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「『ゴジラ』シリーズをめぐる言説の変化と問題点」という発表を聞く。 [ゴジラ]

「『ゴジラ』シリーズをめぐる言説の変化と問題点―一九五四年から現在の新聞報道を軸として―」
神谷和宏(北海道大学国際広報メディア・観光学院博士後期課程/北海道公立中学校教諭)


平成最後の「あんこう祭り」を泣く泣く蹴ってまで行ったそれ。

二日間にわたって行われた「コンテンツ文化史研究の十年」の、
その二日目の午前中の二つ目のそれとしてこれは行われた。


自分はあるきっかけから、
1954年11月3日から公開されたこの「ゴジラ」の、
その公開直後に最初に書かれた作品評を、
東京で発行されていた一般紙6紙とスポーツ紙3紙から拾い、
それをみながらいろいろと考えたことがある。

その時の雑感と9紙の内容は、
https://orch.blog.so-net.ne.jp/2016-08-14
に書いてあるが、
今回の発表でその時氷解しなかったいくつかの疑問や、
もやもやとした部分がかなりスッキリとした。

また発表終了後、講師の神谷さんとお話しした時、
ちょっとこちらの思い違いもあったので、
ここで今回そこから受けた感想のまとめをここに書くこととしました。

ただしこれは神谷氏の発表を評しようとしたものではありません。
あくまでも私感との突合せにより徒然的な感想文です。念のため。


神谷氏は今回「読売」「毎日」「朝日」の主要三紙のそれをとりあげ、
以下のように三つに細分化した。

① 人間が描かれるドラマ部分への批判
② ゴジラに性格が絵かがれていない部分への批判
③ 「キングコング」や「放射能X」など外国産SFに比べた際の稚拙さ。


神谷氏は①と②に関しては現代の視点からみるとあまり的確とは思えないものの、③に関しては後の「ゴジラ」の多様さを引き出す要因になったこともあわせると、的確ではなかったかと考えるという意見に達している。


またこれ以外にもこの三紙であげられた「科学的でない」という批判や、1954年以降の「ゴジラ」に対する紙評の変遷についてもいろいろと論じられた。

その中にはゴジラは何故皇居を襲わなかったかというものなども含まれ、なかなか興味深く、そして自分が抱いている疑問等に抵触するものもかなり多く、とにかくとても有意義なものとなった。


最初に神谷さんがあげられた三点+「科学的」云々の計四点について。

正直、この四つに分けてもらったのはとても的確で、こちらもとても考えが進めやすくなった。これはありがたかった。

実際神谷氏の指摘は、素っ気ない「サンケイ」を除けば、日経、東京も、先の三紙とだいたいよったりだ。ところがスポーツ三紙となるとやや状況が異なる。

確かにとってつけたように「性格」「稚拙」という部分にも気持ち触れているけど、それは論点というほどでもない。面白かったのは三紙とも、「もっと弾けた作品になってほしかった」という意味の事を書いているということ。

難しいことなど正直「どーーーーでもいい」という感じで、「徹底的にゴジラに話を集中させろ」「意表を突け」「理屈抜きの見世物にしろ」と、見方によっては神谷氏が指摘した、それこそ一般紙の見方(ある意味減点方式と言っていいのかもしれない)よりも、かなり積極的にこの作品を見ていた姿勢が伺える。

そしてこのスポーツ紙のそれを受けたかのように、翌年の「ゴジラの逆襲」は「ゴジラ」よりもふんだんに怪獣にスポットを当て、理屈抜きの見世物にしようとしたかのような作品となっている。

そういえば自分が小さい時にこの二作品をテレビで見た時、最初の一時間こそ面白さは互角だったけど、後半三十分は「見せ物」として圧倒的に「逆襲」の方が面白かったという記憶がある。

これが可能だったのも神谷氏が指摘した③の要素あればのそれだったのかもしれない。


また「科学」云々ということだが、このことに関しては1956年の「ラドン」以降にかなりの要素が付加されていく。さらに「地球防衛軍」以降は政治家や軍人よりも科学者の方が主人公やストーリーの主導権を握るケーズが急速に増えていく。

そして何故かそれを指摘されたゴジラそのものは、じつはその後1962年まで7年間の眠りについている。「ゴジラ」がこの時期作られなかったのは、他に作りたい企画がたくさんあったからという話を以前聞いたことがあるけど、ひょっとしたら「ゴジラ」と科学というのが、あまり作り手にとって相性がよくなかったのかもしれない。

実際1962年の「キングコング対ゴジラ」は、確かに科学者はでてくるけど、それほど科学者としての大きな存在感はなく、科学そっちのけで、二匹が当時のプロレスブームを反映しての、どったんばったん的な歴史に残る怪獣プロレスを展開している。


