大洗へ向かって(水浜線に沿って水戸から大洗へ)その2 [水浜線跡廃線の旅]
明治44年に出された、
押川春浪 の「本州横断 癇癪徒歩旅行」に、
「大洗水戸間三里の道は平々凡々」
という理由で横断を大洗からではなく、
水戸からにするということがここでは書かれていた。
その平々凡々の道を押川春浪の百年後に、
こうして自分が歩いているのをみたら、
押川ははたしてどう思ったことだろう。
…などと考えながら大洗への道を
水浜線のそれに沿ってさらに進む。
この木の付近に「谷田」駅があったらしいとのこと。
菊池神社がそばにある。
そしてこの場所の近くに境界杭があった。
このあとさらに水浜線に沿って歩こうとしたが、
なんと草茫々で歩けないところがでてきてしまった。
ここまで歩いたコースは以下の通り。
尚、地図上の数字は以下を示しています。
①ガーター橋(その1に明記)
②「谷田」駅跡と思われる場所。
③本来「谷田」からの道を抜けた後右折し、そしてその続きを行こうとしたところ。ほんとに草茫々でふつうの靴では歩くことなど絶対無理な状態でした。
しようがないのでしばらく並行して別の道を歩く。
田んぼの少し向こう側に緑の土手のような盛り上がりが続いているが、
あれが水浜線跡で、ほんとうは歩くはずだったところ。
しばらくして水浜線跡地に合流。
このあたりから駅間隔がかなり空いてくる。
おそらく当時は何もない田園地帯が続いていたのでしょう。
このあたりに「六反田」駅があったらしい。
この田んぼの左向こうに川がありそして51号が並行して進む。
「栗崎」駅。正直わからない。
グーグルの航空写真でみるとこの不思議な三角形の土地が、
ちょっとそれに関係しているようにもみえるのですが、
じっさいはこのやや水戸側に位置していたようです。
このあともひたすら歩き続けます。
「東前」駅。
あると思われた場所はおもいっきり私有地で、撮影は困難。
この道の沿線にあるとおもってください。航空写真も今回はパス。
ここまで歩いたコースは以下の通り。
尚、地図上の数字は以下を示しています。
①「六反田」駅跡
②「栗崎」駅跡
③「東前」駅跡
と思われる場所です。
このあたりはほんとうに駅間が長いです。
「東前」駅と同じ理由で東水戸道路下付近にある「大串」駅もパス。
地面だけ写しましたが、これじゃあ…。
この先に水戸市役所常澄図書館があるが、
水浜線はそこを突っ切るように走っていた。
そして玄関前広場を抜けると、また水浜線がはじまっていた。
このあたりよくみると、線路の盛り土の上をそのまま舗装したことがわかる。
大洗に向かってこの道は続きます。
この途中に「塩ケ崎」駅があったがこれまた私有地。
ただ正直ここまで来ると駅云々より、
水浜線跡がこれほど道路として活用されているのがうれしかった。
ここまで歩いたコースは以下の通り。
①「東前」駅跡※ただし当時の地図をみるともう少し大洗よりのような気がします。
②「大串」駅跡
③図書館を抜けて再度線路跡がはじまるところ。
④「塩ケ崎」駅跡
※駅跡はあくまでも推測もしくは「付近」と思われる場所です。
ここで51号に寸断されたあと、今度は農道として続く。
あとこの国道を渡るのには苦労した。
今度からはより手前の塩崎の交差点で渡ることになると思う。
歩道らしきものが他所にあるにはあるのですが…。
そしてこれも遺構だろうか。
かなりしっかりとしたつくりにみられた。
上空からみるとこのようになっている。
赤いラインの少し右を水浜線は走っており、
先の遺稿(①の左横)のようなものはほぼその軌道上に位置している。
このことからこれが水浜線の通り道に存在していたことはほぼ確かなようで、
これも水浜線の遺構のひとつなのだろうと思われる。
ここまでのルートは地図でふりかえるとだいたいこのあたりのことです。
①「塩ヶ崎」駅跡付近
②このあたりで線路跡から離れる。国道超えへ。
③国道をまたいでの線路跡続きの途中にあった橋のような遺構。
④「平戸」駅跡付近
このあたりまで来るとあきらかに心地よい海風を感じるようになった。
大洗までもう少し。
それにしても時間が予想以上にかかっている。
ここですでに三時間近く経過。
天気は完全に晴れ。
梅雨とは思えない天気となりました。
その3に続きます。
http://orch.blog.so-net.ne.jp/2013-06-30-1
押川春浪 の「本州横断 癇癪徒歩旅行」に、
「大洗水戸間三里の道は平々凡々」
という理由で横断を大洗からではなく、
水戸からにするということがここでは書かれていた。
その平々凡々の道を押川春浪の百年後に、
こうして自分が歩いているのをみたら、
