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ワルターの1959年のブルックナー9番について。 [クラシック百銘盤]


2017年とそれ以前のものをここに再度書き直し&書き足しています。
尚、前のものもそのままにしています。
https://orch.blog.ss-blog.jp/2017-03-09

最初にこの項を書くにあたり、
「BRUNO WALTER HOME PAGE」を参照した事を明確にしておきます。
http://www1.s2.starcat.ne.jp/danno/walter2.htm

ワルターのブルックナー演奏の記録をみると、
4番、5番、7番、8番、9番
この五曲があがってくる。

ただ5番のみかつては頻繁に演奏していたようですが、
1935年に原典版が登場する頃に、
この曲の演奏記録が忽然と消えてしまう。

おそらく彼も他の指揮者同様、
この曲の演奏には当時唯一の出版譜だった改訂版を使用していたのだろうが、
このあまりにも自分の知る姿違う原典版の出現は、
彼に少なからぬショックを与えたのかもしれない。

そしてその原典版は彼の趣味にあわなかったのか、
それとも理解を超えた曲だったのだろうか、
とにかく彼のレパートリーにそれは組み込まれることはなかった。

その後ワルターのブルックナーは前述した五曲から5番を除いた四曲と、
「テ・デウム」あたりがレパートリーとして定着した。

演奏は原点版があった時は原則原典版だったが、
4番は改訂版を一部使用したりはしていた。

そんなワルターが特によく演奏したのが9番だった。

録音も他の曲がせいぜい多くても二種類程しかないのに対し、
この9番は1946年から1959年に至るまでに、
じつに六種類も遺している。

オーケストラも多岐にわたり、
ニューヨークフィルと三種類、
フィラデルフィアとウィーンフィルで各ひとつずつ。

そしてもっとも有名な、
コロンビア響名義でロサンゼルスフィルとひとつという具合だ。


その六つの演奏時間をみてみる。

1946 NYPO 21:30、09:41、19:35
1948 PHO 21:29、09:53、19:28
1953 WPO 21:02、10:01、18:56
1953 NYPO 20:39、10:13、19:32
1957 NYPO 20:31、10:20、19:32
1959 LAPO 23:55、11:34、23:14

これをみるとライブの最初の五つはそれほど大きな差は無い。

ところがステレオ録音となると、
二年前のNYPOより全体的に如実に遅くなっている。

NYPOが全体的に五十分程なのに対し、
LAPOは59分近くになっている。

この57年のブルックナーは、
トスカニーニ追悼演奏会で「英雄」を指揮したその一週間後の録音で、
心臓の病で第一線を退く一か月ほど前ということになる。

それに対しLAPOのそれは同オケを指揮した演奏会から、
三日ほど後のそれではあるものの、
やはり病に倒れた事がスタイル全体に影響していたのかもしれない。

BrucknerNo9.jpg

この9番に関しては十年以上も前に
https://orch.blog.so-net.ne.jp/2007-06-23-1
にいろいろと書いているので、
今回はそこで書かなかったことをいろいろと。

ワルターのアメリカでライブ録音された四種類の9場は、
どれも速めのテンポでぐいぐい押していく演奏だけど、
だからといって小さくせせこましくなったりすることはない。

ただいわゆる日本で広まったブルックナーのイメージとは違い、
よりベートーヴェン風といっていいのだろうか、
ひじょうに激しく剛毅な迫力が随所に感じられる。

これはフルトヴェングラーのブルックナー同様、
この作曲家に楽聖が与えた影響というものを強く意識した、
そんなタイプの演奏と考えていいと思う。

第三楽章のコーダのホルンも、
消えゆくようにやるのではなく、
高みに上るかのような朗々としたものとなっている。

たしかにここは第七交響曲の第一楽章冒頭そのままなので、
続く第四楽章のそれを考えると、
この考えの方がむしろ正論と思えるものがある。

そしてこの基本線はLAPOとのそれにも引き継がれている。

ただテンポが全体的に遅くなったせいか、
より大きな構えと風格が感じられるものになってはいます。


ところでこの頃のワルターは、
LAPOやサンフランシスコ響を頻繁に指揮している。

病のため自宅のある温暖な西海岸を主戦場にしていたこともあるけど、
1957年以前からじつは彼はこの二つのオケをよく指揮していた。

この当時サンフランシスコはモントゥのオケ、
そしてもうひとつのLAPOとの共演が集中しはしはじめたのが、
ヴァン・ベイヌムがこのオケのトップに立った時期とほぼ一致している。

