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スタンフォードの「レクィエム」 [クラシック百銘盤]

「アイルランドのドヴォルザーク」ことスタンフォードが1896年に、
イギリスの偉大な画家フレデリック・レイトンの死を悼み作曲したもの。

初演は翌年10月6日に、
イギリスのバーミンガムで行われた。

四人の独唱者とパイプオルガンを含む大編成の曲で、
すでに5曲の交響曲と何曲ものオペラを手掛け、
円熟の境地にあったスタンフォードの19世紀における、
自らの音楽の総決算ともいえるような見事な出来となっている。


曲は全体的にかなり古典的ともいえるつくりとなっているが、
作曲者の心情をストレートに表出した、
それこそ思いの丈が真っ直ぐこちらに響いてくるような趣となっており、
聴くたびに冒頭から強く惹きこまれてしまうものがある。

またその響きがあるときはヘンデルのオラトリオ、
またあるときはRVWの合唱付きのようにとその音楽は多様で、
これを聴くとスタンフォードの故郷アイルランドで、
かのヘンデルのメサイアが初演されてから、
RVWの多くの作品が書かれた20世紀までの約二百年が、
まるでこの曲で過去から未来へ一直線に繋がれているような、
そんなかんじにさえ聴こえてしまうほどだった。

規模の点では、
ベルリオーズやヴェルディに匹敵するといわれているが、
決してあれほど劇的ではなく、
むしろじっくりと、
ただしこじんまりとしたり、聴きづらいかんじとは無縁の、
広大でシンプル、
そして聴き手にストレートに訴えてくる音楽がここにはある。

因みに同曲は以下にもUPされている。
https://www.youtube.com/watch?v=PfHi6rfHiEU

Stanford_requiem_8555201.gif

しかしこれだけの曲が埋もれてしまう原因がわからない。

おそらくスタンフォードという作曲家の知名度の低下とともに、
その作品もまた忘れられてしまったのだろう。


「ブラームスの亜流」だからだろうと、
その理由をいう人がいる。

亜流には
「学問・芸術などで、同じ流派に属する人。」

「一流の人に追随するだけで独創性のない人。まねるだけで新味のない人。」
という意味がある。

おそらく上の人は後者のことをさしているのだろうが、
はたしてそうだろうか。

スタンフォードのチェロ協奏曲や、交響曲第6番、
さらには6つの「アイルランド狂詩曲」(特に4番や5番)を聴いて、
確かに影響はあるものの、
そこに独創性も新味もまるで感じられないだろうか。


スタンフォードか忘れられたのは、
やはりエルガー、RVW、ホルスト、ディーリアス、ブリテン、
といった作曲者の出現が大きいのは間違いない。

このためスタンフォードやバリーは、
シューマンやブラームスといったヨーロッパ本土の音楽を、
イギリス本土に移植し後世に独自のそれを花開かせてくれたものの、
イギリス音楽の父のような扱われ方はされず、
エルガー等の出現までの過渡の存在としてその後方においやられ、
現在に至るまでその評価で固められてしまった。


だが現在それらの曲を聴いていると、
はたしてほんとうにそれだけの作曲家なのかと、
正直自分には納得できないものがある。


たしかにスタンフォードには

「惑星」「グリーンスリーヴスの主題による幻想曲」
「青少年のための管弦楽入門」「威風堂々」

といった誰もが知っている曲はない。

だがそれ以外、
それらの作曲家とどれほどの差があるというのだろう。

イギリスそのものでもスタンフォードはそれほどポピュラーではないという。

「アイルランド系はあまりなじまないのかなあ」

と思ったりもしたが、
正直やはりその理由は分からない。

ただCDが出、一部はYouTubeでも聴けるこのご時世。

これからはもう少し聴かれ、
そして再評価されるのではないかなという気もする。

今はそれを少しでも願いたい。


以上で〆。
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