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宮崎駿監督が長編映画から引退 [スタジオ・ジブリ]

アニメ映画「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」などで知られる宮崎駿監督(72)が、公開中の最新作「風立ちぬ」を最後に、長編映画の製作から引退することが1日、明らかになった。イタリアで開催中のベネチア映画祭で行われた公式会見の席上で、宮崎監督が所属するスタジオジブリの星野康二社長(57)が明らかにした。

 [2013年9月1日21時17分]

http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp1-20130901-1182606.html

他にも

 【ベネチア=安斎耕一】日本を代表するアニメ映画監督の宮崎駿(はやお)さん(72)が、第70回ベネチア国際映画祭のコンペ部門に参加しているアニメ「風立ちぬ」を最後に引退する。9月1日午後(現地時間)にベネチアで開かれた公式会見で、スタジオジブリの星野康二社長が明らかにした。

「若すぎる引退」惜しむ声

 記者会見の最後、星野社長は「世界に大変友人の多い宮崎駿に関しての発表をします」と切り出し、「『風立ちぬ』を最後に、宮崎駿監督は引退することを決めました」と話した。宮崎監督本人が6日に東京都内で記者会見する予定という。星野社長は「くれぐれもよろしく」との宮崎監督からのメッセージを披露した。記者会見まで引退に関する質問は一切受けないという。

 宮崎監督は1941年、東京生まれ。79年「ルパン三世 カリオストロの城」で映画初監督を務める。85年スタジオジブリ設立に参加した。「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「崖の上のポニョ」など、数多くのアニメ映画を送り出した。2001年公開の「千と千尋の神隠し」は、日本映画の興行収入1位を記録。ベルリン国際映画祭金熊賞、アカデミー賞長編アニメーション賞を受賞した。05年にはベネチア国際映画祭の栄誉金獅子賞を受けた。
http://www.asahi.com/culture/update/0901/TKY201309010145.html?ref=rss4&ref=other

なんとなくですが嫌な予感はしてたんですよね。
ただ縁起でもないのであえて言わなかったんですが…。

ジブリはこれからたいへんだ。


それにしてもどっちなんでしょう。

長編引退? 完全引退?

今回のこれに、
監督の健康問題が絡んでなければいいのですが…。

今週の6日に記者会見があるようなので続報を待ちたいと思います。


※宮崎駿監督「公式引退の辞」(9/6)
http://orch.blog.so-net.ne.jp/2013-09-06
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「NHK宮崎駿スペシャル『風立ちぬ』1000日の記録」をみて。 [スタジオ・ジブリ]

本放送をうっかり見逃したので再放送をみた。
http://www.nhk.or.jp/professional/2013/0826/

結論からいうとこの「風立ちぬ」は
宮崎監督のポートレイトだったんだなあということ。

つまり

「世界のどこにもない飛行機をつくろうとした男」の話を
「世界のどこにもないアニメをつくろうとした男」が描く。

ということだ。

ただ違うのは雄弁なのか寡黙なのかの違いくらいだが、
堀越も飛行機のこととなると俄然雄弁になる。

今回、前回の「ポニョ」のときほど、
監督が激しく苛立っているという印象があまりなく、
むしろもうひとりの自分をみつめたときにおきる、
自分に対しての複雑な感情を、
作品に対してどうそれを投影させるかという悩みの方が、
こちらには強くかんじられてしかたがなかった。

ラストシーンがあっさりと終わったのは、
まだ宮崎監督自身が自分の人生を描いている最中だということもある。
と、そのためこのときふと思ったものだった。

そしてこの「風立ちぬ」で随所に描かれている「風」の姿。
その「風」こそじつは宮崎監督自身の姿であり心象風景ではないのかと、
そんなふうに感じられたりもした。

今回この映画に対して賛否両論が起きているが、
きっと「賛辞」をおくってい人は、
宮崎さんをよく知りそして愛してる人なんだろうなと、
そんな気もしたものだった。

そしてさらにそれは宮崎監督の「零戦」に対する感情と
「アニメーション」に対する感情とが交錯しているような、
そんなふうにも感じられた。

とにかくそこにはなんともいえないものがある。

そんな感想をもちました。


あと声優の選考だけど、
まさかあれがすべてということはないだろう。

もしそうだったらあまりにも絵に対しておざなりにすぎる。
やはり宮崎さんは交響楽の人であり、
宗教音楽の作り手ということだったのだろうか。

ただ庵野さん。

やっぱあらためてみても、
やはり声といい風貌といい、どこか小山田宗徳さんを感じさせる。
声的にはこれでよかったのかなという気がするし、
じっさいインテリな雰囲気もただよわせている。

小山田さんはヘンリー・フォンダや、
ソ連版「戦争と平和」でのピエール役の吹き替えをしていた。
堀越役の庵野さんとどこか接点がそういう意味であるのかもしれない。

それも今回なんとなく感じられたものでした。

今回は少ない感想ですがこんなところです。

それにしても今回のドキュメント。
映画同様、どことなく静かなつくりでした。

しかしこういう実在の人物を扱った映画って、
いいとか悪いとか言えないんだよなあ…。

以上です。
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「岡田斗司夫のジブリ塾特別編「風立ちぬ」を語る。」を読んで+1 [スタジオ・ジブリ]

「岡田斗司夫のジブリ塾特別編「風立ちぬ」を語る。」

を読んだ。
コミケで有料配布されていたもので、
気になってちょっと読んでみた。

当然以下ネタバレ全開です。

そこには自分でその原因がわからなかったことや、
どうでもいいと無視してしまったこと、
そして気が付かなかったことがいろいろと書いてあり、
なかなか楽しく読ませていただきました。

某所にその概が要約されていた。

・次郎は飛行機であれ女性であれきれいなものにしか興味がない人間で、ある種非人間的
・きれいな女の人が登場する度に必ず目で追っている(2回見て確認したらしい)
・次郎が最初に惚れたのは女中。学校に荷物が届けられた時に思い浮かべる幻影が女中だった
 菜穂子はそれに気付いていて、森の入口にパラソルとカンバスを置き、誘い込む駆け引きをしている
 その帰りに「女中は嫁いだ」というのも自分に振り向いてもらうため
・次郎が興味があるのは「美しいもの」だけ。飛行機だけの話じゃなく全般的にそう
 次郎は菜穂子に「きれいだ」しか言わない
・次郎が送った菜穂子への手紙には、菜穂子の身を案ずる文は三行だけで、あとはずっと「美しい飛行機作り」の話
 (ちなみに原作漫画には次郎からきた手紙を「仕事の話ばっかり」と捨てる菜穂子の場面がある)
・菜穂子は次郎のきれいなものしか愛さないという性質に気付き、
 サナトリウムから出て自分のきれいな姿だけを見てもらう決心する
・そんな次郎を上司や妹が「エゴだ」と責めている場面がちゃんとある
・九試が完成したさいに風が吹いて菜穂子の死を知らせるのは、つまり菜穂子の犠牲があって飛行機が完成したことの暗喩
・この映画は決して美しい恋物語ではなく、創造的人生の持ち時間10年で、仕事を完遂させるには
 犠牲が必要で、女性はそれを諦観の面持で付き合うしかない
・一見は美しいだけの話に見えるが、上記のような残酷さが裏に潜んでいる
・宮崎駿最高傑作であり、98点

とのこと。

あと声優の庵野さんのあれも、
二郎の性格そのものを如実に表出するためには最適だったと言っているところもあった。

これらだいたいは同意できるものでしたが、、ただ

>菜穂子の犠牲があって飛行機が完成したことの暗喩

のところはちょっと感覚的に違和感がつきまとうので、
このあたりは今度みたときでもまたゆっくりと考えてみたいと思う。

それと庵野さんの声ですが、
岡田さんのそれを読んでいたら、
庵野さんというより、主役の二郎の声ですが、
庵野さんでも、糸井重里さんでも、神木隆之介さんでも、
正直誰でもいいような役にすら感じられてしまった。

ひょっとすると主役にはそういう過去の誰の声でも替えがきいてしまう、
つまり全体に共通している何かがあるのかもしれません。
特に最近のジブリ作品にはそういう部分が多い気がします。
偶然?

