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京都の事件に今思うこと。 [ひとりごと]

京都の事件から一週間経ちました。

あっという間という気がする。

この間自分はいろんなことを考えていたけど、
最近この事件に対してある考えが浮かんできた。


そのきっかけは犯人が、

「小説を盗んだから放火した」

と、そう言い放った一言。

正直言いがかりも甚だしいし、
なんの明確な根拠もないたんなる思い込みで、
こいつはこんな理由で多くの人を死に追いやったのかと、
愕然としたしあらためて怒りも湧き上がってきた。

だが次の瞬間あることが脳裏をよぎった。

「誰々が書いているから」とか、
「ネットいろんな人が書いているから」みたいな、
そういうしっかりとした根拠や出典元が示されていない、
単なる噂話のレベルにのみ基づいて、
勝手に自分に心地よいドラマをつくりあげ、
それに沿った流れに身をまかせて、
勢いとノリと思い込みで他人の書き込みを炎上させる、
そんなよくSNSでみかける一部の人たちと、
この犯人いったいどこが違うのかということだった。

確かに今回の無差別大量殺人犯と、
SNSのそういう人たちを同列に論じるのは言い過ぎかもしれないけど、
だがSNSのそれも場合によってはそれで心が深く傷つき、
不登校になったり命を絶とうとした人もいる。
(実際絶った人もある)
それを思うとこの二つは本質的に同じではないかという気がして仕方がない。

そう考えると、
そんな炎上や攻撃を繰り返す人たちにとって心地よいSNSと、
それに栄養を与え続けているその土壌というものに、
自分も心地よく身を任せながら、
見て見ぬふりをしてそれを知らず知らずのうちに、
無意識に助長し養分を与えていたのではないかと、
そんな気持ちになってしまった。

そしてその考えに辿り着いたとき、
あの犯人もそんなSNSでの炎上や攻撃をし続ける人のように、
明確な根拠も精査せずに勝手な思い込みとドラマによって、
他人を炎上さるかのようにあの凶行に走ったことを思うと、
あの犯人を育んだ土壌も、
炎上や攻撃を繰り返す人たちを育むSNSの土壌も、
じつはまったく同一のものであり、
その土壌を日常として無神経に受け入れ、
そのSNSに栄養を与え育んでいた土壌に養分を与えていた自分も、
じつはあの事件とまったく無関係ではないのではないのかと。

そう思ったら、
この事件と自分の間になんともいえないものを感じてしまい、
最近は自分に対する嫌悪感のようなものすら感じるようになってしまいました。

今回の事件に対する募金等をすることはもちろん大切なことだけど、
荒れた書き込みや推測憶測やノリと流れだけで、
正義という名で人を攻撃するという風潮に対しても、
今一度考えてみることも大切なことなのではないかと、
自分は今そう感じ考えています。

ただじゃあそれはどうしたらいいかは未だわかりません。

でも今回の被害にあわれた人たちのためにも、
せめてこのことをこれからも強く意識していきたいと、
今はそう考えています。


〆です。

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