「アニメ文章術」を読んで。 [アニメ]
氷川竜介氏の「アニメ文章術」増補改訂版を読んだ。
「アニメ…」とうたってはいるが、
ようするに「説得力のある書き方」入門だ。
いろいろ事細かに書かれていて、なかなかためになることが多かった。
じつは自分はあまり文章を書くのがうまくない。
かつてはレポート用紙に下書きをするも、
物凄い記号や書き直しの羅列で再構成するのに苦労したものだった。
で、そのとき使ったやり方で、
文章をフロックごとにどんどん書いていくとき、
かならず各々のブロック冒頭に接続詞をつけ、
再構成するときその接続詞をみながら、
全体の流れを決めていくというものがあった。
当時は組終わり次第その接続詞を消したり書き換えたりしていたが、
パソコンにうつようになってから、
なぜかこの接続詞を消したに修正したりすることを忘れるようになってしまった。
今回のこの本を読んでいて、
そのことを厳重注意されたようで、なんかばつが悪かった。
ただ同意できない所もあった。
それは氷川氏が指摘しているある言葉の使い方。
氏はそれを説得力を削ぐものとして断罪している。
だが…
…自分はあえて説得力を持たせないため、
氷川氏とは正反対の理由でこの言葉使いを多用している。
それは自分の姿勢として、
こちらの意見に縛られるな、
最後は自分自信でも考えましょうという、
読み手に考えさせるための手段として多用しているのだ。
氷川氏はこの言葉を自信の無さと言っているが、
自分はそうは思っていないし、
責任逃れのための常套手段とも思っていない。
読み手から考えさせる力を奪う、
考える姿勢を排除させるような物言いはしたくない、
そういう安直な行為には走ってほしくないという部分があるからだ。
そしてより大きな理由として、
自分は氷川氏のように熱くも親切でなければ温かくもない、
ある意味とても不親切で冷たい書き手であるということだろう。
じつは自分のような書き方は説得力にも欠けるし、
読んでいてつまらないし魅力も薄い。
おそらく読んでいて「食い足りない」と感じられるとしたら、
まさにこの部分よる所が大きいといえるだろう。
そういう意味では自分は金のとれる書き方はしないしできない。
逆に氷川氏は金のとれる書き方ができる人なのだ。
因みにこの言葉が何かはネタバレになるのでここではいいません。
氷川氏の本の中から直接探していただければ…と。
それにしてもいつも思うが、
自分と価値観の違う人の文を読むと、
ほんとうに自分がよくみえてくる。
自分と意見の違う音楽や本と接すると、
当然そこに「違和感」や「反発」といった、
自分とその対象物との間に一種の差異が生じる。
そしてその差異に自分そのものがいる。
さらにその差異の原因を追究し精査すると、
己の価値観がそこに浮き彫りとなり、
己自信の真の姿をみることができる。
そういう意味では自分と相対するものとの遭遇は、
自分を確認し棚卸するにはじつに好都合なのです。
自分と意見のあわないものを批判するのはけっこうだが、
それだけで終わるのはじつにもったいない。
その原因が何によるものかで、
自分の立ち位置やものの考え方のルーツを探るのも、
けっこうな愉しみなのです。
話がそれましたが、
氷川さんの今回の本はそんなことも読んでいて、
いろいろと考えさせ感じさせてくれました。
あとこれは自分だけの感覚かもしれませんが、
氷川さんは文量が非常にバランスがとれていて、
ひとつひとつの区分けも適量なのですが、
それでも何故かひじょうに読んでいて疲れてしまう。
それは無駄を省き流れをよくし、
全体の密度をあげて言いたいことを矢継ぎ早に展開していることからくるそれだろうが、
正直こちらの気を抜けるところというか一息つく場所が無い。
キリのいいところで読むのを止めればいいのですが、
面白いのでそれもできない。
読むも苦しい、読まぬも苦しいという、
かなりしんどい気持ちにさせられるところがある。
全体で七十ページ強で収めているので一気になんとか読めたが、
百ページ超えると絶命してしまうかもしれない。
きっと自分がもっと熱い人間ならば、
そんなこと感じず一気に読破できるのだろうが、
ここでも自分の冷たさをまたしても痛感させられた。
結論。