とにかくそれ以外は「なるほどねえ」という感じで読ませていただいたし、
特に女中さんに気持ちがいってたのは自分も感じていただけに、
同じ意見の人がいたということでちょっとにんまり。

あと「目で女性を追う」仕草は気付かなかった。
これにはよく見てたなあとちと感心。

それにしてもこれ読んでて思ったことに、
「この作品、妹さんがでてこなかったら、かなり浮世離れした話に終盤なっていたなあ」とあらためて思ってしまった。

なんというか、二郎も菜穂子もあまりにも完結してしまっているというか、
お互いかなり自己中的な強さをもっているというかで、
しかも最後、それを背中で見送る黒川夫人の姿勢があまりにも強すぎて、
加代がここに加わっていなかったら、
正直絵空事というか、かなり「形」のみが浮いてしまうような、
様式美が強調されてしまうような作品となっていたことだろう。

そんなこともまた考えさせられてしまった。

とにかくこのアニメはいろいろと考えさせられるし、
そういう楽しみ方に事欠かない作品ということも再確認させられた。


とここまで書いたときにちょっと悲しいニュース。

お隣韓国でこの作品を「戦争賛美」ということで、
一部に上映禁止にしようという動きがあるとか。

作品をみてどう結論づけようがそれは観る人の自由だから、
そこでそのように批判されたらしかたがないが、
一般に観せないでいきなり門前払いってどうなのよと、
ちょっとこれには失望させられてしまった。

自分は音楽において、
評論家の言うことのみを盲目的に信じ、
聴きもしない演奏を誹謗中傷する行為に対し極めて不快に思っている。

こういう聴くことも判断することも自らが放棄した安直な聴き手を、
自分は聴き手としていっさいのそれを認めない。
そしてそこに誘導し自らの存在価値を誇示しようとする評論家を、
自分は音楽上の敵と位置付けている。

そしてその敵は自分に都合の悪いことは黙殺、
もしくは誹謗しその価値を貶めようとする傾向がある。
正直これほど己の保身のみのための醜い行動も稀だろう。

今回の韓国における一部のそういう行動に、
じつは自分は上記した評論家のそれが重なってしかたがない。

断罪するも賞賛するも最後は受けて一人一人の問題だ。
それをさせない、
もしくは考えることをさせないということは、
何かこの作品には上映禁止にしなければ悪いような、
とても都合の悪いことでも描かれているのだろうか。

まあお隣の国の事なので、これ以上言い切るのも失礼だろうが、
ただ多くの国民をしっかりと信じ尊重しているのなら、
一人一人にこの作品をしっかりとみせるべきだろう。
もちろん字幕や吹き替えも原作のそれを尊重したものにした、
日本で公開されているものと同じ版によってです。

それで盛大にバッシングされたら、
そのときはその意見に我々も耳を傾ける必要はもちろんあると思います。

〆です。
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「風立ちぬ」雑感 [スタジオ・ジブリ]

10003.png
http://kazetachinu.jp/
(公式サイト)

スタジオ・ジブリの「風立ちぬ」をみました。

簡単に言うと堀越二郎という実在の人物に、
堀辰雄の「風立ちぬ」が設定として入ってきたような、
そんな出来の作品となっている。
ヒロインの菜穂子の名前は
堀辰雄の「菜穂子」からとった形にはなっています。

いきなりネタバレはまずいので最初はそういう事抜きに書きます。

みていて思ったことにじつに肩の力が抜けた作品だということ。
本来は実在した人物や作品というものがあるため、
どこまでその接近が許されるのかという問題が生じるはずなのですが、
今回はそこのところが堀越二郎と堀辰雄の作品という、
本来交わることのない二つだったことから、
これがお互い各々のショックアブソーバーになったためなのか、
不思議とそういう作り手の苦悩が感じられなかった。

そして前作「ポニョ」より強く感じたことが、
作品が伸びやかになったということだろうか。
「ポニョ」の時はなんか中央にものごとすべてが団子状に集まってくるような、
しかも伸びやかな感触が欠如したように感じられたのに、
今回はそういうところがじつに皆無で、
しかもとてもそれが清澄なものになっていたということだろうか。

たしかに現実と夢の交錯がいささか混沌としていたり、
いくつか?というようなところがなかったわけではないが、
この不思議なほど静かで清澄なたたずまいには強く惹かれるものがあった。

全体的には飛行機の話なので
飛行機の話で静かなただすまいなの?
と思われるかもしれないが、
おそらくそれは派手な、例えば戦闘シーンとかアクションシーンとか、
そういうものが無いからそう感じられるのかもしれません。
また宮崎作品にみられる怒涛の叩き込みもここにはありませんでした。

ただあいかわらず風の流れ、
さらには風の声が聴こえるシーンがあり、
それらが独特の風の量感をみているものに感じさせられるものがありました。

尚、作品には声高ではないものの、
監督の戦争に対する厳しいメッセージが盛り込まれていますが、
それは「ものをつくる」人間にときおり起きる宿命と片づけられている部分もあり、
それらは物語の背後からすかしてみえるような存在となっています。

そして声優。

まず主役の庵野さんの声だが、
最初あまりの違和感に席を立とうかと思ったほどだった。
映画の中に突然棒読みの朗読が割り込んできたかのような、
ひとつの作品でとんでもない同時進行が起きたような錯覚を感じた。

だが不思議なことである程度時間が経つと慣れてしまった。

もともと長台詞が多発する役でもないので、
本人も慣れたこともあったのだろう、
中盤からはそんなに違和感がなくなったのはありがたかった。

もともと発音はともかく、
声質が比較的角は丸いが低い部分がやや独特の硬質感があることから、
何かに埋没するような声でなかったことが幸いしたのだろう、
主人公のそれが大きく作品に埋没することもまたありませんでした。

それにしても庵野さん。
風貌が誰かに似てるなあと思っていたが、
往年の小山田宗徳さんにちよっと似ている気がした。
どうでもいいことですみません。

他の方たちもジブリカラーに沿った演技で安心して聞いていられましたが、
驚いたのは野村萬斎さん。

萬斎さんはドラマ等でかなり独特の存在が声にあるため、
はたしてどうなるのだろうかと心配していたのですが、
驚くほど自然に画面に溶け込んだ演技をされていました。

萬斎さんが抑えた演技をしていたこともあるのでしょうが、
まさかこれほど見事にアニメの画像とあうとは思ってもみませんでした。
狂言とジブリのもつ様式感覚がどこかで深い互換性をもっているのでしょうか。

