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聖地巡礼についての雑感。その1 (長文です) [聖地巡礼(Seichi Junrei)]

最近彦根と豊郷に行った。

彦根は彦根城、
豊郷は豊郷小学校旧校舎群をそれぞれ観に行った。

その後豊郷で「聖地サミット」に行き、
そこで基調講演を受けているときちょっとした疑問を感じた。

ここで最初にお断りしますが、
自分はコンテンツツーリズムとかコンテンツ史とか、
そういう難しいことは全然わからない人間です。
そんな素人が感じ考えたことという事で以下話は進みます。
ご了承ください。


彦根城と豊郷小学校旧校舎群を観に行くという行為。
これそのものはどちらも「観に行く」=「観光」であることに変わりない、
ではなぜ豊郷に行くそれは聖地巡礼とよばれ、
おとなり彦根に行くそれは観光になってしまうのか。

どちらも歴史的文化財であることは変わりがない。
もし違いがあるとすれば、
豊郷のそれに「けいおん」というアニメのそれが付加されているくらいだろう。

では「けいおん」を意識して豊郷に行く人のそれは聖地巡礼なのに、
それを意識せずただ豊郷の文化財を観に行こうという人の行為は、
聖地巡礼のアニメファンとやっている行為がほとんど変わらなくとも、
それを聖地巡礼とはよばないのだろうか。

ここのところが妙に気になってしまった。

このとき聖地巡礼というのは行動行為を単純にさすのではなく、
その人の動機と目的意識を含んだ包括的なものをさすものではないのかと、
当たり前のことが今になってやっとこのとき実感できた。

つまり同じ行為をしていても、
そこに「アニメ」のそれが付加されているかどうかで、
それが定義づけされるか否かが決まってくるということです。

ということは「聖地巡礼」は「観光」という巨大ジャンルの中で発生した、
「内面的」なものを基準とした観光内ジャンルということなのかなと、
このときふと思ったものでした。


ところでこれはじつに私的な感覚のもの言いなのですが、
「聖地巡礼」がかつての「アニメブーム」や「声優ブーム」のように、
明確な「ブーム」とよばれることなく、
自然発生的というか自然成長的な発展をとげたように、
じつは個人的に感じています。

これは前述した「聖地巡礼」が「観光」という大きなジャンルの中で発生したということと、
目に見える部分だけではなく、
内面的な付加が行動に加わるか否かというものがかかわっているため、
実感や実態が一般には前述したふたつのものより、
認識が明確になりづらかった部分が少なからずあるのではないかということです。

おそらく実際の聖地巡礼とよばれている行為は、
このことからこちらの想像する以前から、
けっこういろいろな場所で行われていたのかもしれません。

そして近年これらが明確になったように感じられたのは、
アニメが聖地にしている場所の特長が、
近年顕著になってきたことがあげられるのではないかということが、
ひとつあげられると思います。


それはふつうの観光の対象とは一味違う、
そんな場所が目だって登場してきたということです。


最近アニメで聖地とよばれている所をみると、
全体的にみてマイナーな所が選ばれている傾向があります。

例えば京都を舞台にした「有頂天家族」や「たまこマーケット」も、
京都の名所の中ではとびきり有名という場所ではない。

大洗だって茨城ではともかく全国的にはトップクラスというわけではない。

開拓されつくしたところよりも、
いろいろといじり甲斐のあるところ、
もしくは日常の雰囲気を色濃く残した景色が選ばれているということです。


つまりいろいろとアニメによって付加されたことにより、
訪問者がさらにいろいろと想像を付加できる余地があるような、
ある意味シンプルな場所、
もしくは「原石」のような要素が多い所が選ばれているといっていいでしょう。

北大の山村さんが「妄想にひたれる場所」と述べられたのは、
まさにその証明といっていいでしょう。

逆に言えばあまりにも開拓されつくしている所を聖地にすると、
一時的にはともかく長期に持続できづらい傾向にあるのは、
山村さんのいう「妄想にひたれる場所」ではないということなのかもしれません。

鎌倉や江ノ島が舞台になったアニメをここ数年よく目にするが、
一年以上その勢いがもった場所を自分はあまりみたことがない。

これもそんなあらわれなのかもしれません。


ただこれらの場所はアニメに頼らなくともやっていけるし、
むしろ手一杯になってそこまでかまってられないという、
そういう部分もあるように感じられたこともある。

これは冷たいともいえるが、
逆にいうと放送終了後の落ち込みによるダメージを受けないための、
しっかりとした計算もそこに働いているように感じられる。

その結果が一年経つとじつに綺麗に片付いてしまっているという、
そういうことに繋がっているのでしょう。

これはこれで長年観光地として培ってきたノウハウと、
熟練の勘所によるものなのかもしれません。

そしてこのことを思うと、
アニメ聖地の一部に番組終了後の対応が拙いというのも、
その聖地がそういうことに慣れていないということのあらわれであり、
だからこそアニメ聖地に選ばれたのかと、
妙な形で納得させられるものがありました。


