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のだめ徒然草その7 [のだめ徒然草]

今回もまた引き続き「英雄」の練習とそして本番だった。

もう曲についてはグダグダと前回書いたのであれなのですが
今回は演奏について。

演奏というとなんでもかんでもスコアどおりというふうに受け取られかねないが
実際そんなことしてしまうと
かなりよったりの演奏ばかりになってしまう可能性がある。

だが実際は「英雄」だけでも演奏時間の違う録音が山のようにある。
ぶっちゃけていえば
指揮者が速度記号に対して百人百様の解釈をし
さらにはテンポの変化や音の強弱も各々の人生経験?に基づいて
これまた百人百様の解釈をしている。

さらにオケの音質や音色や音程の違い
ホールの響きの差
そして今と当時の楽器の違いをそのままにするか
はたまた今の楽器に即したものにするか
即しながらも当時の再現をするか
徹頭徹尾原典回帰をするか等々…

とにかくいろいろな事が山のようにでてきてしまい
最後は指揮者の考え(拡大解釈といっていいのかもしれない)で決まるため
指揮者の数だけ「英雄」があるといった感じになってしまう。

しかも指揮者の中には上記の理由、もしくは自分が正しいと思った理由等で
場合によっては楽譜を変えたり楽器を変更したり追加したりと
かなりいろいろなことを行っている人もいる。
(かつてオランダでひとつのオーケストラのシェフを半世紀務めた大指揮者が
 若き日に「田園」で大太鼓を追加し「嵐」の部分で使用したことがあったとか。
 さらに19世紀にはベートーヴェンの交響曲第7番を指揮した指揮者の中には、
 第二楽章を同じベートーヴェンの交響曲第2番のそれと勝手に差し替えて演奏した、
 そんな指揮者もいたらしい。これに至っては?印がでっかくつくところではありますが…。)

それを考えたらヴァイオリンをああやってあげるのも
たしかに普通ではありえないし、やっても顰蹙ものかもしれないが
やったら違反かというとそういうわけでもない。

実際「英雄」ではないが
レナード・バーンスタインが最後に来日し
札幌で世界中の若い人達で結成されたオケを指揮したとき
シューマンの交響曲第2番の第二楽章の終盤の急速なところで
いきなり第一ヴァイオリンを全員立たせて演奏させたことがある。
これはかなり爽快だったしカッコよくきまったこともあり
楽章間という曲の途中であるにもかかわらず、観客から拍手だけでなく歓声すら起きていた。
(これはTV放送やビデオで発売されたこともあるのでご覧になった方もいらっしゃると思います。)

ただし度胸はいる!

じっさいマーラーの交響曲第1番「巨人」では
作曲者のマーラー自身が
最終楽章の終わりでホルンを全員立たせて吹かせるということを指定しているが
これを皆守っているかというとそうでもない。
たしかに効果満点なのだが
指揮する方もオケの方にもたまにそこに恥ずかしいものを感じるのだろうか
この指定を無視して座ったまま演奏してしまうものもある。

まあこのへんはなかなかむつかしいし
心情的な問題もからんでくるのだろう。
またそんなことしなくても音楽の内容だけで勝負できるという
そういう鉄の信念のようなものから来る場合もあるので
このあたりをしなかったからといって一概に責めることなどできない。

ただ何にせよ千秋があれをOKしたことにより
学内コンサートということもありますが
度胸も半端ではないということを見事証明したということは確かなのでしょう。
まあ百人近い大所帯を人前で指揮するのですから
その時点ですでにかなりの度胸を証明しているという気もするのですが…。

とにかく指揮者という人種は半端じゃない度胸と自信が無いとやっていけない、
ということはお分かりいただけたのではないでしょうか。

それにしても来週はラフマニノフ。
この人のピアノ協奏曲第2番は名曲なのですが、なんといいますか…

…とにかく手のデカいピアニストが名曲を書くと苦労する人続出です。
このあたりの話はまたということで今回は〆です。

しかしあいかわらず文脈がでたらめだ。
少なくとも自分のような人間が指揮したらオケは途中で空中分解確定です。


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