だいたいの感想としては以上です。

で、全体としては子供向きでは無いということは別にして、
「ものをつくる」人の前へ進む時の姿と、後ろを振り返った時の姿
そして人間「生と死」その尊厳と厳粛さを強く感じさせられる作品として、
自分にはとても強く印象に残る作品であり、
ジブリ作品の中でもトップクラスに秀逸な作品である反面、
正直そんなに何度も見返したくない作品でもありました。

その理由はこの後に書きますネタバレコーナーに書きます。

で、ここからはネタバレです。読む方は充分ご注意を。

主人公二郎の青年期の冒頭、
いきなり関東大震災の描写となる。
この地面の波打ちうねる描写だが、
かつて自分の母方の祖母が岩手で明治三陸地震に遭遇したとき、
「地面が、『ののん ののん』と波打ってきた」
ということを話してくれていたが、
まさにここでの描写がそれだった。
地面の唸り声の不気味な描写や
まるで炎の七日間を想起させられるような遠方からみる火災の状況など、
正直かなり強く印象づけられるものがありました。

続いて医療の道に進んだ二郎の妹加代。
決して登場回数は多くないが、
二郎の飛行機馬鹿的な要素と現社会と二郎の鎹となるような、
作品に明るさを与えるだけでなくけっこう大事な役となっているが、
最後にはかなり大事な役回りを演じることになった。

正直自分は最後ヒロインの人としての「生と死」
その尊厳と厳粛さを感じさせるその後ろ姿に泣いたのではなく、
加代のその姿に自分の等身大のそれが重なり泣かされたという気がしている。
加代が明るいだけにそれは尚更だった。

今後医療により深く携わる加代にとっては、
いきなり無常感と人間の荘厳な姿を目にしながらも
そこにどうすることもできない自分自身のそれを経験したことは、
おそらく彼女にとって生涯忘れられぬものになったことだろう。
このシーン、
個人的には黒澤明の「赤ひげ」を思わせるものがありました。

あとこの作品、
ジブリとしては今までは抑えていた表現を、
今回はかなりはっきりと描いている。
おそらく見た人の中にはかなり驚いた人もいるし、
違和感すら感じた人もいるかもしれない。
またそのシーンそのものに必然性よりも、
なにかお約束事もしくはパターンとして組み込まれたような、
そんな印象を持たれた方もいるかもしれない。
このあたりはその手のシーンに不慣れな部分が、
そういう常道的な手法に走ったとみれなくもないが、
だがこれは個人個人の感覚的なものによるところも大きいので、
一概にそう決めつけられるものではないのかもしれません。

またこの作品、
ヒロインがあれほど病気を完治させると決然とした意思をもって、
八ヶ岳の高原病院に入院したのに対し、
病院を抜け出し二郎の所にいってしまったのは、
はたしてもう病が完治する術がないと悟ったのか、
それとも二郎を思って山を下りたのか、
自分の感情がもう抑えきれなかったのかが判然としなかった。
まあどれも有ってことなのかもしれないが、
ちょっとこのあたりが自分にはピンとこなかった。
ヒロインの最後の後ろ姿に泣けなかったのは、
この部分でのそれがあったのかもしれません。
これまた小さなことでしょうもないかもしれませんが…。

ところでこの作品を名作といいながら、
なぜそんなに再度見たくないと上で書いたのかといいますと、
これは今の自分が未だ人の死というものをもうこれ以上直視したくない。
こういう「死による別離」というものを泣けるというより辛いと観て感じる、
そういう部分が大きいからだと思います。
感動して泣くよりも辛くて泣ける作品ということです。
「荘厳」であっても辛いものは辛い。
まあ自分はそれほど人間も出来てませんし達観もしてない、
そんな人間だから仕方ないのかもしれません。
このため同じ理由で「火垂の墓」もあまりみることはありません。

もっとも飛行機好きの人や
こういう設計に携わっている人などはまた見方が違ってくると思いますし
そういう意味で何も映画館に足を運ぶかもしれません。

またラストシーンを含めた主人公とヒロインの残された時間の過ごし方に、
大きな感銘を受けた方も同様だと思います。


さてこの作品ですが、
今までのジブリ作品の多くが自然の中での出来事だったのに対し、
今回は実在の人物を扱ったためか、
収支人間中心の作品となっています。

ですが最後は「生と死」という生きるものの問題だけでなく、
この自然の中で繰り返されているひとつの必然が描かれることにより、
やはり作品がまた自然へと回帰していくのは、
いかにもジブリらしいという気がしました。
最後のなんとなく物足りなく唐突に感じられるラストシーンも、
そこに人はなくただ草原のみというところに、
短いながらもそんなメッセージがあるのかなあと、
ちょっと考えさせられたりしたものでした。

観終わって決して爽快でもなけば楽しい作品でもありません。
ですが一度は観ても損はないと、それだけは言えると思います。

ただ注意事項をひとつ。
庵野さんの最初の台詞を聞いて席を立たないように。
しばらくすれば慣れると思います。
慣れなかったらごめんなさい。

以上です。
まだ一度きりしかみてませんのでこんなところです。
見落としたところもあるかもしれませんので、
再度観ることがあったらまたその時追加します。

〆です。

余談

そういえば映画を観た帰り、
近くのスーパーで「シベリア」をみかけて思わず購入。
この時期なかなかその食感が夏向きということで、
けっこうおいしくいただいてしまった。

このお菓子、映画の影響でけっこうこの夏売れるかもしれません。
因みにこのお菓子、
すでに市販されて百年は経っている伝統あるお菓子だそうです。
10003.jpg

あとそれとは別にこういうお店もあります。
http://www.geocities.jp/coty_bakery/
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ジブリとアニメ [スタジオ・ジブリ]

先日あるコンサートに行った。

といっても地方ホールでの小規模なコンサートだが、
そこで後半ジブリの作品の歌が何曲が歌われた。

比較的ファミリー層向けのコンサートだったが、
そこではいくつかのクラシックの作曲家に混じって
ジブリ作品の曲が歌われていた。

これをみたときジブリというものが、
アニメではあるがアニメとは独立したもの、
というより今のアニメとは違うものということが、
このことからかなりはっきりと感じられた。

ただこれは裏を返すと
ジブリは万人向けに安心して提供できるが、
アニメとなるとかならずしもそうではない、
もしくはアニメというものに対して一般の感覚が、
かつてのそれとはなり乖離してしまったのでは?
とあらためて痛感されられてしまったものでした。

正直ジブリのアニメは1970年代以前のテレビアニメと比べると、
じつはそんなに大きな違和感を感じることはない。
だか2000年以降のアニメと比べるとその住んでいる世界の違いは、
あまりにも明らかなものとなっている。

ジブリそのものはあまり大きな変化をみせていないことを思うと、
それだけアニメがこの数十年間に、
とんでもなく変質してしまったということが、
今回の件であらためて再認識させられてしまった。

