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佐村河内事件に対して言う資格がないのにいいたい砲台します。 [佐村河内事件]

まあすでにいろいろと言ってるのになんだよと言われるかもしれないし、
あんたが言える立場かと言われるかもしれないけれど、
どうしても言いたいことがあるので今回は言わせもらう。

前回躊躇して言わなかった後悔というのもあるので、
いいたい砲台というタイトル通りここは言わせもらうことにします。

ただそれでも今回のはちと根が深いものがあります。
きついことも書いていきますので、かなりしんどいことになるかもしれません。
その点は最初におことわりしておきます。


正直言って佐村河内氏と新垣氏によってつくられた数々の曲、
それらに対して聴いていたほぼすべての人々は、
その曲のみを聴いていたという人はまずいないだろう。

かならずセットで佐村河内氏の「病」というドラマをセットにして聴いていたはずだ。

だがこれらは決しておかしなことではない。

多くの人たちがクラシック音楽を聴くとき、
そのCDを選ぶときや演奏会を選択するとき、
はたしてどれだけの人が曲のみで選択しているだろうか。

おそらくほとんどの人が、
演奏者や作曲家に対して、
各々が個人的にいろいろな情報や経験で蓄積された情報をもとに、
各種の要素をそれらに付加し選択しているはずだ。

チェコの指揮者のドヴォルザークなら間違いないとか、
戦争中の録音ならさぞやドラマティックだろうとか、
ショパンコンクールで優勝した人ならショパンは絶品だろうとか、
そんなふうにである。

つまり自分のそれらに対する「らしさ」を期待し選択しているということだ。

そしてそれらが裏切られる「ダメ」とか「不出来」のレッテルを貼る。
完全な自分だけの価値観と思い込みのみがその判定基準なのにです。

もちろんこんなことは日常茶飯事なので責められることではないし、、
どんな素晴らしい演奏でも聴いた人すべて絶賛するものなどありえない。

だがそれらと今回の佐村河内氏のそれとまったく関係ないと言えるだろうか。
その自分が受けた情報から「らしさ」を思いうかべ勝手にドラマを想像し、
そしてそのCDを買い演奏会に行くのとどこが違うだろうか。

情報の流された規模の大小や、
結果虚偽だったということはあったかもしれないけれど、
自分にはそこのところにあまり大きな差異を感じることができないでいる。

今回のそれはまさにそこのところが重要といえるだろう。

佐村河内氏はこれらのことを踏まえて、
それらの価値観や判定基準を各種のやり方で、
自分の思っている方向に向かせることを考え、
そしてそれを実行し実現させた。

事はそういう話なのではないだろうか。。

これがもし佐村河内氏が新垣氏とこれら作品を共作ということにして、
それらのことを最初からオープンにし、
自らの耳の事もあそこまではやらないものの、
その他のことはそのままあの形で行い演じていたら、
はたして今現在どうなっていたことだろう。

たしかにあそこまでの熱狂はなかったかもしれないが、
それでも週刊誌に暴露されることもなく、
未だにこれらのことが現在進行形で行われていたことだろう。

佐村河内氏にはたしかに耳の病気の疑惑等もあるが、
こと音楽に関しては、
やり方さえあそこまで度を越した虚偽を盛り込みさえしなければ、
多くの人たちもそれらの音楽で前向きな活力を得ていたことは間違いない。

それを思うと
果たして佐村河内氏の音楽に関してのそれは、
こと一部のやり過ぎ行為はともかくとして、
はたしてどこまで責めることができるのかということもある。

あの熱狂も聴き手の「らしさ」に対する勝手な思い込みが、
事をあそこまで大きくしてしまったことにつきるのではないだろうか。

佐村河内氏はそれこそ稀代の手品師で、
タネも仕掛けもあるやり方で私たちに大きな「夢」をみせ、
より強い「らしさ」を満足させていただけではなかったのか。

もちろんだからといって現実はよりどす黒いものがそこには存在し、
佐村河内氏は稀代の詐欺師となってしまったわけですが、
稀代の「手品師」とはじつは紙一重だったということも、
また言えないだろうかということだ。