ところで自分は聖地巡礼と声優に対するそれの基は同じと言う、
そういう考えがあります。

つまりともに仮想世界と現実世界との鎹(かすがい)となる部分にあたり、
そこを介し現実世界のファンが、
仮想世界のアニメを現実のものとして体感できるという、
そういう役割を担っているということです。

あまりいい例ではないかもしれないけど、
神様や仏様をアニメに例えるなら、
神社や寺院は聖地であり、
神官や僧侶は声優という、
そういう感じの立ち位置にあるといえるでしょう。

声優に必要以上の潔白や純潔性を求める傾向が一部にあるのは、
そういうところが作用しているのかもしれません。

また聖地がすでに観光地として盛大に色付けされてしまっているところより、
まだ手つかずの「無垢」な感じがより残っているところが選ばれているのも、
そういうことのあらわれなのかもしれません。

それだけに聖地の扱い方はシンプルに徹するのが吉というもの。

あくまでも自分達聖地のもつ素材を、
「粧う」ことなどせず「磨く」ことに心を砕くべきというところでしょうか。

神社や寺院におけるおみくじやお守りの売り方扱い方、
さらにはそのまわりの商店の趣や雰囲気づくり等などは、
これから聖地をつくる街のひとつの参考になるかもしれないし、
それを思うと鷲宮の成功がひとつの基本や雛型となり得たことや、
それが埼玉県全体に上手く横にフィードバックされたことは、
たんなる奇跡や偶然ではなく、
神社等のもつ特色による極めて自然な流れであったのかもしれません。

このあたりはすでに山村さんの論文でも触れられているようですが、
自分はそこにあえて声優のそれも少し付加し述べてみました。


あと聖地によっては、
アニメファン兼鉄道ファンの鉄道の部分や、
アニメファン兼歴史ファンの歴史の部分を呼び起こすような、
そんな他ジャンルとの邂逅にも繋がっていくようなものが、
その聖地にある場合もあります。

聖地となった受け手の中にはここの部分に期待し、
アニメ聖地としの鮮度がおちたとしても、
他のジャンルの「聖地」としてその価値を維持し、
地元の振興に役立てようと考えている部分があります。

これはアニメ聖地の受け手側がアニメばかりを意識しすぎ、
それにばかりに媚びてしまうことをせず、
特産品や街の名所旧跡等も紹介しているのは、
そういう部分のとっかかりを求め、
「聖地巡礼」という観光の一ジャンルだけではなく、
観光全体の受け皿に脱却するための、
ひとつの手順や段取りといっていいのかもしれません。

ただそうなるとそこはもう「聖地」ではなく、
色付けが盛大についた観光地になってしまうことのではないかと、
そう思われる方もいらっしゃると思います。

ただ最初にもいいましたが、
「聖地」は場所ではなくその人の動機と目的意識が無ければ成り立たない、
いわゆる内面的なものがそれを左右することを思うと、
それは「聖地」そのものがなくなるのではなく、
聖地と認識していたその土地の質的もしくは表面的変化によって、
その人の心の中から「聖地」という価値が消去されただけといっていいと思います。
(これは「アニメ」というジャンルだけでの性質ではもちろんありません。)

ここのところの聖地巡礼するものと聖地側の受け手のものとの微妙な感覚の問題が、
うまくコントロールされるか否かで、
聖地が長期に渡りその価値を巡礼者にもたせられるかどうかが分かれてくると思います。


とにかく聖地巡礼は自分探しの内面的な旅という要素ももった、
自分再発見のための棚卸の旅といえると思います。
(もっともただノリたいという動機もあるとは思います。)



ところで話は変わりますが、
人はある音楽を聴いた時素晴らしいとか面白くないと感じます。

この面白くないと感じた時、
その理由はいったいどこにあるのかと考えると、
自分と曲との価値観や感性、
それに人生哲学との差異によって生じる、
その曲に対しての否定的な感覚が投影され、
よって面白くないと感じられることがわかってきます。

つまりこの差異というか影こそが自分自身の姿の一部であり、
自分の感性や哲学を形成しているものの実態の断片なのですが、
聖地でも同じことで、
その場を訪ねる事により同じことが自分の内面に生じ、
音楽を聴いたときと同様な感覚を受けることがあると思います。

そんなとき「はてこの感覚はいったい何だろう」などと考えていくと、
そこに自分の「聖地」に対する感情、価値観、期待感、
「聖地とはこうあるべきものなのでは?」というもの、
そしてその「聖地」をつくる元となったアニメそのものに対する想いが、
個人個人にいろいろと湧き上がってくると思います。