ひょっとしてオタクが増大したことで
アニメが一般に浸透したような錯覚を抱いてこの十年過ごしてきたのか、
そうなると知らず知らずのうちに
アニメと一般との溝はむしろ以前より深くなっているのではないかとか、
とにかくなんかいろいろと再精査したくなることがいろいろとでてきてしまった。

日本のアニメはこの半世紀、
ほんとうにとてつもなく大きく変貌したのだなとあらためて痛感。
むずかしい話です。
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ふたり「コクリコ坂・父と子の300日戦争〜宮崎駿×宮崎吾朗〜」小雑感 [スタジオ・ジブリ]

ふたり「コクリコ坂・父と子の300日戦争〜宮崎駿×宮崎吾朗〜」

http://cgi2.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=4520110809

NHKでやってたそれをみた。

だいたい予想通りだったのですが、
これをみていて思ったのは

宮崎駿監督はベートーヴェンのように
偉大な作曲家であり演奏者でもあるのですが、
宮崎吾朗監督はそうではなく
素質のある演奏者ではあるが作曲家ではない、
そんなかんじがしました。

宮崎駿監督は自ら生み出し奏でるが
宮崎吾朗監督は目の前にある素材を奏でる
そんなタイプにみえたのです。

これを単純に再現芸術といっていいかどうかはわからないが、
これは偉大な創造者たる父親の
その出来上がったものを見続けてはいるが
創り出される瞬間のそれをみていないという、
そこの部分から生じているようにも感じられた。

だから「ゲト」のときは
できあがったもののみから逆算したため、
途中の過程が抜け落ちてしまったようなものになったように感じられたのだろう。

きつい言い方をさせてもえれば
監督をなめていたところもあったのでは?
ということにも直結しているところがここにはある。

だが今回の「コクリコ」にそれはなかった。
たしかに作曲家としてのそれはあまり感じないが、
少なくとも演奏者としての素質を自分はみせてもらった。

宮崎駿監督が「少しは脅かせ」とラストに言っていたが、
それは演奏者としてのその部分に関してだけかもしれないが、
自分の後姿を追う資格ができたことを
宮崎吾朗監督にメッセージとして伝えたのかもしれない。

もちろんそれは合格点という意味ではない。
でも今はそれである意味十分なのかもしれない。

ところで震災の後
宮崎駿監督の「休んではだめだ」というのは自分も同感だ。

たしかに気持ちが切れるというのも怖いし、
生産の軸を守るということも大事だけど、
作り手から仕事をとりあげることにより、
いろんな意味で不安を与るようなことは拙いという意味でもこれは正解だ。

もちろん親戚や実家が東北の方は厳しいかもしれないけれど、
出れる方はむしろ出て、
仕事をした方が気持ちが強くもてる部分があることは確かだ。

自分たちが出来ることはつくることだけ。
本当に正論だ。

もしこのとき宮崎吾朗監督がこれを言ったらたいしたものだったけど、
それはなかなかむつかしいのだろう。

あと声の演技で「素のまま」という発言を宮崎吾朗監督はしていた。
いちばんむつかしい要求だと思った。
シンプルな要求はけっこうしんどいものがある。
今後これを要求していくのなら、
よりそれ以外の部分での説得力を増さねばならない。
けっこう監督自身にとってもこれは厳しい発言だと思った。

ところで宮崎吾朗監督は
「コクリコ坂」をほんとうに最初作りたかったのだろうか?
たしかに最後はかけがえの無い作品にはなった。

でもほんとうのところはどうだったのだろう。

そこのあたりが自分はとても気になった。

最初は半ば意地のようなものでとりかかっていたようにみえた。
もちろんそんなものから良作は生まれない。

ではなぜ?

宮崎駿監督のヒントだけではないような気が自分はしてしかたがない。

ただそこの部分を自分自身が明確に掌握していれば
宮崎吾朗監督はそんなにこれからを心配することはないだろう。

震災から五ヶ月たった今日。
今日も劇場に宮崎吾朗監督の「コクリコ坂」を観に行く人たちがいる。
日本全国各地でお金を払って観に行く人たちがいる。

そしてその人たちの中に
「また宮崎吾朗監督の作品が見たい」
と思っている人たちが少なからずいる。
宮崎吾朗監督の次回作はそういう中で公開される。

これは嬉しい反面とてもたいへんなことであるし、
それがひとつの苦しみでもありますが、
それを宮崎駿監督はいくつも超えてきたところに立っていることを、
宮崎吾朗監督がどうこれを考えているのか。

時期がきたらこのあたりもぜひ誰かに聞いてほしいところです。

以上です。
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「コクリコ坂から」雑感 [スタジオ・ジブリ]

地元横浜が舞台ということなので
本当はもっと早く見に行くべきだったのですが、
いろいろな理由でちと行くのが遅くなりました。

PANF.jpg
「コクリコ坂から」
http://kokurikozaka.jp/
(映画公式サイト)

1963年の横浜が舞台というと
かの黒澤明の代表作「天国と地獄」がある。
じつはこの当時この映画でも描かれているような
しかもかなり残忍な誘拐事件が起きていた。

3月の吉展ちゃん誘拐殺人事件、
5月の狭山事件がそれだ。
特に5月のそれは被害者が女子高生ということもあり、
今回の「コクリコ坂」もほぼ同時期ということを思うと、
けっこう同世代の主人公も心穏やかではなかっただろう。

また時代は前年10月のキューバ危機にもみられるように、
東西の対立とそれによる核実験を各国行っていた時期でもあり、
たしかに日本は朝鮮戦争以降の好景気により、
東京オリンピック開催に向け右肩上がりの急上昇状態ではあったが、
まったくすべてを明るく楽しく過ごしている時代ではなかった。 

当時まだ小さかった自分はこのとき両親に
「雨にぬれると放射能で頭がはげる。」
と注意されて外出していた記憶がある。
今とはまた違った意味で放射能のそれを
みんなが感じていた時代でもあったのです。

そのせいかTVや映画、それに音楽はとても明るかったものが多く、
それこそ「上を向いて歩こう」の姿勢だけは大事にしようという
みんながそう心がけていたようなそんな時代だったという気がした。

そんな時代のこのお話。
監督は正直前作の出来に個人的には?だった宮崎吾朗さん。

まず結論から言うとこれは良作だ。
こんなに気持ちいい爽やかな作品だとは正直思っていなかった。
事前に聞いていた原作のあらすじでは
もっとドロドロした陰鬱なものが入り込んでいる作品というイメージだったが、
そういう部分をかなりすっきりさせ、
(そのため原作を改変したところもあったでしょう。)
原作をコクリコ荘での日常と
カルチェラタンのおおらかな学生生活と存続運動を両軸に据え、
その中で多くの個性的なキャラをうまく活かしながら、
主役二人の関係を嫌味なく淡々としつこくなく描いている。

このあたりは宮崎駿監督の脚本によるところが大きいだろう。
だがみていると宮崎駿監督のもつ肉厚的な感覚や
怒涛の描きこみのような一気呵成なものはここにない。
かといって「アリエッティ」のような等速感覚も皆無。
つまり脚本のもつ力を監督がそのエキスを素直に引き出し、
それを無理なく表出し
自分なりに施したという感じなのだ。

