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ノイマンの「わが祖国」 [クラシック百銘盤]

今年(2020)9月に生誕百年を迎えるチェコの名指揮者ヴァーツラフ・ノイマン。

1969年の初来日から最後の来日となった1991年迄、チェコフィルだけでなく、日本のオーケストラに客演するなど、当時日本ではお馴染みの指揮者だった。

だがその名声が確立するのは来日してすぐというわけではなかった。

1969年の初来日はそこそこ好評だったものの、十年前のアンチェルやスロヴァークが率いて行われた初来日公演程の話題とはならなかった。

これには前年夏に起きたチェコ事件のそれが影を落としていたのではという意見もみられたが、またそれはオケだけでなく、その件を機に名門ゲヴァントハウスを辞任しチェコに戻ったノイマンにも言えることだったのかもしれない。

ノイマンはこの初来日前に行われたプラハの春では「わが祖国」の指揮をとり、それは三年程続いたし、1970年代に入るとチェコフィル初のドヴォルザーク交響曲全集を録音した。

また当時彼はテルデックとも契約していて、ドヴォルザークのスラブ舞曲全曲やスラブ狂詩曲全曲、さらにフチークの作品集等を同レーベルに録音しており、1972年にはミュンヘンフィルの初来日公演に、健康に不安を抱えるケンペに代わり帯同が予定されるなど、その活躍が国際的なものになりつつあった。

だが、このミュンヘンフィルとの来日公演はノイマンの出国許可がチェコから降りずノイマンの再来日はなくなった。そしてこの年のプラハの春の「わが祖国」はノイマンではなくコシュラーになった。

これから後しばらくノイマンのチェコフィル以外との来日公演は無くなり、テルデックとも契約は終了、スプラフォン一本となったが、この頃ノイマンは自分についての不安を口にしていたという話を聞いたことがある。

やはり同じソ連傘下の共産圏体制下ということで、ライプツィヒを抗議の辞任をしたノイマンにはいろいろと当局からきつい縛り等があったようだ。

そんなノイマンが再来日したのは1974年6月。

この年のプラハの春は前年に続きノイマンが「わが祖国」に復帰したが、この来日公演終盤であのFM東京が主催した「わが祖国」の公開放送が行われ、その入場希望の応募ハガキが十万通以上という大騒ぎになった。

これが翌1975年春のこのコンビによる「わが祖国」の正式なセッション録音実現に繋がり、同年10月には当時二枚組のクラシック音楽の新譜LPとしては破格の3500円という価格で発売され、大きな話題と絶賛を博し、セールスもかなり良かったとか

当時「わが祖国」の音盤は、このノイマン盤が発売される前はボストン響を指揮したクーベリック盤がベストと評価され、しかもこの年の5月にはそのクーベリックがバイエルン放送と来日し、この曲を文化会館で指揮したそれがテレビやFMで放送されていたので、その評価はさらに高まっていた。

そのためこの盤が出てからは、LP時代はこの二人の「わが祖国」が当時はベスト盤でありスタンダードといわれたものでした。

もっともノイマンの場合、前年の来日公演初日がテレビで放送されたそれがオケも指揮者も本調子でなく、しかも雑誌で酷評されるは、放送では「チェコフィルは来るたびに指揮者がつまらなくなる。オケの弦もまるで(悪い意味で)生の野菜をバリバリ食わされているようだ」と酷評されるはと散々で、このアルバムはそんなことで不本意に広まった汚名を返上する起死回生の一発となったようです。

(尚、自分が「わが祖国」を初めて全曲聴いたのがこのノイマン盤であったため、この1975年盤は自分にとって「わが祖国」のひとつのスタンダード+刷り込みとなりました)

ところでそんなノイマンの「わが祖国」は全部で七種類ある。

1967年ゲヴァントハウス
1975年チェコフィル

この二つが正規のセッション録音だがそれ以外に、

1974年の先にあげたチェコフィルとの日本での公開放送のもの。
1978年のN響定期公演客演時のライブ。
1982年の日本公演における「わが祖国」初演百周年ライブ。

というものがある。この三つ目も発売時に話題になり、また演奏会そのものもすぐに売り切れた話題の公演でしたが、今考えると同曲初演百年という記念すべき日に、なぜチェコフィルがプラハではなく日本にいたのかというのが自分には未だに謎で、当時のチェコ当局がプラハでこの曲の百周年公演を嫌ってわざとツアーを設けたのではと個人的には勘繰っています。

そしてさらにもう二つ。これらはじつはあまり知られていないが、

ひとつは1981年のプラハの春におけるライブをレーザーディスクのみで発売したもので、これは確か未だにCDとしては発売になっていないようです。

そしてもうひとつが1972年という、ノイマンにとっては穏やかではなかった時期に、プラハの1975年の録音と同じドヴォルザーク・ホールで録音さたれもの。

ただし録音したのはスプラフォンではなく、同じ国営レーベルのひとつPanton。

また1975年盤が六日間かけてじっくり丁寧に録音されたのに対し、こちらは放送用録音もの(ただし無観客)らしくそんなに日にちをかけて録音したものではないように思われることが違う点。

