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ヤンソンスの1986年来日公演ライブCDを聴く [クラシック百銘盤]

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1986年にマリス・ヤンソンスがレニングラードフィルと来日した時のCDが昨秋発売されたけど、それを聴いての感想

山崎浩太郎氏が解説でいろいろ書かれているので、そことはなるべく重複しない話を中心にします。

この公演はレニングラードフィルの7年ぶり7度目の来日公演で、このオケが秋に日本に来るのは1977年以来9年ぶり二度目のこと。

1970年以降、73、75、77、79、と、1970~1980年当時の海外のオーケストラとしては最も来日頻度が高く、特にムラヴィンスキーは二年ごとに四度も来日していた。

これは極めて異例で、それはムラヴィンスキー自身が初来日時に大の親日家になったことが要因としてあったらしい。

だが1979年の来日公演最終日前日にNHKのニュースでも流れた二人の楽団員の亡命、さらに翌年開催のモスクワ五輪の日本のボイコット、そして亡命事件でのムラヴィンスキーと当局の売り言葉に買い言葉ともいえるやりとりが致命傷となり、当局とは良好ではなかっただけでなく、自身も共産党員でなかったこともあり、1981年の来日直前に公演が事実上潰されるという事態に発展、それが元で、ミュンヘンバッハが来日直前にリヒターが死去したことで、大きな損害をこうむっていた新術家協会が止めを刺され倒産する事態に発展した。

これ以降ソ連からは1983年にスヴェトラーノフとヴェルビツキーの指揮によるソビエト国立響が来日した以外は、まったく来日が途絶えてしまった。

結局、ゴルバチョフ政権誕生後の1986年、それによりまるで堰を切ったかのように、春にモスクワ放送響がフェドセーエフ指揮で11年ぶり三度目の来日、夏にはソビエト文化省響がロジェストヴェンスキー指揮で初来日、そして秋にレニングラードフィルの来日と続くことになった。

この1986、はじつは1977年に匹敵する来日オケの当たり年で、上記三団体以外にも小澤指揮ボストン響、マゼール指揮ウィーンフィル、ショルティ指揮シカゴ響、クライバー指揮バイエルン国立菅、ヨッフムとアシュケナージ指揮のコンセルトヘボウ、チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィル、スラットキン指揮セントルイス響、そしてカラヤンの代役として指揮に立った小澤征爾指揮ベルリンフィル等々、秋のサントリーホール杮落しもあいまって、質量ともに大盛況な年となった。

そんな中で行われた今回のこのコンサート。残念ながらムラヴィンスキーは体調不良の為来日できず、ヤンソンスとカヒッゼによる体制でのツアーとなった。

ではそのツアー内容を記します。


レニングラード・フィルハーモニー・アカデミー
(指揮者:マリス・ヤンソンス、ジャンスィク・カヒッゼ)

9月25日:昭和女子大人見記念講堂/ヤンソンス
[ショスタコーヴィチ生誕80周年記念演奏会]
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番
チャイコフスキー/交響曲第5番

※当初は指揮ムラヴィンスキー
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番


9月26日:甲府県民文化センター/ヤンソンス
グリンカ/幻想的円舞曲
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(P/エリソ・ヴィルサラーゼ)
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

9月28日:神奈川県民ホール/ヤンソンス
チャイコフスキー/ロミオとジュリエット
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(P/エリソ・ヴィルサラーゼ)
チャイコフスキー/交響曲第6番

9月29日:京都会館/ヤンソンス
ベルリオーズ/ローマの謝肉祭
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(P/エリソ・ヴィルサラーゼ)
チャイコフスキー/交響曲第6番

10月1日:シンフォニーホール/ヤンソンス
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番
チャイコフスキー/交響曲第5番

※当初は指揮ムラヴィンスキー
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番


10月3日:宮崎市民会館/ヤンソンス
グリンカ/幻想的円舞曲
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番(P/エリソ・ヴィルサラーゼ)
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

10月4日:都城市民会館/ヤンソンス
ベルリオーズ/ローマの謝肉祭
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(P/エリソ・ヴィルサラーゼ)
チャイコフスキー/交響曲第6番

10月5日:延岡総合文化センター/ヤンソンス
グリンカ/幻想的円舞曲
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(P/エリソ・ヴィルサラーゼ)
チャイコフスキー/交響曲第6番

10月8日:徳島文化センター/ヤンソンス
ベルリオーズ/ローマの謝肉祭
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番(P/エリソ・ヴィルサラーゼ)
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

10月9日:倉敷市民会館/ヤンソンス
ベルリオーズ/ローマの謝肉祭
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(P/エリソ・ヴィルサラーゼ)
チャイコフスキー/交響曲第6番

10月11日:市川文化会館/ヤンソンス
ベルリオーズ/ローマの謝肉祭
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(P/エリソ・ヴィルサラーゼ)
チャイコフスキー/交響曲第5番

