SSブログ

感染防止のための休校要請について。 [いろいろ]

新型コロナウイルスの感染拡大で、全国の小中学校などの臨時休校を首相が要請した。

あまりにもいきなりすぎて「学校休校の要請」を丸投げと批判している人や現場が多いけど、これは「要請」であって「命令」ではない。だから選択権主導権は現場にあるはず。

なのに丸投げされたから丸受けというのは、人に教える立場の者として考えなさすぎてあまりにも短絡的なのではと思ってしまった。

台湾のように段階的学級閉鎖という手法をとってもいいし、短縮したり、登校時間や下校時間を変えたり、学年別登校や下校だっていいと思う。

とにかく何でもいいから自分達にあった最適のやり方をすればすむ事かと。

そういうことも考えず、また職員会議も開かず右往左往しているところがあったら、今からでも遅くないからいろいろとみんなで考察すべきかと。

最近虐め問題等で、学校の現場や教育委員会への信頼が失墜しているこの時期。

やっぱり今の学校は上のご機嫌ばかりみていて子供たちをみていないとか、組織が硬直化していてこれでは虐めがはびこるわけだとか、今回の件でまた思われるような愚行は重ねてほしくない。


荒っぽいやり方としては自主登校もありかなと。

とにかくまだ時間は少しあるので少しは父母の意見を聞きしっかりと対応してほしいです。

nice!(0)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

新型コロナ騒動で分かったインフルエンザの恐ろしさ [いろいろ]

今現在新型コロナの感染が広がっていて、感染者や死者も増えてきている。

もちろん回復し日常生活に戻った人がいるので、感染者は現在の罹患者数というわけではない。

現在(2020.2/29)演奏会もサントリーホールは来月中旬までほぼ全公演中止となっているようですし、寄席、スポーツ、遊戯施設、博物館等も中止、順延、無観客、閉園と次々なっていて、ふつうにやってるのは映画館くらいという状況。

ある意味311より長引く可能性の高い状況といっていいのかもしれません。

現在感染者数は約200人で死者10人というけど、正直感染者はもっとはるかに多いだろう。ただ軽症者も意外と多いような気もするし、中には無自覚のまま治癒してしまう人もいるかもしれない。

とにかくいろいろと未知の部分が多く、しかもワクチンも治療薬もないということで油断はできない。インフルエンザ対策をとにかくしっかりやって感染リスクを減らすしか今はこちらも手段が無いので、とにかくこれを地道に実践していくのみということか。

ところで今回それに関していくつか強く思う事があったのでそれをここにあげておきます。

ひとつは誰が流したか分からないけど、マスクの次はティッシュやトイレットペーパーが無くなると、適当なでっち上げ情報を発信拡散したバカ者がいたということだ。

だがそれ以上に情けなかったのは、それで店頭が本当に品切れ状態になったこと。精神的パンデミックのようなものが起きたようだけど、これには呆れて開いた口が塞がらなかった。

これは騙され買出しに走った行為そのものに対してではなく、昨今30年以内に高確率で起きるといわれている、東南海地震や宮城県沖地震、さらには首都直下型地震に対して警戒をするようにと言われている中に、最低数日できれば一週間分の備蓄として飲料水、食料、電池とともに、ティッシュ類も指摘されていたからだ。

つまり慌てて買出しに行った人は、大災害時の備蓄をあれぼど心がけるようにといわれていた政府や公共機関のそれを黙殺、もしくは軽視していたということになる。

さすがにこれにはまいってしまった。余分に一箱等なら分からないではないけど、何箱もこの時期に慌てて購入している人は、もし昨日大地震が起きていたらあなたはいったいどうする気だったの?と正直質問したいくらいだった。

311から9年しか経たないのに、一般の人たちの多くがもうこんなに感覚がマヒしてしまったのかと、さすがに愕然としてしまった。これでは大災害時、日本はいろんな意味で壊滅的な状態になるような気が強くした。

多くの人たちの危機意識の欠如が浮き彫りになったようなバカ騒ぎだった。

あと転売屋もかなりこの騒ぎ加担し買い占めていたようだけど、ひょっとすると彼らが利益を上げるために仕掛けた罠だったのかも。

だとするとひっかかった人達は転売屋の片棒をかついだ形になっているのでは?

それにあの薬局での長蛇の列や大混雑はコロナの感染を助長するようなもの。

何のために多くのイベントや施設が取りやめや休園になっているのか。

そういうことにまで考えが及ばないというのもいかがなものかと。

これでは血を流して迄決断した人達が浮かばれない。

本当にとんでもなくしょうもない話です。しかも現在進行形。


そしてもうひとつは季節性インフルエンザのこと。

今年はこの新型コロナのおかけで、結果的にふだんの年より遥かにインフルエンザ対策を徹底しているため、1月以降感染が極めて低い状況になっているということだ。

だがそれは今年の話であって例年はそうではない。

日本では2018年は1500万人以上が感染し3000人以上が亡くなった。

だが翌年1月はなんと一か月で1700人近くが亡くなった。これは一日50人以上が全国で亡くなったということになる。

新型コロナと違いワクチンによる予防接種があり、またタミフルをはじめとした治療薬もあり、ある意味予防や治療方法が確立しているにもかかわらずこれだけの人が亡くなられている。