このモントゥとベイヌムという、
ともにコンセルトヘボウというマーラー縁のオケの指揮者であり、
オーケストラをつねに素晴らしい状態にしてしまう名伯楽がいたことは、
ワルターにとってとても安心しそのオケを指揮することができたと、
そう考えることができないだろうか。

またおそらくワルターとこの二人の間には、
いろいろと深い信頼関係があったのではなかろうか。

で、ここから先は以前何かで読んだものを記憶を頼りに書くので、
間違っていたらすみません。

ベイヌムは心臓の状態が悪くなり医者から一年程の活動制限を受け、
そのため1958年初めにLAPOへの指揮を一時中断、
翌年秋に戻ってくると言い残しアメリカを去った。

(なので1958年以降のベイヌムのすべてのステレオ録音は、医者からの活動制限がかけられた状況下での録音ということになります)

そして翌1959年4月13日。
当初は練習指揮者を立ててのリハーサルの予定だったそれを、
ベイヌム自身が当日担当、
途中で休憩を宣言したものの、
直後そのまま指揮台から倒れ帰らぬ人となった。

このためロスフィルは秋以降の指揮者の代行を探しに走ったが、
かなり早い段階でショルティに多くの公演を代行してもらう確約をとった。

これはひょっとするとベイヌムが戻ってこれないかもという保険のため、
ショルティに早い時期から依頼していたのかもしれない。

(また一説にはベイヌムはすでにLAPOの地位を辞する決断をし、1958年のシーズン終了後にその地位から退任する予定だったらしいので、それでショルティとのパイプをすでに設けていたのかもしれません)


そしてワルターもLAPOの秋公演を二日間担当した。

じつはワルターは1957年に倒れて後、
録音を除けばこの時期に指揮をすることは避けていたようで、
実際1957、1958、1959年と、
11月に演奏会の指揮台に立ったのはこの時のみであり、
後は翌年の生涯最後の演奏会を12月にLAPOで一日指揮しただけ。

なのでこれはかなり異例なものだったのではないだろうか。

あとこのブルックナーを演奏会で指揮した直後、
ワルターはこのブルックナーを三日後と五日後に録音し、
そのまま翌年3月初めまでいつものコロンビアセッションを初めている。

しかも演奏会でブルックナーと一緒に演奏された、
モーツァルトの「プラハ」を翌12月、
そしてブラームスの「悲劇的序曲」を翌年1月に録音しているので、
そのあたりとの絡みもひょっとしたらあったのかもしれない。

またこの時この演奏会では演奏されていない曲で、
ブルックナーの9番を録音した二日後に、
フランチェスカッティとフルニエという超豪華ソリストを迎えての、
ブラームスの二重協奏曲がこれまたたった一日であげられているが、
これがまた異常な程オケの状態がよく、
ブルックナーの録音メンバーから精鋭が選ばれての、
これまたスペシャルセッションだったのではないかと、
個人的には思っている。

ただこの年の11月以降のコロンビアセッションは、
ブラームスの1番やモーツァルトのプラハのように、
先のブルックナーや二重協奏曲に比べると、
いつものコロンビア響のような雰囲気が強い演奏も、
ブルックナーを除けばすべて一日で録音を終了しているので、
かならずしもメンバー云々という理由で、
一日であげられたという事ではないのかもしれない。

このあたりはすでに何かで明らかになっているかもしれないけど。


さて話はずれだけど、
こんな状況で開かれた公演の直後に録音されたブルックナー。

それをあらためて聴くと、
この時期のワルターのベストパフォーマンスと、
ベイヌムがLAPOに遺していった財産のようなものが、
当時としては最高の音質で記録されていたという、
じつに一期一会のドラマとも言うべきものだった気がする。