10月12日:ノバホール/ヤンソンス
グリンカ/幻想的円舞曲
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(P/エリソ・ヴィルサラーゼ)
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

10月14日:宮城県民会館/ヤンソンス
チャイコフスキー/ロミオとジュリエット
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲(VN/石川静)
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

10月15日:静岡市民文化会館/ヤンソンス
ベルリオーズ/ローマの謝肉祭
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(P/エリソ・ヴィルサラーゼ)
チャイコフスキー/交響曲第6番

10月16日:聖徳学園川並記念講堂/カヒッゼ
グリンカ/幻想的円舞曲
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(P/エリソ・ヴィルサラーゼ)
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

※当初は指揮ヤンソンス

10月17日:東京文化会館/ヤンソンス
ベルリオーズ/ローマの謝肉祭
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番(P/エリソ・ヴィルサラーゼ)
チャイコフスキー/交響曲第5番

10月18日:東京文化会館/カヒッゼ
グリンカ/幻想的円舞曲
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲(VN/石川静)
チャイコフスキー/交響曲第6番

※当初は指揮ヤンソンス

10月19日:サントリーホール/ヤンソンス
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番
チャイコフスキー/交響曲第4番

※当初は指揮ムラヴィンスキー
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番


というもの。

今回のCDはこの公演の最終日だが、ムラヴィンスキーの日はすべて曲順、もしくは曲目が変更されたことが分かる。

特に最終日が、いきなりツアーでまったく演奏予定のなかった4番を、しかもショスタコーヴィチと順番を入れ替えてまで持ってきたのは、ヤンソンスにいろいろと思うところがあったのかもしれない。

というのも初日のチャイコフスキーの5番など、確かに凄い演奏だったけど、ヤンソンスの音楽とこのオケにムラヴィンスキーが刻んだ深い刻印が最も色濃く押された曲とのそれにより、音楽がやや小型にまとまってしまったようにも感じられていたからだ。

また当初はこのツァーでヤンソンスが5番を指揮するのはわずか2回のみだったことからも、この曲をこのオケで指揮するのは当初から多少荷が重かったのかも。

因みに前回77年にムラヴィンスキーと来日した時も5番は指揮しておらず、ドヴォルザークの新世界と、今回急遽取り上げた4番、そしてムラヴィンスキーが初演したものの、すぐにレパートリーから外し録音すら残さなかった、ショスタコーヴィチの9番を指揮している。これは何とも当時意味深に思ったものだけど、残念ながら自分は聴く事がかなわなかった。

とにもかくにも最終日は、曲順変更+曲目変更という、同オケの来日公演でも異例の事がここで起きた。

あとこの曲はムラヴィンスキーがかなり以前に自分のレパートリーから外していた事もあり、それもまた急遽演奏される要因になったような気がする。
(実際この曲はレニングラードフィルにより1970年以降、73年を除いて毎回演奏されているが、指揮はすべてヤンソンス父子かドミトリエフによって行われている。因みに1958年のレニングラードフィル初来日時には、当初ムラヴィンスキーが指揮する予定となっていたが、来日中止となったため、代わりに来日したガウクが同曲を指揮している)

(今、急に思い出したけど、前述した77年公演時の4番は、聞いた話ではなかなか好評だったそうなので、案外オケ側からの提案もあったのかもしれない)

とにかくこの日のメインはこの曲となり、同オケ初の、まだオープンしたばかりのサントリーホールのコンサートになったというのがここまでのあらまし。

因みに同ホールではその三日後の22日にはチェリビダッケとミュンヘンフィルにわるブルックナーの5番、そして28日から急病のカラヤンの代わりに指揮台に立つ小澤指揮のべルリンフィルが三日間続けての公演が行われている。

※しかしこの頃のサントリーホールの扉。ホール内から外に出るとき本当に重くて、肩で押しながら体全体で押し開けるような事がよくあった。あれはいったい何だったんだろう。気圧?


さてこのCD。

残念ながら自分はこの日の公演には行ってないので、後日テレビでみたりしかしてないけど、このCDに対してはじつは賛否両論。特に録音に対してのそれに辛辣なものがあり当初購入を躊躇していたところがあった。

で、聴いてみて思った事に、テープが劣化しているのかな?とちょっと思ってしまった。

オケがなんか気持ち遠いというか、そのせいかこんなに柔らかかったかなあ?というのが印象としてすぐに来た。初日に聴いたオケの音とはほとんど別物という感じだけど、ホールのせいあるのかなとも思ったが、それでも以前みたテレビともかなり違う。音全体は綺麗にとれているけど、やや綺麗すぎて聴きやすい反面、生々しさが後退したように感じられた。

ただひょっとするとサントリーホールの音をすくい過ぎているのかもしれないとも思った。

ここのホールは「一階席中央のほぼ真上付近」+「二階席中央に座り真っ直ぐ正面をみたあたり」に、音の逃げ場がなくもやもやと固まってしまうような領域がときおり、特にオケの音が大きく速くなる時にあらわれるように感じられ、それごとこの録音はすくったように感じられた。

