ミュンシュ死後のパリ管弦楽団 [クラシック百物語]
シャルル・ミュンシュをトップに据え、
そのアシストとしてセルジュ・ボド、
コンサート・マスターにルーベン・ヨルダノフという布陣で、
当初は順風に航海をはじめたパリ管弦楽団。
1967年10月にベルリオーズの「幻想交響曲」を録音。
翌月には旗揚げ公演を行い輝かしく船出した。
その後名盤とといわれたブラームスの交響曲第1番、
翌年1968年9月から10月にかけてラヴェルやオネゲルを録音した。
だがその翌月6日、
ミュンシュは北米ツアーの最中に、
リッチモンドのホテルで心臓発作により急逝した。
ミュンシュの体調はすでに以前から陰りがみえており、
1966年の来日公演でも、
公演によっては指揮台横に補助段をつけていたのがわかる。
ここからパリ管の苦悩がはじまった。
たった一年で最高のトップをいきなり失ったそれは、
オケの面々にとってはかりしれないショックがあったと思われる。
ミュンシュ没後の翌月、
バルビローリがドビュッシーの「海」と「夜想曲」を録音。
これと翌年のボドの録音は当初ミュンシュが指揮する予定だったのかも。
翌年ボドが「展覧会の絵」や「マ・メール・ロア」を録音、
そしてカラヤンが音楽顧問となり繋ぎとして登場した。
だがパリ管による、
直後のマゼールの指揮によるリヒテルとのセッションは、
リヒテルに言わせればそれは指揮者には関係の無い、
とにかく最悪のセッションになったとか。
これが当時パリ管の将来への不安や苛立ちから来たものかは分からない。
ただ今これらを聴くと、
言われたような悲惨な出来には感じられないものの、
マゼールにいつもの強力なコントロール感が、
あまり感じられないというところは気になった。
その翌月カラヤンと録音したフランクは名演だった。
だがカラヤンはあくまでも繋ぎであり代行、
そういつまでもこの状況が続くわけではない。
このフランクが録音された翌1970年の2月には、
ワイセンベルクとカラヤンの指揮でチャイコフスキーの協奏曲が録音され、
4月には初めての日本公演が行われた。
しかしこの日本公演時、
パリ管に同行した二人の指揮者を名指しこそしなかったものの、
役不足な指揮者の下でやることの不満が一部に伝わったという。
その後この年の秋には小澤とのチャイコフスキー、
そして翌年にはカラヤンがラヴェルを録音、
そして秋からはショルティが音楽監督に就任、
カラヤンはこのオケの地位から去っていった。
※
因みに憶測ですが、ボドのセッションとカラヤン時代の録音のいくつかは、当初ミュンシュが録音する予定のものだったのではないかと個人的には思ってます。
ただ後任のショルティはかつてパリ管の前身、
パリ音楽院管弦楽団とのチャイコフスキーセッションで、
稀にみる喧嘩セッションを行ったこともあり、
それが長期の関係になるとはあまり思われておらず、
録音もわずかにリストの交響詩が遺されている程度にとどまった。
むしろこの時期はロジェストヴェンスキーが指揮したロシア管弦楽曲集、
ロストロポーヴィチがヨルダノフをソロにおいた「シェエラザード」、
そして小澤によるチャイコフスキーの「悲愴」他といった、
他の客演指揮者による一連のロシア音楽の方が有名だったかもしれない。
そして1975年から当時32才だった若きバレンボイムがトップに就任した。
この関係は1989年までの長期に渡り、
いちおう場繋ぎ的な状況は脱した。
録音会社もグラモフォンが引き受け、
安定した録音活動もできるようになった。
このバレンボイム以降、
パリ菅は概ね安定した時代だったといえる。
だがその評価はかなりまちまちで、
未だにパリ管の最盛期はミュンシュ時代で、
最高の録音は旗揚げ公演前に録音された、
ベルリオーズの「幻想交響曲」という意見が根強いのも事実。
ただ今のパリ管はハーディングという逸材がトップにいることで、
その評価は極めて高い。
ハーディング時代がこのオケの最盛期といわれる事を期待したい。
そのアシストとしてセルジュ・ボド、
コンサート・マスターにルーベン・ヨルダノフという布陣で、
当初は順風に航海をはじめたパリ管弦楽団。
1967年10月にベルリオーズの「幻想交響曲」を録音。
