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興国寺城跡発掘調査現地説明会に行く [沼津~三の浦]

平成29年度興国寺城跡発掘調査現地説明会に行く。

原駅から歩いて30分ほどのところにある興国寺城跡。

ここの発掘調査もすでに15年経っているらしいが、
聞いたところではあともう少し調査をすれば一応終了とのこと。

今回は北曲輪付近における障子堀の発見にからんでのそれ。

配布された資料。
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↑見開きの為一度にコピーできなかったので中央付近が一部欠損しています。ご了承ください。

そのため説明も北曲輪の堀2付近で行われた。

ここで全体の概略説明を受けた後、堀2の東端で発掘された障子堀をみるような形。

いろいろと勉強になったけど、
自分が今回勉強になったのは、

①興国寺城は早雲がゼロから作ったものではなく、それ以前にここにあったといわれる興国寺が、おそらく当時の大きな寺院によくみられた、武装化されたものだったそれを利用したものではないかという事。

②この城は何度も戦闘によって城主が変わっているが、そのたびに再度攻められた場合手の内が知られている城の要所要所を、簡単に攻め込まれないよう相手にとって未知の状態にするため改装を施していたということ。

③場所によっては堀の下から堀がみつかっているが、それもその一環らしいとのこと。

④この城がいちばん大きかったのは天正年間の頃で、その後はまた小さくなった。今みている姿は1607年に廃城になった段階でのそれであって、早雲時代の城をみるためには、かなりの深さまで全体を掘らないといけないということ。


そして中でもいちばん興味深かったのは、
この城の北曲輪を中心とした北側が武田や徳川の時代に増設されたものが多いということ。

自分はこれをみて、
攻め落とした方は城の弱点を突いて攻めてる可能性が高いため、
これらの繰り返しで、
城主が戦闘で変わるたびに弱点が補強され、
そのたびに城が大きくなっているのではないかと思った。

だが聞いたところでは、
城へ割かれる人員やそれに対する兵糧等を考えると、
ただ大きくなるというだけでなく、
弱い所をあえて捨ててるところもあるので、
一概に戦闘の度に大きくなったというわけではないとのこと。

おそらくその場合は、
さすがにそのままというわけにはいかないので、
堀がめぐらされたり、
水をはって沼沢地のようにして、
建造物などを設けない、
もしくは取り壊すということをしたのかもしれない。

とにかく城というものは生き物だなあと思った次第。

おそらくこれらの発掘をすることで、
この城がどう攻められたか、
またその攻め方はその攻撃した側の常套手段的戦術なのか、
それともこの城のみの特殊なものだったのかも、
判明していくのだろう。

とにかく奥の深い作業であり調査だと痛感させられました。

できれは高尾山古墳も早い段階で市がこういう対応をしてほしかったです。

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興国寺城跡前の交差点から。車が駐車しているスペースは三の丸跡。

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本丸跡から天守台方面を臨む。

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北曲輪から天守台を臨む。

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三日月堀付近から堀1を臨む。

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今回発掘された障子堀。

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左上の人の大きさからみてかなり深いのがお分かりになるかと。

A07.jpg
本丸跡から二の丸跡、そして原の中心部と興国寺城通りを臨む。

以上です。

今回は天守台には登りませんでした。

前回上ったらけっこう高くて、
高所恐怖症の自分にはあまり得手な場所ではありませんでしたので、今回はパス。



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阿伊沢萬

あと五年くらいしたら綺麗に整備され憩いの場所になると思います。その頃に大河ドラマで北条五代みたいなものが放送されたらさぞや賑わうことでしょう。

middrinn様、soramoyou様、nice! ありがとうございました。
by 阿伊沢萬 (2018-03-15 20:11) 

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