大気圏内ではあいかわらず各国が盛大に核実験を行い、前年にはベルリンに「壁」がつくられ、この年の11月には「キューバ危機」があった。そんな時代に科学とは無縁のこれなのだから面白い。やはりゴジラはいろんな意味でその存在そのものがシンプルすぎるため、主義主張とはあわないのだろうか。

もっともそれも二年後の「三大怪獣」で「気が短くて力持ち」的な性格を吐露するシーンがあらわれたことで性格づけされたことから、急速に科学やSF的な世界に足を踏み入れていく。このあたりを前述した神谷氏の指摘と合わせて考えるとじつに面白いものがある。

「ゴジラ」と「科学」そして「性格」という分析は今後このシンブルな怪獣の魅力と危険性を解くカギになるかもしれません。


あとこの新聞評については、いろいろと具体的な理由が欠如している事や、他の作品との対比が浅く、そのため話が深くならず単なる感想に堕しているため、書き手の熟練度が不足しているのではないかという事が発表内だけでなく、質疑応答でも指摘された。

確かに原稿の文字数等の兼ね合いもあり、そのへんを端折ったという同情的な見方もてきるけど、話のあらすじや出演者の名前等で埋めている所を大幅に削れば、このあたりも何とかなったのではないかという気がする。

ただこの当時、書き手は映画に限らずクラシック音楽でもその傾向はあり、そのことは当時来日していた外国の指揮者からも指摘されていた。ようするに経験値が少ない「井の中の蛙」的な部分がそこにはあったのだけど、映画評でもこのあたりがそのときあらわれていたのかもしない。作品以上に書き手が稚拙だったらそれこそお笑いものであるが、このあたり実際はどうなのだろう。


ところで書き手の話が出たのでついでにするが、これも質疑応答で出たけど、「何故9紙が揃ってゴジラが東京を炎上させるシーンで、誰も不快感や不道徳感みたいなものに言及しなかったか」という点が疑問としてあげられた。

これは書き手にそういう意識が無かったのは当然なのだろうけど、その要因が空襲の被害者は主に女性であったため、書き手がそこまで想いが廻らなかったのではないかという事が意見としてあがってきた。

聞いた話だけど、戦中、男子の中間層は戦地や基地に殆ど配属となり、老人と子供と女性が町に残るよう形となっていた。しかも子供は疎開させられていたため空襲にあった男性は女性に比べると確かに比率的にはかなり低くなる。

おそらく9紙の書き手全員が、戦争末期にちょうど動員されていたか、疎開していた年齢だったのだろう。だがそうだとしても、やはりあの炎上シーンは、東京をはじめ多くの都市が焼け野原となっていた現実を思うと、直接炎上を目にしていなかったにせよ、そこまで気持ちを巡らせないのは、書き手としていかがなものかと思う。

もし「シン・ゴジラ」で東京炎上だけでなく、ゴジラ上陸の余波で、鎌倉に大津波が押し寄せるようなシーンがリアルに挿入されていたらどうだっただろう。「のぼうの城」の津波シーンでの自粛したそれとは時期も違うので一概には比べられないけど、あのラストシーン等と合わせてみると、多少は何か声が上がってもおかしくなかったような気がする。

それを考えると、例え否定的な意見ではないにせよ全く触れなかったのは、前述した「書き手が未熟であり稚拙だった」という意見を含めて考えると、そのあたりは多少合点がいくような気がした。

また他の作品で空襲シーンがあるから当時はそういうものはタブーではないという意見も出たけど、自分には些か疑問が残る。特に「ゴジラ」は作品が作品だけに、そこで放射能バラまいてとどめに首都大炎上なのだからなおさらだ。

それとも一度地獄をストレートに観てしまうと、そういうことに平常時で育った人間とは違う感覚が生じてしまうのだろうか。それとも「あんなもの大空襲と比べたらおもちゃみたいなシーンだよ」というのが見た人たちの本音なのだろうか。確かに映画「パール・ハーバー」級の特撮ではないことは確かだけれど。

このあたりももう少し突っ込んだそれが必要だと思うけど、ただ自分にとっては、ちょっとしたきっかけにはなったような気がした。


「炎上」の話繋がりだけど、上でも述べたように、「ゴジラは何故皇居を襲わなかったのか」というそれもいろいろと出て来た。

自分はこのとき聞いた意見も踏まえた上で言わせてもらうと、ここには政治意図というものは皆無。

単純に名のある神社仏閣を壊す事同様「怖れ多い」「罰当たり」的な感覚があったからだと思っている。実際ゴジラは名のある神社仏閣は壊してないはず。もし壊していたとしても、それを明確かつ具体的に描いたシーンは無かったと思う。