特に音楽と同様、
気に入ったものより、気に入らなかったものとの邂逅の方が、
それをよく実感できるのではないかと思います。

そういう人間臭い自分自身への反応を思うと、
ほんとうに「聖地巡礼」というのは内面的なものなのだと思いますし、
山村さんの言う「自己の再認識」のそれなのだなあと思った次第です。

もっともこれは巡礼者だけでなく聖地側の人間も同じで、
地元の魅力や欠点を再認識再発見させられるのも、
つまるところそういう部分が大なんだろうなあという気もします。

「聖地巡礼」というのはそういう意味で、
観光と聖地巡礼との外面的な差異のようなものが、
地域や場所によっては最初あまり明確にみえないけれど、
時間が経つにつれ顕著化していく動きや数字的な結果、
そして自分の内面的な事柄や変化がかなりはっきりみえてくるという、
なかなか不可思議な「生き物」なんだなあと、
あらためて痛感させられた次第です。

このあたりはいろいろとすでに考察され書籍にもなっているようですが、
自分であらためてそのあたりも重複覚悟でいろいろと再構成した次第です。

このありたはまだいろいろと個人的に勉強していくことになると思います。

あとメーカー主導の聖地形成の是非とか、
一般住民と聖地はほんとうに共存できているのかとか。

このあたりもいずれは触れなければならないのかもしれません。

311で被害を受けた漁村におけるボランティアのそれをみせてもらったとき、
ボランティアの方々がおっしゃっていた苦悩と行き詰まり感をお聞きしてから、
特にこのあたりはひっかかるようになりました。

聖地巡礼にボランティア的なものを持ちこんだときの危険といっていいのでしょうか。

もしくはそういう気持ちから派生した傲慢な行為と親切の押し付けみたいな。


とにかくなかなかいろいろとあります。
まあこのあたりも山村さんがなんとかしてくれるでしょう。


…と最後はすべて山村さんに下駄を預けて〆。


(余談)

豊郷アニメサミット基調講演後初めて山村さんとお会いした。

印象として非常に情報処理に対する動体視力(的)の凄さと、
フットワークの軽さというものを感じた。

講演のときあれだけ話を硬軟とりまぜてテキパキ話され、
場内を飽きさせないのもそういうことからくるメリハリのつけと、
話の順序と構成の寸法の取り方が上手いからだろう。

90分も人を飽きさせないというのは正直至難の業だと思う。
沼辺信一さんのディアギレフと大田黒の講演とはまた違う見事さだった。

本当は後半の分科会も出たかったけど、

この基調講演を行った講堂がじつに寒かった。

途中から暖房が少し入ったものの時すでに遅く、
完全に風邪がぶり返してしまった。

このため昼の休憩時に退出し帰路につきました。

帰り河瀬駅までの徒歩、
暖かい日差しを背中いっぱいに長時間浴びつづけたことで、
その後大分回復したもののあれには正直まいりました。

それにしても豊郷の空はほんとうに広く高かったです。

011.JPG

そういえば秩父、鷲宮、大洗、とみな空が広い。

アニメの聖地って空が広いこともけっこう大事な要素なんだなと、
この帰り道にひとつ感じました。

というか、
自分がいろいろと想いを繰り広げる事のできる伸びやかなスペース、
もしくは自分がしっかりと存在できる確実なスペース、
そういうものがしっかり寸法がはかられている場所、
そんなところもまた巡礼者の内面を開放し再認識できるという意味で、
聖地にとって大事な要素なのかもしれません。


以上です。


山村さん(山村高淑教授)のサイト
http://yamamuratakayoshi.com/

かなり話がとめどなくとっちらかってしまい、
分かりにくいところもあると思います。

そのあたりは自分の力不足ということでご容赦ください。

長文お付き合いいただきありがとうございました。
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コメント 2

sas

いつも思うんですが聖地巡礼って映画とか古くは小説とかでもやってたのに、なんでアニメになったとたんに悪者扱いなんですかねえ・・・
アニメのロケ地見に行ったっていいじゃんと思います
歴史小説読んで城跡見に行くとかはおおーってなるのに・・・
by sas (2015-08-07 00:11) 

阿伊沢萬

かつてロックをやったり聴いたりするのは不良、さらに昔はジャズは腐った音楽と言われていた時代がありました。アニメはまさに今それらと同じ時代を通っていると思っていいと思います。

こちらが必要以上に卑屈になったり、また常識を外れるような行為を慎んでいけばこういうことは時代が解決してくれると自分は思ってます。

コミケなんか以前はもっと閉鎖的に扱われていましたし、劇場でかかるアニメの多くが深夜枠でやっていたもののそれだと思うと、かつてに比べると確実にそういう風潮は少しずつですが薄らいでいると思います。

あせらず気長に、ただしこちらもいろいろと考える事を怠りさえしなければ、いずれそう思われることはなくなっていくと思います。

これもひとつの過渡期ならでは出来事といえると自分は思ってます。
by 阿伊沢萬 (2015-08-08 01:45) 

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