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山形交響楽団のブルックナーの交響曲第3番(1873年版) [クラシック百銘盤]

2009年8月3~4日 山形テルサホールにて収録された、
当時同団音楽監督だった飯森範親指揮による録音。

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演奏時間は、23:21、17:48、6:52、17:01。

これに先立つ7月24日に同じホールにおける定期公演でこの曲は演奏されている。

そのせいか練れたというか、
本番から少しあいたこともあるのだろう、
演奏する側がこの曲に対していい意味で余裕のある出来となっている。


自分はこのオケをただ一度、
すみだのトリフォニーで飯森さん指揮による、
モーツァルトの「パリ」とブルックナーの4番による公演で聴いたことがある。

2008年3月29日のこと。

その時自分は当時以下のように書いている。

「山形交響楽団を初めて聴きました。

じつにストレートというかクセと濁りが無いオケという気がしましたし、自分が予想していたよりレベルが高いオーケストラでした。

一曲目のモーツァルトはなかなかテキパキとした出来で、飯森さんのやろうとしていることがうまく音化された出来となっていました。ただ終楽章の冒頭ではホールとの関係でそう聴こえたのかもしれませんが、表情が流れたような部分があり、これがちょっと残念でした。飯森さんは東響よりも山形響の方がやろうとしいることがしっかりオケを通してこちらに伝わってくるようで、そういう意味ではこちらのオケがほんとうの意味での飯森さんにとっての手兵なのだなと、あらためて感じさせられたものでした。

後半のブルックナーは驚くほどオケが自然体で演奏していましたが、ブルックナーをこれほど力まず気張らず、それこそ自分たちの曲のように演奏するオケというのはじつに珍しいという気がしました。飯森さんが山形の自然とブルックナーの曲が相通ずるようなことをプレトークでちょっと語っていましたが、このあたりにそういうものがあらわれていたのかもしれません。

飯森さんの指揮は第一楽章前半でこそ弦の動きに主張が見受けられたものの、その後はあまりこれといった動きがなく、終楽章に入ってようやくいろいろと仕掛けてきたような演奏となっていました。ただそれならばなぜ他の楽章も仕掛けてこなかったのか、オケと曲に音楽の主導権を渡して語らせようとしたのかもしれませんが自分にはこのあたりちょっと不思議で、個人的には音楽が弛緩こそしなかったものの、表情がやや薄いものになっていたように感じられてしまいました。

ただこれもまたオケがあまりにもブルックナーにうまくはまったためといわれたら、これはこれで認めるべきひとつのやり方なのかもしれません。今日は飯森さんよりも、山形響のブルックナーを聴いたような演奏会となったようです。

それにしても総勢55名(弦編成10-8-6-6-4)によるブルックナー。最初は音量面等を含めちょっと心配したものの、結果はじつに見通しのよい、しかも力強さにも事欠かない充実した響きでした。コントラバスなど四人だけではあったものの、オケ最後列中央の山台上に一列でならんでいるためか、ひじょうに効率よくしかも効果的に響いていました。また五人のホルンもこれまたすべて横一列に展開していたりと、とにかく無駄の無い響きを作り出す陣形を敷いていたことが、想像以上に充実した音を響かせることとなっていました。できれば次回はこのオケで北欧ものなどぜひ聴きたいところです。

しかしこの日の入場料金。現地での公演よりお得というのは何か申し訳ないような。まあこちらとしてはありがたいことではあるのですが」

というもの。


今回ここで取り上げる3番は翌年の演奏で、
上であげた4番での小さな不満も感じることなく、
より完成度の高いものとなっています。

録音は弦管のブレンド管がかなりあり、
弦主体で管はそれに添えたようなバランスといっていいくらいで、
ブラームスやハイドンを聴いててるような、
そんな趣すら感じられものがあります。

これは指揮者の飯森さんに負うところが大きいかと。

またこのように響きがうっそうとしているのに、
響きのつくりが明確かつバランスよく整然としているせいか、
クリアかつ見通しのよい印象も強くうけ、
第二楽章などまるで美しく濁りの無い、
温かみのある木漏れ日を想起させるところもあり、
なんとも心安らぐものがあります。

弦の響きは人数のせいか分厚さ感は皆無で、
ドレスデンや都響のような厚みのある弦を期待すると、
かなり肩透かしをくうと思います。

また洗練された美麗な響きを期待されても、
またここでのそれとはかけはなれており、
やはりそれにはそぐわないことになるでしょう。

ただ上でもあげたように、
この演奏にはそれに代わる魅力もあり、
自分はそれが弱点になってはいないと感じています。


ところで今回ここで使用されている1873年初稿版。

後の同曲の版に比べると正直細かい事など考えず、
自分の気持ちの先走りや思いの丈を先行させてしまったようで、
なかなか雄弁とも冗漫ともいえるものになっています。

インバルやナガノも同曲をこの版で録音していますが、
確かに面白いものの繰り返して聴くには些かしんどいというか、
濃い味になりすぎたように感じられる時があります。

ですが、この山響の演奏はそれがない。

厚ぼったくなることもないし冗漫に感じられることも少ない。

むしろブルックナーのこの曲を書いてるときのノリ、
気分の高揚感+爽快感のようなものが伝わってきて、
この曲を書いているときのブルックナーは、
何かとてつもなく楽しくて楽しくてしかたなかったのかなあと、
そんなことが強く全体から感じられるものになっています。

特にそれは弦の響きに強く感じられ、
スケルツォの木管との楽し気なコラボレーション、
そして終楽章のコーダでの弦の生命観溢れる躍動する流動感など、
子供が必死になっておもちゃを組み立てているかのような、
そんなブルックナーの無垢で無心な作曲をしている姿もみえてくるようで、
じつにこちらも嬉しくなってくるものがありました。

またこれを聴いていると、
ブルックナーは確かにワーグナーに強く影響されていたとはいえ、
そこにはベートーヴェン、
そしてハイドンやモーツァルトからの影響も、
感覚的とはいえ強く感じさせられるものがあります。


あとブルックナーが交響曲を書き始めたころのオケは、
一部の有名なオーケストラを除けば、
二管編成+弦が総勢四十名程だったとか。

つまり今回この演奏を行った山響のそれと、
じつはそんなに大きな差が無かったということ。

また山響の録音したブルックナーの中で、
この曲がじつは最も古い時期に書かれたものだったことも、
オケが巨大化する以前の時期だったということで、
(チューバもまだ当時の交響曲にはほとんど登場していなかった)
これまた山響向きだったのかもしれません。

※山響は1番も録音していますが、それは1892年ウィーン版なので、原曲は古いかもしれないけど、すでに8番や9番のような三管大編成のそれを通った後の版ということで、今回の3番よりも後の時代の要素がある程度含まれたものとなっています。

このようにとてもユニークな音盤ですが、
残念ながら今(2020年2月)は一部を除いて入手が困難になっているとか。

山響のブルックナーとしては、
311以前に録音された最後のものとなったこの3番。

威圧感溢れる重厚壮大さや、
金管が野太く咆哮しまくるそれらとは全く無縁の、
おかしな表現かもしれませんが、
洗練された素朴なローカル感と、
清涼感にみちた詩的で端正なブルックナー。

そして指揮者とオーケストラの共同作業が強く感じられるブルックナー。

もし聴く機会があったらぜひ一度お聴きになってみてください。


個人的には1番のミサと2番の初稿をこの組み合わせで聴いてみたいです。

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