの部分にかなり不安を抱いています。

つまりひとりひとりが育つ前に次々と日替わり定食のように変えていかれ、
(これについては現在の、特に深夜アニメにおける需要と供給も大きくかかわってはいるのですが)
その人がその後、よりレベルの高い声優になったとしても、
もう出番がまわってこないということがそこにある。

これはじつに忌々しき問題で、
屍累々のようなじつに残酷な様相を呈しているといってもよく、
まるで恵方巻の大量消費大量廃棄と同じようなそれに、
声優業界の将来に悲壮感さえ感じるようになってしまいました。

このあたり「運」とかそういう問題でかたづけるのではなく、
何かもっと根本的なシステム上の、
もしくはこの本で語られている製作者側の意識改革がおきないと、
ほんとうに近い将来、より厳しい状態になってしまうかも。

もっともそれが日常とこの業界に入ってきている人にとっては、
これが当たり前とそう割り切られてるいるかもしれませんが。


ただこれがじつは現在毎年、
大量に養成所から声優の卵が輩出されていることと密に関係しているとすると、
ちょっとこれまた根が深刻なものを感じてしまうのですが、
このあたりはもう推測の部分が多いのでこれ以上は語りません。


ところでこの本には、
「無個性」と演技力の低下に触れられているので、
これについて私感をちょっと書きたいと思います。


確かに昭和や20世紀平成の頃の声優さんと比べると、
個性という意味では全体的にやや薄くなった、
もしくは粒が小さくなったと感じられない事もない。

ただこれはもちろんすべてが演技力の低下とイコールではない。

こういう無個性といわれる人にも演技の上手い方がおり
演技の上手い人はその後ありとあらゆる役を次々と演じ、
それらをみな高いレベルでこなしてしまうため、
ふりかえるとどれもが代表作のひとつになったり、
いい仕事の数々になったりもするし、
それにより忘れがたいキャラも生まれるものの、
あまりにも多種多様に数多く演じられているため、
(しかも多くがワンクール作品)
かえってそれらの各作品によって、
この声優さんの個性や特長となると「はて?」と考えさせられてしまうという、、
そんな状況が続いているといっていいのかもしれません。

もっともそういう上手い声優さんを自分などは無個性とは思わず、
「癖の無いスタイル」「多様なスタイルに対応できる方」「職人」
と思っているのですが、
はたしてそれは多数派の意見なのかどうかは不明。

ただとにかくこういう演技の上手い人たちと上であげた「一発屋」さん、
そしてビジュアル的に人気はあるけど、
声的には上であげた人たちとそれほど大きな差がないアイドル声優さんたちで、
今のアニメ(特に深夜枠)の声の部分はかなり構成されているといってよく、
このためこれらの状況からベテランの声優さんからみると、
「今の若手は無個性」とうつるのでしょう。



しかしこれらを文字に起こすと妙に現在は現在で充分個性的なのではないかなと感じられてしまうのがなんとも。あとそういう無個性といわれる実力のある声優さんに限って、代名詞的作品が初期の出演作品に多いというのが面白い。もっともそこから脱却できたから(脱却するための手段だったともいえますが)、いろいろと多くの役を演じられているのでしょうが。



こういう「無個性」のようなそれは音楽でもかつてじつはあったことで、
1920年代に生まれた指揮者は個性が弱いと言われた事がありました。

じつはそれ以前の世代がひじょうに個性の強い人が多かったため、
それと比較しそのように言われたのですが、
後にそれらの多くは「職人タイプ」、
もしくは「玄人受けするタイプ」とよばれました。

この世代はたいへん堅実な音楽をつくり、
また大器晩成の方が多かったことから、
彼らが円熟期に入った1980年以降、
音楽界はたいへん芳醇な時代を迎えました。

ただそれ以前の個性的なタイプが巨匠と呼称されていたせいか、
彼らより前の世代の多くが亡くなると、
「巨匠の時代は終わった」と、
1920年代の人たちが大輪の花を咲かせていたにもかかわらず、
今の時代の人たちと真摯に向き合う事を拒否したような、
そんな酷い物言いが横行してしまいました。


これらの事をふまえて今の声優をみてみると、
昭和の頃から平成の前半に活躍した声優さんが一線を退いた時、
じゃあかつての音楽でのそれのように、
「巨匠の時代」は終わったみたいな風潮になるでしょうか。


自分はそうはならないと思っています。

というより、
その頃は声優の個性がかつてよりも必要ではない、
むしろベースとなる演技力に比重がかかった時代になると思ってます。

そうなると今はかつてよりは無個性と思われていても、
しっかりとした実力をもった方なら、
これからはむしろその活躍の場がふえ、
そして多くのファンから評価し支えられることにより大輪の花を咲かせ、
これからの業界を支えていく存在になって行くのではないかと、
自分はそう考えています。



本来「個性的」と「無個性」は何がどう基準としてあるのかという、そういうかなり基本的なものの考えや尺度、それに発言者の立ち位置や価値観とそれを育んだ環境と年代、さらにその当時のアニメの技術的にものというのも、これらの問題にはいろいろと大きく影響されてきますが、今回そういう部分はザックリと切り捨てて、漠然とした書き方に終始しました。ちょっとそれまで書き出すととんでもない文量になりそうですので。