この音の領域は、1990年のスヴェトラーノフのチャイコフスキーの4番でも悪さをし、自分はいまいちの印象だったが、その後のCDではそこをうまく捌いたことで、むしろ実演より素晴らしく感じたほど。

ただこの領域はいつの間にか感じられなくなったので、時間が経つとホールの音響が落ち着くというそれにより解消されたのかもしれません。

とにかく何か腑に落ちないので、次にヘッドホーンを外してスピーカーにして聴いてみた。

これがまたなんともな安物な代物だけど、なぜかこれで聴いたら「おお、凄い」という音が出てきた。

ひょっとしたらこのCDは、そういうことよりも聴く装置や環境によってかなり変わるのかなあという感じがして、今は専ら安物のスピーカーで聴いている。

で、演奏はどちらも直線的といっていいくらい、真正直かつ正攻法ともいえる演奏。オケはときおり疲れのようなものを感じさせる瞬間がショスタコーヴィチに感じる時があるけど、それでも全体的にはかなりしっかりとしたものになっている。

そしてこの日のために用意された後半のチャイコフスキーはとにかくオケが凄い。ムラヴィンスキーという手綱を離れた時、このオケはこういうタイプの凄い演奏をするのかという感じだった。しかも音のバランスも崩れないのにも感心しきり。もっともこのあたりはヤンソンスの指揮の確かさのあらわれもあるだろう。

またオケ全体の持つエネルギーと情報量が「巨大なオーケストラ」というくらい凄まじく、そのヤンソンスをもってしても、その情報量の波に飲み込まれ過ぎたかのような感があり、正直指揮者が不在といっていいくらいオケが全面的に主導権を握っているような、そんな状況がけっこう感じられた。

ただそんなヤンソンスも、どちらの曲も後半になるとかなり地力を発揮しており、そういう意味では聴き終わるとそれ相応の満足感が得られる演奏となっている。

これを聴いていると、翌年の晩秋にダブリンでシャンドスに録音した、同オケとのプロコフィエフの5番が思い起こされる。

あれも前半は指揮者がオケに埋没してしまう瞬間が多々あったが、後半になると次第にヤンソンスがオケをドライブしはじめなかなかの演奏にまとめ上げていた。

もしこの演奏が、あのダブリンセッションレベルの音質だったらまた違った印象だったかもしれない。

あとこの録音はムラヴィンスキー在世中のレニングラードフィルによる最後の来日公演の記録というだけでなく、同じく最後のショスタコーヴィチとチャイコフスキーの記録という意味でも、とても貴重な史料的価値のある音盤ということも言えると思います。


と、こんなところが聴き終わった今の感想です。

あとは余談を少し。


じつはこの来日公演、初日なのか最終日なのかは不明ですが、当時メロディアと契約していた日本ビクターが、ムラヴィンスキーの公演を、当時ビクターが開発していたVHD(VHSではない)用に録画録音しようという企画があった。

当時ブーニン旋風によりビクターのクラシックはたいへんな売り上げを出していたこともあり、さらにこの公演にかなり期待していたようだったし、当時のビクターの技術なら、最高レベルのムラヴィンスキーの映像&録音が残されていただけに、自分も含めこれを知っていた人たちには本当に残念な結果となってしまった。

もうひとつ。

マリス・ヤンソンスの初来日は1977年のレニングラードフィルとの公演だが、じつは1975年にも来日の予定があった。

ただしそれはレニングラードフィルではなくモスクワ放送響との来日公演。

ロジェストヴェンスキーが同オケを退任した後、その後継者は一時もめたと言われているが、結果フェドセーエフが就任し今日(2021年3月)まで続いている。

だが当初は1971年にカラヤン指揮者コンクールで二位になり、当時レニングラードフィルの指揮者陣にも加わっていたヤンソンスも来日指揮者として、フェドセーエフとともにクレジットされていた。

その後ヤンソンスの名前はいつの間にか消え、フェドセーエフのみの単独来日となったが、ソ連のオケで指揮者が単独でひとつのオケとまるまる来日公演をするというのはそれまで前例がなく、そういう意味では珍しいツアーとなった。ただし一か月以上の長期滞在で、じつに21公演を北海道から九州まで一人でこなすというたいへんなツアーとなってしまったようです。

このツアーにもしヤンソンスが同行していたら当時どんな指揮をし、どう評価されていたことでしょう。

最後に。

86年公演の前回来日公演にあたる1979年レニングラードフィル来日時には、マリスの父アルヴィドもチャイコフスキーの4番を指揮している。

特にマリスと父はときおり同じ解釈を曲によってスコアに記す事もあったというので、そのあたりの事など特に興味があったのですが、79年公演はヤンソンスの指揮では「幻想交響曲」の日しか聴けなかったので(当時の懐の事情により)こちらもまた不明です。


以上で〆です。


※このブログにおけるムラヴィンスキー関連の項目
https://orch.blog.ss-blog.jp/archive/c2305360029-1

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