SSブログ

マリス・ヤンソンス氏死去 [お悔み]

旧ソ連ラトビア出身の世界的指揮者、マリス・ヤンソンスさんが11月30日、サンクトペテルブルクの自宅で死去した。76歳だった。首席指揮者を務める独バイエルン放送交響楽団が12月1日、発表した。(朝日新聞)


マリス・ヤンソンスの名前が日本で知られたのは、
1971年のカラヤン国際指揮者コンクールで二位になった時だと思う。

それ以降彼はムラヴィンスキーに評価され、
レニングラードフィルの副指揮者となるかたわら、
彼の助手としても活動したという。

次に彼の名前が日本で聞かれたのは、
1974年に翌年来日する予定のモスクワ放送響の同行指揮者に、
フェドセーエフとともに名前がクレジットされた時。

ただしこれも結局はフェドセーエフ単独による公演となり、
ヤンソンスの初来日は流れてしまった。

そして1977年のレニングラードフィルの来日公演に、
ヤンソンスは同行しついに初来日を果たすことになる。

その時の初日のプログラムがこれ。

9月26日:東京文化会館
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(P/ラザール・ベルマン)
チャイコフスキー/交響曲第4番

ただこの公演はベルマンの初来日の方に話題が向き、
ヤンソンスは多少その陰にかくれてしまった。

しかもヤンソンスというと、
当時はまだ父アルヴィドの方が知名度も人気もはるかに高く、
ヤンソンスというとほとんどの人が父を想起した時代だった。

ただ自分はこのときヤンソンスが、
ムラヴィンスキーが初演したのに早々とレパートリーから落とした、
ショスタコーヴィチの交響曲第9番を
その当人が同行した公演でかなり集中的に演奏していたことが、
とても強く印象に残った。

できれば聴きにいきたかったけど、
当時は諸事情で断念した。

その後1986年ようやく彼の指揮を初めて聴いた。

それはムラヴィンスキーの代役として指揮した、
ショスタコーヴィチ生誕80周年記念演奏会と銘打たれた公演の後半の、
チャイコフスキーの5番。
(※前半のショスタコーヴィチの6番は仕事が長引き聴けず)

演奏は若干ムラヴィンスキーに比べると小ぶりだけど、
その圧倒的ともいえる気迫と力強さは強く心に残るものがありました。

そのため次回来日したら今度はちゃんと行こうということで、
1988年のオスロフィルとの初来日公演には二度出かけ、
グリーグ、ドヴォルザーク、シベリウスを聴くことができた。

この時の演奏はときおり一本調子になるところが気になったものの、
なかなか前回同様熱い演奏を聴かせてくれました。

特にサントリーホールでは、
「悲しきワルツ」「眠りの森の美女」から二曲、
そして「山の魔王の宮殿にて」の四曲をアンコールでやり、
その四曲が極めて圧巻の演奏となった。

だが演奏の好調さとは裏腹に、
この年の1月に亡くなったムラヴィンスキーの後任に、
彼が選ばれることはついになかった。

このとき自分のところには、
テミルカーノフのよからぬ噂が山のように流れ込んできたり、
彼がロシア人でないから外されたという話が伝わったりと、
じつにいろいろなそれがあったけど、
その後の彼のそれをみると、
そんなことなどどうでもいいくらいの実績と信頼、
そして地位をヨーロッパ全土で築いていった。

特にコンセルトヘボウとバイエルン放送という、
世界的にみても屈指の二大オケのトップに同時に立ち、
その両方から大きな信頼を得、
聴衆からも強く支持されたことは、
いくら称賛されても足りないくらいのものがありました。

日本にも1990年以降、
サンクトペテルブルクフィル、オスロフィル、モスクワフィル、
ピッツバーグ、ベルリンフィル、コンセルトヘボウ、バイエルン放送と、
世界各地の名門オケとともに来日し好評を博し、
それは2016年秋まで続いた。

昨年6月にはウィーンフィルから名誉団員の称号を授かり、
秋には来日公演も予定されていたがそれは健康上の理由で来日中止、
そして2020年秋のバイエルンとの来日もかなわぬものとなってしまいました。

ヤンソンスはもともと父同様心臓に爆弾を抱えていたようで、
1996年にオスロで指揮の最中に倒れ緊急入院。
一命はとりとめたもののやはりこのままではということで、
ピッバーグで胸部にペースメーカーを埋め込み、
これによりようやく健康を回復しました。

ただ今年に入り健康状態が悪化、
一時回復したものの、
11月に入りキャンセルが連続し心配されていましたが、
心不全で30日に亡くなられました。


自分にとってヤンソンスは、
メータやハイティンクさらにブロムシュテット同様、
学生時代からよく耳にし、
そして演奏会で聴いた指揮者だっただけに、
やはりとても寂しいものがあります。


自分が最後に聴いたのは2004年のコンセルトヘボウとの、
ベートーヴェンの2番と「英雄の生涯」。

指揮者の十八番とオケの十八番ということで、
とても期待して聴きに行き、
そしてその期待通りの名演だったことで、
ヤンソンスが押しも押されもせぬ名匠になったと、
それを痛感させた忘れ難いコンサートとなりました。

その後はなかなか都合がつかなかったり売り切れたりと、
ついに聴くことができなかったのが心残りです。

心の強さと温もりを強く感じさせる指揮者でした。


謹んで哀悼の意を表します。

合掌


R-11795765-1522605282-6791_jpeg.jpg
自分が初めて購入したヤンソンスの音盤。

ムラヴィンスキー時代最後の録音で、
オケの巨大さと情報量に前半圧倒されていたものの、
後半指揮者がそんなオケを強くドライブした好演となった音盤。

1988年に発売された当時は、
まだオーケストラの方が扱いが大きかったのが目立ちます。
nice!(0)  コメント(9) 
共通テーマ:音楽