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「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」劇場版雑感 「贖罪」と「救済」そして「愛」と「感謝」の物語 [劇場公開アニメ]

まだ一度しか観ていないのであれですが、ネタバレ全開でいろいろ徒然なるままに、しかも過剰な思い込みをふんだんに織り込んで書いていきたいと思います。

そのためネタバレがダメな方はこれ以上読まない事をお薦めします。

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http://violet-evergarden.jp/
『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式サイト


映画をみて劇場を出ると、今までみていた風景が少し違ってみえることがある。
この映画もそんなひとつと言っていいのかも。

まだコロナ感染がいろいろと言われ、
自分も正直今回は初日に行こうかどうしようか躊躇ったが、
偶然にも自分の誕生日が公開日と重なっていたこともあり、初日を横浜にある劇場で鑑賞することにした。

劇場内もマスク必須で座席もひとつずつ前後左右を空けるといういつもと違う風景。
このようにいつもの半分しか座席が割り当てられていないものの、平日の昼ということもあり空席がそこそこ見受けられた。

ただ両隣が空いているというのは落ち着いて見れることこの上なしで、
マスクしながらにもかかわらず、とても心地よく140分リラックスして鑑賞することができました。


念押しですが、ネタバレのダメな方はここで終了することを再度お薦めします。


それでは始めます。


この話は冒頭、第10話の主役だったアンの葬儀のシーンからはじまる。

そこにはアンの娘や孫のデイジーもいる。

第10話はアンが七歳の時の話。
アンは二十歳で最初の子を授かっているので、これがデイジーの母親だったら、この冒頭の場面は第10話から五十年程、つまりまるまる半世紀経った時代ということになる。
(※このあたり映画で詳しく語られていたのかもしれませんが、そうだしたら自分はそこを聞き落としているようです。なのでこの辺りの年月の推移はすべて推測です)

すでに電話が普及し、郵便は伝達手段の王座をそれに譲り、字の読み書きをする人達も多くなったことで、自動手記人形も過去のものとなっていた。

話はデイジーが母親との仲違いが原因でみつけたアンへの五十通の手紙から、これを書いたヴァイオレットの足跡を辿る旅へと出かけるところからはじまる。

そして次に話は場面転換となり、18歳になったヴァイオレットの時代へと戻り、ヴァイオレットの話もここからスタートする。

(※このデイジーの声を、TVでアンの声を担当した諸星すみれさんが担当した事で、何かアンによるヴァイオレット探しの旅のような何とも言えないものも感じました)

ヴァイオレットは外伝でもすでにそうだったけど、TV版第一話に比べて遥かに大人の女性の雰囲気をもつ容姿になっていたが、喋り口調は相変わらずの「ミス・ぶっきらぼう」ぶりではあるものの、ヴァイオレットのギルベルト少佐を失ったそれは大きく、そこには常に孤独の影と、拠り所を失った、半ば抜け殻のようなものも感じられた。

ただある偶然からギルベルト少佐の生存を知り、彼に会う為ホッジンズとともに彼のいる島へと渡る。

このあたりで冒頭の半世紀後に舞台は戻り、今は博物館のようになったC.H郵便社をデイジーは尋ね、そこでかつてここで受付をしていたというネリネとあい、いろいろと話を聞く。

因みにこのネリネはTV版第一話から若き日の姿で登場し、第二話ではベネディクトに一緒に焼きそばを食べないかと誘われ、露骨に嫌な顔をして「いらなあい」と言っていたけど、現在は雰囲気もあのときの尖がったそれとは大きく異なった、いいかんじで年を召されたご婦人になっている。。

話はその後また時代を遡り、ディートフリート大佐や、不治の病に侵されたユリスとその家族や親友、そして電話の台頭とその利便性が挟み込まれ展開されていく。

そこには人間の生と死、そして戦争と平和といったものが織り込まれているが、個人的には、「贖罪」と「救済」、そしてそれを大きく包み込みそれらすべてを肯定していく「愛」と「感謝」が大きなテーマとして描かれているように感じられた。