印象的にいうと宮崎駿監督が細部の積み重ねで話を理詰めに膨らませるのに対し
今回の宮崎吾朗監督は寸法どりというかバランス感覚がいいというか、
ひじょうにすべてがすっきり洗練されていたという感じでした。
(これが横浜という舞台にもあっていたように感じられました。)

もちろんこれはただ脚本に沿っただけとかやっただけでは絶対無理、
より作品や脚本等を読み込み掌握し
自分のもつ可能な表現の多彩な引き出しあればこそなのです。
そういう意味ではアニメ監督としの経験よりも、
それ以前の経験のようなものがどこかで活きていたのかも。

それにスタッフの支えかがかなりのものがあったことは
ゲド戦記との雰囲気の差が如実に物語っていると思います。

だがそれ以上に感心したのは「坂」の扱い方。
ここでは作中一度も「コクリコ坂」どころか
「坂」という言葉も使用されていない。
だが見終わった後、
観客は常に野外のシーンを思い浮かべるとき
「坂」と「海」そして「船」の存在を強く意識されられるような、
そんな作り方がここではなされていた。
このあたりは港町横浜をうまく描いていると思いました。

この作品はそういったものが上記した
昭和38年5月という時代を背景に描かれている。

そのためか作品全体から
かつてのそれこそ昭和三十年代の
日本映画やTVドラマの雰囲気や感触といったものが、
若干今の感覚にあわせて洗練はさせてるものの、
とても強く感じさせられた。
このとき
「アニメってかつての日本映画みたいなこともできるんだ」
と妙に感心されられたものでした。

それだけに1950年代以前に生まれた方にとっては
懐かしいものがいろいろと飛び込んでくるだろうし、
そうでない世代の方にも新鮮な風景としてうつることだろう。
それがある意味この作品を彩り、
悪い言い方をすれば作品の粗のようなものを
それで覆い隠すこともできてしまうところがある。
だが今回はそういう粗そのものがほとんど感じられなかった。

たしかに時期的な微妙な誤差のようなものを
作品のごく一部に感じるところがあったものの、
それはご愛嬌ということで今回はOKなのかもしれない。

声優を使用しないジブリのそれはもう慣れてしまったし、
演じるより成りきってほしいというそれもわかるが
それでも一部あとほんの少しだけ心をくだいてほしいと、
そう感じるところが一部前半にあった。
だけどそれが後半まったく感じられなかったのは慣れか、
それとも次第に観る方も演じる方も何か変わっていく、
そんなつくりが施されているのだろうか。
(まあ香川さんはちょっと別格ですが…)

上映時間は91分。
このため多少キャラの心的な変化の過程等が
少々性急で希薄に感じられたところもないではないものの、
とにかく全体的にはとてもいい作品だった。
名作というより良作という感じだが、
名作以上の価値を感じる良作という感じの作品だ。

宮崎吾朗監督のこれからがちょっとみえた作品だけど、
問題はこの次。
別に脚本が他人によるもの云々というのは関係ない。
また次回これと同じレベルものをつくれるかどうか。
もちろん宮崎駿監督だって立場は同じ。
ただ実績があるかどうかが違うだけだ。

次回の宮崎吾朗作品。
期待はしないが楽しみに待ちたいところです。

最後に苦言をひとつ。
あのパンフレットはいただけない。
表紙と本編のギャップ云々ということよりも
パンフレット内のキャストの一覧のページのこと。

あれでは誰がどういう役をやったのかが三人以外はまるでわからない。
意図したものかどうかは知らないが、
いささかこれは不親切という気がした。
次回はぜひこのあたり一考を要してほしいところです。

参考までに上記公式サイトには以下のように明記されています。

CAST.png

因みに「コクリコ」とはフランス語で「ひなげし」の意。
花言葉は「慰め、いたわり、陽気で優しい、思いやり」だそうです。


(8/4追加)

この作品、いろいろなところに賢治のオマージュが感じられるところがあるという話があります。舞台の昭和38年が賢治の没後三十周年にあたることもあるので、そういうところを付加したのかもしれません。じっさいはわかりませんが…。ただそうだったら桑島法子さんを出さなかったのは残念だなあ、と個人的には思ってます。

あと昭和38年の横浜を舞台とした映画には「天国と地獄」があると言いましたが、
翌39年にはちょっとですが横浜が舞台となった東宝のゴジラシリーズ
「三大怪獣 地球最大の決戦」があります。
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目は口ほどに物を言う [スタジオ・ジブリ]

よく「目は口ほどに物を言う」という言葉があります。

これは人の目を見れば
口で言うのと同じくらいわかるという意味であり、
隠し事をしても目を見ればわかる、
という意味でもあるのですが、
これって演技にも言えるような気がします。

よく名優というのはTVや映画では
その台詞まわしの旨さだけではなく、
身体全体での表現
そして顔、特に目の表情に抜きん出たものがあります。
黒澤映画の三船敏郎などは
台詞だけ聞くと「むむむ…」という瞬間があるのですが、
その存在感というものがそれらを超えて凄いですし、
仲代達也さんの目のそれなどは、
とんでもなく物凄いものがあります。

つまり台詞とその他のものを自分なりにバランスをとり
そこで演技をみごとに結実させているのですが、
声優さんはそうはいかないです。

台詞以外はとにかくアニメにせよ洋画にせよ、
他人のそれであるだけに、
自分の演技はそれらとの兼ね合いになってしまいます。

ですからTVや映画のそれらでは
台詞と演技に両足を各々らせてバランスをとれるものの、
声優では片足はのせられるものの、
もう片足は他人まかせ、もしくは想像で補うという
かなり独特のテクニックが必要になります。

こんなこと当然当たり前のことなのですが、
俳優さんも声優さんもじつはそのあたりが、
わかっていても、わかっていないような
そんな気がするときがあります。

特に俳優さんが声優をやるときは
そこの部分で苦労しているような気がします。
普段の自分の演技同様にベストをつくしても、
どこかで全体バランスの中での声の演技になってしまい、
それが「なんか棒読みだなあ」になってしまうのだと思います。

これは推測ですが
おそらくそういう俳優さんのアフレコでの現場をみると、
全身を使おうとしたり目で表情を凝らそうとしたりと、
見えない部分の演技がけっこう自然にでているような、
そしてそれ全体をみるとなかなかのじつは演技と、
そうあいなっているのではないかと、
そんな気がするのです。

これに対して声優さんのアフレコをみると、
声の表現を引きですための全身の動きはあるのですが、
目のそれは意外と淡白というか、
そこへの集中を声にまわしているというか、
そういうふうにみえるときがけっこうあります。

けっきょく作品をみたとき、
この声以外にどれだけ表現をさいてしまっているのかが、
その表現の差に感じられるのではないかと思います。
つまり声優さんは口と
口と同じくらい表現力のある目の表現も口にまわし、
二重に表現を強化している部分があると思われるのです。

最近のアニメはかなり表情も豊かになっていますが、
まだ人間のそれには遠く及ばないものがあります。
そのあたりを声優さんはやはり熟知しているのでしょうし、
俳優さんはそのあたりの寸法どりというか
バランスどりの感覚がうまく測れない方が
けっこういらっしゃるのかもしれません。