まあ映画の撮影の無事やヒットを祈願して、スタッフ一同が撮影前に神社や祭壇を前にお払いをすることが多い業界が、よりによって名のある寺社をぶっ壊すという、「恩を仇で返す」ような事はさすがにできないだろうけど、それと同じことを皇居にも感じていた事は充分考えられるし、やはりそこはタブーというべき事柄なのだろう。それは右翼とかそういうこととはまた次元の違う話だと思う、もちろん興行成績にも響く事は確実だし、その後の東宝の各興行にも影を落としかねないものがある。

それじゃあ皇居が天皇及び皇族のお住まいでなければ壊したかという、じつはそこにも疑問は残る。ゴジラが炎上させたのは「銀座」「日劇」「国会議事堂」「勝鬨橋」と当時東京の名所や名のある建造物であったという事。浅草が無いのは斜陽になっていたという事もあるが、50mもある怪獣にとって壊しがいのある建造物がなかった事もある。これがもし「凌雲閣」が現存していれば間違いなくやっていただろう。

皇居も浅草同様に壊しがいのある建造物がじつは無い。ゴジラはこの作品の後三作品で、連続して三つの城を壊している。「大阪城」「熱海城」「名古屋城」だ。この三つの城に共通しているのは「天守閣」があること。

ところが皇居には江戸城時代の天守閣が無い。「ゴジラ」が制作される約三百年前にあった明暦の大火で焼失した後再建されなかったからだ。そうなると50mの怪獣が壊すだけのものがここには見当たらない。逆に国会議事堂が壊されたのは壊しがいのある高さと大きさがあったというのが理由だろう。

余談だが、松本人志さんが「ゴジラはなんで和歌山に上陸しないのか」と言ってまわりから笑いを誘っていた事があったけど、天守閣を有する和歌山城があるかぎり皆無とはいえない。はたしてゴジラはいつ和歌山に上陸するのだろう。

というわけで、こと皇居炎上シーンが無かったのは、別に政治的なものとかは関係ないというのが持論。


なんか雑談ばかりになってしまったけど、最後にひとつ感じたこと。


それは神谷氏によって提示された、1975年のシリーズ空白期の論評について。

これを見ていて思った事に、書いている人たちの世代がここでガラリと変わってしまったように感じられた事。

それまでの書き手は初代「ゴジラ」から順にリアルタイムで見てきた人だったのに対し、この頃から、ゴジラがガメラあたりに影響され、かつてのような恐怖の対象ではなく、子供たちのヒーローや人類の仲間となっていく過程のゴジラからリアルタイムで見始め、それと同時かやや遅れてテレビ等で「怖いゴジラ」を追体験していった人によるそれが感じられ始めた。

なんといっていいのだろう。確かに味方やヒーローのゴジラも親しみやすくていいけど、怖い時のゴジラのもつ圧倒的な凄さと様式美みたいなものを再認識し、そこに惹かれたことでゴジラのルーツを辿り、その変遷などを他者の要素と絡めながら考察するという、過去のゴジラに「劇場で巻きこまれながら見た」層ではなく、テレビで見たことで、それよりは少し退いたというか、やや冷めた眼差しで考察できる立ち位置からみ見る事が出来た世代に変わっていったという気がした。

そしてこの層はそのためか、けっこう「怖いゴジラ」の姿を新鮮に受け取り、その姿に対しての憧れと復権を強く思っているように感じられた。

1983年「ゴジラ復活フェスティバル」や「伊福部昭・SF特撮映画音楽の夕べ」が、あれほどのエネルギーを持ち合わせたのも、そういう事に対する強い欲求が原動力としてあったからだろうし、1970年代には「ゴジラは子供がみるもの」という決めつけや呪縛から解き放ったのも、この世代の積極的な動きがあればこそという事が、この日神谷氏が指摘した事や提示した資料等により、より明確に感じられる気がした。

庵野監督や樋口監督もおそらくこのあたりの世代だろう。だからこそ「シン・ゴジラ」は初代「ゴジラ」をリスペクトしながらもその問題点や可能性も入れ込んだ、あれだけエネルギーにみちた作品となったのだろう。

※1
(なお「ゴジラ復活フェスティバル」で上映された10作品は以下の通り。

「ゴジラ」(1954)
「空の大怪獣ラドン」(1956)
「モスラ」(1961)
「キングコング対ゴジラ」(1962)
「海底軍艦」(1963)
「モスラ対ゴジラ」(1964)
「三大怪獣地球最大の決戦」(1964)
「怪獣大戦争」(1965)
「キングコングの逆襲」(1967)
「コジラ対メカゴジラ」(1974)