これってひょっとしてとんでもなく恐ろしいことではないかという気が急にしてきた。

いつもはテレビで「インフルエンザが流行してきました」「全国的に警戒レベルになりました」「学級閉鎖が続いています」というニュースはあるが、一日にインフルエンザでどの県では今日何人が亡くなりましたというニュースは見たことが無い。

もしこれを毎日ご丁寧にやっていたらはたして世間はどうだろう。

それを思うと、今回の新型コロナとインフルエンザを一緒にするのは間違いかもしれないけど、なんか季節性インフルエンザの毎年における感染等の実況やニュースが行われていたら、今回のこの新型と同じようなものになっていたのではなかろうかという気がしてきた。

いや、むしろもっと内容的には酷いかもしれない。何しろ一日50人なんて2020年2月末の武漢における新型の死者数のそれと大差がない。

しかも新型は予防も治療方法も確立されてないのに、インフルエンザは確立されてのそれだから、逆にもう打つ手が無いという怖さと絶望感がある。

だが毎年あることだからしかたないみたいな感覚なのか、いつの間にかみんながみんなそれに対する危機感がかなり麻痺していたのではないかという気が、今回のコロナ騒動であらためて思い知らされた。

今回の新型コロナが今後どうなるのか、インフルエンザと比べるとじつはそうでもないのか、それとも同等か、はたまたとんでもなくこれから恐ろしい正体をみせるのかは分からない。ただ同等だとしても、これからとんでもない状態になってしまうことになってしまう。

もっとも季節性インフルの発生を例年よりかなり低く抑え込むほどに、徹底した対策をとっている現状が持続されれば、例えそうであっても被害は低く抑えられるかもしれない。

そしてこれを毎年、特に個人レベルで徹底していれば、インフルエンザによる死者を桁違いに抑えることも可能なのではとも感じられた。

とにかく新型も用心に越した事は無いし油断などしてはいないけど、季節性インフルエンザが、新型と同じかそれ以上に恐ろしいということを感じたものでした。

因みにアメリカでは現在一万人以上、二年前にはなんと六万人以上がインフルエンザで亡くなったとか。そして百年前のスペイン風邪(インフルエンザ)では当時人口5500万人だった日本の、うち約50万人が亡くなったという話を聞きました。

インフルエンザ。

人類をこの百年最も継続的かつ確実に、そして大量に殺し続けた恐ろしい細菌なのです。

nice!(0)  コメント(6) 
共通テーマ:日記・雑感

山形交響楽団のブルックナーの交響曲第3番(1873年版) [クラシック百銘盤]

2009年8月3~4日 山形テルサホールにて収録された、
当時同団音楽監督だった飯森範親指揮による録音。

yso-live5-big-big-thumb-380xauto-232.jpg

演奏時間は、23:21、17:48、6:52、17:01。

これに先立つ7月24日に同じホールにおける定期公演でこの曲は演奏されている。

そのせいか練れたというか、
本番から少しあいたこともあるのだろう、
演奏する側がこの曲に対していい意味で余裕のある出来となっている。


自分はこのオケをただ一度、
すみだのトリフォニーで飯森さん指揮による、
モーツァルトの「パリ」とブルックナーの4番による公演で聴いたことがある。

2008年3月29日のこと。

その時自分は当時以下のように書いている。

「山形交響楽団を初めて聴きました。

じつにストレートというかクセと濁りが無いオケという気がしましたし、自分が予想していたよりレベルが高いオーケストラでした。

一曲目のモーツァルトはなかなかテキパキとした出来で、飯森さんのやろうとしていることがうまく音化された出来となっていました。ただ終楽章の冒頭ではホールとの関係でそう聴こえたのかもしれませんが、表情が流れたような部分があり、これがちょっと残念でした。飯森さんは東響よりも山形響の方がやろうとしいることがしっかりオケを通してこちらに伝わってくるようで、そういう意味ではこちらのオケがほんとうの意味での飯森さんにとっての手兵なのだなと、あらためて感じさせられたものでした。

後半のブルックナーは驚くほどオケが自然体で演奏していましたが、ブルックナーをこれほど力まず気張らず、それこそ自分たちの曲のように演奏するオケというのはじつに珍しいという気がしました。飯森さんが山形の自然とブルックナーの曲が相通ずるようなことをプレトークでちょっと語っていましたが、このあたりにそういうものがあらわれていたのかもしれません。

飯森さんの指揮は第一楽章前半でこそ弦の動きに主張が見受けられたものの、その後はあまりこれといった動きがなく、終楽章に入ってようやくいろいろと仕掛けてきたような演奏となっていました。ただそれならばなぜ他の楽章も仕掛けてこなかったのか、オケと曲に音楽の主導権を渡して語らせようとしたのかもしれませんが自分にはこのあたりちょっと不思議で、個人的には音楽が弛緩こそしなかったものの、表情がやや薄いものになっていたように感じられてしまいました。

