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「天空の城ラピュタ」を久しぶりにみて。 [スタジオ・ジブリ]

「ラビュタ」を久しぶりにみた。

ディスクが手元にあるとなぜかいつの間にか見なくなるのに、
こうしてテレビで放送されると律儀に観たり録画したりしてしまう。

「ラピュタ」に限らずけっこうこういう事が多い。不思議。

51mvIqLeiCL.jpg


「ラピュタ」は最初の30分で下へ下へと降りていき、
残りの90分をかけて上へ上へと昇っていくような作りになっている、
このため下りる三倍もの時間をかけて上っていく為なのか、
前半のジェットコースターのようなスピーディーな展開に対し、
やや後半ペースダウンしたように感じられような気がする。

ただ何度か見ているうちに、
このことにより引力の持つ重さを感じられるようになった。

今回も久しぶりにみてあらためてそれを実感できた。

本当によく計算されている作品と感心。

とにかく宮崎監督の当時の魅力が、
これでもかと贅沢に詰め込まれたこれは傑作だ。

ただいいことばかりではなかったようで、
ラピュタが映像商品として発売された時、
VCとLDしか当時発売されてなく、
VCはともかくLDが発売された時は、
LDは片面一時間が収録限度だったため、
この作品はギリギリ二枚組となり価格が高くなってしまった。

しかも二度にわたり盤の入れ替えをしなければいけないため、
VCに比べいくつかの点で不便が生じてしまった
当時の徳間の担当の方はけっこうこの事を気にしていた。


ところで「ラピュタ」の頃の時代は宮崎監督の作品に
「空を飛ぶ夢を追い続ける」姿勢が強くかんじられたけど、
先週放送された「ポニョ」には、
「空を飛ぶ夢を諦めた」雰囲気が感じられた。

それはかつての宮崎監督は自らの飛行目線だけでなく、
よくみられるこのアングル

GI01.jpg

やや下から丘と空を描いているお馴染みのシーン。

個人的に「高い丘のモチーフ」と勝手によんでるけど、
これなどは宮崎監督の空へのあこがれや、
その空を飛ぶ夢をのせた、
宮崎監督のベースとなる心象風景のひとつだと思っている。

だかこのモチーフが作品が新しくなるにつれ、
次第に抑制されていったような気がする。

「ポニョ」では空の占めるシーンが、
ずいぶん小さくなってしまっている。

また遠くの水平線や地平線、
もしくはそれに代わるものをみつめるシーンにも、
それらが強く感じられるが、
これらのシーンもやはり控えめ目になっていった。

というより宮崎監督の遠くをみる距離が、
だんだん遠くなくなってきているように感じられる。

宮崎監督の「千尋」以降に裾野の伸びやかさを感じられなくなったのは、
そういうところがあるのかもしれない。

それは作品が次第にファンタジー色よりも、
メッセージ性が強くなっていくことと関係があるのかもしれないが、
このあたりは正直あまりよくわかっていない。

とにかく「ラピュタ」をみていると、
後の宮崎作品により強く表出されたものと、
失ってしまったものが感じられた。


あと今あらためて思う事に、
「ラピュタ」では声優さんがまだ普通に使われていたし、
そこに不自然さも感じないということ。

その後は御存じのように、
宮崎作品から声優がある時期を境に急速に排除されていくが、
それは宮崎監督の絵の精度と密度が上がるにつれ、
絵の表情や表現力を補う事を主として発達した日本の声優のそれが、
次第に宮崎作品にとって余計な色付けとなっていったことも理解できた。

つまり宮崎作品は完成度が上がるにつれ、
より監督の色というものが強烈に隅々まで浸透し、
それと異質な色合い等をもったものは、
自然と排除されるようになってしまったという事。

それは同じアニメでも他の多くの作品とかなり違ってきて、
声優の個性や演技力が大きく反映している今のテレビアニメとは異なる、
そういうことを許さない、
監督のそれがすべてに最優先されるという事でもある。


そういう意味で宮崎監督のそれは、
多くのアニメが歌手の力を大きく必要とする「オペラ」であるのに対し、
指揮者の意図の方が歌手のそれより大きくものを言う、
それこそ「オラトリオ」や「劇的交響曲」といっていいのかもしれない。


それは以前も言ったけど、
トスカニーニのNBC時代におけるオペラ録音とも共通している。

かつてイタリアの大指揮者トスカニーニが
その晩年オペラを演奏会形式で録音したとき
たしかに会社の権利関係があったものの、
名のある大歌手をあまり起用しなかったことが多々あった。

それはトスカニーニが妥協無き指揮者であり、
歌手のスタンドプレーを許さず
音楽そのもののもつ力と自分の音楽に絶大な信頼を寄せ
自らの巨大な世界を築ききっていた事が理由としてあるけど、
その姿勢は宮崎監督のそれとかなりの共通点がある。

またそのときトスカニーニが指揮したオーケストラ、
「NBC交響楽団」はトスカニーニの為に創設されたオケで、
これもまた宮崎監督とジブリの関係と通じるものがある。

宮崎監督の今世紀に作られた作品の特色と、
何故声優を使わないかという事は
これがいちばんいい例であり理由のような気がする。

と、そんなこともまた、
この「ラピュタ」をみてあらためて強く感じられた。


ただそれじゃあ映像技術がこれからもあがっていくと、
今の「声優」はいらなくなるのではと思われるかもしれないが、
それははたしてどうだろう。

おそらくアニメの幅が広がるのと同じように、
声優も幅広いスタイルを要求されていくような気がする。

もちろんそれは個人個人の枠をも超えてくる場合もあるため、
さういう場合はいろいろと各自の持ち場も、
そのスタイルによって決まってくるような気がする。


以前あるベテラン声優さんが今の声優は個性が無いと言っていたが、
各自の個性をかならずしも必要としない局面も、
これからはいろいろと増えてくるような気がする。

もちろん個性を要求される場合もあるけど、
その個性の要求のされ方もまた多様になっていくのかもと
そんなことも「ラビュタ」みてあらためて思った次第。


とっちらかった内容ですがこんなところで〆です。

※一部ツィッターに書き込んだものも含めて再構成したものも落とし込んでます。
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