自分がなぜ今ここでこの話題を出したかというと、
来月にはスタジオ・ジブリの新作が公開されるということがあるからです。

ジブリというか宮崎アニメと声優については、
自分は過去ここで何度も書いています。
で、だいたい決着は自分の中でついているのですが、
自分は今までは宮崎監督の価値観にポイントをあてていました。
ですが今回じつは上のことから
宮崎監督が声優さんを嫌うのは
その絵と音楽の完全性の中に
声による異分子持込を極力嫌うだけでなく、
自分達の絵の力をもっと信じて、
俳優としての演技をしてほしいという、
そういう意味もあるのではないかと、
そんな気がしてきたからです。

自分達のアニメの絵は
「目は口ほどにものをいう」レベルのものだという自負が
そこまでする必要の無い補完を
声優という「型」で演技する声優さんに
我慢というかプライドが許さなかったのではないかと、
そんな気がしたからです。

ですからそのあたりをふまえ
理由付けのある演技を心がけていけば
ふつうの声優さんも宮崎駿監督の作品に出れるのではないか、
そんな気がしたものでした。
(まあ声質的に無理という方は別ですが。)

ただし今回のジブリは宮崎駿作品ではありません。

今回は宮崎吾朗監督作品としては二作目。
はっきりいって正念場の作品ですので
かなりいろいろと手はつくしてくると思いますが、
宮崎駿作品のような緻密さがないと
どちらも力的に補完が効かないという、
けっこう厳しいものが現出する可能性もあります。
このあたりはたしてどうなるでしょう。
舞台が地元横浜なのもとても気になります。

「これだったら声優使えばよかったのに」

などといわれないレベルの作品が公開されることを期待します。

劇場を出てきた人の目の表情にも要注目…かな?
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宮崎駿監督と沢城みゆきさん [スタジオ・ジブリ]

コミケが近づいてきたせいだろうか。
ときおりこの時期にいろいろとアニメついて考えることがある。

まあ妄想戯言の類なのであれなのですが
何か書かないとすっきりしないという自分が悲しい。

しかも今回はやたら長い。
さらに自分の中で決着のついていない部分も
見切り発車して書いてしまったところもあります
そういう部分もあるため甚だ読みづらい
かなりとっちらかった要領の得ない文になっていますので
そのあたりをご了承の上お読みください。

というわけでほぼ予定通り今回のタイトルは
「宮崎駿監督と沢城みゆきさん」。

別に次回の宮崎監督作品の主役に沢城さんが出るわけではない。
寝台急行「能登」が廃止になったときに
「能登引退」といいまくるそれとは違うのだ。

宮崎駿監督がその作品から声優を除外していったことは
すでに理由としていろいろと語られている。
自分が面白いと思ったのはその時期だった。

宮崎監督が声優に対して辛辣な発言をしたのは
有名なところでは「紅の豚」の時だったという。

1992年というから当時TVでは
「ライジンオー」や「サイバーフォーミュラ」
さらにこの年から
「セーラームーン」や「幽☆遊☆白書」がはじまっている。
また当時声優のCDもよく売れていて
林原めぐみさんがブレイクしはじめている時期だった。

そして声優排除が顕著になった「もののけ姫」の1997年は
EVA台風がまだまだ吹き荒れてるまっただ中で
他には前年に秀作「ナデシコ」等があった時期でした。

ようするに今の声優さんと違い
舞台出身の方もまだまだ多かったものの
声優のアイドル化が急速に進み始めていた時期で
多少それ以前の声優さんとは質的に変化しはじめていた
そんな過渡期でもあった気がします。

これは昭和から平成に入った頃
つまり「サムライトルーパー」「ダンクーガ」「ジリオン」
さらにはそれ以前の「キャプテン翼」や「聖闘士星矢」あたりから
すでに流れができていたことからみても
この時期のそれは必然だったのかもしれませんが
宮崎監督はそういう流れにすでに嫌気がさしていたのでしょう。

そしてそれは二十一世紀に入り

◎アニメ深夜枠の拡大と定着
◎女性声優ユニットの増大
◎女性声優のより親近感のあるアイドル化
◎価値観のより多様化
◎「オタク」「ツンデレ」「萌え」という言葉が市民権をとった。

というあたりが顕著になった頃から
さらに宮崎監督のそれが確定していったといっていいでしょう。

宮崎監督が今のTVアニメの流れに否定的であることは
そのいくつかの発言からもそれは垣間見られます。

今のTVアニメのやっていることをやらないからヒットしている。

という意味の発言がたしか宮崎監督から出た記憶がある。
これなどはその最たるものだろうし、
アキバ系など薬にもしたくないだろう。

そうなると今のTVアニメを支えている人気声優さんを
宮崎監督が積極的に使うわけがない。
有名俳優を使いたがる
かの鈴木プロデューサーの趣味趣向の問題だけではないのだ。

ただ宮崎監督は本来声優や俳優というのを
自分はあまり分けて考えてない人ではないかという気がする。
それは宮崎監督が観てそして育った初期の劇場版東映アニメが
俳優や声優が一緒になって作品に関わっていた時代だったということだ。

そしてそれらの作品が宮崎監督に大きな影響を与えたということだ。

だけど当時の声優と今の声優は質的にかなり違う。
そこに宮崎監督はジレンマを感じているし
そのため本来とは違う「分け隔てる」という姿勢になってしまったのかもしれない。

ただそれはたしかに声優というものに対して冷たい姿勢かもしれないけれど
裏をかえすとそこまでの姿勢をとる背後には
声優に対しての強い愛着もある、
というより俳優と分け隔て無く自分の作品に使えるような声優が
昔みたいにでてきてほしいという考えのこれはあらわれなのかもしれない。

だが最近、特に売れてる声優さんは
宮崎監督にとってまさに対極にいる存在といっていいと思う。

特にこの十年間
主役や準主役、さらにレギュラーで多くの作品に貢献すればするほど
その立ち位置はより宮崎監督のそれとは対極にあるといっていいと思う。
そんな代表のひとりが、かの沢城みゆきさんだと思う。

沢城さんはアニメグランプリに選ばれたことがないことが示すように
「SEED」「EVA」「ハルヒ」「けいおん」といった
いわゆる大ヒット作には何故かあまり縁がない。

だけどとにかくじつに多くの作品でその存在価値を示している。
ツンデレというよりストイック系にその本領があるようだけど
とにかく幅がかなり広く、多くの作品に主要キャラの声として登場している。

ということはようするに
沢城さんはこの十年間のアニメ需要に極めて即した声優さんといえるのではないか。
たしかにアニメ貢献したということになると
CDやその他の媒体も含めれば
水樹奈々さんや平野綾さん、坂本真綾さんや釘宮理恵さんもそうだろうけど
ことTVアニメの声優としての純然たる声あてに絞り込んでしまうと
※上の行にありました「吹き替える」という表現を「純然たる声あて」に変更しました。
沢城さんのそれは突出しているといって良いと思う。

そんな今の時代の需要に即した声優の沢城さんが
宮崎監督やそのアニメとある意味で対極に位置するのですが
その沢城さんの役のつくりかたが
どうも宮崎監督の作品のそれと重なる部分があるように
最近感じられるようになりました。