ただこれもまたオケがあまりにもブルックナーにうまくはまったためといわれたら、これはこれで認めるべきひとつのやり方なのかもしれません。今日は飯森さんよりも、山形響のブルックナーを聴いたような演奏会となったようです。

それにしても総勢55名(弦編成10-8-6-6-4)によるブルックナー。最初は音量面等を含めちょっと心配したものの、結果はじつに見通しのよい、しかも力強さにも事欠かない充実した響きでした。コントラバスなど四人だけではあったものの、オケ最後列中央の山台上に一列でならんでいるためか、ひじょうに効率よくしかも効果的に響いていました。また五人のホルンもこれまたすべて横一列に展開していたりと、とにかく無駄の無い響きを作り出す陣形を敷いていたことが、想像以上に充実した音を響かせることとなっていました。できれば次回はこのオケで北欧ものなどぜひ聴きたいところです。

しかしこの日の入場料金。現地での公演よりお得というのは何か申し訳ないような。まあこちらとしてはありがたいことではあるのですが」

というもの。


今回ここで取り上げる3番は翌年の演奏で、
上であげた4番での小さな不満も感じることなく、
より完成度の高いものとなっています。

録音は弦管のブレンド管がかなりあり、
弦主体で管はそれに添えたようなバランスといっていいくらいで、
ブラームスやハイドンを聴いててるような、
そんな趣すら感じられものがあります。

これは指揮者の飯森さんに負うところが大きいかと。

またこのように響きがうっそうとしているのに、
響きのつくりが明確かつバランスよく整然としているせいか、
クリアかつ見通しのよい印象も強くうけ、
第二楽章などまるで美しく濁りの無い、
温かみのある木漏れ日を想起させるところもあり、
なんとも心安らぐものがあります。

弦の響きは人数のせいか分厚さ感は皆無で、
ドレスデンや都響のような厚みのある弦を期待すると、
かなり肩透かしをくうと思います。

また洗練された美麗な響きを期待されても、
またここでのそれとはかけはなれており、
やはりそれにはそぐわないことになるでしょう。

ただ上でもあげたように、
この演奏にはそれに代わる魅力もあり、
自分はそれが弱点になってはいないと感じています。


ところで今回ここで使用されている1873年初稿版。

後の同曲の版に比べると正直細かい事など考えず、
自分の気持ちの先走りや思いの丈を先行させてしまったようで、
なかなか雄弁とも冗漫ともいえるものになっています。

インバルやナガノも同曲をこの版で録音していますが、
確かに面白いものの繰り返して聴くには些かしんどいというか、
濃い味になりすぎたように感じられる時があります。

ですが、この山響の演奏はそれがない。

厚ぼったくなることもないし冗漫に感じられることも少ない。

むしろブルックナーのこの曲を書いてるときのノリ、
気分の高揚感+爽快感のようなものが伝わってきて、
この曲を書いているときのブルックナーは、
何かとてつもなく楽しくて楽しくてしかたなかったのかなあと、
そんなことが強く全体から感じられるものになっています。

特にそれは弦の響きに強く感じられ、
スケルツォの木管との楽し気なコラボレーション、
そして終楽章のコーダでの弦の生命観溢れる躍動する流動感など、
子供が必死になっておもちゃを組み立てているかのような、
そんなブルックナーの無垢で無心な作曲をしている姿もみえてくるようで、
じつにこちらも嬉しくなってくるものがありました。

またこれを聴いていると、
ブルックナーは確かにワーグナーに強く影響されていたとはいえ、
そこにはベートーヴェン、
そしてハイドンやモーツァルトからの影響も、
感覚的とはいえ強く感じさせられるものがあります。


あとブルックナーが交響曲を書き始めたころのオケは、
一部の有名なオーケストラを除けば、
二管編成+弦が総勢四十名程だったとか。

つまり今回この演奏を行った山響のそれと、
じつはそんなに大きな差が無かったということ。

また山響の録音したブルックナーの中で、
この曲がじつは最も古い時期に書かれたものだったことも、
オケが巨大化する以前の時期だったということで、
(チューバもまだ当時の交響曲にはほとんど登場していなかった)
これまた山響向きだったのかもしれません。

※山響は1番も録音していますが、それは1892年ウィーン版なので、原曲は古いかもしれないけど、すでに8番や9番のような三管大編成のそれを通った後の版ということで、今回の3番よりも後の時代の要素がある程度含まれたものとなっています。

このようにとてもユニークな音盤ですが、
残念ながら今(2020年2月)は一部を除いて入手が困難になっているとか。

山響のブルックナーとしては、
311以前に録音された最後のものとなったこの3番。

威圧感溢れる重厚壮大さや、
金管が野太く咆哮しまくるそれらとは全く無縁の、
おかしな表現かもしれませんが、
洗練された素朴なローカル感と、
清涼感にみちた詩的で端正なブルックナー。

そして指揮者とオーケストラの共同作業が強く感じられるブルックナー。

もし聴く機会があったらぜひ一度お聴きになってみてください。


個人的には1番のミサと2番の初稿をこの組み合わせで聴いてみたいです。

nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:音楽