ただ自分の持っている当時の東芝EMIから出ていた国内盤では、最後ちょっと音に痛みがわずかに感じられるところがあるものの、音質はちゃんとした良好なステレオで収録されているので、放送用録音であったとしてもかなり整った環境で収録されたものと思われます。

じつはこの72年盤がなかなか侮りがたいものとなっている。

75年盤は、弦を中心としたオケの音がホールの響きと美しくブレンドされ、極めてオーソドックスなスタイルと相まって、素朴ながらも音楽細工のような美しい佇まいをもった、地酒的とも国宝的ともいえる「わが祖国」そのものを味わう最高の演奏にまで昇華された名演となっていたが、こちらの72年盤はそれとはかなり様相が違い、管楽器、特に木管の表情がかなりハッキリ聴きとれるし、ティンパニーの打ち込みもより明確で、ハープの響きも明晰にとらえられている。

そのためオーソドックスであることや基本線は変わらないものの、より強く音が響いている印象があり、そのことによりオケのここという時の立ち上がりが75年盤より明確に感じられる。また演奏にわずかながら75年盤より勢いがあるように感じられるせいか、ライブ感覚的なものが多少そこにはあり、そのためノイマンの82年盤にもどことなく繋がるようなものも感じられるし、また同時期にノイマンがチェコフィルと録音した、ドヴォルザークの交響曲全集やスラブ舞曲全曲にも相通じる活き活きとしたそれが感じられる。

演奏時間は72年盤の方が75年盤より「ヴィシェフラド」が多少かかっている以外は他の五曲とも72年盤の方がやや速いものの、全体では一分ほど72年盤の方が速いという程度にその差はとどまっている。

だが「シャールカ」の序盤で聴かれる木管の表情など75年盤と大きく印象が異なるところもあり、細部では72年盤の方が75年盤より表情の変化が多様な部分散見されるため、演奏時間以上にその差が自分は感じられた。

そして何よりも75年盤がノイマンとチェコフィルの理想的な共同作業というつくりなのに対し、72年のそれはよりノイマンがチェコフィルを強くリードしているように感じられるという気が強くした。

そういう意味でもこの72年盤はもう少し評価され、そして市場に出回ってもいいような気がする。

因みに自分のこの感想は前述したように国内盤と1991年に出回ったものに対してであって、同年、もしくは1980年代半ばに出たPantonの輸入盤のものではない。というかPanton盤は未聴なので、国内盤と同じか違うのか確認していません。

もしもPanton盤の音質がこれとまた違ったら、印象もまた変わるのかもしれません。

といったところで唐突に〆です。

下のそれは比較的最近も中古等でみかけるPanton盤のCDジャケ。
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ハマコーさんの事件と談志師匠のネタ [いろいろ]

https://nihonshi.info/4%E6%9C%8811%E6%97%A5%E3%80%80%EF%BC%9C%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%81%93%E3%81%A8%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%B9%B8%E4%B8%80%E3%80%81%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%99%E3%82%AC%E3%82%B9%E4%BA%8B/
上のリンク先にもありますが、今から40年前の4月、ハマコーこと浜田幸一当時代議士が、七年前にラスベガスのバカラ賭博で一晩で四億六千万という大金をすって、それがもとで辞職に追い込まれたという事件がありました。

この事件で浜田氏は野党やマスコミはもちろん与党自民党からも叩かれましたが、その時期に立川談志師匠がこの件をネタに話したものが当時テレビで放送されました。

それはなかなかな痛快なものでした。

細かいことは忘れましたが、確かこんな内容だったと記憶しています。

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いいじゃねえか四億くらいすったって。

だいたいチンタラチンタラはるのは所帯博打っていって嫌われるんだよ。

いっそのこと国家予算どーんと全部かけちゃえばいいんだよ。

勝ったら所得倍増っていって大喜びすりゃいいし、
負けたら古米でも古古米でも食って我慢すりいいじゃねか。

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と、確かこんなかんじだったかと。

さすがに会場もこれには受けていましたし、自分もこれを見ててなんか妙にスッキリした記憶がありました。

今、こういうふうに当時の話題のそれをネタにして、ここまで痛快に言い切れる人ってなかなかいないと思います。

もし談志師匠が今のこのコロナにおける日本のそれをみていたら、どうそれをネタにしたことでしょう。


因みにこの時師匠は、田中角栄氏の物真似していましたが、それが妙に受けたところ、

「(噺家が) 物真似で受けるようになっちゃおしまいなんだよな」

と一言。


〆です。

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