というもので、特に「ゴジラ」ものに関しては、「モスラ」とゴジラ生誕二十周年記念作品となった「対メカゴジラ」を除けば、すべて田中友幸、本多猪四郎、円谷英二、伊福部昭、の四者が、それぞれ制作、監督、特技監督、作曲として参加した作品となっているのが興味深い。この上映内容が自分が上で、『「怖いゴジラ」の姿を新鮮に受け取り、その姿に対しての憧れと復権を強く思っているように感じられた』と思う要因となったもののひとつです。余談ですがこのとき「ゴジラの逆襲」が無かったのが今でも正直残念。)

G001.jpg


※2
(因みに神谷氏は1964年の「モスラ対ゴジラ」では、読売新聞の記事における書き手の姿勢には「外国市場に実績のある映画なのだから、この財産を大切にしてほしい」という記事にふれている。このシリーズ空白期にあらわれた新しい世代の人たちはこの姿勢を引き継いだ、それこそ「新伝承派」というべきひとたちなのかもしれません。)


なんかかなりとっちらかった、しかもしっかりとした神谷氏の論文に対して、自分の経験からきた憶測やイメージが主体となった感想文になってしまったけど、今回神谷氏のそれを聞いただけで、これだけの事がいろいろと思い浮かんだ次第。本当にいろいろと考えさせられ、そしていくつかの疑問が、かなりスッキリした感じになったのは本当にありがたかった。

尚、今回この会で配布された「予稿集」には本論の「まとめ」がある。これがなかなか的確で示唆にとんだものだけど、さすがにそれをここにそのまま書くことはできない。もしみる機会がありましたら、ぜひその「まとめ」はもちろん、その全文を読んでいただきたい。

とにかく神谷氏には感謝のそれしかあれません。この場を借りて心から御礼申し上げます。

ただ今回はそれ以上にいろいろと新しい疑問も湧いて来たけど、それはもう少しいろいろと精査した上での機会にということで。

以上です。


あとさらに余談ですが、初代「ゴジラ」が公開されて十年程経った頃、自分が子供の時母親から、「雨の日に傘を差さないで外に出ると頭が禿げる」と叱られた事があった。

これが何を意味するかは分かる方にはあれだと思われますが、大気圏内核実験が中止された後でも、このような会話が日常で行われていました。

それより十年前。大気圏内で盛大に核実験が行われていた時代にとって、核実験が一般家庭にとってどういうものだったか。そういえば前述した空襲もそうだけど、この放射能のシーンもよくよく考えると、それほど圧倒的に深刻に描かれていたとは思えない。一般紙の当時の酷評もこのあたりが感覚的に働いていたのかもしれないが、これも空襲と同じような理由なのだろうか。


最後にもうひとつ余談。

「ゴジラ」の評についての一般紙のそれを読むと、1956年に全米で大絶賛された後に若干流れが変わった感がある。

1952年のジーン・クルーパの来日公演、1955年のシンフォニー・オブ・ジ・エアの来日、1950年代全般に行われた日米野球やハリウッド映画の公開等々、このあたりじつはアメリカからのそれが雪崩のように日本に来た時期でもある。

このあたりは藤田文子さんの「アメリカ文化外交と日本」にもあるけど、こういう流れにも多少影響されたのではないかという感がある。

ただ当時はこの流れに反して、反資本主義的な論調も多く、アメリカ礼賛を良しとしない人たちによる、その流れというものを真向から頭ごなしに否定するものもあり、その立ち位置にいる書き手にとっては、例えアメリカで絶賛されても「ゴジラ」は1954年から、その否定的なそこからは動かなかったような気がするが、このあたりもあくまで推測でしかない。

ただクラシックではそういう評があちこちで散見された。特にそれは1960年代に顕著に見かけられたように感じられた。

このあたりもまたいつか論じられる事を期待したい。
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阿伊沢萬

なかなか示唆に富んだ発表でした。こういう機会はいろいろと自分にとって刺激と勉強になるのでありがたいです。

soramoyouさま、はじドラさま。nice! ありがとうございます。

by 阿伊沢萬 (2018-11-20 19:40) 

サンフランシスコ人

ゴジラ (1954年).....5/27 カリフォルニア州のロサンゼルスで上映.....

http://www.americancinematheque.com/now-showing/godzilla-5-27-23/

SAT MAY 27, 2023 7:00 PM
GODZILLA

$8.00 (member) ; $13.00 (general admission)
by サンフランシスコ人 (2023-04-28 04:36) 

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