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ノイマンとチェコフィルのマーラー(1995) [クラシック百銘盤]

よくマーラーというとウィーンヤニューヨーク、
さらにはアムステルダムやシカゴというところが名前があがるが、
その中にプラハ、もしくはチェコというところがあまりあがらない。

これはやはりマーラーの録音史が影響しているのだろう。

マーラーがかつてトップに君臨し、
バーンスタインやワルターと深い関係にあり、
それぞれと録音もしてきたウィーンとニューヨーク。
彼の曲を20世紀初めから演奏し録音もしていたアムステルダム。
彼の曲の交響曲全集をかのデッカに録音し、
全米ナンバーワンに君臨し続けたシカゴ。

そしてカラヤン指揮で名盤を排出したベルリン。

と、これだけのオケがマーラーとなるとイコールとして、
多くのファンの間に名前が浮かんでくる。

だが録音面を度外視し、
マーラーとその歴史をちょっとでもみてみると、
そこにチェコとプラハという名前が絡んでくることに気付かれるだろう。

彼は生まれも育ちもチェコの人間である。

十代半ばからウィーンへ行ったものの、
25歳時にはプラハのドイツ劇場の楽長に就任している。

そして1908年にはチェコフィルを指揮して
自作の交響曲第7番をプラハで初演している。

マーラー自身

「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として。」

といっており、
またチェコフィもマーラーは自国の作曲家と公言してはばからない。


だがそれにもかかわらず上記したように、
チェコもプラハもマーラーではなく、
ドヴォルザークやスメタナしかうかんでこない人がやはり多数だ。

そこにはやはり録音でのハンディがあるといっていいだろう。

じっさい演奏こそいろいろとされてきたし、
ターリヒやクーベリックもマーラーは得意としていたが録音は無く、
1970年以前というとアンチェルの指揮した1番と9番くらいであり、
それ以前にはほとんど忘れられていたシェイナの4番があったくらいだ。
しかもそれが想起されるきっかけはかのNヤルヴィが、
それにふれたインタビューがきっかけというのだから、
じつに寂しいかぎりというもの。


それが改善されたのはライプツィヒ時代からマーラーに積極的だった、
ヴァーツラフ・ノイマンがチェコに戻ってきてからだった。

そしてノイマンの手によって念願のチェコフィルによる、
かつ旧東側にとっても初のマーラー交響曲全集が完成された。

だが不幸にもノイマンの一般に対する人気はあまり高くなく、
むしろ地味な存在と化していた。

これは1974年のNHKで放送された来日公演が散々だったということと、
(あるところでは「生の野菜をただバリバリたべさせられてるだけ」という言い方をされていた。もちろん悪い意味で。)
これと前後してある音楽番組で

「チェコフィルは年々やって来る指揮者がダメになっていく。」

とまるで二流扱いされオケまでもお国もの以外はダメ、
みたいな言われ方をされてしまった。
しかも不幸なことにそのお国ものには当然のごとくマーラーは含まれていない。

1979年にようやくノイマンが日本でマーラーの第一交響曲を演奏したが、
当時の日本のマーラーというと、ショルティ、ワルター、バーンスタイン、
そしてクーベリックあたりの評価が高かったということもあり、
ノイマンのそれはあまり評判として当時広く伝わることはなかったし、
このときの来日時期は当時人気絶頂のカラヤン指揮ベルリンフィルと重なっていて、
しかもご丁寧にカラヤンまでマーラーの第六交響曲を演奏していった。


だがノイマンはその後も85年には5番、88年には9番を日本で演奏した。

そして日本からの強い要請を受け、
当時かなり健康面での不安が表面化していたにもかかわらず、
91年にチェコフィルと来日し東京フィルにも客演したその翌年から、
ノイマンはチェコフィルとともに当時最高レベルの録音で
マーラーの交響曲全曲の再録音を開始した。

録音は94年の夏までに最初の5曲が完了した。
出来はオケも指揮者も好調なためか素晴らしいものになっていった。

だが1995年1月に6番を録音したまではよかったが、
6月に予定されていたチェコフィルの初演曲でもある7番が、
オケの主力奏者のひとりの急病により立ち消えとなってしまった。

だがその後急遽8月の終わりにセッションが組まれ9番が録音、
そして7番も1996年1月に録音がされることが決まった。

これであと少しと誰もが一息ついたこの録音終了の五日後、
なんとウィーンで指揮者のノイマンが急逝してしまったのだ。

この前年には日本の別レーベルによる、
アイヒホルン指揮のブルックナー交響曲全集が、
やはり指揮者の死去によって頓挫してしまったこともあって、
(けっきょくリンツ・ブルックナーオケの全集として完成はしましたが…)
当時なんと日本はついてないことかと思ったものでした。

ノイマンの亡くなった二か月後に日本では1月に録音された6番が発売された。
そしてそこにはノイマンへの哀悼の言葉と全集の夢が断たれたことも明記されていた。

そしてその翌月12月16日に、
三か月前に録音されたばかりの9番が追悼盤として急遽発売された。

因みにチェコフィルの7番はその後小林研一郎氏の指揮によって、
ノイマンの死から三年後にその録音を果たしている。


と、そんなことがあったのが今からちょうど二十年前の1995年。

あれからほんとうに随分たってしまったし、
あと5年でノイマンも生誕百年が来てしまう。
なんとも時の流れは速いものです。


そんなこともあってか自分はこのノイマン最後の年に録音された、
6番と9番を最近よく聴きかえしている。

録音は今のレベルでも優秀だし、
CD2枚組の6番も、
今やちょっとしたものに落とせば全曲を切ることなく再生できる。


それにしてもどちらも素晴らしい演奏だ。

まず6番。

s1990312.jpg

こちらはノイマンとしてはかなり気合がはいっいるし、
ノイマンとしては意外といっていいほど見栄をきってるところもあり、
なかなか大胆に表情を積極的に動かしている。

それでいて晩年の堂々としたスケール感もあり、
またバランス感覚もしっかりとしていて崩れることが無い。

だがノイマンも素晴らしいがオケもまた極上すぎる。

シルクのような弦、水も滴るような管と、
ほんとうに合奏もソロもほれぼれとするものがある。

しかも手作り感覚満点というからさらにこたえられないものがある。

それにしっかりとした質量が弦管ともにある。
ある意味オケのひとつの究極体といったかんじかもしれない。

「これがチェコのマーラー」か、

このときやっとそれが感じられた。

それはクーベリックのあの「わが祖国」と同じで、
血の流れからくる共感といっていいのかもしれない。

ただ究極までに昇華された共感というのは、
泥臭くもなければ土臭くも無い。

それは清澄で輝きにみちたものと直結したものと言っていいだろう。

それがこの6番には詰まり切っていたのだ。

そして最後の9番。

neumann-9_1995.jpg

その清澄な響きはさらにひとつ上の所まで達しているかのようだ。

ここでのノイマンはいつものノイマンだった。

見栄も大胆さも影を潜め、
音楽とじつにストレートに向かい合ったマーラー。

ノイマンはこの9番について、

「これ以上のアダージョはありえない。完全に満足した」

という言葉を残している。

これがすべてだろう。


今年はいつも以上にノイマンのマーラーを聴いていきそうです。
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