たがドラマはここで終わりにはならなかった。

その後のLAPOは、
本来このとき代行をしたショルティがそのまま音楽監督になり、
1962年のシリーズからスタートとなるはずが、
ショルティのあずかり知らぬところで、
第二指揮者に当時26歳だったズビン・メータが抜擢されたことで、
ショルティが音楽監督の地位を固辞してしまい、
結果メータがそのままLAPOの音楽監督になった。

これはおそらくウィーンやベルリンにすでにデビューし、
モントリオール交響楽団の音楽監督にもなっていたこの俊英に、
ショルティがいろいろと複雑な感情を抱いていたのかもしれません。

その後メータとLAPOはご存知の通り時代の寵児となり、
デッカの看板コンビとなり多くのヒット盤を出した。

そしてショルティは1969年にシカゴの音楽監督となり、
全米だけでなく世界屈指の名コンビと賞賛され、
同じくデッカの看板コンビとなり多くのヒット盤を生み出した。


このブルックナーは、
そんなベイヌムの死とメータの抜擢の間に録音されたという、
これまた貴重な記録でもある。

しかもこの時期のLAPOは正規の録音がほとんど無い。
そういう意味でも本当に貴重。

メータがLAPOと録音を開始するのは、
このブルックナーの録音から8年の後、
1967年まで開いているので尚更だ。


因みにこの頃にはメータとLAPOの人気は全米にとどまらず、
欧州のそれも共産圏にまで広まっており、
ある共産圏の国にメータとLAPOがツアーで訪れた時は、
コンドラシンとモスクワフィルとの公演時期が近いため、
事前にチャイコフスキーだけは外してほしい、
そうでないとモスクワフィルのチケットが売れなくなってしまうと、
今では考えられないようなビックリする要請を、
その国の当局の関係者から受けたほどだった。


たがそれにもかかわらず、
この時期においてもベイヌム時代をより高く評価していた楽員がいたのも事実。


そんなことを考えながら、
ベイヌム時代の影響を色濃く残しながらも、
メータ時代を迎える前夜のLAPOによるワルターのこの演奏を聴くと、
またいろいろと面白いものが見えてくるかもしれません。



尚、メータはその後LAPOを指揮して、
何度かブルックナーを取り上げている。

1970年に4番の録音、
1972年にはその4番が来日公演で演奏、
1974年に今度は8番の録音があり、
1977年の幻となった日本公演では7番を取り上げる予定でした。


今年(2019)はこのワルター指揮LAPOによる9番の録音から、
ちょうど60年目にあたります。

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サンフランシスコ人

「ショルティに早い時期から依頼していたのかもしれない...」

1953年ショルティはロサンジェルスでサンフランシスコ・オペラを指揮しています....

http://archive.sfopera.com/reports/rptOpera-id1435.pdf

http://archive.sfopera.com/reports/rptOpera-id1422.pdf

http://archive.sfopera.com/reports/rptOpera-id1425.pdf
by サンフランシスコ人 (2019-04-02 01:41) 

阿伊沢萬

soramoyou さま、nice! ありがとうございます。

このアルバムはかつての国内盤LP時代より、DSD盤のCDになり様相が一変しました。かつてのLP時代の印象を基にしたかのような評が未だ一人歩きしている現状は正直面白くありません。そういう事を払拭するためにももう少しこの演奏が多くの人に聴かれてほしいです。
by 阿伊沢萬 (2019-04-04 05:03) 

阿伊沢萬

ショルティとサンフランシスコオペラは、トスカニーニの助手をかつてつとめ、ザルツブルグ音楽祭等でショルティとも面識があった、クルト・ヘルベルト・アドラーがこのオペラハウスの要職に就いていたことで関係を持ったといわれています。

もし彼がLAPOの監督に就任していたらその後LAPO、その後のメータ、そしてその後のシカゴがどうなっていたか。

本当に運命とは分からないものです。
by 阿伊沢萬 (2019-04-04 05:17) 

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