それは簡単にいってしまうと
二人ともかなり自分本位というか
(別に二人とも血液型がO型だからというわけではない)
自分中心で物事をすべて理由づけし
説明できるようにしてから事にあたるということでしょうか。

まあようするに慣習とか流れとか
「なんとなく」というところをかなり排除した姿勢をもつという
そういうベースをもっているということでしょう。

だから本来この二人は対極であっても
かなり似た者同士だと思うのです。

あとお互いに染まるのが嫌いというか
自分の色と違うものを自分のところに持ち込まれるのを
かなり嫌うタイプなのではという気がする。
ようするに極度のワン・アンド・オンリーであり
ある意味王道というか正統派を自分のやり方で進んでいこうという
そういうタイプだと思う。

(全然直接あったことも無い人にこう言い切るのもかなりヤバイという気がするが
 ここは「いいたい砲台」なので許していただこう。)

まあ強いて大きく違うといえば
沢城さんの方がスムースに設計図通り考えが進んでいる時と
考えが今ひとつ詰め切れてない状況で事が進んでいる時が
ときおりなんとなくわかってしまう事があるというところだろうか。
そういう意味で沢城さんはあまり良い意味でのごまかしが旨くない
ある意味不器用なのかもしれないけれど
そうなると宮崎監督もけっこう不器用な部分があるので
その点でもやはり似た者同士なのかもしれない。

というわけで延々とここまで書いてきてしまいましたが
ようするに宮崎監督と沢城さんは
現在のアニメの両極でありながら
極めて似た気質をもった二人であるということなのです。

だからもし宮崎監督と沢城さんの価値感が一致して同じ作品にかかわったら
それはそれでとても興味深い
ある意味未知との遭遇といいますか、
ベルリンの壁崩壊&東西ドイツ統一みたいなものになるのかもしれません。

ですがそれは夢のまた夢。
磁石のS極とN極、さそり座とオリオン座みたいな
とにかくこの両者絶対交わることのない両局といえると思います。

その最大の理由が土壌の違い。

単純なものいいですが宮崎監督の土壌は
自然回帰、もしくは自然への敬いと怖れ
その中での人間のありかたみたいものがあるけど
沢城さんの場合
というより沢城さんの需要が高い今のアニメは
学園、萌え、メカ、バトル、ツンデレ、ギャグ…
と、どう切っても自然の「し」の字もでてこない。

かたやテーマが広大かつある意味思想的普遍的ものなのに対し
かたや身近&お隣、もしくは異次元パラレルワールド等の
かなり細分化された各々のひとつひとつという違い。

これは両者を育んだ60年代と平成以降特に21世紀、
そして東映とアキバの違いと割り切ってしまえばそれまでだけど
アニメに対する考え方の発端が違うといいますか、
育った時のアニメに対する考え方と価値観の多様化、
あと舞台と観客の距離感と舞台裏に対する考え方の相違といいますか、
とにかくその全て、
育った環境と土壌そのものがまるで違うということなのです。
三つ子の魂百までとはよく言ったものです。

そんな似た者同士かつ両極な両者ですが
幸いな事に今アニメをみている多くの人が
この二人の作品を現在進行形で見聞することができる。
おそらく今はそうでもないだろうけど
後々今のこの時代のアニメを研究する人には
宮崎監督や沢城さんをマイルストーンのひとつにして
その時代考証のとっかかりにする人がかならずでてくることだろう。
(自分が沢城さんを声優アワードの功労賞候補といったのはそのためです)

それを考えて「アリエッティ」なり沢城さんの今の出演作をみていくと
後の人がこの時代をどう見聞しどう評価するか
とても今からたのしみだし興味がつきないものがある。
(そこには自分が見当外れなことを書いていないかという確認の意味もあります。
もっとも自分はそれまで生きてないでしょうが…)

それくらい今のというかここ十年のアニメ界は
後世からみてもとても面白い時代なのです。
そして自分達はその面白い時代のまっただ中にいる。
こんな贅沢なことはあまりないでしょう。

意外に今生きている時代って
その当事者達には価値が自覚できないんですよね。
それが過ぎてから「ああ、あのときは面白かったな」と、
だいたいそうなるんですよね。
だからそのときをいかにいろいろ受け入れて考えそして楽しむってことは
じつはとても重要だと思います。特に若い方には。

余談ですが昔はよかったといってる人って
その「昔」当時もそういう傾向の人だったと思います。
あまりうまい言い方ではありませんが、
つまりその当時も昔は羨ましかったみたいな…。
ただそれって「今」と真摯に対峙していないというか
真剣にみていないという気がします。
そういう人がその当時をさして昔はよかったってのはいかがなものかと。
今を真剣にみれない人はその当時の「昔」も真剣じゃなかった人だと思います。

そういう人に自分は今はもちろん
その当時の「昔」も正直語ってほしくはないです。
(すべてがすべてそういう人ばかりではないでしょうが…)
もっとも必要以上に今を持ち上げ昔を蔑むのもいかがなものかと。
ようするに「温故知新」なんですが…。

そこまでくると以前から言ってます
「いただきます」という気持ちが大事ということに繋がっていくのですが
さすがにこれは脱線しすぎということでここまでです。

さてさて、さすがにこれ以上は長すぎます。
今回はこれでおひらきということで
気が向きましたらいつか上の文をよりスリム化し
他の要素もつけくわえたものにしたいと思いますが
いつのことになりますか…。

それにしても最初にもお断りしましたがほんと長いし要領の得ない文です。
文があっちに行ったりこっちに行ったり…。
さらには最後なんか誰かみたいな説教大会みたいになったりと
読んでいて頭が痛くなった方がいましたらお詫びします。

しかし宮崎監督は沢城さんのことを知っているのでしょうか?
また沢城さんは宮崎監督とそのアニメに対してどう思っているのでしょう?
気になるなあ。

最後に、
読んでいただいた皆様、お疲れ様でした。
そしてありがとうございました。感謝です。

PS
正直言いますと今の声優さんはいわゆる俳優さんとの共演が少ないです。
劇場版のアニメ等で両者半々でやることがもっと増えるようになれば、
お互いにいい刺激と勉強になるような気がするのですが…。
そのためには監督やプロデューサーの理解が必要なんですけどね。
今後次の時代を創ろうという気概をこういうところにみたいものです。

以上で〆です。


(余談)[2010,08/12,18:05,追加]

宮崎監督の姿勢というのは
徹底的に考え、調べ、検証、計算しつくした後
いかにそれを理詰めにつくり
そして自然にみせるかということがベースにあります。
そのため声優にもそういうものを求め
なおかつジブリの色とスタイルを要求しているのでしょうが、
結果それがかなわぬため
最後の「自然にみせる」というところと
ジブリの色とスタイルに染めやすいということ
そして声優としの他作品のイメージが無い
俳優さんを起用しているというのが
表向きはどうであれそれが声優さんを使用しない
最大の理由だと思います。
トスカニーニがオペラで大歌手を使用することを嫌ったことと
だいたい大筋は同じだと思います。

だからこのスタイルを貫くことに自分はあえて反論しませんが
でもそれでは「声」の部分に「絵」ほど完璧を尽くしてないと
そう言い切られても今のジブリは仕方ないと思います。
正直完全な妥協の産物なのですから。
ただそれが結果話題づくりとなり
ジブリのひとつの売りとなっているのですから
そういう意味ではよしとすべきなのでしょう。

