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『桑島法子 朗読夜 ~cobaco.12~』雑感。 [朗読夜]

『桑島法子 朗読夜 ~cobaco.12~』第三夜
12月12日(水)ティアラこうとう 小ホール
B列24番

(朗読作品)
コバルト山地
鈍い月あかりの雪の上に
過去情炎
岩手軽便鉄道の一月
林と思想
雨ニモマケズ
稲作挿話
セロ弾きのゴーシュ (VC/五十嵐あさか)
松の針
※(VC/五十嵐あさか)
永訣の朝
原体剣舞連

今回は以上の作品を正味100分強、
休憩無しのノンストップで行った。

しかしキャパが小さい。
140名のホールと聞いてはいたが、
いざ実物をみるとこんなに小さいのかと少々驚いた。
舞台のつくりが少し東京文化会館小ホールに似ている。

朗読会というよりリサイタルという雰囲気に近い。

今回なんというか三日続きの馴れというものだろうか、
桑島さんのリラックス度がかなりピークに達していた。
とにかく喋りが長い、しかも面白い。
それになんというのだろう、
内容はともかく、とにかく間がいい。
例えると十代目小三治師匠の枕みたいなかんじだった。
下手するとほんとに「師匠」とよんでしまうかもしれない。
http://www.youtube.com/watch?v=cZRNNAoib5k
(小三治師匠。さそがにここまで笑いをとりにいってはいませんが。)

さすがに師匠のように枕が三十分超えるということは無かったが、
それでも最後はそれがらみで若干おしてしまった。

桑島さんの朗読夜というのはある意味ストイックというか、
ちょっとピリピリした感覚というものがそこにはあります。
それは心地よい緊張感といっていいのかもしれません。

ところがこの日はそのストイック感というのがあまりなく、
ピリピリした感覚というのもあまりなかった。
その分ひじょうに穏やかな雰囲気がこの日はありました。

そのせいか今回桑島さんのそれは
今まで聞いた中で最も緩急強弱の振幅が大きく、
しかも表情も極めて多彩かつ大きなものがありました。
それは気負ったというよりも、
より柔軟になったところからきたようなものという感じがしました。
ただそれでも細部に神経を細かく凝らしているところはあいかわらずで、
そのあたりが疎かにならないのは桑島さんならではという気もしました。

そしてそれらが「ゴーシュ」において際立ったというかんじがしました。

宮沢賢治の作品は読んでいると、
その書かれに文字の形によって表現しようとするものもあれば、
言葉となったときの響きとそこからくる視覚的な感覚、
さらには色彩感や質量感をともなわせることにより、
具体的にそれらをステレオ的ともいえる感覚で、
読者にそれらを三次元的立体感覚として、
さらには可能なことなら四次元的なものまでを、
読者に感覚として伝えようとしているところが多々あります。

賢治は無類の音楽好きでしたが、
彼はその聴いた音楽からただその響きだけでなく、
そこから感じられる形や色彩、さらには風景のようなものにも、
深く関心を抱きそして惹かれ感銘を受けていた節があります。

そのため賢治はその作品からその自分が音楽から感じた事象のようなものを、
すべて一度文字に転化し言葉に出すことにより
読者にそれらと同じような体験をさせるために
じつに巨大かつ多彩な手法をとっていることがあります。

しかも「ゴーシュ」はある意味もうひとりの賢治であり、
音楽と自分の対話を解説的ともいえるそれを、
童話として読むすべての人たちに、
さも賢治自身が音楽を聴いたときの追体験のようなものを感じてもらおうと、
ありとあらゆる手法を尽くした作品でもあります。

桑島さんはそんな「ゴーシュ」を
まさにその持てる手法の多くを動員して
奥行と多様を駆使し、視覚的ともいえる「ゴーシュ」を再現していました。

ところでこの日桑島さんの「ゴーシュ」における指揮者の団長の話し方のところ。
じつは「ゴーシュ」のこの指揮者の団長さんは、
かの小澤征爾さんの師匠にあたる斎藤秀雄氏の若き日のそれが、
じつはモデルではないかといわれているのですが、
なんか桑島さんのその話し方がどこかその斎藤先生を、
なんとなくですが想起させるところがありました。

かつて「鬼のトーサイ」とよばれ、雪の日に弟子が裸足で外におん出されたという、
練習も厳しいがそれくらい怒ると斎藤先生はもの凄く怖い先生でした。

ただそのためなのでしょうか、
あるとき指揮をしていたときその厳しい練習に怒った団員達が、
指揮者の斎藤先生を無視してバラバラになってしまったことがあったといいます。
そのときの斎藤先生は悔しさで唇を強く噛みしめ譜面台に血を滴らせたといいます。
それくらい激しく怖い方だったのですが
桑島さんのそれもたしかに童話の枠内での表現ではあるものの、
ひょっとして斎藤先生のことを多少イメージしていたのでは?
と思わせるものがありました。
しかも最後にゴーシュを誉めるあたりのそれも、
斎藤先生のもうひとつの姿である優しさを表出しているかのようで、
そのあたりもまたそう感じさせられるてしまうものがありました。

あとこの日はチェロの五十嵐さんも特筆すべきだったと思います。

例えばカッコウとのやりとりのとき、
チェロがかっこうの鳴き声にあわせてゴーシュが弾くチェロを模したときの音。
「ああ、そういえばベートーヴェンの第六交響曲の第二楽章ではかっこうが鳴いていたなあ。」と思わず感慨にふけってしまったものでした。