(※この「贖罪」に関しては、TV版第5話のラストあたりの、ディートフリート大佐の言葉あたりからハッキリと描かれていったように感じられます。しかしディートリヒはTV版第8話でもまだヴァイオレットの事を「武器は武器」と相変わらずの塩対応をしてましたが、それを思うと随分この間にヴァイオレットへの印象が変わったものです)

そしてディートフリート大佐も、ユリスもデイジーも、そしてギルベルトとヴァイオレットも、時代を超越してその大きなテーマに対し苦悩していく。

それはラストに向かってより深く深刻なものへとなっていくが、このラストで、これは劇場版でも一瞬描かれていたTV版第3話、その中でルクリアの兄へ渡した、ヴァイオレット自身が初めて自分の意志で書いた手紙の言葉

「生きてくれてうれしい、ありがとう」

へと帰結していく。

ヴァイオレットの心がここで終始一貫これであったこと、彼女がそのためそこからじつはまったく先へ精神的に進むことができないものが根底にあったことを、ラスト海の中でギルベルトと対峙した時、足を叩きながら、まるで戦争中最後にギルベルトと別れた頃の、まだ少女だった頃のそれに戻ったかのような泣き方をしていたそれが強烈なまでに強く訴えかけてくる。

ホッジンズが終始ヴァイオレットを「ちゃん」付けしていたのは、自身が過保護な父親代わりというだけでなく、そこの部分を強く潜在的に感じていたからなのかもしれないと、このときちょっと思ったりしました。

そしてこれにより、ヴァイオレットは「人形」から「人間」となり、ドールを卒業し、新しい世界へと歩んでいく。


ストーリーは最後ヴァイオレットとギルベルトの指切りで終わる。

一見これは最高のハッピーエンドだけど、それはまた、一人の大人も戦争から帰還しなかった島での、ひょっとしたら自分が手にかけた人たちやその関係者の、親やその子供と生活することになるかもしれないという、これまた「贖罪」と「救済」に繋がっていくものの、こちらはより厳しく深刻な面を持ち合わせているだけに、自分には単純なそれにはみえなかった。

ただもちろん、この作品はそれらを大きく包み込む「愛」、そしてそこからの「感謝」も大きなテーマとして存在しているので、まったく悲観すべきものではないとも思っています。

デイジーがヴァイオレットの切手を見た時と、それについて島の郵便局関係者から聞いた話はそれを裏付けしているかと。

この時あの指を立てるシーンをみてふと思ったのですが、この人、ひょっとしてユリスの弟シオンかなとちょっと思ったりしました。ユリスの件から半世紀程の時期ということで、そうなると本人も五十代くらいのはずなのでなんとなくそう思ったりしまたが、このあたりはどうなんでしょう。

手紙やヴァイオレットに対する強い恩や絆みたいものも感じているでしょうし。

因みにヴァイオレットは18歳で引退し島に行ったという事になっているけど、おそらくヴァイオレットがディートフリートに「拾われた」時、まだ小学生高学年くらいで、ホッジンズに引き取られた時が中学生くらい、そして外伝と劇場版では高校生くらいという感じで解釈しています。

ある意味一番多感で心身ともに成長する時期に、心の一部だけが成長することなく、ある時期からそこに縛り付けられていた事は、ひとつの無意識に強制された「贖罪」であり、その後のそれは何年もの月日をかけての「救済」への道のりとも言えるのかも。

尚、映画ではヴァイオレットがまだ健在なのか、島にまだ住んでいるのか、それともなのかは描かれていませんが、すでにある意味過去の人、そして語り伝えられるべき人になってはいるようです。

