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テンシュテットのマーラー交響曲全集への雑感。 [クラシック百銘盤]

テンシュテットというと、
今の若い人たちにはどう受け取られているだろう。

1998年に71歳で死去(誕生日を迎える前だったので)。
引退は1994年というから68歳。
奇しくもその指揮する後ろ姿が酷似していといわれる、
フルトヴェングラーが亡くなった年齢と同じ年だった。

最後に発表された録音は1993年のマーラーの7番のライプ。
日本での最後の指揮は1988年の10月。

それを思うとかなり昔の指揮者というイメージなのかもしれない。

彼は1971年に旧東ドイツからの亡命という形で西側に登場したが、
じつはそれほど大きなニュースだったという記憶がない。

彼は1962からシュターツカペレ・シュヴェリーンの音楽監督だったが、
(ここのオケはドイツで三番目に古いオケらしい)

ここはかつて若き日のマズアが音楽監督を数シーズンやってた事があるが、
この前後数十年間は皆短いスパーンで任期を終了しているため、
かなり目まぐるしく監督が代わっており、
テンシュテットは1969年までその任にいたということで、
これでも当時としては異例な程の長期政権だった。

そんなテンシュテットだったが、
その後フリーとなりすでに1971年まで二年が経過していた。

彼の場合もちろん当時の東側の思想に馴染まなかった事もあるが、
やはり自分にポジションが与えてもらえなかった不満もあったと思う。

しかも1968年以降ゼンパー・オーパーなどは、
トゥルノフスキーが政治的な問題で辞任して以降、
ポジションが空いたままになっており、
後任を探していたものの何年もこの状態が続いていた。

テンシュテットは一時ここに、
マタチッチ以降短期間指揮者を務めたらしいけど、
それだけに自分に声がかかるのを待っていたのかもしれない。

だが1971年に亡命を決意するまでついにそれはかなわなかった。

テンシュテットの亡命が当時大ニュースにまでならなかった、
もしくはその後語り草にならなかったのは、
こういう当時の状況もあったのかもしれない。

テンシュテットは亡命すると翌年ドイツのキールでポジションを得た。

だがすぐには世界に名の知られる存在にはならなかった。

彼が有名になったのは1974年。

トロントへの客演と、その後のボストン響との公演で、
ブラームスとブルックナーを指揮してのそれだった。

その後タングルウッドにも出演した頃から全米各地で声がかかり、
1976年にはロンドン響を指揮してイギリスデビューを果たした。

そして1977年にロンドンフィルに初客演。
これを機会に同オケの客演指揮者となり、
翌年当時ドイツの指揮者を敬遠していたイスラエルフィルに、
第二次大戦を知っているドイツ人指揮者として初の客演をした。

彼が遺した最大にして最高の遺産となった、
マーラー交響曲全集はこの時期に開始された。

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ここでじつはけっこう思い違いをされているかもしれないが、
確かに同オケとテンシュテットは最高の関係を築いていたが、
この全集のほとんどが、
じつはテンシュテットが同オケのトップに立っていた時期の録音ではなく、
客演指揮者時に録音されていたということ。

ここで録音年代順にならべてみる。
赤字はテンシュテットによるマーラーのセッション録音された曲目と年月日。

1977年当時のロンドンフィルは、
首席ハイティンク、首席客演ショルティ、という体制だった。
つまりテンシュテットは良くて三番目という位置づけだった。

そんな中でこの録音は開始された。
ハイティンクやショルティを押しのけて実現した理由は、
彼が上記二人と違いEMIと録音していたことと、
二人とも「我が家」でマーラー交響曲全集を、
録音を終了、もしくは開始していたことだろう。

そしてこの時期ベルリンフィルにデビュー。
また翌年には彼のマーラーを聴いたカラヤンから、
「次期後継者」とまで絶賛されたという。

1977年10月4,5日 [1番「巨人」]
1978年5月10-12日、6月8日、10月5-7日 [5番、10番(1楽章)]

この録音と前後してハイティンクが次期シリーズでの退任を発表、
後任がショルティに決まる。

1979年5月11,12,14日 [9番]

ショルティ首席指揮者時代のシリーズが始まる。
テンシュテットは同時期、ハンブルグNDR交響楽団音楽監督就任。

1979年10月27,29-31日 [3番]

1980年にロンドンフィルの首席客演指揮者に就任。

1980年10月20-22日 [7番「夜の歌」]

11月にロンドンフィル来日公演。
指揮者はショルティとロペス・コボス。
コンサートマスターはデヴィッド・ノーラン。

1981年3月、テンシュテットNDR音楽監督辞任。
急遽代行指揮したコンドラシンが演奏会終了後の夜に急逝。
クーベリック後のバイエルン放送響後任人事が白紙となる。