このあたりは新興宗教におけるそれと似たものがあるが、
正直これはもう自己責任であり、
目が覚めたときにいかに自己のプライドを支えられるか、
そして金銭の損失を諦められるかという、
そこに対する個々のあがきだけが、
悲しい話ですが残されたといっていいのかもしれない。

残酷な言い方ですが最後はそんな結末だったといえるでしょう。


しかしそれにしても佐村河内氏のやり方は姑息だがうまかった。

曲をそのまま聴かせてしまえばごくふつうのいい曲だったかもしれないが、
それにいくつかの情報や要素を付加させることにより、
それをとんでもなく人を惹きつけるものにしてしまった。

しかもそこに人が音楽に託す要素のひとつである、
「未来への希望」や「立ち上がる力」などの高揚感を加えたのだから、
印象が悪かろうはずがない。

そしてさらに作曲家を「病」と闘う人間としてのドラマをつけ加えたのだから、
悪く言われる理由すらない。
ほとんど錦の御旗をたてて曲を掲げたようなものなのだ。

あのとき「病など関係ない、目の前にある曲だけで評価する」といった人が、
はたしてどれだけいただろう。

もちろんそういう人もいたことはいたが、
それもまた最後は己の価値観のみの判断であった人が多かったことを思うと、
じつは賞賛していた人とただ価値観が違ったというだけであって、
別に音楽を見抜く力があったとか、
そういう立派な話ではなかったのではないだろうか。


あたりまえだが音楽そのものには正義も悪もない、
すべては聴き手そのものにそれが届き、
その人の今まで培ってきた価値観や哲学と邂逅し、
そこで初めて音楽として人々に受け取られ、
そして自らの中でそれらが化学反応を起こすことにより、
各々にとっての正義(好き)や悪(嫌い)等となっていくのです。

ただそれだけのことなのです。

今回の佐村河内氏のそれは、
それが考え抜かれたものなのか、
それともただ単純に感覚的なものなのかはわかりませんが、
そういう音楽の本質というか宿命をうまくついていたこともまた事実。

たしかに金銭的もしくは精神的な損失を、
大なり小なり被った方も少なからずいると思いますが、
それが音楽のもつひとつの本質からきていることを思うと、、
悲しい物言いですがしかたのない話だと思います。

車はじつに便利なものですが事故を起こすリスクもある。
これと似たことだと自分は思います。

それを思うと今回の事件、
佐村河内氏が聴き手の「らしさ」に対する飽くなき渇望と、
音楽のもつ特長からくる長所と短所を、
じつに的確に利用したものともといえるでしょう。

しかもこれはクラシックだけに限らず、
音楽全体にも言える部分があるだけになおさらです。

これからは善意で行われるチャリティコンサートでさえ、
その裏を見透かさねばならないような、
そんなことが当たり前の世の中に、よりなっていくのかもしれません。


ところでここまで書いていて、
じつはさらにどうしても言いたいことがでてきましたので話題を強引に変えます。

それは佐村河内氏と新垣氏の、
この件の顛末に関する公表の仕方だ。

この二人のからんだ作品によって、
生きる力やこれからの希望を自分中に育んだ人たちが少ながらずいる、
この件に関しては上でもさんざん触れましたが、
それを思うと今回のあの公表の仕方は、
その人たちに対してあまりにも「人でなし」的な行為だったという気がします。

正直もう少し違うやり方があっただろうし、
もっと傷の浅い、よりそういう人たちに対して「やさしさ」を大事にした説明というのが、
自分にはもっと他にあっただろうという気がしてしかたがない。

これでは人としての思いやりがあまりにも無さすぎる。

あれでは騙されたということだけでなく、
自らの内側に生まれた希望や「力」というものまでをぶっ叩いた、
傷ついた人にさらにとどめをさしにいったようにすら感じられた。

二人で最後まで墓にもっていくという選択肢は無理としても、
多少の嘘はあってももっと聴いていた人を大切にしようとする、
そういう選択肢があのときほんとうになかったのだろうか。

自分が新垣氏の謝罪会見の時、
胸糞が悪くなった理由のひとつは、
そういう思いやりをまったく考えに入れなかった、
自分たちがすっきりして金が入ればいいという、
マスコミや作家のエゴのそれが強く感じられてしかたがなかったからだ。