ただ話からしてすでに島にはおらず、そこを離れるときに、島の人達からの感謝の気持ちにより、あの切手が発行されたのかも。


余談ですが、この映画のラスト近くで、TV版第1話、ヴァイオレットが病院のベットの上で手紙を書いているシーンの一部が流れるけど、これをみて、かつてブラームスが晩年クラリネットソナタを書いた時の「蛇が尾を噛み、環は閉じられた」という言葉を思い出しました。


最後に。

自分はこの作品をみるといつも心に温もりを強く感じる。

それはストーリーのそれもあるけど、手紙が電話とは違い、相手がその人の都合に合わせて読むことが出来る、ある種の思いやりのある伝達手段であるという、その特質が色濃く全体に反映されているのかもしれません。TV版第10話などその結晶ともいえるような気がします。


以上何の脈絡もなくだらだらと書き進めてしまいました。

あと劇場版をご覧になったら、テレビ版をできれば全話見返す事をお薦めします。各話からのこの映画に織り込まれたテーマやメッセージがいろいろと発見できるかと。


これで以上です。


誤字脱字はご容赦を。

あと再度劇場に出かけみることがありましたら、その時まだ付け加えたり訂正をかけたりするかもです。


最後にこの作品の制作に関わったすべての人たちに深い感謝の意を捧げます。

ありがとうございました。


〆です。


※少し一部書き直しました。(2020 9/20)



公開されて一週間程経ちましたので白状しますけど、自分はこの映画の二つのシーンで胸が締め付けられるようで、思わず必死に涙をこらえたシーンがありました。

それはヴァイオレットのお墓参りのシーンと、島の亡くなった方への花環を海に捧げるシーン。

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この作品の制作に関わられたすべての皆様に神の祝福がありますように。


(2020/10/13)

二度目を見に行きました。

ヴァイオレットの背中と足元の表情が秀逸で、これほど顔以外で強く感情の微妙な陰影や揺らぎを描いた作品って他に何かあったかなあと、ちょっと唸ってしまいました。

あと、ほんとうにどうでもいいことですが、ギルベルトがつくったあの手動リフト。

あれ、これからはヴァイオレットが回す係りになるんだろうなあと、ちょっとそんなことを思ったりしました。

しかし正直言うと、人の死を描かれると、若いときは涙と感動をすぐ覚えたのですが、年をとってきて、何人もの人を見送る経験を積んでくると、ちょっと辛いものも感じます。

またヴァイオレットが戦場で次々と兵士を殺害するシーンにおける、殺される兵士ひとりひとりの命と、ユリスやアンやその母の命と、本当はそこには差があっていけないものの、そこにどこか「個」における差をつけて知らず知らずのうちにみている自分にも、何か釈然としないものを感じてしまいました。

(2020/11/10)

これは劇場版のことではないですが、
ヴァイオレットのトレードマークのすべてが、じつは自分が選択したものではないということを最近初めて知った。

第一話でエヴァ―ガーデン婦人から手袋。
第二話ではホッジンズから服とリボン。
第三話ではホッジンズ、もしくは会社から鞄。
第六話ではオスカーから日傘。

決して自分の意志でのそれではないが、それが「人形」というモチーフにも、そして人は支えられて生きている、もしくは「愛」というモチーフにもかかっているのは、今考えるととても意味深だったと思いました。


最後に。

映画でのヴァイオレットとギルベルトのラストの抱擁シーン。

あの姿をみたとき、ユリスの「冷たい手」という言葉がかぶってきて、何とも切ないものをかんじてしまいました。

一見よくありがちな構図なのですが、ヴァイオレットが顔を近づけたのは、腕では温もりが感じられないという、ここにきて今迄分かってはいたけど、それをこれほど強く、そして切なく感じたことはちょっとなかったです。

特にギルベルトがヴァイオレットの腕に対して強い責任を感じ、会う事を強く避けていた動機のひとつとしていただけになおさらでした。

このあたり、あまり深く突っ込むと泥沼にはまりそうなのでここで終了します。
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