1981年5月14-16日 [2番「復活」]
1982年5月5-7日 [4番]

1982年8月29日、ザルツブルグでウィーンフィルを指揮。

1982年12月 [大地の歌]の最初のセッション。
1983年4月28,29日、5月4,9日 [6番「悲劇的」]

1983年、新シリーズより、テンシュテットがロンドンフィル首席指揮者就任。

1984年4月、ロンドンフィルと初来日。

1984年8月 [大地の歌]の残りセッション。※本人の発売許可はこの8年後。

1985年、テンシュテット発病。

1986年4月20-24日、1986年10月8-10日 [8番「千人の交響曲」]

1987年、ロンドンフィル音楽監督退任、桂冠指揮者の称号を授与。

1987年12月13-18日。ロンドンフィルとジェシー・ノーマンの共演でワーグナー録音。

この時期より体調の回復がみられる。

1988年5月 ロンドンフィルとワーグナープロコンサート。

1988年10月ロンドンフィルと再来日。同行指揮者としてスラットキン。


と、こういう流れの中で録音している。

つまりテンシュテットがロンドンフィル首席在任中に録音したのは、
「大地の歌」の一部と「千人」しかない。

他は全て、客演状態での録音だったということ。

もっともそういうことは珍しくなく、
アバドがシカゴとのマーラーの交響曲を五曲録音した時期は、
ショルティが音楽監督の時代だったという前例もあるし、
当のショルティも、
ハイドンのゼロモンセットの多くをテンシュテット時代、
さらにはメスト時代までの空白期にロンドンフィルと録音している。

あとマーラーでなければ、
カラヤン時代初期ベルリンフィルでは多々あったし、
小澤時代のボストンではデービスのシベリウス全集というのもあった。


ここで感じるのは、
このようにハイティンクやショルティというかなりタイプの違う、
ただけっこう根っこの部分では共通項をもっていて、
しかもその部分があまりテンシュテットのそれと互換性を感じられない、
それでいてともにマーラーを得意としていたという、
そんな指揮者が首席指揮者をしていたオーケストラにもかかわらず、
テンシュテットの作り出すマーラーが、
それら首席指揮者のもつ「色」にあまり左右されなかったということ。


このハイティンク時代のマーラーを、
当時小石忠男さんがその著書「続々世界の名指揮者」で、
ひじょうに分かり易く表現しているが、
それはじつはショルティ時代もあまり変わらないように感じられる。

もっとも「夜の歌」「復活」「悲劇的」は、
それ以前のものに比べやや音が骨太になったようにも聴こえるが、
それはオケのショルティ色が強まった影響というより、
曲想やデジタル録音に変更になったという部分もあるような気がする。

※余談ですが、ショルティがトップになっていた時期に、彼の得意のマーラーをそのオケで別の指揮者が録音したという例では、ジュリーニとアバドによる一連のシカゴセッションがあるが、特にアバドは偶然にも上であげた三曲が含まれているので、それを念頭にこのテンシュテットのそれと聴き比べるのも面白いかもしれません。


ここで思い出した話がある。

テンシュテットは酒とタバコが甚だしかったというが、
このエピソードを踏まえた上で、
彼の1984年の来日公演を聴いたある在京オケの方が後に、

「テンシュテットはかなり神経質な指揮者だと思う。またあの指揮であれだけ細かい音楽を紡ぐには、かなり練習時言葉による説明が大きな比重がかかると思う。彼がロンドンフィルと上手くいったのは、このオケというかロンドンのオケの指揮者に対する順応性の高さがあると思う。ハイティンクとショルティ、さらにはボールトやロストロポーヴィチといったタイプの違う指揮者との録音を、比較的近い時期でそこそこのレベルでどれも仕上げる基礎をもっていた事が大きい。もちろんロンドンフィルの琴線に触れる部分をテンシュテットが持っていた事が大きかった事は確かだけど」

そして、

「病気の手術が声帯絡みだったというが、それにより病に倒れた以降は、言葉での説明がかつてほど緻密にできなくなったように感じられる。8番やライブの5番はそれが顕著に感じられた。もっともそこには統率の難しい大曲だったりライブだったりというハンディは考えられるけど、同じライブの5番は84年の方がやはり緻密。あとロンドンフィル以外のオケへの客演があまり見られなくなったのも、そのあたりの言葉の問題が大きかったような気がする。もちろんそれだけでなく以前のいろいろなゴタゴタが要因としてあったのは確かだけど」

と言われた事。

それを思うと、
もしロンドンフィルがハイティンク離任後に、
ショルティではなくテンシュテットを指名し、
彼のオケでより伸び伸びとした環境で、
マーラーの全集を録音していたらどうなっていたかと。