押川ははたしてどう思ったことだろう。
…などと考えながら大洗への道を
水浜線のそれに沿ってさらに進む。
この木の付近に「谷田」駅があったらしいとのこと。
菊池神社がそばにある。
そしてこの場所の近くに境界杭があった。
このあとさらに水浜線に沿って歩こうとしたが、
なんと草茫々で歩けないところがでてきてしまった。
ここまで歩いたコースは以下の通り。
尚、地図上の数字は以下を示しています。
①ガーター橋(その1に明記)
②「谷田」駅跡と思われる場所。
③本来「谷田」からの道を抜けた後右折し、そしてその続きを行こうとしたところ。ほんとに草茫々でふつうの靴では歩くことなど絶対無理な状態でした。
しようがないのでしばらく並行して別の道を歩く。
田んぼの少し向こう側に緑の土手のような盛り上がりが続いているが、
あれが水浜線跡で、ほんとうは歩くはずだったところ。
しばらくして水浜線跡地に合流。
このあたりから駅間隔がかなり空いてくる。
おそらく当時は何もない田園地帯が続いていたのでしょう。
このあたりに「六反田」駅があったらしい。
この田んぼの左向こうに川がありそして51号が並行して進む。
「栗崎」駅。正直わからない。
グーグルの航空写真でみるとこの不思議な三角形の土地が、
ちょっとそれに関係しているようにもみえるのですが、
じっさいはこのやや水戸側に位置していたようです。
このあともひたすら歩き続けます。
「東前」駅。
あると思われた場所はおもいっきり私有地で、撮影は困難。
この道の沿線にあるとおもってください。航空写真も今回はパス。
ここまで歩いたコースは以下の通り。
尚、地図上の数字は以下を示しています。
①「六反田」駅跡
②「栗崎」駅跡
③「東前」駅跡
と思われる場所です。
このあたりはほんとうに駅間が長いです。
「東前」駅と同じ理由で東水戸道路下付近にある「大串」駅もパス。
地面だけ写しましたが、これじゃあ…。
この先に水戸市役所常澄図書館があるが、
水浜線はそこを突っ切るように走っていた。
そして玄関前広場を抜けると、また水浜線がはじまっていた。
このあたりよくみると、線路の盛り土の上をそのまま舗装したことがわかる。
大洗に向かってこの道は続きます。
この途中に「塩ケ崎」駅があったがこれまた私有地。
ただ正直ここまで来ると駅云々より、
水浜線跡がこれほど道路として活用されているのがうれしかった。
ここまで歩いたコースは以下の通り。
①「東前」駅跡※ただし当時の地図をみるともう少し大洗よりのような気がします。
②「大串」駅跡
③図書館を抜けて再度線路跡がはじまるところ。
④「塩ケ崎」駅跡
※駅跡はあくまでも推測もしくは「付近」と思われる場所です。
ここで51号に寸断されたあと、今度は農道として続く。
あとこの国道を渡るのには苦労した。
今度からはより手前の塩崎の交差点で渡ることになると思う。
歩道らしきものが他所にあるにはあるのですが…。
そしてこれも遺構だろうか。
かなりしっかりとしたつくりにみられた。
上空からみるとこのようになっている。
赤いラインの少し右を水浜線は走っており、
先の遺稿(①の左横)のようなものはほぼその軌道上に位置している。
このことからこれが水浜線の通り道に存在していたことはほぼ確かなようで、
これも水浜線の遺構のひとつなのだろうと思われる。
ここまでのルートは地図でふりかえるとだいたいこのあたりのことです。
①「塩ヶ崎」駅跡付近
②このあたりで線路跡から離れる。国道超えへ。
③国道をまたいでの線路跡続きの途中にあった橋のような遺構。
④「平戸」駅跡付近
このあたりまで来るとあきらかに心地よい海風を感じるようになった。
大洗までもう少し。
それにしても時間が予想以上にかかっている。
ここですでに三時間近く経過。
天気は完全に晴れ。
梅雨とは思えない天気となりました。
その3に続きます。
http://orch.blog.so-net.ne.jp/2013-06-30-1
常澄民の俺が来ました
色々なものが忘れ去られていく中、こういう記事はありがたいです
朝夕の電車道は、車と自転車(中学生)が行き交う交通路となります
一部区間は、51号が渋滞しているときの迂回路にもなってますね
ところで、②「栗橋」駅跡と書いてあるのは、「栗崎」ではないでしょうか?
by 常澄の民 (2014-07-31 01:43)
>朝夕の電車道は、車と自転車(中学生)が行き交う交通路となります
以前平日通った時、確かにそんな感じでした。自転車で行くにはたしかにいい道路ですね。あと名前は訂正をしました。ご指摘ありがとうございました。
by 阿伊沢萬 (2014-08-03 01:39)