しかもそういうことに疎い新垣氏を全面に立てての会見だっただけに、
余計そういうフォローなど無いものとなってしまった。
まあ多少お飾り程度には触れられていましたが…。

これでは錦の御旗をたてて曲を出し続けた佐村河内氏と、
彼らマスコミや作家とどんだけの違いがあるのだろうか。
いやこれまったく同じでしょう。
ただ攻守が単純に逆転しただけの話ですよ。

この謝罪会見で結局聴き手に対する救いというものが、
完全に断ち切られるということになった。
まさに彼の音楽に希望をもった人たちには、
さらになんとも情もへったくれもない結末とあいなってしまった。

だが話はここで終わらない。
なんと一部の評論家が自らの弁護に窮するあまり、
聴き手の多くを突き放すような発言に出たことだ。

つまり本来同じ被害者の側であるはずの評論家と聴き手の両者が、
まるで加害者と被害者のような関係になるようなことがおきてしまった。

これでは聴き手の多くが二次災害にあったようなものだ。

これをみたとき、
自分はかつてアメリカで激しい人種差別が起きていた時、
白人対黒人ではなく、黒人対黒人で差別問題が起きているという、
そういう悲惨な状況を知らさせたことを思い出した。

この原因が貧富や地位の差によって生じたことは言うまでもないだろう。
だがそれだけではなく出身地によってもそういうことがおきていたというのだ。

これは黒人の一部(一部というより多数ですが)が、
白人だけでなく一部の黒人からも差別されるという、
二重差別のような状況に陥っていたということを示している。

今回の一部評論家のしでかしたそれは、
まさにこの差別問題と同じような状況を形成してしまったのだ。
しかもおもいっきり上から目線爆発の者もそこにはいた。

しかもそれだけではなく、
評論家の間や演奏家の間、
いやそれらを含めた音楽関係者全体の間でもこういう形の亀裂が走っているという。
もちろんそれは表ざたにはなってはいないようですが…。

そしてもちろん聴き手の間にもそれはあるし、
聴き手と音楽関係者の間にもそれらは生じている。
特に聴き手と一部音楽評論家とのそれはかなり厳しいものがある。

確かに自分の弁護も大事かもしれないが、
起きてしまったことをとやかく塞ごうとするより、
傷ついた聴き手をなんとかサポートしようとする、
そういう考えというか良心というものが、
この人たちにはなかったのだろうか。

難しいお題目や後出しジャンケンは誰でもできるのですから、
発信力のある人が今の自分たちにできる最善のことを考えないで、
いったい今他に何をするの?ということなのです。

なぜ自分は騙されたのか、
それは何に起因しているのか、
そしてなぜこれだけの人たちが巻き込まれてしまったのか、
巻き込まれた本人がそれを精査し検証しないことには、
こういうことがいつかまた起きますよ。

自分はそういう意味で今回騙された評論家の多くが、
その責任の取り方を間違っていると思ってます。

反省だけではたんなる日記と自己満足であり、
傷ついた事故のプライドの修復行為に他なならない。

大事なのはそこをさらに踏み込み、どう前向きに対策をたてるかが、
これらの人たちの今なすべきことだと思いますが違うでしょうか。

(もちろんそういうことも含め真摯に悩みをうちあけている方もいます。)

そしてそれは後出しジャンケン的に、
そのとき騙された音楽関係者を糾弾している人たちにも言えることです。

責めるだけでそこから建設的な意見が出せないのなら、
それは騙された人たちと同じで、
けっきょくはやはり「躍らされている」ということにかわりはないのです。

ようするに手も足もでないで結果論のみに終始しているという、
己の無力と情けなさを露呈しているにすぎないのです。

マスコミは当初の予想通りこういうことのケアは何もなく、
すでに話は音楽とは関係のない耳の病と訴訟という、
もう音楽関係者やクラシック音楽愛好家のみなさんは、
「このあとはどうぞ勝手にやってくんなまし」の世界に行ってしまいました。

