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阪神淡路大震災について覚えている話。 [いろいろ]


これは2006年の1月16日に書き込んだものを何度か書き直したものです。
今回久しぶりに文面を追加しました。
以下本文です。

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1995年1月17日火曜日午前5時46分52秒、
淡路島北部を震源として発生した直下型の大地震が
関西近畿圏を襲った。
場所によっては震度7という烈震が襲ったわけですが
この凄まじい揺れとその後の状況は後日いろいろな話を聞きました。

当時大阪に勤務していた同僚が
凄まじい揺れとと同時に目の前を小型の冷蔵庫が飛んでいくのを目撃したこと。
そしてその同僚は地震の備えで最も効果的なのは
部屋に何も置かないことだと真顔で話していました。

自宅が崩れたため
半日以上家に閉じ込められ救助を待ったという
関西のクラシック愛好家の方は
倒壊と火災の恐怖と戦いながら待つということが
いかに精神的に追い詰められたかを淡々と語ってくれました。

また奈良に住んでいた知人は
激震と同時に屋根瓦が落ち、幸い怪我こそなかったものの車がやられてしまった
と笑いながら話ていましたが
目がまるで笑っていなかったところに
その時の恐怖がみてとれるおもいがしたものでした。

あとTVでコメディアンの間寛平さんはその揺れの瞬間
家の下から何かが飛び出してきたのかとというほどの衝撃を受けたと語り
その凄まじさと恐ろしさを真剣に語っていましたが
ふだんどんな状況でも人を笑わせるひとたちを
ここまで一瞬にして恐怖に陥れたその震災に
あらためてその恐ろしさを痛感させられたものでした。

いずれも今でも昨日のことのようにその語っていた姿を思い出しますが
それ以外にその後のいろいろな方たちのこの震災にまつわる話を聞きました。

このとき大阪にいたビリー・ジョエルはその日のコンサートは中止したものの
2日後には余震が続く中、危険をかえりみずコンサートを開き
ミュージシャンとして被災者にできうることを全うし、
プロレスラーのジャイアント馬場さんは
震災後まだ交通網が寸断されている中を電車を乗り継ぎ
自分の会社である全日本プロレスの地元後援会の何人もの人達に
自ら救援物資をとどけ続けました。

またロシアから来ていたバレエ団付きの若き指揮者アニハーノフは
団とともに関東にいたため被災はしなかったものの団員が恐怖を感じ
一部のダンサーはもう国に帰りたいと泣きだすものが出はじめると
「自分達はプロなのだから、こういうときこそしっかり舞台をつとめなければならない」
と、全員に強く語ったといいます。

このようにいろいろな方が当時いろいろな状況でこの震災に遭遇したのですが
自分はこのときその前日
ちょうど出雲大社にお参りに行っており
途中、米子や松江へ寄ろうとしたものの天候が不順だったため立ち寄らず
そのため当初は京都で一泊することを考えていたのですが
そのとき必要な宿泊カードを横浜の自宅に忘れてきてしまい
京都で新幹線を下車せずにそのまま帰途についてしまいました。
このおかげで自分は震災にあわずにすんだのですが
途中、新神戸駅に午後三時過ぎに停車した新幹線に自分は乗っていたので
そのとき新神戸駅で多くの方達が下車していく姿をそのときみていました。

それだけにその方達がその後どうなったのか
それをおもうとたしかにそれは仕方ないのかもしれませんが
なんとも辛い気持ちになったものでした。

自分はかつて幼少の時、新潟地震にあったことがあります。
当時この揺れで自分は道路に座り込んで立つことが出来なくなり
直後に砂埃があがったため目が開けてられなくなったことに加え
硝子の割れる音や、あちこちから聞こえる悲鳴が
視覚を奪われたこともあってたいへんな恐怖を感じたことが
今でもかなり鮮明にはっきりと記憶に残っています。

それだけに地震というと
いつも他の災害とは違った気もちになってしまうのですが
この阪神淡路大震災はその直前にその現場を通っていたこともあり
さらにいたたまれないものをいつも感じてしまいます。

あれからはや15年がたちました。(2010年)
この震災は大きな爪あとと同時に多くの教訓を残しました。
仮設トイレの不足からくる水分摂取を控えたことによる障害を防ぐために
マンホールとテントを使用した仮設トイレの設営や
電話の不通や身内の安否を知るためにたいへん必要となる
災害用伝言ダイヤル「171」の新設など
http://blog.so-net.ne.jp/ORCH/2006-01-07-1
それらの教訓から得たことのひとつです。

阪神淡路のその後の対応はけっして南海道、東海沖、南関東、等の
現在心配されている大地震の予行的なものではありませんが
この災害をたんなる記憶や記録にとどめことなく
後世に多くの教訓とともに語り伝え、そして対策を生み出すことも
被害に遭われた方々の事を無駄にしない行為であるという、
そのように考えています。

ほんとうに恐ろしい震災ですし
特に亡くなられた方々にはこれからも深くご冥福をお祈り申し上げます。

(これは2006年1月17日に書き込んだものとほぼ同文です。
2010年1月現在いろいろと大きな地震があり、
最近ではハイチでもかなり大きな地震がありました。
今は多くの国からの迅速な援助体制が出来つつあるようですが
やはり事前の準備や心構えが大切なことにはかわりありません。
ハイチや四川での被害拡大はそれらが少なからずあったと思います。
日本はたしかに他の国の水準からみると、
心構え等はかなりの高さの水準にあるとは思いますか、
これらはいくら高くても万全になりすぎるということはありません。
阪神淡路大震災の教訓等をこれからも大事に活かす糧のひとつとなるように
今年は震災から15年ということもあり
当blogのトップ付近に一時的にもっていくようにしたいと思います。
ご了承ください。)

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上の文は2010年1月にUPしたものです。
東日本大震災前年ということで、
そのことについては触れられていません。
それを思うとこの5年間もまたなんと重い5年間だったことか。
多少いじってはいますが、
ほぼ当時のままここに再度UPさせていただきます。
あれから20年です。

以下2019年1月17日追加

今年(2019)で24年が経ちました。
今回ちょうど地震が起きた時間に起きていたので、
TVで追悼式典の中継をみながら一分間黙祷をさせていただきました。
ですが関東でこの時間中継をしていたのはわずか数局。
しかもひとつは黙祷の途中で画面を変えてしまいました。
これが24年という年月なのかとちょっとショックでした。

そんな中、夏目アナウンサーが涙ながらにこの中継をしていた。
箕面出身でこの震災はこの人の人生に大きな影響を与えたという。
それをみたとき、この震災はまだ過去のそれにしてはいけないと、
強く再認識させられました。
来年はあれから25年。
あえて思い出したくない人もいるだろうけど、
風化させないためにも今年よりはしっかりと各局とりあげてほしいです
稀勢の里の引退だけとりあげればいいという話ではないと思います。


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