この本では最初に
「声優業界は歌手から声優をつくろうとしていることの弊害」
について述べている。

じつはこれについて自分は若干意見を異にしている。

自分はもし歌手の人のそれが駄目だとしたら、
それは歌を歌う時と台詞を喋る時のメリハリというか切り替えが曖昧だから、
そういうことが起きていると考えています。

かつて小林克也さんが、
「日本語で喋る時はそれが英語表記であっても日本語として喋り、英語を喋る時のみ英語の発音で話す」
と話されていたことがあった。

これなんだと思う。


「宿屋のかたき討ち」という作品が落語にあるけど、
これを三代目桂三木助と十代目柳家小三治で聞き比べると、
三木助はまるで小唄を唄うかのような歌曲的ともいえる語りで聞かせるのに対し、
小三治はドラマのような、ある意味オペラ的ともいえる語り口で話を聞かせる。

でもどちらも甲乙つけがたい語りであるし、
しっかりとした感情表現もそこには織り込まれている。

たしかに落語と声優のそれは違うといえばそれまでだけど、
歌心と声優魂はその切り替えや昇華のしかたによっては、
まったく乗り越えられない壁ではないのではないかと、
そういうことからも自分は考えている。

特にアニメのナレーションなんかは、
ある種の歌心が試されるようなものが時としてあるように感じられ、
これまた切り替えというのが要求されるのではないのかなと、
個人的には考えています。

それがうまくできると例え「歌手」側から出発しても、
それこそ演技力が低くない「個性的」な声優さんになれると思うのですが。

因みに自分が強く演技に棒を感じるのは、
以前も言いましだか台詞の方向性が全体的にみえないときと、
自分の話した台詞のフレーズの音の流れとあわない、
もしくは方向性とあわない終わらせ方をしたときです。

もっともこれにはリミッター云々も多少かかわってくる場合もあるので、
そういう部分は自分もこの本に書かれていることに同意です。


最後にマナーのこと。

この本でも指摘されているけど、
ベテランから仕事場で教えられるはずのマナーを、
今の若い人たちがそれを教えてもらう場の欠如。

たしかにこれが現場でマナー低下をよんでいるのかもしれないが、
だとするとこういう人達が中堅を占めた場合、
はたしてそこはどうなってしまうのかという、
ものすごく不安なものもより強く感じてしまう。

単純にフランクにすぎるというのならまだしも、
そういう「自由」さが「無秩序」と履き違えられ、
それが温床となり陰湿な「苛め」みたいなものが横行した場合、
もはやそれを止めることも叱責することすらもできない、
かなり若手にとってしんどい場所になってしまうかもしれない。


そういえば昭和の時代、
かつて日本のプロオケで年代は違うが、
オケ内での酷い苛めの話を自分は直にいくつか聞いたことがある。

それは主に中堅、
特に「勉強不足」の中堅が若手によくしていたという。

それを慣習や洗礼という言葉で表現した人もいたが、
そんなものは悪しき行為以外の何ものでもなく、
それが若くて有能な演奏家を潰していることにきづかないのかと、
正直愕然としたことがあった。


自分は声優の現場には立ち合ったことはなく、
そこではじっさいどうなのかということは分からないので、
これらとの単純な比較はできないけど、
そんなことがこのようなことから将来的に起きたり慣習化したりといった、
そんな世界になってほしくないなと正直思うし、
それは声優業界にとってもまったくためにならない事だと確信しています。

そういう意味でも、
別撮りシステムの常態化というのは、
もちろん養成所でベテランの方からいろいろとそういう面のお話はあるだろうけど、
現場でもそういうものを口述伝承していくという意味において、
多少一考を要すべきものなのかもしれません。

ただ伝統墨守にすぎて旧い慣習を後生大事にとなると、
それはそれでどうなんだろうという気もしますが、
そこの書き出すとこれまた長くなるのでこの話題はここで終了。


かなり脱線したりとっちらかったりしましたがこんなところです。


自分は前にも言いましたが、
声優という仕事は伝統芸能だと思っています。

ただ同じ伝統芸能である落語や狂言も、
時代と共にいろいろと違う分野にも積極的にうってでるようになりました。

なので声優がそういう意味でいろいろな分野に進出し、
そのことにより質的変化をしていくのは当然の流れだろうし、
広い意味で肯定すべき事柄でしょうし、
そこから派生する、
歌って踊れるアイドル声優も自分は「有り」だと思っています。

ただそれもこれも「声優」という本業を疎かにしないという大前提あっての話。

そこが枯れてしまうと、
「歌って踊れる……、ところであんたはいったい何」
となりかねないものがあり、
じゃあ声優じゃなくてもいいじゃないということなって、
結局声優として立ちいかなくなってしまう危険性大。


とにもかくにもよりよい環境が今後築かれなければ、
上であげたいろいろな問題点は、
そのまま延々と悪い意味で引き継がれていくでしょうし、
それはまったく声優にとっていいことではない状況を野放しにすることでしょう。

それはこれを書かれた方も意見は同じなのではないのかなと思いますし、
そういう部分への提言込みでこの本は書かれているのではと、
そう自分は勝手に思い込んでます。


ほんとはこれに椅子取りゲームの話や1950年代の北米オケにおける指揮者選定の話も混ぜたかったのですが、文量もそこそこ多くなったので以上唐突に〆です。

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