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ヴァシリー・ペトレンコ指揮オスロ・フィルハーモニー管弦楽団(3/21) [演奏会いろいろ]

(会場)ミューザ川崎
(座席)2階LA3列5番
(曲目)
モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』序曲 K.492
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64 <vn:諏訪内晶子>
マーラー:交響曲第1番 ニ長調 「巨人」


オスロフィルを聴くのは初来日公演以来というから、ほぼ四半世紀ぶり。あのときはヤンソンス指揮の下、熱く、そしてどこかローカルだけどひんやりとした弦の響きが印象にあり、特に「ペール・ギュント」におけるそれは「グリーグとはこういう曲だったのか」と、目が覚めるくらい新鮮な感覚を感じたものでした。

今回はグリーグこそ聴かれなかったものの、オケの機動力は以前よりはるかによく、しかもどことなくひんやりとした弦の感触は健在ということで、今回もこのオケにはとても満足させていただきました。

指揮のペトレンコは1976年生まれということで、ハーディング、ネルソンス、ネゼ=セガン、ソヒエフ、フルシャ等とともに、これからを担っていく指揮者のひとりになると思われる一人だが、期待に違わぬ演奏を聴かせてくれました。

最初のモーツァルトは、最近流行のピリオド風の演奏で、正直エーリヒ・クライバーの演奏でこの曲に馴染んたものとしては、「またこれか」というかんじで正直こういうもってきかたには辟易とするものがあります。ただペトレンコはそういう「形」に頼っての逃げをはかったような他の指揮者とは違い、それでも強く惹きつけてくる生命力のようなものが感じられました。嫌いなタイプの演奏だが、そのもっていきかたはとても好みとあう演奏でした。

次の協奏曲。諏訪内さんはいかにもこの人らしい語法の大きな歌い回しによる演奏だったが、バックのペトレンコがじつに細かい表情づけを施し、とても詩的で抒情性にみちた表情の演奏をしていたためか、正直諏訪内さんのそれが、なんか小回りの利かない大味な演奏に聴こえてきてしまった。おそらく諏訪内さんの語法からいけば快心の出来だったのかもしれないし、ペトレンコと正反対の音づくりをしたことでこれはこれで曲のもつ多彩な色合いを表出したといえるのかもしれないが、なんか諏訪内さんが個人的にはちょっとそんな役回りをしたように聴こえてしまった。

そして後半のマーラー。聴いていて「この曲はマーラーが若い時につくった曲なんだなあ」ということをあらためて痛感させられる演奏だった。表彰は多彩かつ緩急を極め、大きく極端から極端へ揺れ動くマーラーの心情を、その若く詩的ともいえる心象風景をそこに盛り込みながら、とても新鮮かつ熱く突き進んでいくような演奏だった。

これを聴いていてると、1987年のバーミンガム市響初来日時にラトルが指揮した同曲の演奏が重なってきた。あのときのラトルは、じつに爽やかな詩情を基礎としながら、己の感性と感情にすべてを託したかのような、それでいてどこかストイックなものを強く感じさせられる演奏でしたが、今回のペトレンコもどことなくそのときのラトルと、方向性というかその目指す座標に近しいものを強く感じたものでした。

ただあのときのバーミンガムよりも今回のオスロの方がより透明感のある音質だったことから、ペトレンコのそれの方に、より強く詩的な美しさを感じました。

最後ペトレンコはかなり激しい追い込みでダイナミックに演奏していましたが、このあたりもまたマーラーの若々しさを感じさせられるものが強く表出されていたと思いますが、それにしても先にあげたこの世代の指揮者たちに共通することに、大胆不敵というくらいに、強く個性的な自己主張をする人がじつに多いという気がします。

たしかに1920年代以降の生まれの指揮者は、その横目で多くの個性的指揮者を若き日にみてきたことから、大胆な自己主張をすると「名指揮者の物真似」ととられかねないものがあったことと、そういうことはあの世代の人たちがやればいいという、そういう意識からか音楽をもって語らせる傾向の指揮者が多かったという気がします。

ですが、1960年以降…というより特に1970年以降に生まれた指揮者にはそういう経験やプレッシャーがないことから、「そんことなど知りません」という具合に、大胆に自分の感じたままの表現法をおもいっきり表出するタイプの指揮者が増えてきたような気がします。そしてそれはかつての19世紀に生まれた多くの個性的な指揮者の先祖がえりといってもいいような気もします。

ニキシュが1913-1914年に録音したリストの曲の指揮ぶりなど、現在若手と驚くほど共通項があるように聴こえるのは、そんなことの表れなのかもしれません。

かつて1980年代初めにジャズで、ウィントン・マルサリスあたりが出現したとき、当時の雑誌は彼らの世代を「新伝承派」とよんだことがありました。ただそれは当時中村とうよう氏あたりがそのこを強く酷評したことなどもあったのかもしれませんが、十年もたたないうちにそういう呼び方は霧散してしまいました。

ですがクラシックの場合、この1970年代以降に生まれた指揮者の多くは、ある意味19世紀に生まれた個性的とも名人芸的ともいえる指揮者のそれを結果的に受け継いだ、それこそクラシック版「新伝承派」とよばれても、この場合はあながち間違ってはいないのではないかという気が自分は最近しています。

そのことを確認するため前述した指揮者を次々と聴き、そして今回ペトレンコを聴くこととなったのですが、その考えはある意味当たっていたともいえますが、さらにそれらとは根本的に違う何かもあるような気もじつはすることになりました。

はたしてそれが何なのかは今の所ぼんやりとしていて不明なのですが、それらはこれから数十年かけてその姿を明確にあらわしていくのではないのかな、と思っています。このあたりのことは、この日のプログラムにも一文を寄せていた山崎浩太郎さんあたりが、今後いろいろと触れられていくことでしょう。

そんなこれからのことにも思いをはせさせてくれるようなこの日のコンサートでした。


さて個人的なことですが、これを最後にコンサートをしばらくお休みします。次回はまったく未定です。

最大の理由として、じつは311以降コンサート中、いつのまにか演奏中に別の事を考えてしまうことが増えてきているということがじつは自分に起きています。とにかく演奏に集中できないことがひじょうに時間的に長くなってきており、このままではただお金払って座席についているだけということになってしまうため、そうなる前に一度行くのをお休みすることにしました。

本気で演奏会で音楽を聴けるような状態となったらまた再開します。それまでは無期休止といたします。ご了承ください。
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