多少の演技の拙劣さは絵と動きと演出でカバーできる。
むしろ邪魔な色や要素を持ち込まれる方が迷惑。

声優さんを使わない理由はつまるところこれにつきると思います。

まあそういう意味で宮崎監督のそれは
総合芸術的なオペラではなく、
より指揮者の掌握力が大きくなるオラトリオのような宗教音楽作品
もしくは交響曲のような作品なのかもしれません。

そういう意味で声優さんの自由がよりきく今のTVアニメとは
先の土壌の問題もあるでしょうが
もう本質的に同じアニメとはいえ、まるで違うものなのかもしれませんし、
ある意味声優からみると「閉じられた世界」なのかもしれませんし、
そこを緩くするとジブリ作品そのものが瓦解するのかもしれません。

ただ自分としてはかつて声優と俳優が
ジブリでも共存していたという時代もあったことから
再度そういう機会をもった作品ができないものだろうかと
そういう願いももっていますし、
十年以内にはそういう作品もでてくるであろうと思っています。

そのとき、その作品はいかなるものなのか?
たのしみに注目していきたいと思います。
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「借りぐらしのアリエッティ」雑感 続き。 [スタジオ・ジブリ]

以前
http://orch.blog.so-net.ne.jp/2010-07-23
に書いた続きです。

この作品の印象に
自分は「作品のもつテンポの緩急があまりない。」と書いた。
これについてもう少し書きたいと思う。

自分はものの例えにどうしてもクラシック音楽を例にしてしまう。
だからそのあたりに疎い方を取り残してしまうので恐縮なのですが
それ以外に良い説明の仕方ができないのでご了承いただきたい。

これは若いorデビューして間もない音楽家に多いことなのですが、
演奏を大事にいこう丁寧にいこうと思ってやっていると
その音楽の歩幅が均一化したものになる傾向があります。

たしかに音楽を均一化した歩幅で運ぶと
安定感が増しバランスがとりやすくなるものの
そうなると音楽の緩急だけでなく
強弱にもリミッターがかかってしまうことによって
ひとつの枠を己で築いてしまうことになっしまいます。

そうなると曲の内容は劇的になったり平穏になったりと盛りだくさんなのに
肝心のできあがったものはそれらをすべて均一化してしまうといいますか
綺麗で丁寧だけど起伏と生気に乏しいものに仕上がってしまいます。

もちろんやっている方はそんなことは当然わかっているのでしょうが
演奏者自身が自分の演奏を客席で聴くことが出来ないように
最初はなかなかその枠というものから抜け出せない人が多いようです。

そんな代表的な例が
1960年代に名門アムステルダム・コンセルトヘボウのトップに
まだ三十代初めで指名されたベルナルト・ハイティンクでした。

じつはこのコンセルトヘボウは1959年
突然当時極めて有能な指揮者を失います。
そこでふつうならある程度のキャリアのある指揮者をその後継に選びそうなものを
まだ三十そこそこのハイティンクの将来性にかけそのトップに抜擢したのです。
ハイティンクはたしかにそれまでにこの名門オケと何度か共演はしていたものの
さすがに当時の楽壇全体はこの報に驚きを隠しきれませんでした。

このため楽団側当時還暦近かったベテラン指揮者を
数年間平行してその任につけることにしました。

じつはこの当時のハイティンクの演奏が
今の米林監督にとても似ているのです。

名門コンセルトヘボウとスタジオ・ジブリ。
それを若くして指揮して結果を出さねばならないという苦しみ。
そして米林監督が「アリエッティ」でみせた歩幅の均一化のようなものと
この当時のハイティンクの没個性といえる程の歩幅の均一化した音楽が
とても重なってみえきたのです。

もっともハイティンクの場合は前任者もまたこのオケを一流にした前々任者も
すでに他界していたのですが
米林さんの場合は前任者兼創設者がまだバリバリの現役で横にいるのですから
そこだけは大きく違ってはいたのですが…。

その後ハイティンクの円熟はかなり時間がかかり
それまではああだれこうだれといろいろと言われ続けていたのですが
1974年の来日公演までは相変わらずいろいろと言われていたものの、
1977年の来日公演ではそれまでと一転してその評価が上がることとなります。

このときのハイティンクは
やはり相変わらず歩幅の均一化のようなものがあったものの
その歩幅が以前と違い微妙にあるときは半歩前へ
そしてあるときは半歩もしくは1/4後ろへという具合に
微妙なニュアンスをみせるようになりました。

そしてこのことが
以前まだまだしっくりといっていなかったコンセルトヘボウのオーケストラと
しっくりとした音楽をつくりあげ
結果その音楽に今までにない起伏と生命感と勢いを創り出すことになりました。

じつはこの半歩を踏み込む勇気というのはとても重要でして
それをやるまでにけっこう多くの演奏家がいろいろと試行錯誤を繰り返しています。

ハイティンクもここにくるまでに約十五年もかかったわけですが
結果その後このオーケストラと指揮者はひとつの大きなピークを迎えることになり、
ハイティンクは押しも押されぬ名指揮者となりました。
もちろんそうなれたのは自分だけでなく
コンセルトヘボウと名門オケが育てたという部分もあるのでしょうが。

米林監督もたしかに今はまだ原石かもしれませんが
ハイティンク同様自分の力とジブリの力で
今後アニメ界にとってなくてはならない人材になると思います。

もっともそれを活かすも殺すも宮崎監督や鈴木プロデューサーのそれもあるので
このあたり余談を許さないものがありますが
今はこれからを期待したいと思います。

あともうひとつ。

じつは素晴らしいピアニストがオーケストラの指揮をすると
あまりうまくいかないということがままあります。

これについてある方からこういう話を聞いたことがあります。

「今までピアノから自由にいろいろと自分の音を出せた人が
いきなりオーケストラを指揮すると
ピアノ以上にいろいろと多彩な音がでるこの『楽器』に惑わされ
それらをすべて駆使し表現しようとする。
しかも今まで自分の力だけで音を出していることに慣れているため、
オケでも同じように自分でなんでもやろうとする。
そのため結果その『楽器』本来の音も殺してしまうだけでなく、
どこにその演奏のポイントがあるのかわからなくなってしまうことがあるのです。」

ということです。

原画担当から監督に抜擢された米林さんが
この上記のそれにそのままあてはまっているというわけではありませんが
今日放送されたNHKの米林さんとジブリの特別番組をみていて
そういう魅惑に自分を殺されかけていた部分も少しあったように見受けられました。

ですが、それにもかかわらずやはり米林さんは
素晴らしい原石であることは間違いないといえるでしょう。

もっともそういう米林さんを育てたジブリですから
他にも同じように素晴らしい演出や監督ができる方もいらっしゃるかもしれません。

このあたりもこれから注目していきたいと思います。

あと余談ですが、ここで近いうちにジブリがらみで
できればもうひとつ書きなぐりたいと思っています。
予定タイトルは「宮崎アニメと沢城みゆきさん」というものです。
もし書けなかったらごめんなさいです。

以上です。誤字脱字がいつも多くてすみません。
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