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桑島さんの「原体剣舞連」に関連しての雑感。 [朗読夜]

おととし野外で桑島さんの「原体剣舞連」を初めて聞いた。

それはとても力強く
それこそ故郷の岩手まで届けといわんばかりの
じつに見事なものだった。
その流れで桑島さんのウィキペディアを読んだが、
その中にひっかかる一文があった。

それはある俳優さんの言ったという
「『原体剣舞連』は若いうちにしかできないからやらない。」
というところだ。

狂言でも茂山千作さんが言った年を重ねてから開く作品として
「木六駄」というものをあげていた。
そして野村万作さんがその逆の作品として
「釣狐」をあげていたと記憶している。

またオペラを歌っていた方が年をとると歌曲に行くという
そういう傾向があることもたしかにある。

たしかに『原体剣舞連』のその激しさというか
生命の根源から湧き上がるような強さを考えると
若い人云々というのはなんとなくわかる、
自分もたしかに一度はそう思ったものだった。

だけどしばらくしてある方が自分に言った言葉が浮かんできた。
それは賢治が尊敬していたベートーヴェンについてで
「ベートーヴェンの交響曲の名盤というと
すぐドイツの年齢を重ねた人ばかりを重宝し
それ以外の国とか若い人のそれを軽んじたり
低くみる姿勢というのを見受けることがある。
でもベートーヴェンってドイツじゃなきゃダメ
年くってなきゃダメ、もしくはわからないなんていう、
そんな狭い範囲でもの考えて曲などつくってないし、
もっとそういう枠をとっぱらったところで曲を書き
そして後世に残しているわけです。
そう考えない人ってベートーヴェンを
ひどく軽くみているというか
失礼な見方をしているという気がするんですよ。」
というものだった。

自分はこれと同じことをこの『原体剣舞連』にもいえると
そのときふと思ったものでした。

ただしそれが確信となったのは先日の能楽堂における『原体剣舞連』。
以前あれほど荒々しい響きをもった『原体剣舞連』が
あのとき荒々しいだけでなく
なんと美しい響きをもって能楽堂で鳴り響いたことか。

あのとき一瞬ではあるが
『原体剣舞連』を若い人にしかできないと思った自分に
じつに「狭いなあ」と反省したものでした。

たしかに『原体剣舞連』のそれは強烈だし激しい生命の律動に溢れているが、
それを育んだ東北の自然と人間のそれは
決して強さと激しさだけではない。

それ以外の要素もあるはずで、
それがあの能楽堂でその一部をみせたことに
自分は深く感銘を受け、そして反省したものでした。

賢治の作品はを自分の尺度で測るのはたやすい、
でもそれをすべてに用いるというのはやはり無理だと思う。

賢治の作品を読んでいると
いくつかの音楽を聴いているときにおきる感覚と
じつに似たものを覚えることがある。

それは膨大な量流れてくる川の水を
洗面器ですくっている自分の姿だ。

賢治のもつ膨大な情報量に対して
なんと自分の受け皿は小さく狭いものなのかとはぎしりしてしまう
そういう感覚なのだ。

能楽堂の『原体剣舞連』は
まさにそれを自分に再度痛感させたものでもありました。

桑島さんにはこの作品を生涯追い続けていってほしいと、
強く願う次第です。
そしてそれが賢治のこの作品に対しての
最大の幸せであると自分は思っています。

〆です。
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