今、あのとき傷ついた聴き手や広島や震災の被災地の関係者の方は、
はっきりいってあの日以来何のフォローもないまま放置されまくってます。

じゃあどうすればいいかと言われればあれですし、
今から再度いろいろ言われても、
もういいという部分もあるかもしれませんが、
今回のことを精査し検証し、
そしてこれからをどうするのか、
そろそろみんなで考えてもいい時期に来ているのではないでしょうか。

ただ音楽で傷ついた人を癒すのもまた音楽であり、
音楽にはそういう力もあると自分は信じていますし、
だからこそ音楽はとてつもなく長い時代を生き続け、
世界で愛好されているのだと思います。

音楽にはたしかに最初に書いたように、
ひとつ間違うと脆い面ももってます。
ですがその脆さの原因がまた強さと鼓舞の源であることも事実。

このあたりを軸に何かいい考えと行動をぜひ起こしてほしいものです。

そうでなければこのままではちょっとあまりにも辛く救いの無い結末です。

音楽評論家や関係者がこのあとただ臭いものには蓋をし沈黙をまもるか、
もしくはただ自分の反省というきれいごとだけで終わらせるのか、
それは各々の勝手なのであまりとやかく言いませんが…、

ただ佐村河内氏に吐き散らされ傷つけられた現況を、
そのまま逃げたり知らんぷりしてるのなら、
もうそういう文筆業なんかやめちまえというのが自分の本音です。

あやまるだけなら自分の名前や看板にさらにキズがついても、
聴き手等のケアをするか、
もしくは今回の佐村河内氏のこのやり方を精査し検証しなければ、
また絶対同じことがおき、そしてまた同じように傷つく人たちが累々とすることでしょう。

鉄は熱いうちに叩けなのです!

ただもう正直かなり冷えてきてはいますが…、
でもなんか事を起こせ、事を抉れ、事を書け!、なのです。

違いますか?

正直、佐村河内氏に一本とられたままで悔しくないですかね。
せめて「第二の佐村河内」をうまないようにするためにも、
自分ならなんとかして一本とりかえしたいと思うものですが…。


以上で〆です。

脈絡の無い、ただただ長い文を読んでいただきありがとうございました。
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阿伊沢萬

けっきょく、いつまで後手にまわってるんだよ、ということなのです。つまるところ開き直りも反省も、自分を守るという、守備的なものでしかないのです。それを思うと、ここまで殴られてるんだからもういいだろう、という気持ちにふつうはなると思うのですか…。なれてないんでしょうか、クラシック音楽の文筆業の方たちは。eniguma様、teftef様、nice!ありがとうございました。
by 阿伊沢萬 (2014-03-30 00:32) 

畑山千恵子

この事件の発端となった「全聾の天才作曲家 佐村河内守は本物か」を出した野口剛夫は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを気取っているだけのアマチュアにすぎません。トロンボーンで音楽大学を受験したものの失敗、中央大学で哲学を専攻、大学院も修了、桐朋学園大学研究科まで行ったとはいえ、箔付けです。
音楽の基礎知識はない上、哲学を専攻しても哲学の基礎知識もないというお粗末さ、問題の文章を読んだものの子どもの作文で幼稚な内容でした。こんなものに「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」を出すようでは、日本のジャーナリズムの恥です。おまけにこんな幼稚な文章を「専門家」呼ばわりして騒いでいるようでは情けないものです。「佐村河内問題はなんだったのか」、「佐村河内問題とフルトヴェングラー」も幼稚な内容でした。「佐村河内問題を音楽会はどう受け止めたか」などと出したり、呆れたものです。多くの人々はこんな問題は相手にしていませんし、冷静です。
野口剛夫は某音楽団体機関誌編集長の地位を利用して私物化した挙句、某団体から追放となった曰くつき人物です。
by 畑山千恵子 (2015-11-21 21:36) 

阿伊沢萬

自分はこの本を熟読してないので何ともいえませんし、野口さんとも面識も関係もないのでそのへんからも何も言えませんが、日本のジャーナリズムは刺激と流にのみ敏感と言う気は自分はかつてからしています。

それにしても「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」ですか。これで今まで佐村河内氏を祀り上げていた自分達への免罪符としようとしているのなら、なんとも恥ずかしい話ではありますが。

畑山さま。コメントありがとうございます。
by 阿伊沢萬 (2015-11-23 21:25) 

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