自分は冷たい人間です。
以上で〆。
「アニメ…」とうたってはいるが、
ようするに「説得力のある書き方」入門だ。
いろいろ事細かに書かれていて、なかなかためになることが多かった。
じつは自分はあまり文章を書くのがうまくない。
かつてはレポート用紙に下書きをするも、
物凄い記号や書き直しの羅列で再構成するのに苦労したものだった。
で、そのとき使ったやり方で、
文章をフロックごとにどんどん書いていくとき、
かならず各々のブロック冒頭に接続詞をつけ、
再構成するときその接続詞をみながら、
全体の流れを決めていくというものがあった。
当時は組終わり次第その接続詞を消したり書き換えたりしていたが、
パソコンにうつようになってから、
なぜかこの接続詞を消したに修正したりすることを忘れるようになってしまった。
今回のこの本を読んでいて、
そのことを厳重注意されたようで、なんかばつが悪かった。
ただ同意できない所もあった。
それは氷川氏が指摘しているある言葉の使い方。
氏はそれを説得力を削ぐものとして断罪している。
だが…
…自分はあえて説得力を持たせないため、
氷川氏とは正反対の理由でこの言葉使いを多用している。
それは自分の姿勢として、
こちらの意見に縛られるな、
最後は自分自信でも考えましょうという、
読み手に考えさせるための手段として多用しているのだ。
氷川氏はこの言葉を自信の無さと言っているが、
自分はそうは思っていないし、
責任逃れのための常套手段とも思っていない。
読み手から考えさせる力を奪う、
考える姿勢を排除させるような物言いはしたくない、
そういう安直な行為には走ってほしくないという部分があるからだ。
そしてより大きな理由として、
自分は氷川氏のように熱くも親切でなければ温かくもない、
ある意味とても不親切で冷たい書き手であるということだろう。
じつは自分のような書き方は説得力にも欠けるし、
読んでいてつまらないし魅力も薄い。
おそらく読んでいて「食い足りない」と感じられるとしたら、
まさにこの部分よる所が大きいといえるだろう。
そういう意味では自分は金のとれる書き方はしないしできない。
逆に氷川氏は金のとれる書き方ができる人なのだ。
因みにこの言葉が何かはネタバレになるのでここではいいません。
氷川氏の本の中から直接探していただければ…と。
それにしてもいつも思うが、
自分と価値観の違う人の文を読むと、
ほんとうに自分がよくみえてくる。
自分と意見の違う音楽や本と接すると、
当然そこに「違和感」や「反発」といった、
自分とその対象物との間に一種の差異が生じる。
そしてその差異に自分そのものがいる。
さらにその差異の原因を追究し精査すると、
己の価値観がそこに浮き彫りとなり、
己自信の真の姿をみることができる。
そういう意味では自分と相対するものとの遭遇は、
自分を確認し棚卸するにはじつに好都合なのです。
自分と意見のあわないものを批判するのはけっこうだが、
それだけで終わるのはじつにもったいない。
その原因が何によるものかで、
自分の立ち位置やものの考え方のルーツを探るのも、
けっこうな愉しみなのです。
話がそれましたが、
氷川さんの今回の本はそんなことも読んでいて、
いろいろと考えさせ感じさせてくれました。
あとこれは自分だけの感覚かもしれませんが、
氷川さんは文量が非常にバランスがとれていて、
ひとつひとつの区分けも適量なのですが、
それでも何故かひじょうに読んでいて疲れてしまう。
それは無駄を省き流れをよくし、
全体の密度をあげて言いたいことを矢継ぎ早に展開していることからくるそれだろうが、
正直こちらの気を抜けるところというか一息つく場所が無い。
キリのいいところで読むのを止めればいいのですが、
面白いのでそれもできない。
読むも苦しい、読まぬも苦しいという、
かなりしんどい気持ちにさせられるところがある。
全体で七十ページ強で収めているので一気になんとか読めたが、
百ページ超えると絶命してしまうかもしれない。
きっと自分がもっと熱い人間ならば、
そんなこと感じず一気に読破できるのだろうが、
ここでも自分の冷たさをまたしても痛感させられた。
結論。
自分は冷たい人間です。
以上で〆。
コメント 0