ひょっとしたらもっと大胆に、
それこそより高い燃焼度を持ちながら、
セッション録音時の表情の緻密さを保持したものを、
全集として完成させていたのではないかと、
そんな事もちょっと思ったりしてしまいました。


このテンシュテットのマーラー全集が開始されると、
それらがLPやCDで発売される事に、
当時はかなりの評価と話題性があったと記憶している。

もちろんEMIにとって初のマーラー全集だったということで、
その宣伝にも力が入っていたことも大きかった。

ただその反面それ以外の曲では、
ベルリンフィルを指揮したものを除けば、
かならずしもすべてがそうではなかったようで、
あるサイトでは初来日時にブラームスがメインだった日の公演は、
人の入りが良かったとはお世辞にも言えないものだったとか。


そしてそのマーラーの全集も、
バーンスタインの全集が1980年代半ばから発売が開始され、
さらにインバル、マゼールによるそれが登場すると、
次第に影を潜めていったように感じられ、
その後、アバド、ブーレーズ、シノーポリ、
そしてベルティーニ、ラトルといったところが次々と登場し、
その間にテンシュテットが引退、そして死去すると、
さらにその影が薄くなったように感じられた。


テンシュテットのこのマーラー全集は、
確かにそれらの後発全集に比べるといい意味での押しが弱く、
強烈な情念とかエッジの鋭さ、
そして対極から対極へのふり幅の大きさからくる、
ある種の刺激が弱いように感じられる事もその要因だと思うし、
他の全集のオケの多くに比べると、
技術的に弱く感じられる部分もそのひとつだと思われます。

NDRとの復活、シカゴとの巨人、
そしてロンドンフィルの凄いほどの頑張りが特筆される、
88年、そして90年代に入ってライブ録音された、
5番、「悲劇的」、「夜の歌」が、
それ以前の全集よりはるかに人気も評価も高いのも、
やはりそういう部分に聴き手が不満を持っていた気が改めてする。

特ロンドンフィルとのそれは技術的な部分を、
全集には感じられなかったオケの気迫と、
全集録音以降の指揮者の円熟の深まりが、
全集における同曲の演奏より高く評価されたのだろう。


※あと全集時のEMIのレベルのやや低い音質が、けっこう足を引っ張っているという意見もありますが、自分のように古い録音等に耳が慣れたものだと、LPの時は多少それを感じたものの、CDになってからはそれほど気にすることはなくなりました。もっとも正直飛びぬけていい音質という気もしませんでしたが。


ただ発売時から特に評価の高かった5番は、
これはこれでやはりかなりの高水準だし、
他の曲もあらためて聴くと、
このまま忘れ去られていい代物ではないという気がする。


かつてボールトがロンドンフィル等を指揮した、
ブラームスの交響曲全集やワーグナーの管弦楽曲集、
さらにベートーヴェンの田園やシューベルトのグレイトが、
日本ではほぼ完璧に黙殺されていた時期があった。

だがその後一部は国内盤でも発売されたりし、
今はある程度知られ評価され現在に至っている。


テンシュテットもそのうちまた、
いろいろとまた再認識される時が来るのかもしれない。

じっさいここでのロンドンフィルは、
確かにビシッとすべて決まったそれではないかもしれないが、
ひとつひとつの音を大事に紡ごうとするような、
曲に愛情を深く注いだ真摯なそれが強く聴きとれるものがあります。


必要以上に高評価してほしいとは思いませんが、
できれば再度今の若い人にもあらためて聴いてほしい演奏です。

ただやはり今の人に聴いてもらうなら、
もう少しレベルと鮮度を上げた音質にすべきかもしれません。

ワーナーに移籍してから音質はどうなったんでしょう。

以上で〆

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コメント 3

サンフランシスコ人

約30年前、フィラデルフィア管弦楽団の(フィラデルフィアでの)定期演奏会で、テンシュテットのマーラー6番を聴きました....
by サンフランシスコ人 (2019-06-18 02:00) 

阿伊沢萬

テンシュテットは意外なくらいアメリカのオーケストラを指揮していますが、おそらくアメリカのオケもイギリス同様、彼の意図をいち早く読み取り表現できる技術に長けていたことが大きいと思います。

彼があと10年健康で現役を続けられていたら、アメリカのオケともっといろいろと演奏を遺してくれていたかもしれません。

因みに自分は1988年のロンドンフィルとの来日公演時に二公演聴いたのがすべてです。
by 阿伊沢萬 (2019-06-18 21:52) 

阿伊沢萬

はじドラ 様

テンシュテットのマーラー。かつてはバーンスタインあたりと双璧というくらい評価されていたのに今は…、という感じです。

個人的には1988年の昭和女子大における「英雄」を中心とした公演がCD化される事を期待しています。

nice!ありがとうございます。
by 阿伊沢萬 (2019-06-18 21:55) 

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