翌月には旗揚げ公演を行い輝かしく船出した。
その後名盤とといわれたブラームスの交響曲第1番、
翌年1968年9月から10月にかけてラヴェルやオネゲルを録音した。
だがその翌月6日、
ミュンシュは北米ツアーの最中に、
リッチモンドのホテルで心臓発作により急逝した。
ミュンシュの体調はすでに以前から陰りがみえており、
1966年の来日公演でも、
公演によっては指揮台横に補助段をつけていたのがわかる。
ここからパリ管の苦悩がはじまった。
たった一年で最高のトップをいきなり失ったそれは、
オケの面々にとってはかりしれないショックがあったと思われる。
ミュンシュ没後の翌月、
バルビローリがドビュッシーの「海」と「夜想曲」を録音。
これと翌年のボドの録音は当初ミュンシュが指揮する予定だったのかも。
翌年ボドが「展覧会の絵」や「マ・メール・ロア」を録音、
そしてカラヤンが音楽顧問となり繋ぎとして登場した。
だがパリ管による、
直後のマゼールの指揮によるリヒテルとのセッションは、
リヒテルに言わせればそれは指揮者には関係の無い、
とにかく最悪のセッションになったとか。
これが当時パリ管の将来への不安や苛立ちから来たものかは分からない。
ただ今これらを聴くと、
言われたような悲惨な出来には感じられないものの、
マゼールにいつもの強力なコントロール感が、
あまり感じられないというところは気になった。
その翌月カラヤンと録音したフランクは名演だった。
だがカラヤンはあくまでも繋ぎであり代行、
そういつまでもこの状況が続くわけではない。
このフランクが録音された翌1970年の2月には、
ワイセンベルクとカラヤンの指揮でチャイコフスキーの協奏曲が録音され、
4月には初めての日本公演が行われた。
しかしこの日本公演時、
パリ管に同行した二人の指揮者を名指しこそしなかったものの、
役不足な指揮者の下でやることの不満が一部に伝わったという。
その後この年の秋には小澤とのチャイコフスキー、
そして翌年にはカラヤンがラヴェルを録音、
そして秋からはショルティが音楽監督に就任、
カラヤンはこのオケの地位から去っていった。
※
因みに憶測ですが、ボドのセッションとカラヤン時代の録音のいくつかは、当初ミュンシュが録音する予定のものだったのではないかと個人的には思ってます。
ただ後任のショルティはかつてパリ管の前身、
パリ音楽院管弦楽団とのチャイコフスキーセッションで、
稀にみる喧嘩セッションを行ったこともあり、
それが長期の関係になるとはあまり思われておらず、
録音もわずかにリストの交響詩が遺されている程度にとどまった。
むしろこの時期はロジェストヴェンスキーが指揮したロシア管弦楽曲集、
ロストロポーヴィチがヨルダノフをソロにおいた「シェエラザード」、
そして小澤によるチャイコフスキーの「悲愴」他といった、
他の客演指揮者による一連のロシア音楽の方が有名だったかもしれない。
そして1975年から当時32才だった若きバレンボイムがトップに就任した。
この関係は1989年までの長期に渡り、
いちおう場繋ぎ的な状況は脱した。
録音会社もグラモフォンが引き受け、
安定した録音活動もできるようになった。
このバレンボイム以降、
パリ菅は概ね安定した時代だったといえる。
だがその評価はかなりまちまちで、
未だにパリ管の最盛期はミュンシュ時代で、
最高の録音は旗揚げ公演前に録音された、
ベルリオーズの「幻想交響曲」という意見が根強いのも事実。
ただ今のパリ管はハーディングという逸材がトップにいることで、
その評価は極めて高い。
ハーディング時代がこのオケの最盛期といわれる事を期待したい。
最近演奏会に行かなくなった分、かつての自分が若い時聴いていたものの聴き返し等をろいろいとしていますが、これもその一環で感じたに思い出したりしたことをまとめたものです。
パリ菅もいつの間にか半世紀の歴史を迎えましたが、これは自分が初めてN響を聴いた時よりも長い歴史を刻んでいます。ハーディングがトップにいる今のバリ菅の今後が楽しみです。
ADHD大ちゃんさま、はじドラさま、nice! ありがとうございます。
by 阿伊沢萬 (2018-02-05 01:20)