またある箇所でまるで先代の高橋竹山の津軽三味線を思わせるような、
そんなフレーズが一瞬やはりチェロから聴かれました。
「東北だ」と思わず聴きいってしまいました。

それにしても賢治の作品にこんなにチェロの音があうとは思いませんでした。
これは今回のとても大きな発見でした。
これは「ゴーシュ」だったからでしょうか。

そうなると「松の針」や「永訣の朝」はバイオリンなどもあうのでしょうか。
今回はこの二つの作品の間を五十嵐さんのチェロが繋いでいましたが、
聴いていてそんなこともふと考えさせられてしまいました。

「ゴーシュ」がある意味賢治が描く自らの肖像画であったのに対し、
続いて読まれた「松の針」や「永訣の朝」は妹トシの肖像画でもあります。

今回の桑島さんはそれらを表情は大きいものの、
どこか解説的とも達観的ともいえるように読まれていましたが、
それがまた先の「ゴーシュ」とうまくマッチしたようにも感じられました。

この日いつもの「原体剣舞連」のあと、
終演後ちょっとした観客席からの「贈り物」が桑島さんにありました。
本人もこれには舞台裏から急きょ再度登場し驚いていましたが、
このとき「クラシックだとここでスタンディングオベーションだよな」と、
最初立って拍手しようかとも考えたのですが、
「賢治の朗読でスタンディングってどうなのかなあ?」と一瞬考え、
けっきょく座ったまま拍手しましたが、
やっぱり立った方がよかったかなあと、ちょっと軽く後悔しています。

ところでこれは個人的なことですが、
じつは公演前日から高熱がひかず
「インフルエンザ?それともノロ?」と心配、
当日急遽病院に行ったのですが、
幸いそういうものではなく解熱剤をもらったもののなかなか体調が戻らず、
開演5分前まで外で薬を飲んだりしていたのですが、
終わったころにはすっかりと体調が元に戻っていました。

そういえば前回朗読夜で「原体剣舞連」の後、
近くにいた方が「これを聞くと元気がもらえる。」と言っていましたが、
まさにそのとおりになりました。
薬が効いたからだけだろうと言われれば、
それはそれでなんとも反論のしようがありませんが、
今回は桑島さんのおかげと自分ではそう納得しそして感謝しています。

それはさておき今回はとにかく今まで以上に桑島さんのもつ賢治感が、
ひじょうにストレートにより強く感じられたものとなりました。
それは大胆というよりも、
なんというかリラックス感からくる伸びやかさというものかもしれません。
「ゴーシュ」には特にそういうことがよい方に作用したように感じられました。

それにしても毎回ほんとうに桑島さんのそれは多くの発見があります。
次回は今年(2013)の春頃に予定がわかるとのこと。
まだ行かれていない方はぜひ一度行かれることをお勧めいたします。

「アニメの声優なんでしょ」
というだけでなんとなく避けてしまう方、
たしかにそういう面もありますが、
ひとりの舞台人がそのライフワークとして取り組んでいるその舞台、
一度見聞してからでも結論は遅くないと思います。

特に若い方は桑島さんのその歩みをこれからもぜひ一緒に紡いであげてください。

以上で〆です。


(追伸)


因みに本日地元江東区の方は2名ご来場、初日は0名、二日目は1名とのことでした。


本日ゲストのチェリスト&作曲家の五十嵐あさかさんの公式サイト。
http://www.geocities.jp/asakaigarashi_cello/

同じくTwitter。
https://twitter.com/asakaigarashi

とにかくこの日の桑島さんと五十嵐さんのチェロとの絶妙なコントラストによるコラボレーションがとても素晴らしかったです。できれば再演をお願いしたいものの、五十嵐さんが今年から本格的に南米に移住されてしまうので今後はちょっと難しいとか。残念です…。

最後に。

賢治は晩年敬愛する作曲家ベートーヴェンの特に後期晩年の作品を愛していたといいます。
そんなベートーヴェンの後期晩年の作品に後期弦楽四重奏曲集とよばれるものがあります。
それは弦楽四重奏第12番から第16番までの全5曲の弦楽四重奏曲をさしますが、
賢治はどちらかというとその主力は交響楽にありましたが、
晩年はこのあたりの曲にも耳を傾けていたのではないかと個人的には考えています。

そんな作品群のひとつである弦楽四重奏曲第15番。
その第三楽章には「リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」、
という題名が付されています。
ベートーヴェンが重病から回復したことによる神への感謝を表現をしたといわれている作品で、
ベートーヴェン自身が亡くなる二年ほど前につくられた作品です。
http://www.youtube.com/watch?v=FXiOrAwLlOA
(「リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」)

今回桑島さんの「松の針」や「永訣の朝」を聞いていて、
なぜかふとこの曲が気持ちの中に響いてきたものでした。

そういえば今年(2012)は賢治の妹トシが亡くなられてちょうど90年目にあたっています。


(12/14追加)

ある方から今回、桑島さんが随分今までよりミスが多かったような気がした。
という意見をいただきました。

個人的には自分はミスはあまり気にならない、
むしろミスを気にするあまり「流れ」が悪くなったり、
覇気が乏しくなる方がはるかに気になるタイプなので、
正直あまりそういうことに関心がありません。

まあこれは聞いている方の価値観や立ち位置の問題だと思いますし、
音楽でも日常茶飯事におきていることです。

これが録音セッションだとさすがに聞くたひに同じところでキズがあると、
些か気になってしまいますが、
これは一期一会の一回かぎりのライブなので、
とにかく自分はあまり気にも関心にもなりませんでした。

ただ若い時はそうでもなかったですけどね。
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